実践コミュニティ論
田辺繁治『生き方の人類学』講談社・現代新書[→文化人類学、はじめの一歩;人類学の最前線]
※【パラグラフ番号】
[復習:再掲]
______________________
本書の目的(p.8)
(1)「実践とは何かという問いに焦点をあてながら、実践と社会との関係を明らかに」する。(2)「私たちが社会のなかで、いかに実践をとおして自己を統治し、自分の生き方を探求することが可能かという課題」に答える。
■「実践」とは?(p.11)
実践(practice)とは「社会的に構成され、慣習的に行われている」行為や活動であり、 それらは「権力が作用する社会関係の網の目なかで形成されてきた慣習によって強く支配されている」。
______________________
「コミュニティという場において、行為者が言葉、モノ、道具、社会関係などの複雑な関係のな かで実践を行い、組織していく過程を・・(〈実践コミュニティ〉という観点から)・・見ていこう」(p.104)。
■社会的訓練=ハビトゥスの獲得(ブルデュ派)【2】
(1)見よう見まねによる習得
(2)規則をとおした習得
■知や技能の習得=コミュニティへの参加(レイヴとウェンガー)
(1)コミュニティへの参加
(2)コミュニティにおける参加、交渉、協働などの相互行為
■ハビトゥスが個人の身体に刻み込まれること(ブルデュ)
「ブルデュは・・実践知が社会的な場で身体化される過程について・・分析を披露している。・・ いわゆる〈図式〉が個人の身体のなかに獲得されるのは、意識が働き表出される手前であり、そこでは反省的な思考をともなっていない」(p.105)。
■モードゥス・オペランディ(modus operandi)は言説レベルに達することになしに、伝達される(ブルデュ)【6】
"A modus operandi (often shortened to M.O.) is someone's habits of working, particularly in the context of business or criminal investigations, but also more generally. It is a Latin phrase, approximately translated as method or mode of operating.[1]" - modus operandi.
「行為者はモデルを模擬(→ミメーシス)するのではなくて、他人の行為を模擬する。ブルデュは 『実践感覚』のなかで、「身体のヘクシス[=身体化された慣習的行為]は直接に運動機能に訴える」と言う」(p.105)。
■模倣=模擬と、厳格な掟のあいだ【8】
(1)〈ミメーシス〉例:「子どもは親やまわりの人びとから「見よう見まね」で服の着方をおぼ
え、鍛冶屋の弟子は親方のやり方をまねしながらその技能を身につけてゆく」(p.106)。
(2)〈規則〉=「厳格な規則や掟に従いながら知識や技能を習得する過程」(p.106)。
(3)これらの「中間領域に、習得されやすい多くの〈構造化された練習領域〉、つまり社会訓練の場が用意されていること」に着目しよう。
■カビルの農村社会における少年たちの〈構造化された練習領域〉
(p.107の第2パラグラフ)
・「なぞなぞ、遊び、贈与交換、儀礼、モノ、空間などはたがいにリンクしながら、容易に予測できるような系列をなしているのである。・・社会のなかに配置 されたこれらの〈道具〉は、機械的な反復学習のように試行錯誤によって一つ一つ習得させるのではなく、系統的な運用を容易にする練習問題となっているので ある」(p.107)。
・ブルデュの『実践感覚』からの引用:「身体によって学ばれるものは、人が自由にできる知のよ うに所有する何ものかではなくて、人格と一体となった何ものかである」[→](p.108)。【12】
■実践知の構築する場としての〈実践コミュニティ〉
「実践知は人格のように個人の身体に定着するが、それは社会的に伝達され、習得され、保持さ れ、再構築されることによって持続する」(p.109)。・実践コミュニティ=実践共同体=実践協働体
・社会科学のなかで特殊な意味をもたされてきた「共同体」概念(→マルクスにおける共同体概念とそのスコラ的解釈?、そして本質主義的理解[pp.138 -9])との混同をさけるために、コミュニティという外来語を用いる。
・実践コミュニティにおける〈徒弟制〉の現場:ユカタン・マヤの伝統的助産婦、リベリアの服の仕立屋、アメリカ海軍の操舵手、アメリカの食肉加工職人、ア ルコホリック・アノニマス(AA、断酒会)
■徒弟制【18】〜【21】
・まず徒弟制における古典的イメージから解放される必要がある・"The Karate Kid",1984 における入門者ダニエルに教育するミヤギ師範のやり方
・徒弟制における人格面での参与を重視する。「新人はある目的をもって熟練者を手本としながら、「ああいう人たちになるのだ」という全人格的な目標をもっ て技能や知識を身につけようとする。多くの実践コミュニティでは、新人はそのメンバーとして仕事や活動を開始するにあたって正統的に認められた立場をあた えられる。ブルデュが研究したアルジェリアのカビル社会では、子どもたちは村社会のなかでそうした儀礼や贈与などへのアクセスが保証されていた」 (p.111)。
■正統的周辺参加(LPP, LegitimatePeripheral Participation)
LPPのプロセス=周辺から中心に向かってのめり込んでゆく過程
(1)「彼らはまず数週間から数ヶ月にわたる十分な期間、実践コミュニティの〈周辺〉に参 加することによって、そこでおこなわれる実践の全体像をつかむことを要請される」。
(2)「彼らは周辺的位置から親方、古参者や同僚の新人たちが何をやっているか、仕 事の進め方、日常のふるまい方、エチケットなどを観察する機会があたえられる。(……それ以外にも組織上の矛盾や葛藤、さらには感情の学習まで把握するよ うになる……)。そこで行われる実践のすべての行われ方とその構成を身体いっぱいに吸収することになる」。
(3)「この俯瞰的な位置取りと視点を保証する周辺的位置から、彼らは熟練した人の 全人格のなかに、あるいは完成した製品のなかに模範や手本を見いだし、そこに動機づけられながらしだいにより深い「十全的な参加」へのドライブに突きうご かされていく」(p.112)。
◎状況論としての正統的周辺参加
■LPPからみる知識論
・徒弟制における知識の源泉を、親方の中身に求めない(→エキスパートシステムの失敗)。・知識=精神を、参加=実践する身体に優越するものとしてはみない。
・知識と参加の有機的なつながりに着目する。
・「熟練するための知識と技術の源泉は親方や師のなかにあるのではなく、実践コミュニティというさまざまな資源やレパートリーが配置され、親方、古参の熟 練者、新人などが相互に協働する組織的な構成のなかにある」(p.113)。
■チェンマイの民間治療者(pp.113-)
■モノと活動の協働
・「チェンマイの民間治療師の治療の一連の活動の流れは、日本の近代医療の現場でおこなわれて いることとそれほどかけはなれたものではない」(p.115)。・「チェンマイの民間医療の現場を一貫性と連続性をもつ活動として成りたたせているのは、モノが配置されている空間、そこで交わされる言語や身体動作、そ して活動する人びとのとの社会関係をとおした協働である。モノの空間配置、言葉のやりとり、活動の流れ、これらは民間医療という持続的な実践をおこなって いくための集積された資源である」(p.116)。
■ごちゃまぜの世界のように見える?
「近代的工場で生産されたマットレスのわきにおかれた水牛に引かせる犂(すき)の一部である 刃、料理用の七輪といったモノは、治療現場の彼らにとっては重要な資源であるが、私たちにとっては異様な組み合わせというほかはない。それは、フランスの 詩人ロートレアモンが「解剖台のうえのミシンとコウモリ傘の偶然の出会い」と唄ったシュールレアリズム不思議なリアリティにも似ている」(p.116)。【34】・つまり、シュールな世界とは、協働するモノの位相が見えない世界ということか?
■レパートリー【37-】
・ウェンガーの単著『実践共同体(Community of Practice)』・「レパートリーとは、日常的に稽古しながら習熟され、しかもつぎつぎと実践を生みだす一連の資源」である(p.118)。
・「レパートリーという考えは、モノ、言葉と協働のメドレーが交錯しながら実践が組織されていく過程(→「学習資源に対するアクセス」)を一歩踏みこんで 明らかにしようとする」(p.118)。
・物象化(→「ルカーチの物象化」)
・「あるコミュニティ内部における実践は、外部にある他のコミュニティの学習資源やレパートリーに接合されていると言える」(p.120)。
■モノの問題系【40】
■隠喩/換喩は表現型、レパートリーは遺伝型
・「モノであれ、言葉であれ、レパートリーはしばしば隠喩や換喩によって表現される。例え ば・・・・・。こうした隠喩的な表現は実践コミュニティのなかで長年にわたって定着し、さらに多義性を含みながら使用される。実践知としての言葉はしばし ば隠喩的であり、また換喩的でもある。ウィトゲンシュタイン風に言うならば、それはつねに行為と一体になった言語使用である」(p.120)。
■交渉
・「治療という現時点で進行中の実践のなかでは、治療師と弟子たちは即時の選択による解決や妥 協をせまられる」(p.121)。
■実践知のアクティブ面をどう考えるか?
メティス的実践(狡知な実践)——『日常的実践のポイエティーク(L'invention du quotidien)』→「メティス的節約原理」:The practice of everyday life / Michel de Certeau ; translated by Steven F. Rendall
・ブルデュ派とLPP派の見解の相違
・ブルデュ派=「即興的に行われる実践の創造性は制度やそれがもつ客観的構造を内面化した範囲内でくりひろげられ、そこから大幅にはずれるものではない。 つまり、中産階級の画家が描いた絵は、その階級の客観的構造のなかにある美的判断力に大きく依拠するとともに制約され、その創造性は普遍的な価値をもつこ とにはならない」(p.122)。[→マルクス主義的な上部構造的決定論=階級に対応する生産様式による決定]
・LPP派=「実践コミュニティの概念においては、もしもそうした客観的構造があるとすれば、それによる実践の制約はむしろ相対的なものとして個々のメン バーに受けとめられると考えられる。客観的構造は絶対的ではなく、相対的である。したがって、コミュニティは全体として制約を受けながらも、行為者個人が 自分の技法によってそれを受けとめ、修/正したり、ずらしたりしながら実践を遂行してゆくのである」(pp.122-3)。
・後者は、〈メティス的〉な節約原理(ド・セルトーの用語に由来)
■行為者が交渉にアクティブに従事しないと実践コミュニティにおける学習ははじまらない。
・裏マニュアルの問題・新旧のレパートリーの重層的利用[→医療的多元状況の生成]
■保険会社のなかで(pp.125-)
保険会社の職場の状況への労働者の取り組み【56】1)会社の要求する処理能力と現場の状況で生まれる葛藤のプロセス
2)すべての業務細目をしらなくてもメンバーが共有する知識をどのように想起させ活用できるか
3)新人がマニュアルよりも実地に参加しながら仕事のやり方を学んでゆくのか
4)担当者は、マニュアルにはあらわれない特異な方法や用語法でなすべき業務をおこなうのか
5)固有の儀礼、慣習、物語やリズムをつくることで、単調な業務をいかに楽しく遂行できるか
■アパレル中小企業(pp.126-7):「川上(製造業に近い側)」「川下(=消費者に近い側)」論【58-61】
《実践コミュニティにおける協働》
■相互参与(mutual engagement)【63】p.129
・「実践とは制度に対して人びとが折り合いをつけながら、たがいに密接な相互関係を維持し、そ こですべき活動に従っていることを指している。つまり、実践は制度的な構造に対して交渉しつつ、個々人の間でも自分たちがやっている行為の意味について相 互に了解しながら維持されている」、このような在り方を相互参与という(p.128)。
■参与する動機の複合性(p.129)
(1)仕事をする動機は収入をえることである。(2)業務を有能に/適当にこなすことである。
(3)退屈しないで楽しく仕事をすることである。
(4)将来を考えて自らの地位を確保することである。
《協働する活動》
■近代社会ではシステムが厳密に動いているという幻想をもつ
・会社、学校、カルトに「参加する個々人は多様な目的や動機をもっているが、たがいに了解し折 り合いをつけながら協働的に活動することによってコミュニティを形作っている」(p.130)。・「そうした個々人の異なった目的や動機が交錯しながらも、活動が協働的に維持される集合的な過程をウェンガーは〈協働〉(joint enterprise)と呼んでいる」(p.130)。【68】
■大学の研究では・・(p.130)
■前期フーコーと対立する、反−内面化説
・「フーコーのように、言説制度と権力作用は直接に個人の行為に影響をおよぼし、個人のなかに 内面化されると考えることも可能である。しかし、ウェンガーの考えでは、実践コミュニティのなかに展開する協働こそが制度や権力作用の支配に対する対応拠 点なのである」(p.131)。
■責任感覚
・責任感覚〈対〉物象化された規則・「たがいに協働していくなかで暗黙のうちに共有されていく〈責任感覚〉」(p.132)であり、〈相互的説明責任〉(mutual accountability)である。【75】
・「アカウンタビリティ」とは、コミュニティのメンバーの間で必ずしも言葉だけにいって言明される必要はない」(p.132)もので、「個々/人がたがい に従事している活動がコミュニティにとって適切なものであることを、言葉でつねに言明するまでもなく熟知しているという責任感覚」(pp.132-3)に 相当する。
《制度と実践コミュニティ》pp.134-
■実践コミュニティの再定義
・「個人が参加することによって成りたつ人びとの活動の様式である」(p.134)。・「個々人が従事している行為について、そのやり方と意味を共有し、社会的な広がりと歴史的な変化のなかで共有されてきた資源を利用しながら、レパート リーを形成し実践を遂行していく集団である。それは人びとが協働しながら学習し実践を維持していくコミュニティと言ってもよいだろう」(p.134)。
■田辺の実践コミュニティの概念
・言語の役割は重要である(=人間が言語ゲームをおこなうこと)・もし、そこから言語を役割を除いてしまうと、ミツバチの社会も実践コミュニティになってしまう[→井上民二さんのラ・セルバでの発言]。
■革命ゲリラ組織
・「高校のクラスは制度的には単一の枠組みをもって運営されているように見えるが、実際には、 生徒たちはクラスを横断して仲間同士の複数のクリーク(徒党)、仲間といった実践コミュニティを作りあげ、そこを拠点に学習に関わったり、遊びを組織して いる」(p.135)。[→新撰組]・「強固なイデオロギー的結合と厳格な軍事規律に支えられた制度をもつ革命ゲリラ組織も、その例外ではない。ゲリラ組織の周辺部はもとより中枢部において さえも、しば/しば脱落者、スパイ、政治ブローカーを抱え込みながら分派的な実践コミュニティが繁茂する」(pp.135-6)。
◎実践共同体としてのゲリラ部隊
■実践概念のおさらい(p.136)
(1)命題:「すべての人間実践は境界を作り、それを再生産している」。(2)実例:「ウィトゲンシュタインの生活形式を基盤とする言語ゲーム、あるいはブルデュのハビトゥスを共有する集団や階級的な社会空間の存続は、まさに 実践が紡ぎ出すこの境界性によって維持されている」。
(3)解説:「実践が行われている場所には外部と内部があり、実践にともなう考え、やり方、概念、専門用語や符諜(ふちょう)など、つまりレパートリーに よってへだてられている」。
(4)派生(応用的展開):「すべての実践コミュニティは境界をもつことによって存続し、それ自身の固有の歴史をもつことになる」。
■モデルとしての実践コミュニティ
実践コミュニティは「共同体」か?(pp.138-)
・実践コミュニティの理論は、客観モデルと行為者主観モデルの折衷的なものである
model of ...
model for ...
・「実践コミュニティ理論は学者の客観主義的なモデルではなく、むしろ行為者の視点と地平から組みあげられた実践のモデル」である(p.138)。
■共同体という本質主義的概念を批判する
・「それは「参加」、「交渉」、「媒介」、「協働」、「参与」といった概念を駆使することに
よって、コミュニティ内部で進行する人びとの相互行為の複雑な過程を記述しようとする。したがって、実践する者の視点と地平からそうした行為の実際の/感
覚とセンスを描くことで、それは近代的な言説として構築されてきた「共同体」概念につきまとう幻想から逃れようとしている」(pp.138-9)。
■実践コミュニティ概念の限界
・現実にある行為実践のモデルというよりは、理想的なモデルとして提示されている。その理由は 「意味の交渉による合意の形成、あるいは協働の実現といった言語をとおしたコミュニケーションへの過大な期待」(p.139)にある。