自民族中心主義についてのクラストルの箴言
On Pieere Clastres' Aphorism on Ethnocentrism
解説:池田光穂
〈自民族中心主義〉につい て、ピエール・クラストル(1934-1977)がおもしろいことを 言っているので再掲しよう。渡辺公三の訳も冴えてるゾっ!
「人 類学研究に絶え間なくつきまとう障害、常に力を失わぬ敵、すなわち<自民族中心主義>が 認識されてか ら、既にかなりの時が経っている。それは、差異に対するまなざしの全てを媒介し、差異を同一化し、終局的には消失させるものだ。こうした態度のもつ危険を 力をこめて告発するという、一種の民族学的儀礼が存在する。その意図は賞賛されるべきものであれ、だからといってその意図をもつ民族学者自 身、今度はその 罠に、幾分は心安らかに、幾分かは注意力の散漫から陥らないという/ことには、必ずしもならない」(クラストル『国家に抗する社会』渡辺訳、Pp.19- 20.白馬書房)
「西 欧の自民族中心主義と、その「未開」の対応物との間には大きな違いがある」(同書, p.20)
「自 民族中心主義は思考に課される無力な拘束であるどころか、想像される以上の帰結を伴うも のなのだ。それは差異をそれ自体において、中立的なものに留めておくことができない」(同書, p.20)
「自民族中心主義はまた、非西欧社会をエグゾティックなものとする視線と結びついている」 (同書, p.26)
しかし、私たちは、これに先行する、《同型 same arrangement》の物語を知っているのだ。
「自分の習慣にはないものを、野蛮(バルバリー)と呼ぶならば別だけれど、わたしが聞いたと
ころでは、新大陸の住民たちには、野蛮(バルバール)で、未開(ソヴァージュ)なところはなにもないように思う。どうも本当のところ、われわれは、自分た
ちが住んでいる国での、考え方や習慣をめぐる実例とか観念以外には、真理や理念の基準を持ちあわせていないらしい。あちらの土地にも、完全な宗教があり、
完全な政治があり、あらゆることがらについての、完壁で申し分のない習慣が存在するのだ。彼らは野生(ソヴァージュ)であるが、それは、自然がおのずと、
その通常の進み具合によって生み出した果実を、われわれが野生(ソヴァージュ)と呼ぶのと同じ意味合いで、野生(ソヴァージュ)なのである。
本当ならば、
われわれが人為によって変質させ、ごくあたりまえの秩序から逸脱させてしまったものこそ、むしろ、野蛮(ソヴァージュ)と呼んでしかるべきではないか。
前
者のなかには、本当のものが、もっとも有用で自然な美徳や特性が、生き生きと、力強く存在しているのに、われわれときたら、後者のうちで、それらの質をお
としめて、われわれの堕落した好みのほうに合わせてしまったのだ」「人食い人種について」(宮下訳、第二巻、p.64)。
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