Aspects of the Body in Gender
Theory
The First
Supper 1988 acrylic on panel, 120 x 240 cm by Susan Dorothea White,
1941-
『ジェンダー事典』(丸善, 2024年刊行)から の依頼に答えるための研究ノートです。当初以来の項目提案「身体観とジェンダー(仮題)」→僕は「ジェンダー論における身体の位相(のちに「身体観」に変更)」に変更するつもりであ る。執筆の留意事項:西洋近 代身体観(13章)の記載があるために13章参照の注釈が必要となる場合が ある。(身体観における)男性中心主義をどう身体に位置づけるか。病いの逸脱、周縁化、非西洋身体観との比較が必要(→「研究構想ノート: ジェンダー論における身体の位相」はこちらです)[body_perspective2024.pdf]。
★ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』のポータルページはこちらです!!!はじめに |
【旧原稿】 ジェンダーとは社会的性別であり、生物学的性別であるセックスと は異なった概念である。また身体観とは、その人が住んだり育ったりした社会や文化により影響を受ける人びとの身体に関するイメージや感覚経験のことであ る。さて人類史の長いあいだジェンダーに影響をうけた身体観は、男のものか女のものか、いずれかものであると思われてきた。これを男女の二元論的区分と呼 んでおこう。しかし現代では、ジェンダー/セックスにおけるクイア(LGBTQ +)という第三のカテゴリーの登場以降、身体観を男女で分けることには限界が生じてきた。これは、セクシュアリティの経験の記述においても同様である。ま た今日では身体観は社会文化的なものというよりも個々人のアイデンティティと深く関わるものであり文化による多様性に加えて、当事者たちの生活の歴史や日 々の経験の多様性を尊重するようになってきた。そのためにここではジェンダーの意識がどのように身体を形作るのかということに焦点をおいて記述する(→「研究構想ノート: ジェンダー論における身体の位相」)。 |
【改稿原稿】 ジェ ンダーとは社会的性別であり、生物学的性別であるセックスとは異なった概念である。また身体観とは、その人が住んだり育ったりした社会や文化により影響を 受ける人びとの身体に関するイメージや感覚経験のことである。非西洋近代社会における人類史の長いあいだにみられた身体観は、西洋近代社会が齎した男女の 二元論的区分とは異なった多様な認識を持っていた。また後者の社会でも、ジェンダー/セックスにおけるクイア(LGBTQ)という第三のカテゴリーやジェ ンダーフルイドという性自認が流動的な思春期を中心した子どもたちの登場以降、身体観を男女で分けることには限界があり、さまざまな社会的軋轢があり、新 しい身体観の模索は喫緊の課題となっている。 |
【さらなる改稿】 ジェンダーとは社会的性別であり、生物学的性別であるセックスとは異なった概念である。身体観とは、その人が住んだり育ったりした社会や文化により影響を 受ける人びとの身体に関するイメージや感覚経験のことである。人類史の長いあいだにみられた身体観は、西洋近代の到来がもたらした男女の単純な二元論的区 分とは異なる多様なものがあった。現在では、ジェンダー/セックスにおけるクイア(LGBTQ)という第三のカテゴリーやジェンダーフルイド(社会的性別 の流動性)という性自認が可変的な思春期を経験することは、人間の「自然なあり方」と認識されるようになった。ジュディス・バトラーの著作『ジェンダー・トラブル』が指摘するように、ジェンダーは、女性・男性・その他のさ まざまな性別の個々の身体に対して、「そうなるべき主張を実践すること(=パフォーマティブな行為)」の結果の産物である。つまり私たちの「生身の身体」 は、つねに「ジェンダー化」されているという認識を自覚することが重要である。そうすることで現代の私たちの身体観のより深い理解が可能になる。 |
出産・中絶・自己決定権 | 女の身体は長く出産・中絶・自己決定権をめぐって論争の渦中におかれて きた。男の身体に対して女の身体はおしなべて文化や社会のなかで管理対象にされ、時に祝福されることもあるが多くは監視制限され時にはタブー視されてき た。つまり、初潮・月経・妊娠・出産・育児そして閉経までのライフサイクル(生活史)は、あくまでも自然なものであり、男よりも自由度が少なく、しばしば 劣等視され、女の身体は長く管理対象になってきた。出産のための女の身体は男の医師や研究者により研究対象にされ、女のマスターベーションは男のそれより も危険視された。その理由は近代産科学が出産のために女の身体は管理されなければならないということに根ざしていた。そのため人工妊娠中絶が女の自己決定 のための権利であるという主張がなされた時、家父長制を是とする社会はその女性の権利を生命の尊厳(pro-life)に対する挑戦であると受け止めた。 そして自己決定権を主張する女たちを中絶を選択する権利(pro-choice)の主張だと決めつけたが、これは女の身体は女による自己決定権があり、そ れは男性のそれと同等にせよという彼女たちの真の要求を適切に表現するものではない。 | 男
女の身体は長く出産・中絶・自己決定権をめぐって論争の渦中に置かれてきた。男の身体に対して女の身体はおしなべて文化や社会の中で管理対象にされ、時に
祝福されることもあるが、多くは監視制限され、時にはタブー視されてきた。初潮・月経・妊娠・出産・育児そして閉経までのライフコースは、あくまでも自然
なものであり、男よりも自由度が少なく、しばしば劣等視され、女の身体は長く管理対象になってきた。出産のための女の身体は男の医師や研究者により研究対
象にされ、女の自慰は男のそれよりも危険視された。その理由は近代産科学が出産のために女の身体は管理されなければならないということに根差していた。そ
のため人工妊娠中絶が女の自己決定のための権利であるという主張がなされたとき、家父長制を是とする社会はその女性の権利を生命の尊厳に対する挑戦である
と受け止めた(→「中絶」「セクシュアル・リプロダクティブ・ライツ/ヘルス」)。これらの考え方の変遷は、伝統的の民俗的身体観やローカル・バイオロ
ジー、さらには近代西洋医学の専門的あるいは民衆に解釈された理解や実践知を通して、複雑な現地化をとげている。 |
●出産・中絶・自己決定権 男女の身体は久しく出産・中絶・自己決定権
をめぐって論争の渦中に置かれてきた。男の身体に対して、女の身体は文化や社会の中で管理対象にされ、時に祝福されることもあるが、多くは監視制限され、
時にはタブー視されている。初潮・月経・妊娠・出産・育児そして閉経までのライフコースは、あくまでも自然なものであり、男よりも自由度が少なく、しばし
ば劣等視され、女の身体は長く管理対象になってきた。出産のための女の身体は男の医師や研究者により研究対象にされ、女の自慰は男のそれよりも危険視され
た。出産のために女の身体は科学により管理されなければならないからである。それゆえ人工妊娠中絶が女の自己決定のための権利であるという主張は、家父長
制を是とする社会はその女性の権利を生命の尊厳に対する挑戦であると見なされる(→「中絶」「セクシュアル・リプロダクティブ・ライツ/ヘルス」)。 |
こころの科学と女のセクシュアリティ | 女のセクシュアリティと欲望を理解する上で女の概念は極めて重要であ
る。フロイトのリビドー発達論では、女は性欲動の対象とされており、その結果フェミニスト精神分析にはさまざまな解釈が生じた。しかしフロイトはその理論
において男女のセクシュアリティの非対称性によりも、性的な発達には多様なあり方があり、共通の困難を克服した後の人間の生き方には多様な広がりがあるこ
と指摘している。フロイトは、男女には両性的な身体的性質があり、彼らの欲望には多形倒錯的素質、すなわち人間そのものではなく、むしろ身体のパーツや物
質やシンボルにすら性的興奮を覚え、それが各人が生きるため重要なエネルギーの要素になるという複雑な過程を指摘している。フロイトの理論はさまざまな論
争を経て、20世紀後半にジャック・ラカン影響をうけて現代社会を考察する理論にまで発展した。ファロセントリズム(男根中心主義)は男根(ペニス)とい
う言葉が使われて聴いた人の誰しもが最初はびっくりするが、家父長制のなかにみられる男性性の優位性や女性性の不在(あるいは欠損)をあらわし、男女間の
権力の不平等や男による女の支配という厳然たる事実を説明するために考案された理論用語である。 ※フロイト理論にとって男性にとっては女性は対象であり、女性の身体(主体)は男根願望とヒステリーの構成主体というビジョンをブロイラーから受け継い だ。そのため後に精神分析的フェミニズム(Psychoanalytic Feminism)は、大きな困難に立ち向かうことになる。 |
女
のセクシュアリティと欲望を理解する上で女の概念はきわめて重要である。ジークムント・フロイトのリビドー発達論では、女は性欲動の対象とされており、そ
の結果フェミニスト精神分析にはさまざまな解釈が生じた。フロイトは、男女には両性的な身体的性質があり、彼らの欲望には多形倒錯的素質、すなわち人間そ
のものではなく、むしろ身体のパーツや物質やシンボルにすら性的興奮を覚え、それが各人が生きるため重要なエネルギーの要素になるという複雑な過程を指摘
している。フロイトの理論はさまざまな論争を経て、20世紀後半にジャック・ラ
カン影響を受けて現代社会を考察する理論にまで発展した(→「フェミニズム
精神分析」)。 |
●こころの科学と女のセクシュアリティ 女のセクシュアリティと欲望を
理解する上で女の概念はきわめて重要である。ジークムント・フロイトのリビドー発達論では、女は性欲動の対象とされており、その結果フェミニスト精神分析
にはさまざまな解釈が生じた。フロイトは、男女には両性的な身体的性質があり、彼らの欲望には多形倒錯的素質、すなわち人間そのものではなく、むしろ身体
のパーツや物質やシンボルにすら性的興奮を覚え、それが各人が生きるため重要なエネルギーの要素になるという複雑な過程を指摘している。フロイトの理論は
さまざまな論争を経て、20世紀後半にジャック・ラカン影響を受けて現代社会を考察する理論にまで発展した(→「フェミニズム精神分析」)。 |
身体のジェンダー・コロニアリズム | コロニアリズ ムとは植民地主義のことであるが、欧米や、やや遅れて日本 が、自分たちの領土以外の土地や人間に武力あるいは経済力をもって進出、侵略して支配下におくことである。驚くべきことに、ジェンダー論の観点からは、侵 略する側は男に、侵略される側は女として表現されることが多く、侵略はしばしば同意あるいは非同意を問わず性行為の例えとして表現される。アニメーション になったこともある「ポカホンタスの物語」は、イギリス人の男と北米先住民の女のロマンであり、歴史的大虐殺として記憶されている南京大虐殺を描いたルポ ルタージュは『南京への強姦(The Rape of Nanking)』と題される。つねに論争が絶えない旧日本軍の「従軍慰安婦」においても戦う男の兵士と戦闘のストレスを「慰安する」女の関係の中に位置 づけられる。このことは、こころの科学におけるファロセントリズムの理論を使って解釈、分析されることが待たれている課題である。 | コ
ロニアリズムとは植民地主義のことであるが、欧米や、やや遅れて日本が、自分たちの領土
以外の土地や人間に武力あるいは経済力をもって進出、侵略して支配
下に置くことである。。ジェンダー・コロニアリズムでは、侵略する側は男に、侵略される側は女として表現されることが多く、侵略はしばしば同意あるいは非
同意を問わず性行為の喩えとして表現される。アニメーションになったこともある「ポカホンタスの物語」は、イギリス人の男と北米先住民の女のロマンであ
り、歴史的大虐殺として記憶されている南京大虐殺を描いたルポルタージュは『南京への強姦』と題される。常に論争が絶えない旧日本軍の「従軍慰安婦」にお
いても戦う男の兵士と戦闘のストレスを「慰安する」女の関係の中に位置付けられる。これらの問題は簡単に歴史的反省をすれば解決するような類のものではな
い。政治的コロニアリズムが被征服者たちを嫌悪することを通して排除するように、トランスセクシュアルへの差別はそのような身体領域への嫌悪症(フォビ
ア)をそれぞれの文化的ステレオタイプの形で表現する。アメリカ合衆国バージニア州ではジェンダーフルイドの生徒に学校の女子トイレの利用を裁判所が認め
たが、その後、この性認識を主張するある少年が同級生に対して性的暴行事件を起こしたことで、性自認そのものが間違いであると主張する保守派の保護者たち
が、最初の前提であるジェンダー・コロニアリズムの枠組みそのものを復活させようとしている。 |
●身体のジェンダー・コロニアリズム コロニアリズムとは植民地主義の
ことであるが、欧米や、やや遅れて日本が、自分たちの領土以外の土地や人間に武力あるいは経済力をもって進出、侵略して支配下に置くことである。ジェン
ダー・コロニアリズムでは、侵略する側は男に、侵略される側は女として表現されることが多く、侵略はしばしば同意あるいは非同意を問わず性行為の喩えとし
て表現される。アニメーションになったこともある「ポカホンタスの物語」は、イギリス人の男と北米先住民の女のロマンである。大量殺戮として歴史的に認定
されている南京大虐殺を描いたルポルタージュは『南京への強姦』と題される。常に論争が絶えない旧日本軍の「従軍慰安婦」においても戦う男の兵士と戦闘の
ストレスを「慰安する」女の関係の中に位置付けられる。これらの問題は簡単に歴史的反省をすれば解決するような類のものではない。植民地主義(コロニアリ
ズム)が支配される非白人を政治的に排除するだけでなく心理的に嫌悪し排除するように、トランスセクシュアルへの差別はそのような身体領域への嫌悪症
(フォビア)をそれぞれの文化的ステレオタイプの形で表現する。アメリカ合衆国バージニア州では性認識が流動的な生徒に学校の女子トイレの利用を裁判所が
認めたが、その後、この性認識を主張する「少年」が「少女」の同級生に対して性的暴行事件を起こした。その際に性自認そのものが間違いであると主張する保
守派の保護者たちが、裁判所の認定は誤りであり男女のトイレの厳格な峻別というジェンダー・コロニアリズムの枠組みそのものを復活させようとした。 |
ジェンダーと身体の未来 | それぞれの文化に属する男と女の身体観は、その社会や文化が大きな影響 を与えて共通の価値観をもち、異文化のそれらとは対照的であると言われてきた。例えば、マーガレット・ミードは、私たちの社会にみられる男は勇敢で女は嫋 (たお)やかな男女の性質は、パプア・ニューギニアのチャンブリ社会では女が勇敢で、男が嫋やかであるが、ミードは、それは男女の育てられ方の違いであ り、遺伝子の違いで、男らしさ女らしさが決まるのではないと主張した。しかし、これは本項の冒頭で述べた男女の二元論的区分の説明を超えるものではない。 しかし、現在では性同一性のアイデンティティの多様性を尊重する傾向があり、心理カウンセラーはそのなかで引き裂かれる思春期の子どもたちいには、当事者 に寄り添うかたちでケアに携わるように対応している。そこでのキーワードは「自分らしさの発見」である。ほんのすこし前までは、男らしさ・女らしさの二元 論を押し付けてきた流れが一気に変化したようである。だが、そのようななかで保守性を取り戻したい一部の教育者の間では、この人間論に回帰する動きもあ る。/つまり多様性のあるセクシュアリティの尊重という多数派の動きは、保守的な男女の身体観への脅威になり、それを後者の集団は取り戻そうとするために 身体観はもはや文化の問題ではなく政治的な問題になりつつある。 | そ
れぞれの文化に属する男と女の身体観は、遺伝的な違いではなく、育て方で男女のセクシュアリティの違いに大きな影響を与えて、時に西洋社会からみれば正反
対の男女の性格形成をすると文化人類学者は主張してきた。マーガレット・ミードが1930
年代に調査をおこなったパプア・ニューギニアのチャンブリ社会で
は、男らしさ/女らしさが、西洋社会のそれと「正反対」だと長く主張されてきたが、現在では、調査項目の選別が恣意的であったと批判されている。現地社会
のジェンダー意識を観察を通して客観的に明らかにする文化人類学者もまた自分たちがもつ心理的なジェンダーバイアスの影響を与える好例であるといえる。現
在の思春期のカウンセリングに関わる心理学者や精神分析家は、性同一性のアイデンティティの多様性を尊重する傾向があり、現代社会の性的二元論中で引き裂
かれる子どもたちに、当事者に寄り添うかたちでケアに携わるように対応している。そこでのキーワードは「自分らしさの発見」である。ほんの少し前までは、
男らしさ・女らしさの二元論を押し付け、社会に適応できるように性意識を当事者ではなく、社会の基準に合わせるようにしてきたこととは好対照である。多様
性のあるセクシュアリティの尊重という多数派の動きは、保守的な男女の身体観への脅威になり、それを後者の集団は取り戻そうとするために身体観はもはや文
化や心理の問題ではなく政治的な問題になりつつあるのだ。 |
●ジェンダーと身体の未来 それぞれの文化に属する男と女の身体観は、
遺伝的な違いではなく、育て方で男女のセクシュアリティの違いに大きな影響を与えて、時に西洋社会からみれば正反対の男女の性格形成をすると文化人類学者
は主張してきた。マーガレット・ミードが1930年代に調査をおこなったパプア・ニューギニアのチャンブリ社会では、男らしさ/女らしさが、西洋社会のそ
れと「正反対」だと長く主張されてきたが、現在では、調査項目の選別が恣意的であったと批判されている。現地社会のジェンダー意識を観察を通して客観的に
明らかにする文化人類学者もまた自分たちがもつ心理的なジェンダーバイアスの影響を与える好例であるといえる。現在の思春期のカウンセリングに関わる心理
学者や精神分析家は、性同一性のアイデンティティの多様性を尊重する傾向があり、現代社会の性的二元論中で引き裂かれる子どもたちに、当事者に寄り添うか
たちでケアに携わるように対応している。そこでのキーワードは「自分らしさの発見」である。多様性のあるセクシュアリティの尊重という多数派の動きは、保
守的な男女の身体観への脅威になり、それを後者の集団は取り戻そうとするために身体観は今や文化や心理の問題ではなく、まさに速やかに解決が求められる政
治的問題になりつつあるのだ。 |
San Sebastian, by Amdrea
Mantegna. |
Bertram of Minden ca.
1340 – 1414/15 The creation of Eve mixed techniques on panel (84 × 56 cm) — 1383 |
【古典理論の再読と再解釈】
【2002】◎ジェンダー化される身体 / 荻野美穂著, 勁草書房 , 2002→「ジェンダー二元論の規範の中で、“女”や“男”の身体はどのように生き、抵抗してきただろうか。生物学的宿命論もバトラー流の幻想論も拒否し て“女”の身体にこだわる。序章 性差を持つ身体の構築 第1章 性差の歴史学—女性史の再生のために 第2章 産むも地獄、産まぬも地獄の… 第3章 身体史の射程—あるいは、何のために身体を語るのか 第4章 女の解剖学—近代的身体の成立 第5章 フェミニズムと生物学—ヴィクトリア時代の性差論 第6章 男の性と生殖—男性身体の語り方 第7章 子殺しの論理と倫理—ヨーロッパ社会史をもとに 第8章 「堕ちた女たち」—虚構と実像 第9章 性の衛生学—ヴィクトリア朝の買売春と性病 第10章 美と健康という病—ジェンダーと身体管理のオブセッション」
【1987】◎アードナー、エドウィン他『男 が文化で、女 は自然か?:性差の文化人類学』(山崎カヲル監訳)晶文社、1987年→「フェミニスト人類学の流れ : はじめに / 山崎カヲル [執筆] 信仰と「女性問題」 / エドウィン・アードナー [執筆] ; 三宅良美訳 男性は文化で、女性は自然か? / ニコル=クロード・マチウ [執筆] ; 越智慶子訳 女性と男性の関係は、自然と文化の関係か? / シェリ・B・オートナー [執筆] ; 三神弘子訳 「女性問題」再考 / エドウィン・アードナー [執筆] ; 山崎カヲル訳 女性・文化・社会 : 理論的概観 / ミシェル・Z・ロサルド [執筆] ; 時任生子訳 自然・文化・性 : 批判的考察 / キャロル・P・マコーマク [執筆] ; 三宅良美訳 自然でも文化でもなく : ハーゲンの場合 / マリリン・ストラザーン [執筆] ; 木内裕子訳」
【身体観】
身体観(body
concept)とは、病気観と同様、対象になった人たちに共
有されている「身体」に関する見方を説明し、かつその社会に含まれる「身体」の隠喩的な連関から構成される論理の体系のことである。身体観もまた「身体に
関する民俗的理論」と言えるが、身体は生身の身体である個人的身体(individual body)の他に、社会的身体(social
body)、政体=政治形態(body
politique)という広がりをもつ(M・ロックとN・シェイパー=ヒューズの主張)。それゆえ身体観に関する諸民族の議論は古代文明の時代からの長
い歴史と伝統をもっている。このように身体は具体的な境界をもつためにその概念が拡張された議論のジャンルがあり、医療人類学ではこれを身体化=具体化
(embodiment)の議論と呼ぶ。
とりわけ生物医学の病気観と伝統社会の病気観が対比され、議論される際には、前者の伝統のなかで決定的な影響をもたらしたデカルト(Rene
Descartes,
1596-1650)の心身二元論について「西洋近代の身体観」の検討が不可欠である。ただしデカルト自身は当時のカソリック教会からの異端審問を避ける
意図もあり明確にこれを主張せず、彼の死後になってはじめて、認識をする「心」と延長をもつ実体として分析可能な「身体」を明確に分離する「デカルトの思
想」なるものが定着したという見方が妥当である。
自分たちの身体や心をどのように観て、どのように感じ、そしてどのように考えるのかという観点については、その民族が慣れ親しんだ社会や文化によってし
ばしば共通点が見られる。
例えば、ラテンアメリカ人は対人関係における自分自身の心の不安を「神経([西]nervio,
[葡]nervo)」という実体に帰して周囲の人に病気であることを訴える。ジャワにおけるラター(latah)とは、突如として卑猥あるいは口汚い言葉
を吐く状態であるが、当人以外には好ましいものとは見なされていないが、かといって治療しなければならない病気とも見なされない。ジャワにおける社会対人
関係の慎み深さからみると、病理とされないことが不思議である。不躾なラターの状態は、ジャワの民族文化の中では寛容されている。肩凝りは、日本人や長期
滞在の在日外国人が持つ固有の身体表現である。そのため人および機械によってマッサージされることに、癒される経験を持つ人が多い。このことは、我々日本
人にとっては、何の疑いもなく経験・理解していることなので、発達成長の中でどのようにして私たちの共通の身体の経験や認識を形作るのか当事者の説明だけ
では分かりにくい。しかし、日本在住が長ければ民族差を超えて共通の経験をもつことが可能になるために、この身体疲労表現は学習可能な身体経験なのであ
る。それゆえこれらは参与観察を含む民族誌的考察が必要になる好例である。
認知科学や進化心理学は文化的差異を「変数」として取り扱い病気観や身体観の形成の「メカニズム」を明らかにしつつあるように思われる。しか
しながら、
これには実験的事実を積み重ねれば合理的に説明できる「はず」という論理的前提が含まれている。他方、人類学的説明では、偶発的な出来事や無根拠な事実が
歴史記憶として常識化するような「社会的事実」に関する文化の解釈や理解に力点を置くために、前者との間にはどうも深い溝があるようだ。
リンク
文献