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研究史で追いかける水俣病事件

Minamata disease, a type of poisoning caused by The Chisso Corporation's mercury pollution: A Research History


下線は《熊 本大学附属国際人文社会科学研究センター:学際的研究資源アーカイブ領域へのリンクです!!!
1.水 俣病に関する熊本大学医学部の研究論文・研究報告書・著書等の目録(熊本大学附属図書館)
2.新 聞記事見出しによる水俣病関係年表(熊本大学附属図書館)

池田光穂

Minamata disease, a type of poisoning caused by The Chisso Corporation's mercury pollution: A Research History, in Japanese. English version will be presented near future.

水俣病の歴史の主人公は、被害者と後に明 らかになる加害責任者(チッソ・県・国家)である。しかし水俣病の歴史は水俣病研究の歴史でもあ る。

歴史を風化させないためにも、また歴史は 終わったと嘯(うそぶ)き、水俣病を忘却の彼方に追いやってしまう流れに抗して、水俣病の研究史を 追いかけよう。

ここでの年表化は、限られた資料にもとづ く「初めの1ページ」にすぎない。皆さんがさまざまな資料をつなぎ合わせて、水俣病の研究史を、そ の時代にふさわしいものに再構成してください。

本サイトは、上掲の、《熊 本大学附属国際人文社会科学研究センター:学際的研究資源アーカイブ領域へのリンクです!!!》とは、無関係の個人と所属先によるものですが、そ の研究の意義ならびにモラルサポートのためにリンクを張るものです。ご自身の責任においてリンクしてください。


1865年 「ロンドンの聖バー ソロミュー病院で1865年に世界最初に起きたメチル水銀中毒症の症候群」の事件(命名は入口紀男先生による)

1906年 野口遵(のぐち・したがう, 1873-1944)、曾木電気株式会社創立。

1908年 日本カーバイド商会と合併 し、日本窒素肥料を設立。石灰窒素・硫安の製造に成功。

1914年 第1次世界大戦勃発。イギリ スからの硫安の輸入が途絶し、硫安の需要の激増で、市場価格は3倍近くに急騰した(〜1918年)

1921年 野口遵、訪欧し、カザレー法 アンモニア合成技術の導入を決める。ニトロセルロース(綿火薬の原料)の製造を手がけ、軍需基幹産業に 転換。

1925年 6月、朝鮮総督府から蓋馬高 原の鴨緑江支流の赴戦江の水利権を得て、20万kWの赴戦江発電所を建設する。

1926年 1月に朝鮮水電株式会社設 立。

1927年 5月朝鮮窒素肥料株式会社を 設立する。

1932年 日本窒素肥 料会社水俣工場でアセトアルデヒドの生産開始

1933年 5月朝鮮水電株式会社は、長 津江、1937年1月虚川江の電源開発に着手する。

1937年 「8月には水豊発電所の建設 に着手したが、堰堤900m、高さ106m、貯水湖の広さ345km2と、霞ヶ浦の2倍、人造湖として は当時世界第2位の規模であった。水豊発電所の70万kW設備は1944年には殆ど完成していたが、第2期70万kWの設備は工事半ばにして敗戦を迎え た」ウィキ「日窒コンツェルン」。

1940年 ソウルで野口遵、脳溢血で倒 れる。これ以降実質的に実業界引退(1944年死亡)

1941年 塩化ビニル生産が開始。

1942年 最初の?患者発生(患者死亡 後に推定)

1945年 までに、朝鮮半島「興南地区 には、朝鮮窒素肥料など10社を超える子会社、関連会社が設立され、面積は1980万m2、従業員は4 万5千人、家族を含めた総人口は18万人に達していた」。しかし、「1945年の敗戦により事業半ばに終わった。主要拠点である朝鮮の資産など、全財産の 8割を喪失し、GHQの財閥解体令を待たずに日窒コンツェルンは実質的に瓦解した」共に、ウィキ「日窒コンツェルン」)

1955年

1956 年

1957年 

1958年

1959 年 

1960-61年 水俣病総合調査研究連 絡協議会が発足(経済企画庁・通産省・厚生省・水産庁)

1960年

1961年 胎児性水俣病の確認

1962

1963年

1964年 

1965年 6月新潟大学、阿賀野川流域 における新潟水俣病第二水俣病)の発見。

1966年 熊本大学水俣病研究班・忽那 将愛(くつなまさちか)編『水 俣病:有機水銀中毒に関する研究』熊本大学医学部, 449pp. 1966年3月

1967年 武谷三男『安全性の考え方』 岩波新書で、水俣病をとりあげる。

1968年 

1969年 6月熊本水俣病裁判開始

1970年 

1971年

1972年 原田正純『水俣病』岩波新書

1973年

1975年 宮本憲一ほか『世界の公害地 図(上・下)』岩波新書

1987年 第三次訴訟(熊本地裁)で、 水俣病発生に関する国と県の責任を裁判所は認める。

1995年「政府、水俣 病の未確認患者問題につき最終解決策を決定。村山首相、原因の確認・企業への対応の遅れを首相として初めて陳謝。国の法的責任には触れず」

2009年7月:水俣病被害者の救済及び 水俣病問題の解決に関する特別措置法(通称:水俣病救済特別措置法)成立。

2010年4月16日:水俣病被害者の救 済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法の救済措置の方針を閣議決定


猫の墓:水俣病センター相思社の敷地のなかにあります (クリックで拡大します)

リンク

文献

関連リンク(サイト内)

関係リンク(サイト外)2007年11月 19日現在