実践の世界
人類学の最前線
Alternative Introduction to Modern Anthropology
田辺繁治『生き方の人類学』講談社・現代新書[→文化人類学、はじめの一歩;人類学の最前線]2003年
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本書の目的(p.8)
(1)「実践とは何かという問いに焦点を あてながら、実践と社会との関係を明らかに」する。
(2)「私たちが社会のなかで、いかに実 践をとおして自己を統治し、自分の生き方を探求するこ とが可能かという課題」に答える。
論証のレトリック(8頁)
1. 理論的観点から段階を追って説明する。ーー概念操作
2. フィールドの事例から、それらの理論を検証する。ーー実証的手続き
3. 「私たちは権力関係のなかでいかに自分を位置づけ、新しい生存の様式を探究す るか」ーー自己の主体=身体[のヘクシス]を組み替える方法の探究
01■日常生活における行為(pp.9-)
02■歯磨きの社会拘束性(pp.10-)(→存在被拘束性(Seinsverbundenheit))
「歯みがきは社会的な行為だ」。近代主体という考え方で、我々の行為実践を完全には説明できない。
03■「実践」の定義めいた説明(p.11)
実践(practice)とは「社会的に構成され、慣習 的に行われている」行為や活動であり、それらは「権力が作用する社会関係の網の目なかで形成されてきた慣習によって強く支配されている」。04■さまざまな用語群
practice, pratique, praxis, praxis「ポリスの自由な市民が言説を提起し、たがいの討議をもっておこなう公共的、政 治的な活動」がプラークシスである(p.12)。
・19世紀のマルクスによる実践概念:(→「カール・マルクス・プラザ」)
対象化行為=「人間が労働によって外的な自然環境を改変しモノを生産する」こと (p.12)。世界の変革にむけた「革命的実践」。
※意図的行為も非意図的行為(無意識的行為)も実践である
意図的行為→社会的構成で説明し解釈を与えることができる。
非意図的行為→(心理的用語を動員せずに)身体を基礎にした慣習の「圏域」に属 する
05■〈主知主義〉と〈実践知〉,pp.13-
主知主義的解釈(→「学問はどの ようにして人間を造るのか?」)(→「エンボディメント・身体化・具体化」)
・主知主義的解釈:占い師は自分が所有しているコスモロジーにもとづいてクライアン ト の運命について判断を下すと解釈する。「占い師は知的資源を駆使する操縦士」(p.13)。「外在する知とその規則が占い師の実践を規定している」 (p.14)。
実践知的解釈
・実践知的解釈:占い師は会得したやり方に従って占っているだけだ。コスモロ ジーという知的資源があるように思えるが、「それは単純な図式によって成りたつ、そこにおかれた占い道具にすぎない」(p.14)。
「知が実践そのものに内在しており、占い師はそうするように慣習のなかで訓練さ れてきたことを強調する。知識は本に書かれたようなモノではなく生きた身体に宿っている」(p.14)
06■言語ゲーム
「とにかく実践」というウィトゲンシュタインの命題が、我々がもつ迷信、すなわち「規則が あってから実践が生じる」という蒙昧から解き放つ。「まず実践があるから、規則らしいものが見えてくるのだ」。つまり、LWは、我々がもつ実践と規則の因 果関係を転倒(15頁)させたのである。・言語ゲーム:「言語を話すことが活動の一部であるようなすべての生活形式、すなわ ち人びとが実践をおこなっている場所」(p.15)。
「すべての言語ゲームは子供が言語を習得するように、その使用を訓練することによっ て慣習として行われているだけである」(p.16)。
・言語ゲーム論の要衝:「実践と規則の因果関係の転倒」(p.15)。
・言語ゲーム論における人間:「「規則に従うこと」は根拠に基づかない活動であり、何らか の選択をしているのではなく、ただ「盲目的に」従っているだけである」(p.16)。※これって、EBM批判に使えますねぇ。言語ゲームとしての医療実践と、その有 効性の確認。
※言語ゲーム論のパラドクス:論拠にもとづかない実践をなぜ「言語」ゲームと名 付けるのだろうか? 実践は実践なのに、それ(=言語の主客転倒性)を言語で説明したり、言語の隠喩で表現する不可解さ?
07■大きな理論的対立(pp.16-)
〈客観主義的〉構造人類学 v.s. 〈主観主義的〉現象学(相互行為論)客観主義的視点の限界は・・・・
「客観的構造の無意識的プログラム」(17頁)
主観主義的視点の限界は・・・・
08■ブルデュの調停行為
L・Wと同じ問い:「実践が規則に従って行われているのではないにもかかわらず、結果とし て生みだされた実践はなぜ規則に従っているように調整されたものであるか」?(p.18)L・W派が用意する回答:「実践が生活形式のなかの慣習によって訓練されているから だ」(p.18)
ブルデュ派の回答:「実践を発生させる〈図式〉(→ハビトゥス)という母胎を想定 し、それが首尾良く成しとげるような実践を次から次へと生みだしている」。これは〈実践感覚〉とか〈ゲームのセンス〉と呼ばれるような「意識が働いたり言 葉や概念に従ったりする手前で作用する身体化されたもの」だと考えられている(p.19)。
09■ハビトゥス(19頁)
・スコラ哲学の影響を受けながら、それとは異なる点が重要(→ただし、スコラ的ハビトゥス 概念は要チェック)。・「個人がもっている身体化された〈傾向性〉(つまり性向、性癖、嗜好、くせ)の集 合であり、ある社会的ゲームに参加している人びと、つまり社会集団のなかで構築され共有されている考え方、感じ方、行為のやり方、流儀やスタイルの総体」 (p.19)。
10■ ハビトゥス批判
・ハビトゥス批判:それはブラックボックスであると措定されているにすぎず「行為者 /が自分のおかれた環境や他者と関わりながらいかに実践を行うか、という側面についてはほとんど踏み込んでいない」(pp.19-20)。
11■問題系に参与する〈他者〉の存在
・人類学者ジーン・レイヴ/認知科学者エティエンヌ・ウェンガー・〈参加〉の概念が、古典的学習(=知識や技能を獲得する個人の内的な認知過程)の概念を打 ち壊す(pp.20-21)。
・「学習とは他者とともにある社会的実践」 (p.20)
そのとおりだと思うが、なぜ他者は学習の要素の中から消えてしまうのか?(主知 主義の限界?)
・田辺による実践コミュニティの説明:「さまざまな関心や目的をもつ行為者が実践の やり方をしだいに身につけ、仕事を成しとげてゆくような社会的ゲーム(集団)」(p.21)。(→実 践コミュニティ・実践共同体)
※田辺の定義は、社会的場よりも、そこで生起するさまざまな実践に焦点が当てら れるのでこのような定義としたのであろう。(→実践共同体の項の説明を参照)
場は、空間的概念を拡張したメタファーであり、ブルデュー派が多用する言葉であ る。田辺は明らかに場の概念からは距離をおいている:「[参加の視点から見れば、]慣習、規則あるいは規範という、人類学がしばしば制度的なものとして行 為者の外側に構築していた境界も取りはらわれる」(p.21)。
・つまり、コミュニティは一時的な帰属ないしは(必ずしも)空間的連続性をもたない 集団であり、地域や地縁で想起される我々のコミュニティとは多少異にすることは留意しておく。次の記述を参照。
12■フレキシブルなバウンダリー(柔軟な境界)
「(実践コミュニティの概念により)これまでの社会学や人類学のようなハードな「共 同体的」な制度の中の個人という見方からはなれ、人と人との相互行為が凝集し活動が組織されている現場をコミュニティとみなすのである」(p.22)。
ここまでくれば、彼がなぜcommunity of practice を実践共同体と訳さずに、実践コミュニティと言うかがよくわかるだろう。
13■制度とコミュニティ
「実践コミュニティは制度的な枠組みを意味しないし、かならずしも明確なメンバーシップに よって境界づけられるとは限らない。つまり、これまでの社会学や人類学のようなハードな「共同体的」な制度のなかの個人という見方からはなれ、人と人との 相互作用が凝集し活動が組織されている現場をコミュニティと見なすのである」(p.22)。
「巨大企業や地域社会では活動が凝集するコミュニティは各所に拡散し、また任意に形成され るだろう。さらに、日常生活では個人は一つではなく複数のコミュニティにまたがって参加している」(p.22)。04■グローバル化で融解してゆくと見る共同体妄想を打破する田辺の〈託宣〉
「私たちの実践は社会のなかで疑うことができない確実性と自明性をもっている。グローバル 化の進展と世界資本主義の拡大によってこの確実性が消滅すると考えるのは、まったくの誤りである。むしろ、そのような現在のなかに実践が変動する過程、す なわち実践をめぐる新たな社会性と生き方が不断に生成してゆくことに注目することが必要である。人びとの集まりのなかに新しい社会性と生き方を見いだそう とする場合、実践コミュニティの分析視点は重要性をますだろう」(p.23)。15■アイデンティティ構築問題
「レイヴとウェンガーによれば、アイデンティティは行為者が知識や技能をしだいに習得して いく過程と表裏一体となって形成される。つまり、行為者が先生や熟練者などの規範に同一化してゆくなかで、自分がコミュニティの一員であるという意識が眼 芽生えてくると考えるのである」(p.24)。16■田辺のウェンガー批判(ハバーマス的公共圏への連結を警戒?)
「ウェンガーにとっては、アイデンティティとはコミュニティへの帰属意識、メンバー間の 絆、コミュニティの特異性が構築されることを意味する。そうしたアイデンテ/ィティが形成されるために、メンバー間での交渉によって実践の意味を確定して ゆく過程が必要だ、と彼は言う。つまり、〈意味の交渉〉をくりかえすことによって一つ一つの実践の正統性がコミュニティ内部で確定されてゆくのである」 (pp.24-25)。
「だが、自律的な個人が意味の交渉によってコミュニティへの帰属意識を形成してゆくとい うこのモデルは、はたして私たちの日常生活に幅広く適用されるうる だろうか? そこには、自律的な主体による言語を用いた合理的なコミュニケーション行為への過信があるのではないか? アイデンティティ形成が合理的な意 味の交渉によってもたらされるという考え方によって、実践コミュニティは皮肉にも、近代的な学校教育や企業マネージメントを理想化したモデルに限りなく近 づくことになる」(p.25)。
※後にその区分が重視されるようになるが、田辺の 用法では、本質主義的かつ古典的な「共同体」と、実践ということばが冠される「コミュニティ」は峻別されていることが重要。ここを理解しておくと、この2 つの用語で将来混同しなくなる。
★ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換 : 市民社会の一カテゴリーについての探究』ノート
17■人生の逆転サヨナラ満塁ホームラン
「霊媒カルトでは慢性的な苦悩の果てに新たな自己を発見し、また自助グループでは自らの内 にエイズという他者をかかえながら自分独自の生きる技法を編みだしてゆく」(p.25)。
また、コミュニティの紐帯の形成が重要なのではなく、主体の新しい形式の発見が、行 為者にとって重要になる(→主観主義的アイデンティティ論と、どのように違うのかよく考えてみよう)。
18■人類学者のプロ意識とは?
「職業として学問すること」(→ウェーバー)は、「それで生計を立てるということだけでな く、自らの実践がもつ意味を考えながら自らの倫理的な転換の可能性を追求しつづけることでもある」(p.26)。
「人類学者の実践のすべては彼/彼女が対象とする人びとの実践と同一地平で行われているの であり、人類学者は自分の行いに不断に立ちかえることによってしか彼らを理解できないということだ。さらに、そうした再帰的な反復運動を維持しながら彼ら への理解に到達することは、自らの主体の形式を少しずつ、あるいは大胆に転換する可能性を追求することでもある」(p.26)。