「医療と人権:文化人類学の観点から考える」
20世紀末から21世紀初頭の日本では学問ーーとくに人文社会学ーーの社会的関与に関する議論 がさかんである。これに関する新領域学問の提唱、例えば臨床哲学や臨床社会学などの「臨床」を関した学問などを通して、それまでの既存知識の現実世界との あり方との関係を問い直す試みが多く生まれた。それらの試みをひとつの説明原理や解釈で把握できるはずはないが、保健医療社会学やその関連領域では、これ らの問題に関する取り組みにおいて、じっさいは老舗の風格をもっていたのではないだろうか。例えば社会医学の領域では古くから「医療と人権」というテーマ でおびただしい研究が蓄積されてきたと言える。しかし、「医療と人権」研究は、臨床社会学(あるいは臨床人類学)と同じかというと必ずしもそうとは言えな い。私は、これら両者の違いはそれらの学問方法論や依拠する主理論の違いに由来するのではなく、むしろ我々[つまり研究者たち]がおかれている研究の文脈 や、その学問的成果をどのようなかたちで社会に「推奨」(recommendation)するのかという研究の実践スタイルの違いに由来するものではない かと考えている。これらの違いをより端的に表現(=解釈)すると、それらは〈生き方〉の違いによるものではないかということだ。このことを私が関わってき た国際医療保健や多文化共生医療などの事例を紹介しつつ考えてみたい。年度末のぎりぎりの研究会での発表になり、関係諸氏には大変ご迷惑をおかけします が、時期的に新年度も近く、根を詰めた勉強会よりも新学期からの教育や研究にとってリフレッシュできるような問題提起とそれに引き続く多角的討論を主眼と した発表を心がけたいと思います。
テキスト版
1. 表題:
池田光穂(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD))
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池田光穂の幼年時代の想い出
日米安保からベトナム反戦へ
大阪万博における科学技術「信仰」
南アのアパルトヘイトという蛇蝎
【まとめ】
歴史的に存在づけられる私の、このような人権感覚[の構成]を「身体感覚なき人権擁護理念、 あるいは(またの名を「戦後民主主義」)と呼んでおこう。
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18世紀末、米国諸州の成文憲法制定時に人権宣言を盛り込む フランス1791年憲法・前文
1948年人権宣言の最初のグローバル化(国連世界人権宣言)
1947年ニュルンベルク綱領(インフォームドコンセントの起源)
1964年ヘルシンキ宣言(人体実験の倫理原則)
【要点】
世界戦争による混乱からの回復が、人権概念の洗練化とグローバル化を促進させる。
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医療や福祉は、万人が享受されるべき基本的権利である。
世の中にはこの権利を十分に享受していない(その利益から排除された)人がいる。
医療や福祉は「正しく」実行すれば必ずや人を不幸から救済することができる。
医療や福祉に関わる人たちは、不幸な人たちに対しては誠実に付き合い、また不幸を生み出す社 会的不正義に対して怒り、それを是正していかねばならない。
【要点】医療・福祉を実践する主体の問題系
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丸山博らの労働衛生学派の人たち
医学史研究会(関西/東京)の人たち
東大赤レンガ・東大PRCの人たち
『技術と人間』派の人たち
【3つの特徴】
・普遍的人権としての〈医療を受ける権利〉
・困窮者に医療を施す〈義務意識〉
・人々に福音をもたらす〈医療と福祉〉
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6. 〈医療と人権〉 派の思想
革命的前衛としての〈医療者〉の使命
医療的福音による〈千年王国〉の理論
医療の無謬、施術者の誤謬
死の否定、敗北主義の拒絶
【理論的帰結】
誰が医療の主体になるのかという思想は問題にされない点で、彼らの批判の対象であった〈国家 権力〉の医療の担い手とは、その価値観を共有していた。(=権力闘争史観)
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医学概論(澤瀉久敬1904-1995) おもだか・ひさゆき
1904 伊勢市生まれ
1929 京大哲学科卒
1935 仏政府招聘留学生
1937 帰国
1938 京大講師
1941 阪大で医学概論講義
「医学の哲学」開始
1948 阪大文学部創設
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8. 阪大・医学概論 の継承者
中川米造(1926-1997) なかがわ・よねぞう
【学問的影響】
・澤瀉久敬の医学概論
・丸山博の社会医学
・医学史研究会(『医学史研究』1961-)
【業績】
・医学史・医学思想史(cf.医史学)
・医学教育
・医療人類学
・医学倫理・生命倫理
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中川米造の5つの医学概論(医学論)・論
医政論→医道論→生物哲学→医哲学→社会医学
医学を語る主体ー担い手ー形式による分類
医学を語る主体が、医学界の権威から研究者や学生へ、そして市民へと重層的に拡大する(社会 進化の痕跡を残しながら議論の多様性の拡大とみる立場)
【問題提起】今、医学・医療を語る主体は誰であり、どこにいるのだろうか?
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10. 医療を語る主 体のサクセション
中川の予言した「社会医学」の時代では、医療を語る主体は「市民」へ権利が継承される。
医療や福祉の実践者・提供者から受益者・消費者へ
医療や福祉の受益者の経済的階層分化の強化(例:リスク管理のプライバタイゼーション)
医療・福祉の実践者による「不幸な人」探しゲーム
「不幸な人(サバルタン)」に声を与える。サバルタンが発話を求める
発話権利のエンタイトルメント
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経済と情報のグローバリゼーションが進展した結果、日本は「多数の」労働移民を受け入れてい る。
定住外国人は、さまざまな「社会的格差・不平等」を被っている。
エスニックマイノリティはさまざま社会的不平等を被っており、その典型は健康と福祉に関する 問題である。
彼/彼女らは言語的・文化的他者であるから、政治経済的障碍の他に、言語・文化のハンディも あり、それらの両面に対する支援が必要である。
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権利獲得を軸とする市民グループのこれまでの地道な活動実績(特に子供の学ぶ権利)
1990年「出入国管理及び難民認定法」の改正による定着・定住化傾向の促進(2005年末 現在 3,5千/205万人=推定不法滞在数/在留外国人数)
児童虐待・DVなど日本人と「類似」の社会問題化
「多文化共生社会」という理念の普及(批判の強度も同時に上昇中)
医療通訳・司法通訳という新たな雇用の場の可能性(あるいは専門職能の開拓)
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13. 新しい社会的 文脈には、新しい着眼点による新しい研究法を!
医療・福祉を〈語る〉主体の複数化、複声化
〈語り〉を通した他者の〈欲望〉の承認(「私が欲望するとは、誰かに認めてもらいたいと思っ ていることに他ならない」F・ファノン)
言説実践の物象化
言説実践の主体(エージェント、アクター)のネットワーク化
社会研究の再帰的効果に関する議論(in/of の二元論を超えて):例:「生き方」の研究
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14. 臨床なになに 学とはなにか?
臨床社会学、臨床哲学における「臨床」という提唱の意義
パリ学派による、観察と理論と実践の合致(その場でしかわかり得ないものの探究)
翻訳の難しさ(..logy in practice)
対話に寄り添うという形で、応用やアクションとは異なる視座を提唱
ソクラテス的産婆術への盲信(なぜアスクレピオス的占い、オゴテメリ的哲学ではだめなの か?)
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15. 実践知=生き 方研究(田辺繁治)
「職業として学問することは、それで生計を立てるということだけでなく、自らの実践がもつ意 味を考えながら自らの倫理的な転換の可能性を追求しつづけることでもある」
「人類学者の実践のすべては彼/彼女が対象とする人びとの実践と同一地平で行われているので あり、人類学者は自分の行いに不断に立ちかえることによってしか彼らを理解できないということだ。さらに、そうした再帰的な反復運動を維持しながら彼らへ の理解に到達することは、自らの主体の形式を少しずつ、あるいは大胆に転換する可能性を追求することでもある」
『生き方の人類学』2003年
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16. 池田光穂の生 き方研究双六
中川米造に入門(1981年)
1984-87年青年海外協力隊・ホンジュラス共和国保健省
85年-87年コパン県における健康追求行動の調査
88年グアテマラ調査、92年以降中米・カリブ海地域の民族誌調査
95年以降現在までグアテマラの先住民調査
健康意識の社会的構成と保健システムの変化に関する研究
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(1)当事者の声を代弁する政治性に関わらざることを得ないことを理解している(倫理性の認 識)。しかし、その当事者の声は、当事者そのものの声よりも、その当事者の属する社会や文化の、その時点での声であることを理解している(代弁=表象の対 象への自覚)。
(2)研究対象である〈他者〉の生き方に関わることを、自己の生き方や、自己の属する社会に 関連づけて実践していることを理解している。他方で、自己の社会への理解に〈他者〉の視点を借りる点において、〈自己〉と〈他者〉の両方の視点から距離を 取ることの利点と弱点についても理解している
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18. まとめ
池田が幼年時代に植え付けられた身体感覚なき人権擁護理念を、海外での保健医療協力での経験 を通して、自文化の社会でも実践するに至った経緯を、人権概念の歴史的社会的相対化、社会医学における〈医療と人権〉派の盛衰と変容などと関連づけて説明 (=解釈)した。
どの時代においても、その時代に相応しい知識人・研究者の生活や生き方の理念があり、それら はその社会が用意する価値観に影響されている。しかし、彼/彼女らの生き方とは異なった〈生の形式〉があり、そのあり方に関心をもち、その意味を考える限 り、与えられた価値観からは多少なりともその外部に出られる可能性がある。あるいは、そのような信条に根拠を与える〈経験的事実〉がある。
クレジット:
「医療と人権:文化人類学の観点から考える」池田光穂(大阪大学コミュニケーションデザイン・セ ンター)2006年3月28日(火)14時〜17時。大阪市立大学文化交流センター(大阪駅前ビル6F大セミナー室)