ジェンダー
Gender as one of sociological categories
解説:池田光穂
社会的文化的な性別のこと。生物学が定義 する性別(セックス、sex)と区別し、 その当該社会が定義する社会的性別すなわち、その社会が定義する女らしさ/男らしさにもとづく社会的区分をジェンダー(gender)という。
常識的に考えればわかることだが、生物学という科学で使われている性別 (すなわちセックス)も、その科学者たちが属する社会のジェンダー意識 (=イデオロギー)か ら影響を受けている。し たがって、ジェンダーとセックスにわける二分法そのものが、「良識ある理解をする男性の視点」から生まれているのではないかという批判がある。とりわけ、 女性のセックスとジェンダーとセクシュアリティは、男性中心的な社会により定義された複合体にほからないとゲイル・ルービン(1975)は批判して「セッ クス/ジェンダー・システム」あるいは「セックス/ジェンダー/セクシュアリティ・システム」という概念を提唱している(→「セックス/ジェンダー/セクシュアリティ・システム」)
工学では、プラグ(交接するもの=性行為 の隠喩)の形状において、尖っているもの(すなわちペニスの形態的特徴)をオス、引っ込んでいるもの (膣や子宮の形態的特徴)と呼び「そのジェンダーはどちらですか?」と問い合わせることがある。
セックスの科学である生殖を研究する者も また社会的なジェンダー区分の影響を受ける。例えば、植物の雄しべ(stamen, 多数の花粉pollenを有する)と雌しべ(pistill, 雌ずい genoecium)の区分は、植物の生殖が動物のそれとかなり異なっているにもかかわらず、男女の区分が投影されている。あるいは、動物の性的二型とよ ばれる形態の差違は、雄が大きく、メスが小さいという固定観念を我々がもつために、蛙の交尾における大きな蛙を「じつはメスなんですよ〜」と言わなければ ならないはめになる。
トイレの表示におけるスカートとズボンの区別や、赤と青の区分は、典型的 なジェンダー意識が投影されたもので、生物学的性別の根拠とは全く関係 性を持たない——女性には月経があるから赤であるという主張は巷説民俗学的説明としては興 味深いが科学的には何の根拠もない。
また、文法概念にでてくる、男性名詞/女性名詞のジェンダー区分も、その
名詞が指し示すもの(シニフィエ)の本質とは何の関係もない。
生物学的性別(セックス)も、ジェンダー 区分からの影響を完全に払拭できないので、セックスの区分なども厳密にはできないという過激な主張があ るが、これはジェンダー区分など糞食らえと過信するがゆえの誤謬(=予言の自己成就)である。オス/メスやジェンダー的メタファーを使わなくても生物の生 殖現象は科学的に説明できるからである。ただしその科学のノーマライゼーションは極 めて煩瑣でそれ(=汚れ仕事)に着手する馬鹿は現在までいない。
概念操作としてセックスとジェンダーの区分が大切なのは、ジェンダーが セックスによって本質的に規定されている虚構をあばき、ジェンダーに関する議論にセック ス決定論を排除することができるようになったからである。
ジェンダーフリーの発想が、社会によって好ましいと考えられるのは、ジェ ンダー区分により人間の生き方の選択において自由が制限され、またジェ ンダー区分による社会的排除を極小化するためである。その点で、ジェンダーとセックスは別ものであり、ジェンダー区分の逸脱・改変・創造と いうプロセスに セックス区分を僅かでも導入することは無意味なだけでなく、危険である。
「性別には、ジェンダーとセックスと いう、社会的性別と生物学的性別の2つの区別があるが、ジュディス・バトラーらの主張によると、我々は社会的存在であり、いくら自然科学の客観・中立な立 場を表向き取ろうとも、研究者ですら、日常の社会的性別(ジェンダー)の認識論的枠組みの影響を受けているため、言語という社会的コミュニケーションを とっている限り、セックス(生物学的性別)は、当該社会におけるジェンダー区分の影響やイデオロギーから自由になれないだろうという。また、そのような議 論の枠組みを踏襲すれば、社会的性別ないしは文化的性別(ともにジェンダー)すら、生物学的性別(セックス)の峻別や、それらの差異についてのメタファー を生物学的性別の概念から借りてくるために、ジェンダーとセックスの境界における明確な峻別が可能であると主張することも幻想である。社会的性別は、生物 学的性別の影響を受け形成し、生物学的性別は社会的性別の概念形成に影響を与えているからである」(→「セ クシズ ム」)。
このことを踏まえて、クイア人類学者のゲイル・ルービンは、
ジェンダーを「社会的に課せられた男女の分断である」とまで、主張している(Rubin, Gayle. The Traffic in Women.
Literary Theory: An Anthology. Ed. Julie Rivkin and Michael Ryan. 2nd
ed. Malden, MA: Blackwell, 2004. 770–794.)
◎1970年以降のジェンダーとセクシュアリティ理 解の歴史的展開.
シ スジェンダー(Cisgender)とは、性自認(自己の性をどのように認識しているか)と生まれたときに割り当てられた性別が一致して いる状態のことをさす。生まれた時に女性とみなされ(例:出生登録され)、現在の自分自身も女性と認識している人は、「シスジェンダー女性」であり、両方 とも男性の場合は「シスジェンダー男性」である。トランスジェンダーとは、それぞれの性別がクロスしている場合であり、そのために「トランスジェンダー女 性」ならびに「トランスジェンダー男性」と呼ぶことができる。社会の恋愛や結婚が、「シスジェンダー女性」と「シスジェンダー男性」の組み合わせや結合で なければならないと考えるのが「強制異性愛」制度というもので、多くの社会はこのシステムが動いている。「シスジェンダー女性」と「シスジェンダー男性」 の組み合わせをセクシュアリティの観点からみると、こ れはそれぞれの「シ スジェンダー女性」と「シスジェンダー男性」の間の性器結合を「ノーマル」とするものが基本になる。1970年以降の欧米を中心とした性革命は、それに大 きなゆさぶりをかける。フェラチオやクリニングスは、外性器以外の身体の部分を性器として使うことができる可能性を切り開き(=もちろん以前からあったが 寝室の中での公共性を取り戻した)。また「ソドミー」(=男性同士の性交を意味する侮蔑語)が異性愛や同性愛の性行為のヴァリエーションとして流用される に至る。フィストファッキング(=男根の代わりに拳を使う)もそうであるが、そのような「危険な性行為」も、管理された領域のなかでは可能になる。(ジェ イムズ・ミラーに よると)男性同性愛者であったミッシェル・フーコーは、講演や授業のために訪問したバー クレー等でのカリフォルニアでの滞在中に、(エイズ流行以前の主流であった)男性どうしのオージー(=乱交的)とドラッグカルチャーの「洗礼」を受けるこ とになり、彼の人間理解への洞察におおきな変動を受けて『性の歴史』の第1巻の見解からの変更を余儀なくされた、ないしは、進んで思索の変化を受け入れた と言われる。また、エイズ流行は、当初、北米の男性同性愛者に対する偏見をさらに増加させることになったが、追悼のためのメモリアルキルト運動など親密な パートナーや家族への古典的な親族意識とは異なった「追悼のための紐帯意識」の醸成をうむことになり、最終的には男性同性愛者に対する社会的偏見の変更や 是正を生み出すにいたった。同性婚は、しばしば法的には家族や法的配偶者や法的親族の紐帯の維持のための発案に淵源すると指摘されるが、同時に同性愛者へ の社会的偏見の軽減と、異性婚と同等の権利を保証するための人権概念の「拡張」というものとしての理解可能であるし、また(西欧)社会はそれを受け入れよ うとしている。(→出典)
◎サイドストーリー:「良妻賢母」は性的 分業と、両性の国民的統合を成し遂げるイデオロギーである(小山静子説)
「国民国家や近代家族の成立と不可分な規範として、良妻賢母思想を捉え直す。認識枠組を一新する女性史研究の威力。序 問題視角/ 第1章 良妻賢母思想の成立/ 第2章 良妻賢母思想と公教育体制/ 第3章 転換をもたらすもの/ 第4章 良妻賢母思想の再編/ 第5章 修身教科書にみる良妻賢母像の変遷/ 最後に 良妻賢母思想とは何だったのか」小山静子『良 妻賢母という規範』勁草書房、1991年
◎ジェンダーと身体の未来
それぞれの文化に属する男と女の身体観は、その社会や文化が大きな影響を与えて共通の価値観をもち、異文化のそれらとは対照的であると言わ
れてきた。例えば、マーガレット・ミードは、私たちの社会にみられる男は勇敢で女は嫋(たお)やかな男女の性質は、パプア・ニューギニアのチャンブリ社会
では女が勇敢で、男が嫋やかであるが、ミードは、それは男女の育てられ方の違いであり、遺伝子の違いで、男らしさ女らしさが決まるのではないと主張した。
しかし、これは本項の冒頭で述べた男女の二元論的区分の説明を超えるものではない。しかし、現在では性同一性のアイデンティティの多様性を尊重する傾向が
あり、心理カウンセラーはそのなかで引き裂かれる思春期の子どもたちいには、当事者に寄り添うかたちでケアに携わるように対応している。そこでのキーワー
ドは「自分らしさの発見」である。ほんのすこし前までは、男らしさ・女らしさの二元論を押し付けてきた流れが一気に変化したようである。だが、そのような
なかで保守性を取り戻したい一部の教育者の間では、この人間論に回帰する動きもある。つまり多様性のあるセクシュアリティの尊重という多数派の動きは、保
守的な男女の身体観への脅威になり、それを後者の集団は取り戻そうとするために身体観はもはや文化の問題ではなく政治的な問題になりつつある。
◎バトラー教授のジェンダー・ショート・ レクチャー
Berkeley professor explains gender theory | Judith Butler
読んでおくべき教科書
Nine thesis of Gender Trouble by Judith Butler, 1990
●ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』Butler_gendertrouble_full.pdf
第1章 セックス/ジェンダー/欲望の主体 0_ch01-Butler_gendertrouble.pdf
第2章 禁止、精神分析、異性愛のマトリクスの生産 ch02_Butler_gendertrouble-2.pdf
第3章 撹乱的な身体行為 ch03-Butler_gendertrouble-3.pdf
16. 結論——パロディからの政治へ
(1)Butler criticizes
one of the central assumptions of feminist theory: that there exists an
identity and a subject that requires representation in politics and
language. For Butler, "women" and "woman" are categories complicated by
factors such as class, ethnicity, and sexuality. Moreover, the
universality presumed by these terms parallels the assumed universality
of the patriarchy, and erases the particularity of oppression in
distinct times and places. Butler thus eschews identity politics in
favor of a new, coalitional feminism that critiques the basis of
identity and gender. She challenges assumptions about the distinction
often made between sex and gender, according to which sex is biological
while gender is culturally constructed. Butler argues that this false
distinction introduces a split into the supposedly unified subject of
feminism. Sexed bodies cannot signify without gender, and the apparent
existence of sex prior to discourse and cultural imposition is only an
effect of the functioning of gender. Sex and gender are both
constructed. |
(1)バトラーは、フェミニズム理論の中心的な前提のひとつである、政
治や言語における表象を必要とするアイデンティティや主体が存在するということを批判している。バトラーにとって、「女性」や「女」は、階級、民族性、セ
クシュアリティといった要素によって複雑化されたカテゴリーである。さらに、これらの用語によって想定される普遍性は、家父長制の想定される普遍性と類似
しており、異なる時代や場所における抑圧の特殊性を消し去ってしまう。バトラーはこのように、アイデンティティとジェンダーの基礎を批判する新しい連合的
フェミニズムを支持し、アイデンティティ政治を避けている。バトラーは、セックスは生物学的なものであり、ジェンダーは文化的に構築されたものであるとい
う、セックスとジェンダーの区別に関する仮定に異議を唱えている。バトラーは、この誤った区別は、フェミニズムという統一されたはずの主題に分裂をもたら
すと主張する。性のある身体はジェンダーなしには意味づけられないし、言説や文化的な押し付けに先立つセックスの見かけ上の存在は、ジェンダーの機能の効
果にすぎない。セックスもジェンダーも構築されたものなのだ。 |
(2)Examining the work of the
philosophers Simone de Beauvoir and Luce Irigaray, Butler explores the
relationship between power and categories of sex and gender. For de
Beauvoir, women constitute a lack against which men establish their
identity; for Irigaray, this dialectic belongs to a "signifying
economy" that excludes the representation of women altogether because
it employs phallocentric language. Both assume that there exists a
female "self-identical being" in need of representation, and their
arguments hide the impossibility of "being" a gender at all. Butler
argues instead that gender is performative: no identity exists behind
the acts that supposedly "express" gender, and these acts constitute,
rather than express, the illusion of the stable gender identity. If the
appearance of “being” a gender is thus an effect of culturally
influenced acts, then there exists no solid, universal gender:
constituted through the practice of performance, the gender "woman"
(like the gender "man") remains contingent and open to interpretation
and "resignification". In this way, Butler provides an opening for
subversive action. She calls for people to trouble the categories of
gender through performance. |
(2)哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールとルース・イリガライの仕事
を検証しながら、バトラーは権力とセックスやジェンダーのカテゴリーとの関係を探っている。ド・ボーヴォワールにとって女性は、男性が自らのアイデンティ
ティを確立するための欠落を構成するものであり、イリガライにとってこの弁証法は、男性中心主義的な言語を用いるがゆえに女性の表象を完全に排除する「意
味づけの経済」に属するものである。両者とも、表象を必要とする女性の「自己同一的存在」が存在すると仮定しており、彼らの主張は、ジェンダーが「存在す
る」ことの不可能性を隠蔽している。バトラーはその代わりに、ジェンダーはパフォーマティブであると主張する。ジェンダーを「表現する」とされる行為の背
後にはアイデンティティは存在せず、これらの行為は安定したジェンダー・アイデンティティの幻想を表現するのではなく、構成するのである。あるジェンダー
が「ある」ように見えるのは、文化的な影響を受けた行為の結果であるとするならば、確固たる普遍的なジェンダーは存在しないことになる。このようにして、
バトラーは破壊的な行動のきっかけを提供する。彼女は人々に、パフォーマンスを通じてジェンダーのカテゴリーに問題を起こすよう呼びかけている。 |
(3)Discussing the patriarchy,
Butler notes that feminists have frequently made recourse to the
supposed pre-patriarchal state of culture as a model upon which to base
a new, non-oppressive society. For this reason, accounts of the
original transformation of sex into gender by means of the incest taboo
have proven particularly useful to feminists. Butler revisits three of
the most popular: the anthropologist Claude Lévi-Strauss's
anthropological structuralism, in which the incest taboo necessitates a
kinship structure governed by the exchange of women; Joan Riviere's
psychoanalytic description of "womanliness as a masquerade" that hides
masculine identification and therefore also conceals a desire for
another woman; and Sigmund Freud's psychoanalytic explanation of
mourning and melancholia, in which loss prompts the ego to incorporate
attributes of the lost loved one, in which cathexis becomes
identification. |
(3)家父長制についてバトラーは、フェミニストたちは、新しい抑圧的
でない社会の基礎となるモデルとして、家父長制以前の文化のあり方をしばしば利用してきたと指摘する。このため、近親相姦のタブーによってセックスがジェ
ンダーへと変容した原初的な事例が、フェミニストにとって特に有用であることが証明されている。バトラーは、最も人気のある3つの説を再考する:
人類学者クロード・レヴィ=ストロースの人類学的構造主義では、近親相姦のタブーは女性の交換によって支配される親族関係を必要とする;
そして、ジークムント・フロイトの喪とメランコリアについての精神分析的説明である。この説明では、喪失が自我に、失われた愛する者の属性を取り込むこと
を促し、その結果、カテクシスは同一化となる。 |
(4)Butler extends these accounts
of gender identification in order to emphasize the productive or
performative aspects of gender. With Lévi-Strauss, she suggests that
incest is "a pervasive cultural fantasy" and that the presence of the
taboo generates these desires; with Riviere, she states that mimicry
and masquerade form the "essence" of gender; with Freud, she asserts
that "gender identification is a kind of melancholia in which the sex
of the prohibited object is internalized as a prohibition" (63) and
therefore that "same-sexed gender identification" depends on an
unresolved (but simultaneously forgotten) homosexual cathexis (with the
father, not the mother, of the Oedipal myth). For Butler, "heterosexual
melancholy is culturally instituted as the price of stable gender
identities" (70) and for heterosexuality to remain stable, it demands
the notion of homosexuality, which remains prohibited but necessarily
within the bounds of culture. Finally, she points again to the
productivity of the incest taboo, a law which generates and regulates
approved heterosexuality and subversive homosexuality, neither of which
exists before the law. |
(4)バトラーは、ジェンダーの生産的あるいは実行的な側面を強調する
ために、ジェンダー識別に関するこれらの説明を拡張している。レヴィ=ストロースとともに、彼女は近親相姦が「広範な文化的幻想」であり、タブーの存在が
こうした欲望を生み出すことを示唆している。リヴィエールとともに、彼女は擬態と仮面舞踏がジェンダーの「本質」を形成していると述べている;
フロイトとともに、彼女は「ジェンダーの同一化とは、禁止された対象の性が禁止として内面化される一種のメランコリアである」(63)と主張し、それゆえ
「同性によるジェンダーの同一化」は、(エディプス神話の母ではなく父との)未解決の(しかし同時に忘れ去られた)同性愛のカテクシスに依存しているとす
る。バトラーにとって、「異性愛のメランコリーは、安定したジェンダー・アイデンティティの代償として文化的に制定されたもの」(70)であり、異性愛が
安定したままであるためには、同性愛という概念が必要となる。最後に彼女は、近親相姦タブーの生産性を再び指摘する。この法律は、承認された異性愛と破壊
的な同性愛を生み出し、規制するものだが、どちらも法律の前には存在しない。 |
(5)In response to the work of
the psychoanalyst Jacques Lacan that posited a paternal Symbolic order
and a repression of the "feminine" required for language and culture,
Julia Kristeva added women back into the narrative by claiming that
poetic language—the "semiotic"—was a surfacing of the maternal body in
writing, uncontrolled by the paternal logos. For Kristeva, poetic
writing and maternity are the sole culturally permissible ways for
women to return to the maternal body that bore them, and female
homosexuality is an impossibility, a near psychosis. Butler criticizes
Kristeva, claiming that her insistence on a "maternal" that precedes
culture and on poetry as a return to the maternal body is essentialist:
"Kristeva conceptualizes this maternal instinct as having an
ontological status prior to the paternal law, but she fails to consider
the way in which that very law might well be the cause of the very
desire it is said to repress" (90). Butler argues the notion of
"maternity" as the long-lost haven for females is a social
construction, and invokes Michel Foucault's arguments in The History of
Sexuality (1976) to posit that the notion that maternity precedes or
defines women is itself a product of discourse. |
(5)父性的象徴秩序と、言語と文化に必要な「女性性」の抑圧を措定し
た精神分析学者ジャック・ラカンの研究に対抗して、ジュリア・クリステヴァは、詩的言語-「記号論」-は、父性的ロゴスに制御されない、書くことによる母
性的身体の浮上であると主張することで、女性を物語に追加した。クリステヴァにとって、詩的な文章と母性は、女性が自分を産んだ母体に戻るための文化的に
許された唯一の方法であり、女性の同性愛は不可能であり、精神病に近いものである。バトラーはクリステヴァを批判し、文化に先立つ「母性」と、母体への回
帰としての詩への彼女の主張は本質主義的であると主張する:
「クリステヴァはこの母性本能を、父性の法則に先立つ存在論的地位を持つものとして概念化しているが、その法則そのものが、それが抑圧していると言われる
欲望そのものの原因である可能性を、彼女は考慮していない」(90)。バトラーは、女性にとって長く失われた避難所としての「母性」という概念は社会的構
築であると主張し、『セクシュアリティの歴史』(1976年)におけるミシェル・フーコーの議論を引き合いに出し、母性が女性に先行する、あるいは女性を
定義するという概念自体が言説の産物であるとする。 |
(6)Butler dismantles part of
Foucault's critical introduction to the journals he published of
Herculine Barbin, an intersex person who lived in France during the
19th century and eventually committed suicide when she was forced to
live as a man by the authorities. In his introduction to the journals,
Foucault writes of Barbin's early days, when she was able to live her
gender or "sex" as she saw fit as a "happy limbo of nonidentity" (94).
Butler accuses Foucault of romanticism, claiming that his proclamation
of a blissful identity "prior" to cultural inscription contradicts his
work in The History of Sexuality, in which he posits that the idea of a
"real" or "true" or "originary" sexual identity is an illusion, in
other words that "sex" is not the solution to the repressive system of
power but part of that system itself. Butler instead places Barbin's
early days not in a "happy limbo" but along a larger trajectory, always
part of a larger network of social control. She suggests finally that
Foucault's surprising deviation from his ideas on repression in the
introduction might be a sort of "confessional moment", or vindication
of Foucault's own homosexuality of which he rarely spoke and on which
he permitted himself only once to be interviewed. |
(6)バトラーは、19世紀にフランスで生活し、当局によって男性とし
て生きることを強要され、やがて自殺したインターセックス者、エルキュリーヌ・バルバンの日記を出版したフーコーの批判的序文の一部を解体している。日記
の序文でフーコーは、バルバンの初期について、彼女が自分のジェンダーあるいは「性」を好きなように生きることができたのは、「非同一性の幸福な虚無」
(94)であったと書いている。バトラーはフーコーをロマンチシズムで非難し、文化的刻印に「先立つ」至福のアイデンティティの宣言は、『セクシュアリ
ティの歴史』における彼の仕事と矛盾すると主張する。そこでは、「本当の」、「真実の」、あるいは「起源的な」性的アイデンティティという考え方は幻想で
あり、言い換えれば、「性」は権力の抑圧体制に対する解決策ではなく、その体制そのものの一部であるとする。バトラーはその代わりに、バービンの初期の日
々を「幸せな宙ぶらりん」ではなく、より大きな軌跡に沿って、常に社会的支配のより大きなネットワークの一部として位置づける。彼女は最後に、序章でフー
コーが抑圧に関する自分の考えから意外なほど逸脱しているのは、一種の「告白の瞬間」、つまりフーコー自身がほとんど語らず、一度だけインタビューに答え
ることを許した自身の同性愛を正当化するためではないかと示唆する。 |
(7)Butler traces the feminist
theorist Monique Wittig's thinking about lesbianism as the one recourse
to the constructed notion of sex. The notion of "sex" is always coded
as female, according to Wittig, a way to designate the non-male through
an absence. Women, thus reduced to "sex", cannot escape carrying sex as
a burden. Wittig argues that even the naming of the body parts creates
a fiction and constructs the features themselves, fragmenting what was
really once "whole". Language, repeated over time, "produces
reality-effects that are eventually misperceived as 'facts'" (115). |
(7)バトラーは、フェミニスト理論家モニク・ヴィティッヒの、構築さ
れた「性」の概念に対する一つの手段としてのレズビアニズムについての思考をたどっている。ヴィティグによれば、「セックス」という概念は常に女性として
コード化され、不在によって非男性を指定する方法である。こうして「性」に還元された女性は、性を重荷として背負うことから逃れられない。ヴィッティヒ
は、身体の部位に名前をつけることさえも虚構を生み、特徴そのものを構築し、かつては本当に「全体」であったものを断片化してしまうと主張する。言葉は、
長い時間をかけて繰り返されることで、「やがて『事実』として誤認される現実-効果を生み出す」(115)。 |
(8)Butler questions the notion
that "the body" itself is a natural entity that "admits no genealogy",
a usual given without explanation: "How are the contours of the body
clearly marked as the taken-for-granted ground or surface upon which
gender signification are inscribed, a mere facticity devoid of value,
prior to significance?" (129). Building on the thinking of the
anthropologist Mary Douglas, outlined in her Purity and Danger (1966),
Butler claims that the boundaries of the body have been drawn to
instate certain taboos about limits and possibilities of exchange. Thus
the hegemonic and homophobic press has read the pollution of the body
that AIDS brings about as corresponding to the pollution of the
homosexual's sexual activity, in particular his crossing the forbidden
bodily boundary of the perineum. In other words, Butler's claim is that
"the body is itself a consequence of taboos that render that body
discrete by virtue of its stable boundaries" (133). Butler proposes the
practice of drag as a way to destabilize the exteriority/interiority
binary, finally to poke fun at the notion that there is an "original"
gender, and to demonstrate playfully to the audience, through an
exaggeration, that all gender is in fact scripted, rehearsed, and
performed. |
(8)バトラーは、「身体」そのものが「系図を認めない」自然な存在で
あり、説明なしに与えられるのが普通だという考え方に疑問を投げかけている:
「身体の輪郭は、ジェンダー的意味づけが刻み込まれる、単なる事実性であり、価値を欠き、意味づけに先立つ、当然視された地面や表面として、どのように明
確にマークされるのか?」(129)。(129).
人類学者メアリー・ダグラスの『純潔と危険』(1966年)に概説されている考え方に基づき、バトラーは、身体の境界線は、交換の限界と可能性に関するあ
る種のタブーを植え付けるために引かれてきたと主張する。こうして、覇権主義的で同性愛嫌悪的な報道機関は、エイズがもたらす身体の汚染を、同性愛者の性
行為の汚染、とりわけ会陰という禁じられた身体の境界を越えることの汚染に対応するものとして読み取った。言い換えれば、バトラーの主張は、「身体はそれ
自体、安定した境界線によってその身体を分離させるタブーの結果である」(133)ということである。バトラーは、外面性/内面性という二元論を不安定に
し、最終的に「本来の」ジェンダーが存在するという概念をからかい、すべてのジェンダーが実際には台本化され、リハーサルされ、演じられるものであること
を、誇張によって観客に戯れに示す方法として、ドラッグの実践を提案している。 |
(9)Butler attempts to construct
a feminism (via the politics of jurido-discursive power) from which the
gendered pronoun has been removed or not presumed to be a reasonable
category. She claims that even the binary of subject/object, which
forms the basic assumption for feminist practices—"we, 'women,' must
become subjects and not objects"—is a hegemonic and artificial
division. The notion of a subject is for her formed through repetition,
through a "practice of signification" (144). Butler offers parody (for
example, the practice of drag) as a way to destabilize and make
apparent the invisible assumptions about gender identity and the
inhabitability of such "ontological locales" (146) as gender. By
redeploying those practices of identity and exposing as always failed
the attempts to "become" one's gender, she believes that a positive,
transformative politics can emerge. |
(9)バトラーは、ジェンダー代名詞が排除され、あるいは合理的なカテ
ゴリーであると推定されないフェミニズムを(法学的・ディスクール的権力の政治学によって)構築しようと試みている。彼女は、フェミニズムの実践の基本的
な前提となっている主体/客体という二元論(「私たち『女性』は、客体ではなく主体にならなければならない」)さえも、覇権的で人為的な区分であると主張
する。バトラーにとって主体という概念は、反復によって、「意味づけの実践」(144)によって形成される。バトラーは、ジェンダー・アイデンティティ
や、ジェンダーのような「存在論的な場所」(146)の居住可能性に関する不可視の前提を不安定化し、明白にする方法として、パロディ(例えば、ドラッグ
の実践)を提示している。アイデンティティの実践を再展開し、自分のジェンダーに「なる」試みが常に失敗していることを明らかにすることで、肯定的で変革
的な政治が生まれると彼女は信じている。 |
※(10)All page numbers are from
the first edition: Judith Butler, Gender Trouble: Feminism and the
Subversion of Identity (New York, Routledge, 1990)." - Gender Trouble.
Wiki |
リンク
文献
その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
軍艦ですら船のジェンダーは女性
Columbia, personification of the United States, wearing a warship
bearing the words "World Power" as her "Easter bonnet" on the cover of
Puck, 6 April 1901.