アイロニーは反省のための鏡である
Your irony that you've said right now is the mirror of your own reflexion, right?
「フランスの精神分析家 J.ラカンが記述した,人間の子供の6ヵ月から 18ヵ月までの形成時期を指す言葉。鏡像段階は,主体の構造という観点に立つとき,発達の基本となる重要な時期である。子供は鏡の中に自分と同じ姿をした 像を見つけて,これに同一化しながら,自我の最初の輪郭を形づくる。これは将来の自我像のひな型になる。この時期の特徴を詳しく記述することによって,個 人の精神発達のみならず,個人間の攻撃的な関係についても知識が増 し,また精神の想像的な働きが個人の発達において果たす役割について解 明が進んだ」ブリタニカ国際大百科事典)
市智河團十郎 ca. 1995
タイトルは、「ハイパーな、あまりにハイパーな日本 原人" 論」ということで、別に深い意味はございません。私の名前を書かずに、のりぴーと書いてありますが、これには必然性がございまして、この次の文章を読んで いただければよくわかりますが、のりぴーは、実は私の アイデンティティーの一部だという話から入っていきたいと思います。※のりぴー=酒井法子というのは「語源」的には関係があるかもしれませ んが、このページの議論とはまったく関係ありません。このページの著者のアイデンティティと「のりぴー」という呼称が、たまたま、偶然邂逅した、つまり「恣意的な結びつきにすぎない」(ソ シュール)というわけです。
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1) Grafittist は夜中の怪しげなファイルに書き込む——あるいは変わりつつある「日本原人」論
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グラフィティーというのは、イタリア語の落書き、グラフィティストで すから、落書きをする人という意味ですが、これでは何のことかわからない と思います。
K大学は、後塵を拝したと申しますか、やっとこさ学 内LANが整備されまして、私は4月に赴任したばかりですが、我が文学部でもことしの4 月、実際には6月ぐらいから運用が開始されています。PKO−−K大の計算機センターを通してインターネットにつながったというわけで、今まで本の虫だっ たH学部の人たちもコンピュータをさわっているという現状であります。
H学科(現在改組で消滅)には、ウルトラ可愛らしいなサーバがありまして、そのサーバでネットウェアというソフトウェアを使い、CCメールとい うプログラムを動か しています。これは、相互に電子メールを交換したり、掲示板で、教授会メンバーとか助手の人とか、いろいろなカテゴリーがありますが、共通のあて先をぽん と押すと、同じメッセージが送れるというシステムです。
同時に、いろいろなフリーソフトウェアも自分の機械の上に導入することができますが、そのハードディスクに、ある日突然「誰.TXT」ファイル というファイルがぽっこりとできました。これは、大学の教員と、使用制限はありますが、学生も使えるようになっていて、教師にメールを送ることができま す。これもフォーマルな回路ではなくて、たまたまファイルを調べるようなソフトウェアをウンドウズ上で立ち上げると、「誰. TXT」ファイルというのが目に入るわけです。私は割と早いうちにこれを発見しましたが、ここには主に学生たちが書き込んでいるようです。
その内容というのは、60年末期のカウンターカルチャー・ムーブメントが終わってから、若者が自閉症化していくプロセスの中で、全国に駆け込み 寺ができたりしたときに、喫茶店にも大学ノートが置いてありまして、そこに失恋のこととか、我が学校ではこんなことがあったとか、うっとうしい教師がこう だったとかいう書き込みがありましたが、基本的にはそのノリなのです。
私は、「誰. TXT」ファイルが自己増殖するプロセスを見てきたと同時に、のりぴーという怪しげな名前を自称し、学生の仮面をかぶりながら、彼らの発言に対して、突っ 込んだり、同感したり、裏の部分でアジテーションしてきたわけです。そこでは、自分の個人的な体験だとか、そんなに深刻な話はなくて、どこそこの飯屋がう まいとか、おしゃべりに近いようなものがどんどん蓄積されてきました。私の最初の予想では、電子メディア上だから、私ぐらいの世代やもう少し年配の人たち にある程度予測がつくような会話のパターンではなくて、突拍子もないものが出てくるのではないかと期待していたわけですが、結論から言うと、余り大したこ とはありませんでした。
これは、電子メディアについてよく指摘されることですが、距離感がなくなったという常識的な解釈のほかに、もう少し違う局面があるのではないか と思うのです。ノートというのは、基本的に線形的な情報媒体で、書き込まれたものは、その人の癖のある字体とか、ノートのどの空間を文字が占めるかという ことで、非常にフェティッシュな一つの作品というか、オブジェクトなわけです。だから、そういうものに対して違う人が別の書き込みをしたり、消して、違う コメントをすることには非常に抵抗がありました。しかしながら、画面上に出てくる文字は無味乾燥ですから、割と人が書いたものに書き込みをしてきます。話 題の展開も、ノートだったら、問題提起あるいはモノローグが線形的に出てきますけれども、ファイルの上から下に時間軸に沿ってあるストーリーが展開するの ではなくて、次の日にファイルをあけてみると、途中にいろいろな話題の挿入がある。そうすると、ストーリーはどんどん変形して、イニシエーションは同じで あっても、それ以降のパターンは全く変わってくるわけです。
そこで起こっているのは、アイデンティティーのアーティキュレーションというか、アイディンティティーというのは、自分は自分だという、非常に フェティッシュなものですから、それをノートに書き込むという行為は、自分の身体性の延長上で理解できますけれども、電子メディアの画面上においては、自 分が書いたものがどんどん変わっていくことに対して余り抵抗を持たないような子たち(=学生)がいる。ひょっとしたら、教員が私のようにの りぴーという名前を名乗っ て書き込んでいるかもしれませんので、子たちという言い方は失礼かもしれませんが、自 分が書いたものに対する意識が少しずつ変わってきている。人類学者と いうのは、針小棒大に話を展開しますので、これは公的領域と私的領域の越境状況であ ると。しかし、完全に越境してしまうと、自己のアイデンティティーと 他 者のアイデンティティーがぐじゃぐじゃになってしまいますから、そういうものが同時に存在する一種の棲み分け、あるいはハイブリッドが起こっているのでは ないかと思います。これは、コンピュータメディアが入ってきてわずか数カ月しかたっていないのに、H学部の古色蒼然とした中でもいろいろお もしろいことが 起こっているという1つの例です。
(発話一部削除簿自己検閲)
この結論は、境界を越えたアイデンティティーが生起しているということと、ネッ ト上でアイデンティティーを提示するという自己表現の仕方があ る。このネット上でのアイデンティティーは、リアルな我々が生きている上でのアイデ ンティティーの生成とは違う面があるのではないかと思います。Aとい う アイデンティティーと、それに対するオルターナティブなBというアイデンティティーがあって、それをシフトするのではなくて、ネットに乗せることによって アイデンティティーがインタラクティブに変容していく。人類学では、文化変容の問題といって、長期的には文化的な集団のアイデンティティーそのものを変容 させるという話もありますが、第1点は変わりつつある日本原人論の話です。
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2)恐怖の作法−−テロリズムと象徴の政治学
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情報は、アナーキーになって、ボーダーレスに行き来するようになっているにもかかわらず、我々のリアルな身体は、国境があり、海外に行くとき はパスポートを携帯しないといけませんので、単純にボーダーレスになっているわけではありません。状況的にはボーダーレスになりつつあるけれども、依然と して壁があります。しかし、ボーダーをつくりながらも、越境してくる人たちはたくさんいます。例えば外国人労働者の問題とか、我々自身が海外に出るという ことですが、そこでは、いわゆる日本人というアイデンティティーがなくなりつつあると同時に、一方で日本人というアイデンティティーを打ち固めようという システムもあるわけです。冷戦構造の崩壊は、単純に情報メディアの発達ということだけでは論じられないかもしれませんが、ロシアにしても、東ドイツにして も、ルーマニアにしても、自由主義諸国のメディアが旧社会主義圏に入ってきて、人々の意識がどんどん変わっていったという話があります。しかし、それとは また違う意味で、ボーダーレスにする一つの力学と、その中でさらにボーダーをつくったり、新たに違うボーダーをつくろうという運動も起こっているわけで す。
そういう多様な状況になってきたときに、何をもって状況を定義するかということですが、不幸なことに、現代社会の中ではバイオレンス−−暴力 という問題が強烈に出てきました。人類の歴史が始まったと同時に暴力の歴史もあるわけですが、その暴力の種類が随分変わってきました。人類の長い歴史の中 では、ほとんどが身体性を伴った暴力であったし、これからもそうであり続けると思いますが、その中に象徴を操作する暴力性が突出してきたのは、情報社会の 特異的なことだと思うのです。
3つ事例を挙げましたけれども、こういう状況はいつ起こるかわからないということです。
まず、64というコンピュータウイルスですが、私もウイルス情報何とかというシェアウェアで初めてその存在を知りましたが、コンピュータウイ ルスが一種の愉快犯だとすれば、これは愉快犯とは言えないウイルスで、人の機械が壊れたらうれしいというのと同時に、ある政治的なメッセージを出す。この 場合は天安門事件ですけれども、アメリカの世論が天安門事件に対して非常に不快な印象を持っているのは、今日におけるアメリカの外交政策を見てもわかりま すけれども、政治メッセージと愉快犯のような一種の犯罪性がダブルクロスしながら出てくる例であります。
2番目は、エクアドルの沖のガラパゴス諸島で一種のエコ・テロリズムがあるという話です。ガラパゴス諸島は、世界遺産の1つになっていて、全 島禁漁区のようになっております。禁漁区になったのは最近で、ナマコとりなどは基本的に容認されていたわけですが、サンタ・イサベル島で山火事が起きたり して、当局の方も自然保護、あるいは観光資源としての開発をやり出しました。ガラパゴス諸島の観光は、物すごく高くて、飛行機代を除いて、一番安いツアー で1週間五、六百ドルから 2,000ドルぐらいかかります。これはエクアドルの人たちの年間所得の倍ぐらいです。第三世界では階層差がありますので、国民1人当たりの所得という概 念は余り意味がないのですが、ナマコとり漁民にしてみれば、自分たちの商品を取られたということで、報復のために数の減少しているゾウガメを殺す。営業妨 害を受けたのは自然保護の責任である、あるいは自然保護の連中が悪いのだというロジックを立てて、強烈なテロリズムをやるわけです。
もう1つは、エジプトで最近多くなったのですが、イスラム原理主義というか、ファンダメンタリストたちのグループが観光客を襲撃するという話 です。スエズ運河からナイル川を遡上して、ピラミッドを見に行くという、エジプトにとって非常に重要な観光資源であると同時に、外国人観光客にとってもエ ジプトのイメージを満喫させるツアーがありますが、テロリストがそこをねらってバスを襲撃する。これは、ナショナリズムの運動の中でよくある外国人嫌悪 −−ゼノフォビアとはちょっと違いまして、ゼノフォビックな色彩はありながらも、宗教原理に根差した道徳的な新秩序を築くときに、そこで出てくる非常にシ ンボリックな強烈な外部、その外部というのは、女性が彼らにとっては裸に近いような格好で街を跋扈する、そういうものがテロのターゲットになるわけです。
私は、最近観光のことを研究していますが、観光は平和産業であるとか、世界の軍事支出と観光支出を比較するとかいう話があります。11月には 世界観光大臣会議が大阪で開かれるらしいですけれども、観光は平和をつくるとかいう主張があります。しかしながら、はっきり言って、これはうそでありまし て、論理が転倒しております。平和状態は観光をつくりますけれども、観光は必ずしも平和をつくるわけではありません。
その1つの例として、いろいろな問題が起きたときに、観光客はまず逃げるわけです。インターナショナルな観光というのは、その国の外貨獲得に とっては非常に大きな産業になりますが、同時に非常に脆弱なわけです。開発途上国における近代化論−−工業化して、最終的には輸出代替まで工業化するとい うパラダイムが崩れて、今のはやりはサステナビリティー、あるいは観光ということで、特にエコツーリズムは各国の観光担当省庁が物すごく興味を持っていま す。しかしながら、国際間の紛争があると、観光客はごそっと減る。ということは、テロリズムが経済的にインパクトを持つと同時に、ネガティブな意味で国際 世論に訴えるということを、テロリストたちはよく知っているわけです。
ここ3年ぐらい中央アメリカへ行っておりますが、私の行ったところは必ず紛争が起こっている。XX国民解放軍がことし(1994)の元旦に武装 蜂起しまし たが、そこにも行ったことがあります。係争地ではない、比較的安全なところでも、観光客はごそっと行かなくなるわけですから、この効果たるや非常にすばら しい。そういう意味では、平和に根差した観光というか、平和が非常に重要だという印象が今さらながらするわけですが、国際政治でも何でもそうですけれど も、象徴を操作することの重要性が非常に増してきたということです。
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3)オリエンタリズムと日本人
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オリエンタリズムというのは、中東の人たちの文化の記述が常に外部、西洋の 側から築かれてきたということで、それに対する異議申し立てが一種 のオリエンタリズム批判だと思うのです。エドワード・サイードという文芸批評家が「オリエンタリズム」という本を書いて、この言葉が 有名になったわけです が、今日におけるオリエンタリズムは、エドワード・サイードが言うところのオリエンタリズムを指しています。それはどういうことかといえば、一種の民族と か文化のステレオタイプで、そのレッテルは常に外部から張りつけられる。それも、政治的にニュートラルな状況の中でレッテルが張りつけられるのではなく て、権力ある者がない者に対して張りつける。今日でもそういう暗い伝統はあるかもしれませんが、例えば、日本人が朝鮮半島の文化カテゴリー を一種のオリエ ンタリズムで見るとか、沖縄であるとか、被差別部落であるとか、これも一種のオリエンタリズムがあるわけで、常に排除の対象としてステレオタイプを再生産 し続けて、みずからに発言権を与えない。したがって、オリエンタリズムは植民地主義の中で再生産されてきたというのが基本的な論調です。
基本的には、力関係の中で優位に立っている者が劣位の者をステレオタイプ化するときにオリエンタリズムが成り立つわけですが、劣位の側に立つ、 ステレオタイプのレッテルを張られる側の人たちもオリエンタリズムを再生産することがあります。例えば植民地に育った学者が、植民地宗主国 に留学して、自 分の国に帰って、彼らがつくり続けてきた文化のイメージを再生産する。日本にも一種のオリエンタリズムがありまして、古典では、中根千枝の「タテ社会の人 間関係」とか、土居健郎の「甘えの構造」とか、これも見方によっては一種のオリエンタリズムと言えないこともありません。というのは、レッテルを張られる 側の日本人が、自分たちの文化はこういうものだという形で再学習するプロセスもあるわけです。
最近、有名なところでは、「ライジング・サン」が日本をステレオティピックしているというので、日本人の識者及びアメリカに住んでいる日本人 が抗議行動を起こしました。これは、アメリカが張りつける日本人のオリエンタリシスティックなイメージに乗っかった小説だから、非常に売れたというわけで す。それから、家田荘子のイエローキャブ問題です。家田荘子は暴露主義的なジャナーリストですが、これは事実関係よりも、海外に出る日本の独身女性はほと んど皆白人の男をあさりに行くというロジックです。そういうロジックをステレオタイプ化すると、ステレオタイプに当たらない人もいっぱいいるわけですか ら、問題が起こるのは当然です。
イエローキャブという「隠語」は、アメリカで外国人男性をもてあそぶだけではなくて、日本の米軍基地で、具体的に言うと黒人をあさって、セック スの 対象にする現象をかつては指していたですが、アメリカの一部の人類学者の間ではよく知られる存在となっていまして、イエローキャブと呼ばれるような人たち にインタービューをし て、セックスの上でおもちゃにするがゆえに、実は日本人は外国人差別をしているという論を立てる人たちもいました。これは、アメリカのリビジョニストと言 わ れるような人たちに特徴的な議論の立て方ですけれども、そういう人たちというのは、日本とアメリカは違う、アメリカ人は合理的だけれども、日本人はどこか おかしいところがあると。そのときに日本のオリエンタリズム、刀であるとか、日本の伝統的な風習とかしきたりというものが動員されて、合理的な説明のほか に、バックステージでステレオティピックなものを再生産するということがあるわけです。
この問題は、日本人がアイデンティティーを傷つけられて不快感を感じるだ けではなくて、我々自身がアジアの人たちにオリエンタリズムを再生産 しているところは、非対称な関係ですが、それ自体が補完的な位相のもとにあります。
例えば、九州方面の大学では、国際化社会に向けて学問をするというときに、東 アジア学というわけのわからない学問をつくるわけです。物象化論 等で有名なマルクス主義哲学者であった廣松 渉も、癌で死ぬ前には、朝日新聞の「論壇」に今はやっぱり東アジアだとか、わけのわからないことを書いていま したけれども、九州圏内では、研究機関とか、県、市町村レベルで国際化しようとした ときに、我々は東アジアを向いているというロジックを立てるわけです。 ところが、そこには自分たちも東アジアの一員であるというロジックが欠けていて、自 分たちは東アジアを見れる、東アジアの人たちを留学等で引っ張ってき て、東アジア学を教えることができるということで、東アジアのハブになろうというよりも、東アジア学を構築し、それを彼らに伝えようと、見方によっては非 常に思い上がったロジックを作り上げてしまいます。そういう視点は、日本人の一種の白人化というか、かつてギブ・ミー・チョコレートの時代 に非常に傷つけられたアイデ ンティティーを今ここで何とか回復しようとしているというのは、過激な言い方かもしれませんが、そういう部分もあるのではないかと思います。
それと同時に、変更可能なアイデンティティーを、なぜある社会的な集団にカテゴライズして話をするのか。これは、「日本人論」論という観点か ら見れば、非常におもしろいです。アジア圏内で、こういう議論が好きなのは日本と韓国で、韓国の研究者に会っても、恨の文化とか、縮み志向とか、割と自分 たちのナショナルキャラクターを議論するのが好きです。しかし、朝鮮民族という概念を立てたとしても、北朝鮮に住んでいる人たちもいれば、中国には朝鮮族 という人たちがいるし、日本の在日朝鮮・韓国人は70万人ぐらいですが、アメリカには 100万人ぐらいいるらしいですね。そういう民族の越境はどんどん起こっているし、ハイブリダイゼーションが起こっている。同時に、日本人やエスニックな 人たちが自分たちはこうだという再生産もしているわけですが、再生産した結果というのは、その時間と空間におけるローカルな主張で、そういうものが普遍化 するという問題が常にあります。
というわけで、我々がもしハイブリッドなアイデンティティーを持つなら ば、日本人論という議論には結論がないというのが私の結論でございます。
◆クレジット:池田光穂:アイロニーは反省のための鏡である——「ハイパーな、あ まりにハイパーな日本“原人”論」
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