桃太郎と虐殺された鬼の親族
Momotarou vs. Devil's family
★上のポスターは、日本新聞協会広告委員会が「しあわせ」をテーマに実施した2013年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」 の最優秀賞作品、「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました」である。 1091作品の応募の中から選ばれたものである。コピーの作者は、山﨑博司(博報堂)、広告のイラストやデザインは小畑茜(博報堂)である。引用した『ロ ケットニュース24』には、「作品の名前は「めでたし、めでたし?」。作者は「ある人にとってしあわせと感じることでも、別の人からみればそう思えないこ とがある。違う視点でその対象を捉えるかによって、しあわせは変わるものだと考えました」とコメント。確かに桃太郎の話では「めでたし、めでたし」でも、 その後の時代や違った人からは決して「めでたし、めでたし」ではないかもしれない」。そして、審査員評には「「読み手の心に小石を投げるような作品」や 「逆からの視点で幸せとは何かを考えさせる発想」「新聞協会が選ぶにふさわしい、エッジの効いた作品」」と評価されている。
受賞後の2人のコメントにはこうある:「ある人にとってしあわせと感じることでも、別の人か
らみればそう思えないことがあります。反対の立場に立ってみたら。ちょっと長いスパンで考えてみたら。別の時代だったら。どの視点でその対象を捉えるかに
よって、しあわせは変わるものだと考えました。そこで、みんなが知っている有名な物語を元に、当たり前に使われる「めでたし、めでたし。」が、異なる視点
から見ればそう言えないのでは?ということを表現しました。広告を見た人が一度立ち止まり、自分の中にさまざまな視点を持つことの大切さを考えるきっかけ
になればと思っています。/「しあわせってなんだろう?」と二人で考えた経験が、次に生かされるよう頑張っていきたいと思います。」https://www.pressnet.or.jp/adarc/adc/2013.html
このような、鬼の親族(遺族)からの抗議というのは、いわゆる、視点や視座をかえて、犠牲者の側からみるという点で、いわゆる哲学的遠近法(パースペクティヴィズム)の手法のひとつである。
パースペクティビズム・パースペクティヴィズム(Perspektivismus, Perspectivism)とは遠近法のことであり、このケースでは、自分がもつ視点を、相対化し、別の行為者や主体の視点・視座からみれば、世界の見 方や価値観が大きく変わるのではないかという、認識論上の客観化の手法なのである(→「パースペクティヴィズム」)。
その後、NHKでも昔話法廷で、桃太郎のケースが取り上げられたが、書籍では2022年に、 岩貞 るみこ (著), 堀川 直子 (著), 中川 由賀 (監修)によって、とうとう『法律がわかる! 桃太郎こども裁判』講談社が出版された。書籍の解説にはこうある:「桃太郎は犯罪者!? おじいさんとおばあさんに育てられ立派になった桃太郎はイヌ、 キジ、サルを従えて鬼ヶ島へ鬼たいじ!みごと、鬼をやっつけてめでたしめでたしのハズだけど現代の法律からこのお話を読んでみると法律違反がいっぱい!小 学生の公平くんと安由ちゃんが桃太郎の物語を読みながら法律のしくみや考え方を学びます。公平くんと安由ちゃんにレクチャーしてくれるのは正義の弁護士・ 真実先生。読んで楽しく法律がわかる入門書!」
こういう手合いは、法律のマーケットのことを子どもにも洗脳しようとする商売気がありありの 企画であろうが、法律の知識あるいは常識を社会に啓蒙するという動機を持つ点でも、今後も大きく社会的に非難されることはないだろう。なんたって、鬼ヶ島 戦役における、戦争犯罪人である桃太郎には分が悪く、いくら生前の悪行が非難されようとも、鬼ヶ島の鬼の末裔は、政治的に正しいかわいそうな犠牲者なので ある。
だが、我々は俄仕込みの桃太郎たちがおこなったテロ犯罪と、その犠牲者の末裔である鬼の子ど もへの政治的正しさ的同情だけで、この問題を終わらせていいのだろうか? 桃太郎には、標準的な説話構造すなわち、「桃から生まれた桃太郎は、老婆老爺に養われ、鬼ヶ島へ鬼退治に出征、道中遭遇するイヌ、サル、キジをきび団子を 褒美に家来とし、鬼の財宝を持ち帰り、郷里に凱旋する」があるが、この話が定番になる19世紀以前の草双紙には、桃太郎が桃から生まれたのではなく、桃を たべた老夫婦が、回春し婆さんが桃太郎を出産するという話が一般的であったという(小池 1967,1974; 加原 2010)。
さらに日本において桃太郎を定番にしたのは『尋常小学唱歌』への登場した1911年の出来事である。文部省唱歌の「桃太郎」は、作詞者不明、作曲・岡野貞一である。
桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
行きましょう、行きましょう、貴方について何処までも、家来になって行きましょう。
そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。
私の幼年時代の記憶では、鬼ヶ島の鬼はデフォルトでわるい「絶対悪」の体現者であり、桃から うまれて、いわゆる養子となり、一人前に育ててくれた養父養母への恩返しのために、鬼が所有している、略奪物を、こんどは「正義の成敗」により取り戻しに いくわけである。哀れ鬼の子どもは、無垢ではあるは、犯罪者の子どもにそだてられたために、その安楽な生活が、親による労苦の結果であることが分からな い。そもそも、唱歌では、虐殺された鬼に子どもがいることなど明らかにされておらず、これは、先の博報堂の作家たちが捏造し伝統的な物語に加筆したフェイクストーリーなのだ。
というわけで、フェイクな桃太郎の物語のファンタジーの上に、よせばいいのに、犠牲者の鬼の 子どもの存在を「創造」し、挙げ句の果ては、犠牲者の子どものことを慮れと小市民の道徳を吹聴する、とんでもないクソなサイドストーリー、あるいはジャン ク・フォーク・テイルと言ってよい代物である。あるいは、レナート・ロザルドが言ったような「帝国主義的ノスタルジー」、つまり、爆弾を落としナパームで村を焼き払った責任を連累的に担っているにもかかわらず、その村の情景を懐かしむような「欺瞞的な他者への同情」すら感じることができる。
だが、我々のリアルな世界のなかで、身の回りの世話役の人や、やたら対人関係に義や情や、さらには市民的道徳を振り回す偽善者が いないだろうか?そう考えると、この「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました」というような、一杯のかけ蕎麦風の、お涙頂戴の与太話に涙する ことも、まあ「鬼ヶ島の鬼遺児のための奨学金募金」などを組織化しないかぎり、人畜無害の精神的安全弁になっているのかもしれぬ。
だが、妄想を弄び、その妄想をつねに、現実とすり合わせしないと、「この妄想はそんなに大し たことないから、放っておけばいい」と警戒を解いているうちに、我々の現実そのものが妄想とリアルなものを峻別できないほどの麻痺になるという危惧は、多 少なりとも、我々の胸にとどめておけばいいだろう。
Momotarō coming out of a peach
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