かならずよんで ね!

楽しい痴呆症

La Gaya Dementia あるいは、そのガクジュツ的考察について

山遊亭痴楽

今日お話しする内容は電子ジャーナル「日本ヘル スコミュニケーション学会雑誌」7巻(1-11頁)2016年に発表された「認知症コミュニケーションの可能性とストレスコーピング」という実践 研究報告にもとづく考察です。この研究は私と、西川勝さん(大阪哲楽の会主宰)と宮本友介さん(大阪大学)、そして野村亜由美さん(首都大学東京)による 協働研究によるものですが、論文は彼らの閲読を得ながら私が主著者として書き上げたものです。私たちは、まったく異なった2つの方法論的観点から認知症者 へのアプローチを始めました。ひとつは、(1)トラウマやストレスに曝された人びととそれに関わる人びとの間のストレスコーピング行動というコミュニケー ションが、後の認知症発症プロセスを遅延ないしは阻害するという仮説にもとづいた、高齢者のライフヒストリーの比較文化研究というアプローチです。そして 他のひとつは、(2)認知症者とのコミュニケーションを希求する人たちに対して、認知症一般というステレオタイプ的判断から自由になり、個々の個性とアイ デンティティをもった他者とのコミュニケーションを確立する実践的手法を、大学が提供するさまざまな活動を通して模索するというアプローチです。この発表 は、この2つのアプローチを対位法的に併置しつつ、その共通の地平としてコミュニケーションを通したストレスコーピングのあり方を、実践報告を通して講演 します。研究と教育という2つの現場において、前者のアプローチではトラウマとストレスに対するコーピングの意味について考察し、後者のアプローチは、認 知症になることへの社会的恐怖や脅威が現代日本人をして、認知症者に対するコミュニケーションの回路を閉ざし、個性をもった他者同士を相互認知することを 阻害していることを指摘します。そして、認知症者に対するコミュニケーション回路が閉ざされた状態を、両者におけるストレス発生の原因とみなし、その阻害 要因の軽減のために具体的方法を模索することが、研究者と実践者に対するメタレベルでのストレスコーピングであると考えます。端的に言えば、ストレスコー ピングを研究するとは、認知症者と非認知症者の間のコミュニケーション回路と、研究者と実践者の間のコミュニケーション回路の両方について考察し、そし て、それぞれの回路に対応するコミュニケーション技法の実践状況における取組みを分析することです。なにかこのように学術論文風に要約すると無味乾燥で血 の通っていない文章のように思えますが、私が経験したことは、他の仲間が経験したのと同様に、とてもわくわくして楽しい経験です。なぜなら、認知症の人た ちと一緒に話をしたり、認知症の人との出会いを思い出したりするたびに、僕は楽しい思いしか思い浮かばないのです。新聞や政府が報告する「認知症者増加の 危機と悲劇」という話は、あまりにも認知症の人たちの状況を伝えるのに偏りすぎていると思いませんか?

山遊亭痴楽こと池田光穂(2018年3月10日13:15-14:45):於:大阪医科大学看護学実践研究センター

◎発表に至るまでの前史

◎本日の発表

1.研究の背景

 私たち,野村と池田は,世界各地の災害地にみられる高齢者の認 知症の悪化ないしは心的外傷後成長について,現地調査(臨床および社会統計調査および民族 誌調査)と文献的検証により,災害という逆境が,何らかのプロセスを経て,心的外傷後成長(Post-Traumatic Growth, PTG)を成し遂げたり,認知症の予防あるいは発症の遅延の可能性をもったりするかどうかについて検討を重ねてきた.

 野村が主に関わる,2004年12月26日に起こったスリランカでの津波罹災地域の現地調査では,高齢住民居住地域の60歳以上の200名に実施し, PTSD評価尺度(IES-R, Impact of Event Scale-Revised),PTGI(Post-Traumatic Growth Inventory),MMSE(認知症テスト,Mini-Mental State Examination)に関する指標などの統計処理をおこなってきた.そこでIES-RとMMSEには相関がないことが判明した(Nomura et al., 2010).他方で,現在検証中であるが,PTGとMMSEには相関がみられ,PTGIの成長得点が高い人には認知症の傾向が少ない.これらの事実から, PTGと認知症の発症予防ないしは発症の遅延には,何らかの関係があることが示唆された.

 池田と野村はドミニカ共和国およびメキシコ合衆国において日系人高齢者のライフヒストリー調査を継続しており,老いの社会文化的プロセスにおける,日本 国内高齢者と海外在住移民との比較を通して「老いの成熟」経験とストレスコーピングの関係について追求している.短期間に過大なストレスが生じる津波の罹 災経験と,中長期的で恒常的だが持続する異文化環境へのコーピングという移民のストレス経験をここで比較することは興味深い.なぜなら認知症の発症と高齢 者に対するストレスがどのように作働しているかについての示唆が得られるからである.これを「ストレスコーピングと認知症発症予防に関する研究アプロー チ」と呼んでおこう.

 さて西川と池田は,もうひとりの同僚である宮本友介と共同して,大阪大学における大学院の共通教育科目「認知症コミュニケーション」という授業を過去3 年間おこなってきた.対話型のアクティブラーニング授業であり累計で200名近くの受講者に対しておこなってきた.さらに,その応用・拡大版として,一般 社会人に対する認知症カフェ「認知症と呼ばれる人との関係をとらえなおす」というプログラム,および中学生に対する対話プログラム「認知症コミュニケー ションへの招待」を開催した.これらの一連の授業や公開イベントのねらいは,まず認知症者というものを統一した病状をもつ普遍的な行動様式をもつ病人とと らえることを(一時的にせよ)私たちがやめることであった.認知症者へのステレオタイプから解放され,個々の認知症者の多様な個性の一端を知ることを通し て,〈非認知症者を自認する私たち〉が,認知症者を同胞として社会的に再包摂した際に開かれるコミュニケーションの回路のあり方について考えることの重要 性を強調したい(池田, Online).

 これら一連の授業やワークショップでの実践的課題の遂行は,先のような認知症の発症メカニズムとストレスコーピングの関係についての学問的探究とは一見 無関係なもの思われる.しかし,その背景には,認知症者と非認知症者の間にあると思われるディスコミュニケーションを,それぞれの社会集団間のカテゴリー の対立として捉えるのではなく,むしろ,同一集団内における具体的な表情をもった他者との出会い(encounter with the Other)と中立化することで,認知症コミュニケーションという新しいタイプのコミュニケーションの様態(=あり方)を模索し,そしてそれをデザインし ようという目論見があるからである.この目標を「ディスコミュニケーションの解消を第一課題とせず,和解と理解を目的とする認知症者とのコミュニケーショ ン手法の開発」と呼んでおこう
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高齢者の外傷後成長と認知症に関する学際的研究に参加して
認知症コミュニケーション・デザイン
ディスコミュニケーション
文化人類学の研究対象とは〈他者〉である?!  はたして、それは本当か?
認知症コミュニケー ションへの招待
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2.分析と考察の方法について

 私たちは上述のように,まったく異なった2つの方法論的観点から認知症者へのアプローチを始めた.ひとつは,(1)トラウマやストレスに曝された人びと とそれに関わる人びとの間のストレスコーピング行動というコミュニケーションが,後の認知症発症プロセスを遅延ないしは阻害するという仮説にもとづいた, 高齢者のライフヒストリーの比較文化研究というアプローチである.そして他のひとつは,(2)認知症者とのコミュニケーションを希求する人たちに対して, 認知症一般というステレオタイプ的判断から自由になり,個々の個性とアイデンティティをもった他者とのコミュニケーションを確立する実践的手法を,大学が 提供するさまざまな活動を通して模索するというアプローチである.

 本稿は,この2つのアプローチを対位法的に併置しつつ,その共通の地平としてコミュニケーションを通したストレスコーピングのあり方を,実践報告を通し て論述する.研究と教育という2つの現場において,前者のアプローチではトラウマとストレスに対するコーピングの意味について考察し,後者のアプローチ は,認知症になることへの社会的恐怖や脅威が現代日本人をして,認知症者に対するコミュニケーションの回路を閉ざし,個性をもった他者同士を相互認知する ことを阻害していることを指摘する.そして,認知症者に対するコミュニケーション回路が閉ざされた状態を,両者におけるストレス発生の原因とみなし,その 阻害要因の軽減のために具体的方法を模索することが,研究者と実践者に対するメタレベルでのストレスコーピングであると考える.端的に言えば,ストレス コーピングを研究するとは,認知症者と非認知症者の間のコミュニケーション回路と,研究者と実践者の間のコミュニケーション回路の両方について考察し,そ して,それぞれの回路に対応するコミュニケーション技法の実践状況における取組みを分析することである.

 これらについて分析と解釈をおこなう方法論として,ドナルド・ショーンが提唱した「専門家の内省」の中にみられる「行為の中の反省」という質的な叙述法 に私たちは着目した(ショーン, 2007:50-51, 56-57).3名によるフィールドワークや授業実践,あるいはそれらの事後的な談話や反省を通した議論から得られた叙述とその考察結果を資料としてここ に提示する




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3.報告(1):異邦の浜辺村落において考えるPTSD/PTG

 まず,認知症コミュニケーションが,野村と池田の研究課題である,PTSD/PTGという精神医学ないしは臨床心理学上の疾患概念ないしは心理的測定ス ケールという問題関心とどのように交錯するのかという点について考察する.野村らは,スリランカの津波罹災地域における高齢者の精神保健状態の悪化という 現象がみられることを指摘している(Nomura et al. 2010).他方,世界各地でのPTSDの実証研究が蓄積されるにつれて,トラウマを受けた後にも精神的に立ち直った存在が一定の割合で存在することが確 認された.その現象は後に心的外傷後成長(PTG)という用語がつけられ,それをインベントリー(調査項目表)のスコアで表現する研究手法が登場してきた のである(Calhoun and Tedeschi 2006).

 自然災害のみならず,ポスト冷戦期にはテロリズム,人身売買,虐殺,拷問などの心的トラウマとそれに対するコーピングの課題が世界の各地で浮上すること になった.他方で,高齢化と認知症問題はセットになり,日本を含めた先進国において重要な社会問題とされている.その際に,認知症者への対応は,看護を含 む臨床医学と社会福祉の二大専門家による領域に委ねられるようになってきた.そして認知症の家族ならびに社会の現場で出会う一般の人々は,それらの専門領 域による知識と意見をまず入手するように仕向けられるようになってきたのである(e.g.阿保ほか, 2010;三村ほか, 2013;六角, 2015).これらの現代的事態に対して,認知症の予防あるいは発症の遅延の可能性を示唆して私たちは研究費を取得しているわけだが,この統計的な実証方 法では,PTGIのスコアの高い人と認知症の発症防止の関係を疫学的に証明しても,寄与要因の作用機序は依然として不明のままであり,罹災経験者のライフ コースにおける多元的なコーピング過程に常識以上のアドバイスを提供するとは思われない.

 冒頭で触れたように池田と野村はドミニカ共和国およびメキシコ合衆国において日系人高齢者のライフヒストリー調査を継続している.そこで,現地のそれぞ れの日本人会への照会により日系人移民に認知症状を持つものはほとんどいないという回答を得た.そして,このことは関係者への予備的な面接調査からも裏付 けられた.認知症発症に関するアミロイドβ蓄積仮説を採用するにせよ否定するにせよ,発症メカニズムはその前駆症状である軽度認知障害(MCI)があらわ れる時期のエピジェネシスをも含めた遺伝的あるいは精神的および身体的ストレスへの反応との複合的な結果であると言われる(Lock, 2013;池田, 2014).それゆえに当事者の認知症発症過程と様々なストレスコーピングのプロセスに関するライフヒストリーの聴取は重要な研究テーマとなる.例えば, アーロン・アントノフスキー仮説にみられるように,病気を防ぎ健康を生み出す身体メカニズムは,その人の生活信条におけるSOC(sense of coherence)が寄与していることと,その当事者自身の資質や固有のライフスタイルとの関係が指摘されており,またライフヒストリー聴取にそれらの 関係を示唆する資料が得られることがある(Ikeda and Suh, 2016).PTGIやSOCのハイスコアをあげる前に,当事者がどのような世界と出会い,どのような人たちとコミュニケーションしたかということを考慮 する必要がある.そこでは,病気と病人は,徹頭徹尾社会化されたもの,文化化されたものだという認識が不可欠となるであろう(Marsella 2010).

 そのことを可能にするのはPTSD/PTGをスコア化して罹災後の中長期的な変化を広範囲に調査する野村らの手法を続けるのみならず,それを裏打ちする ように個々のケースについての質的な研究をカップリングするという調査研究のデザインの追加が必要となるであろう




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4.報告(2):認知症コミュニケーションの授業

 「認知症コミュニケーション」の授業とは,大阪大学コミュニケーションデザイン・センターが大阪大学大学院のすべての研究科の共通教育(=高度教養教 育)で,2012年度から現在(本年は開講5年目)までおこなっているものである.大学院の授業だが,学部生高学年(3年生以上)も受講できる.それぞれ AとBという2種類のものが第1学期(=春学期)と第2学期(=秋学期)に,それぞれ2単位科目として開講されている--2016年度からはA・Bの種別 は廃止された.授業はフラットな教室であるオレンジショップ(豊中キャンパス)において隔週2時限連続でおこなわれ,その手法は対話型の授業(アクティブ ラーニング)である.西川,池田,宮本の3人で,毎回,各人が認知症にまつわる話題を提供する(西川 2015).

 受講者の数は,毎回10数名から20数名ほどで,大学コンソーシアム大阪の単位互換制度を利用しているので,他大学からの受講者も含まれる.また,ゲス トスピーカーとして招聘した,認知症ケアに携わる介護関係者や,認知症の当事者や家族の人も,さまざまなネットワークを介してこの授業に参加する.公開講 座(有料)にも広報しており,一定の受講をすると学期末に修了証の交付もある.それ以外に,スポットでの授業参加や見学も認めており,自由聴講生がリピー ターになることもある.このように異質の人が多く出入りすることが,大学や大学院の授業にありがちな等質集団による議論や授業スタイルのマンネリズムを防 いでいると思われる.3名の教員のアクティブラーニングの経験は十全でありさまざまな不測の事態にも熟練度のある対応ができたという経験を有している.

 最初のグループワークにおいて「受講動機」を語りあってもらうと,「ケアの現場に従事している」,「自らは高齢なので認知症の予備軍に入るための事前学 習だ」という年配の参加者の説明に加えて,学生に圧倒的に多いのが「自分の家族--若い学生では祖父母--が認知症になった/なっている」というものがあ る.グループワークとその後の討論では討議内容の結果を,受講者全員が必ずシェアするという方法がとられる.このようなシェアという共有を通して,様々な 経験をメンバー全体が具有することが重要である.また授業担当者は認知症コミュニケーションにおいては決定版のような技法や正答がないことを明言する.私 たちの生活実践においては,唯一の正答というものがなく,その都度その都度最善の答えを探究しなければならないことは明らかだからだ.

 認知症コミュニケーションは,認知症と呼ばれる老い人が抱えるごく普通の日常の現場に臨む態度や認識を涵養することが目的となる.それゆえ西川 (2015: 72)は言う.

「認知症と呼ばれる人と一緒に生きるということ,通常の世間のルールではやりにくいことを,どうやって普通の暮らしの現場で実現していくのか.それに必要 なのは,認知症を理解してからつきあうという得手勝手な理屈ではなく,互いの間に生まれる希望に向けた冒険だろう」.

 「互いの間に生まれる希望に向けた冒険」とは,認知症者と非認知症者の間のコミュニケーション過程のことを指している.そして,これは西川だけの経験に もとづくものではない.西川は振付家・ダンサーの砂連尾理(じゃれお・おさむ)と2009年に舞鶴市の特別養護老人ホームに入所していたミユキさんという 認知症者と出会った.西川と砂連尾は長い間の努力の末に,ミユキさんと最後には一緒におどる「とつとつダンス」プロジェクトを定期的におこなうことに成功 した.そして,車いすに座ったままのミユキさんの自発的な動きに加えて,周囲にダンスによる身体表現が繰り広げられる社会空間が生まれることが実際に起 こったのである.その結果,砂連尾と西川のコンビの働きかけにより,この老人ホームからはさまざまなダンサーを輩出することになった.老人ホームでのワー クショップのほか,イベント会場において認知症者との即興ダンスの魅力を日本各地に広げ,2015年には岡田邦子さんという入所者でありダンサーでもある 彼女と仙台での公演も成功させた(西川, 2013).

 ここでのポイントは,認知症コミュニケーションは現行の認知症ケアの簡略大衆版でないということに気づいた西川が「とつとつダンス」との出会いを通し て,認知症という疾患ではなく個々の顔をもった認知症者との具体的な出会い=コミュニケーションであると,そのイメージをリデサイン(redesign) したことにあり,それが授業運営の出発点になったことにある.




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5.報告(3):社会人と中学生に対するワークショップ

 このような教育実績を踏まえて,私たち(西川,池田,宮本)は以下の2つの公開イベントをおこなった.最初は認知症コミュニケーションの授業の公開版と も言える,認知症カフェ「認知症と呼ばれる人との関係をとらえなおす」というもので,2015年1月29日19時から20時30分まで,アートエリアB1 (大阪市北区にある京阪電鉄「なにわ橋」駅のコンコース上に設置された常設イベントスペース)で開催された.このイベントは,科学技術振興機構(JST) 科学技術コミュニケーション推進事業「ネットワーク形成型」の支援を受け,フリーダンサーの砂連尾,舞鶴市にあるアートと社会福祉活動を繋ぐ社団法人 torindoの豊平豪をゲストに招いた.両氏は,それに先立ち本報告者の池田と西川とともにその前年2014年11月にメキシコ合衆国ミチョアカン州パ ツクアロ市およびハニツォ湖において「死者の日」における高齢者と死の概念,ならびに同地における民族舞踊「老人の踊り」を視察,調査をおこなっていた. 現地調査で得られた,老人の踊りの研究成果--砂連尾は現地の舞踊家家族と共同で路上でのパフォーマンス経験をもつ--と,音楽や踊りのなかにみられる高 齢者特有の身体表現の模倣を通して,高齢者の心的状態を共感的に模倣するという教育技法を考案し,表記のカフェの講師を務めてくれた.

 参加者は社会人,大学院生,仕事帰りのサラリーマン,看護や介護などの専門家,主婦などさまざまな社会階層のおよそ40数名におよんだ.まず(「カフェ マスター」と呼ぶ)西川からの趣旨説明の後に,講師・砂連尾とモデレータたち(豊平,宮本,池田)の自己紹介がおこなわれた.次に砂連尾の先導で,即興ダ ンスを現地のメキシコ民俗音楽の伴奏によりおこない,そのダンス実習の後で,感想を参加者全員で交換するプログラムであった.なお,この日のイベントには 東京の霞が関から(財政に関連する)政府高官が身分を明かさず参加し,その翌日,大学を表敬訪問し参加した感想を述べるという後日談があった.

 認知症コミュニケーションの授業ならびに「とつとつダンスワーク」ショップ等を含む,イベントにこれまで数多くの受講生が参加してきた.彼らのグループ ワークへの参加のようすは概ね次のようなものである.最初は,参加者の多くは自分たちの祖父祖母あるいは親族の誰かが認知症と「診断」されたりその疑いが あったりという経験を持っている.そこで,そのような症状が具体的にどのようなものかということを話したり,家族が認知症者とのコーピングのストーリーを 語ったりする.グループの中には,介護専門家や看護師あるいは「認知症の人と家族の会」という社団法人のメンバーの人も参加して,臨床症状の説明や当事者 の内的世界経験の理解可能性についてアドバイスがなされることがある.参加者は各人の個別の知識が認知症状という臨床症状のもとにまとめられながらも,他 の経験者の話から〈認知症者の生活のあり方や人格のあり方〉の多様性や豊かさについて気づきはじめるのである.この時点で,先に「自分は認知症になりたく ない」という初期の一般的態度から,討論における情報交換を通して「認知症になっても安心して暮らせる社会」というものについて考えるようになる.なぜな ら,参加者の話がそれぞれ多様で豊かであるために,参加者は「高齢で認知症になる事態こそが当たり前であり,その事態を闇雲に怖れる必要はない」と考える ようになるからである.

 もうひとつは,2015年8月1日に大学コンソーシアム大阪の協力のもとに,大阪府下の中学生とその保護者が参加した,平成27年度大阪中学生サマーセ ミナー「認知症コミュニケーションへの招待」の実施についてである.参加した 中学生は19名,その家族(両親,祖父,兄弟姉妹)18名近くの総勢37名と 大学教員3名の40名でおこなわれた.担当者は池田,西川,宮本の3名である.教室は,私たちが認知症コミュニケーションの授業をおこなっている,大阪大 学コミュニケーションデザイン・センターの開放型教室オレンジショップでおこなわれた.実習の形式は,参加型ワークショップであり,アイスブレイキングの 後に,3名の教員がそれぞれファシリテーターになって,以下の3つの教材を用いて3つのワーク・セグメンツを実施した.すなわち(1)マーク・ジュリーと ダン・ジュリー(Dan Jury and Mark Jury)によるフォトエッセー『おじいちゃん』(春秋社,1976=1990)を使った紙芝居上演とアイスブレイキングのグループワーク,(2)業田良 家の漫画『ゴーダ哲学堂:悲劇排除システム』を使った,近未来の日本の高齢化問題を考えるグループワーク,そして最後に(3)岡野雄一『ペコロスの母に会 いに行く』(西日本新聞社,2012年)の作品から登場人物のキャラクターを借りて,参加者が演ずるシナリオをグループワークで作り上げ,発表後に合評し あう演劇実習「ペコロス劇場」からなりたつものであった.

 このイベントにおける中学生たちの態度は,認知症コミュニケーションを受講した大学生や院生たちのものとは極めて好対照であった.中学生の世代は,年齢 的に,祖父母の世代は認知症者になる年齢層ではなく,身近に認知症の親族は少ないように思われた.そのため,私たちは,予備知識を与えることなく,冒頭に 「75歳のワタシ(私)について」という15項目にわたる箇条書きで記入できる簡単なアンケートを施行した(池田, Online).まず,自分の老後を想像することで,それらを現実の老化や高齢,ひいては認知症状態であるとはどういうことかについて想像力を働かせる ワークを実行した.参加者は,これらをメモ代わりに自分の仮想的な老後を自己紹介と共に披露する.この方法により何かをメモなしに話さなければならないと いうプレッシャーを中学生から解放し,議論の基本はおしゃべりでよく,参加者の関心により次第に重要なテーマへと焦点化するので心配しなくてもよいと助言 し,リラックスして会話できるように,つねに彼らの遊びの感覚を取り戻すことに配慮した.そして中学生たちは,私たちのそれらの期待に見事に応えてくれ た.ここで私たちは「認知症について語ることは当事者たちの問題であり,それは辛くて重いこと」という従来の見解(=偏見)をリデザインして,「私たちが 直面している認知症については誰もが思うことを自由に話してよい」というおしゃべりの感覚を取り戻して〈認知症についての語りのフレーム〉を広く開いたと いうことができる.

 実際,3名の教員に提供された3つの課題も,一部紙芝居や設問を平易にするという工夫を除いて,常日頃大学生・大学院生におこなっている授業と同じ資料 と用いた.授業の最後に,中学生たちの感想をもとめると,議論において恥ずかしい思いが少しずつ解きほぐされていくことに満足したとの応答を得た.興味深 いことに,在宅でなくなったフォトエッセー『おじいちゃん』の教材にインパクトを得た中学生のなかには「人は赤ちゃんで生まれて,赤ちゃんのように死ぬの だと思いました.老いは人間に不可欠です.今日のセミナーはいい思い出です」と感想を寄せた生徒もいた.演劇やロールプレイングは,中学生の授業では馴染 みがないようであるが,この経験は多くの参加者に強い印象を与えたようで,半数近くの中学生が「また今度も参加してみたい」との感想を寄せた.

 現在,全国の大学でアクティブラーニングの導入が実行されているようだが,演劇やロールプレイングの手法を用いた技法は,若い世代の児童・生徒たちにも 今後より普及するものと思われる.また,中学生たちには,認知症について考える時に,演劇と現実の峻別をすべきであるという大人の発想ではなく,さまざま な思考実験を楽しむと同様に,彼らにとっても有効で実りのある議論に繋がるのだという演出が重要であることが示唆された.





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6.結論にかえて:ストレスコーピングとしてのコミュニケーション

 以上のことをまとめて,私たちは「ストレスコーピング過程における,その当事者たちのコミュケーションに着目すること」の重要性を主張したい.言うまで もないがナラティブは今日,それ自体が有効な治療方法(=総体としてのコーピング)として指摘されている(Charon 2006=2011).また当人のナラティブが自分自身のストレスコーピングとそれによる成長(PTG)を育むものであることも主張されている (Neimeyer, 2006).そこで必要なことは,PTSD/PTGという疾患概念そのものに内在すると思われる「ストレスコーピングのパフォーマンスは個人の内的資質に よる」という前提を再考することだと私たちは考える.

 我が国では,認知症問題の大衆への膾炙と認知症ケアに対する政府の対策事業を通して,この問題を取りあげることは一種のモラルパニック(moral panic)を引き起こしていると言える.モラルパニックとは一般的に日常生活をおこなうなかで,通常の社会規範に照らして異常や反道徳的なこと(=モラ ルに抵触するような事象)が起こったときに,人びとがそのことに苛烈に,まさにパニックが起こる程度に反応することをいう.オックスフォード『社会学の辞 典』第4版(2014: 492)には,モラルパニックは「ある事象が起こった範囲を超える社会的関与を駆り立てるプロセスのこと.そしてそれは[しばしば]道徳企業家 (moral entrepreneur)やマスメディアの作用によっておこる」と指摘されている.モラルパニックは個人のストレスコーピング過程を阻害することは言う までもない.

 池田と野村による海外調査研究は,トラウマ経験後の高齢者によるストレスコーピングに関することに焦点をあてた.したがって,認知症問題が広範囲に社会 問題化すると,障害の当事者や家族のみならず,社会の構成員の多くにとって,ストレスコーピングが一般的課題つまり国民的課題になると思われる.別言する と,(a)ストレスコーピング過程における,その当事者たちのコミュケーションを重視すること.(b)コミュニケーションの中に,当事者たちがどのように 関わるのかについての自己観察とナラティブが重要だということ.そして,(c)それらの観察事実の蓄積と分析にも供することができる質的方法論としてのエ スノグラフィーに着目すること,の3点について指摘して,この論考(=実践報告)を締めくくりたい.

 エスノグラフィーは,当事者を含めたその社会--マクロ・メゾ・ミクロな広がりをもつが--の関係性のあり方を,参与観察とインタビューという方法論を 用いて表現する,言わば〈質的な記録簿〉のことである.質的な記録であるという点で,統計的な厳密性による検証をうける量的な方法とは対照的である.質的 方法論の客観性の保証についての議論は,文化人類学,社会学,心理学,歴史学,現象学(哲学)の分野などで検討されている.そのため,その科学性や再現性 は量的な調査方法とは異なるが一定の確立と合意ができていると言える.むしろ量的な研究で欠けている視点を補う方法として極めて重要なものとの指摘もあ る.言うまでもなく,個人のライフヒストリーに焦点を当てたエスノグラフィー研究で は,対話的インタビューが重要視されており,ナラティブ・セラピーの観 点からみても,分析と同時にストレスコーピング的効果が期待できる(Greenhalgh and Hurwitz 1998).さらに精霊憑依という対人インタビュー状況において異文化間コミュニケーションとしての〈民族精神分析的邂逅(ethno- psychiatric encounter)〉という特異的な事例についての文化人類学的研究もある(e.g. Crapanzano 1980).また日系移民高齢者を対象にした優れたライフヒストリー研究として前山隆(1986)の著作がある.

 ここから私たちは,認知症者とのコミュニケーションをはじめ,さまざまミクロ社会学的現場に介入し,アクションリサーチをおこなうことを通して,コーピ ングとコーピングイメージの広がりを多元化することを提唱したい.認知症という人間の状態に対して通常の非専門家がおこなうコーピング過程をどのように復 権する(=取り戻す)かが今後重要になるだろう(Schon 1983[2007];鷲田 2007).

 以上,著者たちは自験例と関連先行文献の検討を通して,ストレスコーピングとしての機能がみられると示唆されるヘルスコミュニケーション,すなわち「認 知症コミュニケーション」と具体的な対話経験に基づくコミュニケーション・デザインの必要性について指摘した.



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発表者自己紹介

おじさんのなまえは、いけだ みつほとよびます。お じさんは、だいがくで、せんせいをしています。おじさんが、だいがくでおしえている、じゅぎょうは「ぶんかじんるいがく」といいます。そのなかでも「い りょうじんるいがく」というべんきょうが、おじさんのもっともとくいとするかもくです。「ぶんかじんるいがく」というべんきょうは、いろいろなひとたちの じんせいやせいかつについてしらべます。それを「ふぃーるどわーく」といいます。「ふぃーるどわーく」をとおして、ひとびとのじんせいやせいかつについ て、かきあらわした、ほん、しゃしん、びでお、ろくおん、などをまとめて、だれにでもつかえるようにしたものを「みんぞくし」といいます。おじさんは、 「ぶんかじんるいがく」というべんきょうをとおして、せかいのいろいろなひとと、であいました。そして、せかいのひとが、いろいろな「ぶんか」や「こと ば」がことなっているにもかかわらず、にんげんというものは、おたがいに、とてもにていることにきづきました。おたがいに、おなじにんげんなのに、もし、 ぼくたちが、かっこうがちがう、きもちわるい、なかまはずれにしよう、というきもちをもてば、それは、おなじ、じぶんを、わるくいうことに、つながりま す。だから「ぶんかじんるいがく」というべんきょうは、ぼくたちに、「にんげんがひとりひとりちがうことは、たいせつなんだ!」そして「ちがうからこそ、 なかよくできるんだ!」とげんきづけて、くれます。おじさんのぺーじをよんで、「ぶんかじんるいがく」を、たのしくべんきょうしてくださいね。

http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/ikeda-js.html

75歳のワタシ(ワークシート)

■会場:2018年3月10日13:45-14: 45):於:大阪医科大学看護学実践研究センター

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Mitzub'ixi Quq Ch'ij, 2018

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