おばあさんの使われなかった旅券:私の奥崎謙三・論
The passport never
used of the mother whose son was bereaved by war
奥崎謙三のドキュメンタリー『ゆきゆきて神軍』(原一男監督、1987年、疾走プロダクション)は、驚異的なドラマである。
(妹尾幸男への殴打のシーンを例外として)前半までのロードムービー風のややまったりとした独立工兵第36連隊関係者への訪問。遺族であり、霊 能者でもある崎本倫子のなんともまあ奇妙な追求。
後半は、前半の崎本と野村寿也という「本物の遺族」との同伴が、在る意味で真実を隠そうとする関係者にとってある種の突破口になることに、味を 覚えた奥崎が、彼の奥さんほか無関係な人を勝手に遺族として、道具に使う「異様性」。最終的な圧巻は、一番愛着をもつ、そして奥崎とは、異なるやり方で亡 くなった戦友を慰撫しつづける山田吉太郎(軍曹)に暴行を加える異様なシーン。
奥崎が山田に対して「切れる」瞬間は、山田が戦友に対する慰撫心を「靖国」と言葉を使って表現する瞬間である。奥崎はここで普通でも欠けている 平静な理性を完全 に失う(この男の突然の暴力性の発露は十分に「病理的な」ものである)。
暴行の後の山田は、それまでの頑なな外交辞令的なこわばった表情から、徐々に彼の誠実な人柄をのぞかせ、真実を克明には語らないにもかかわら ず、冗長で屁理屈をならべる奥崎よりも好印象を視聴者に与える。
山田もまた戦場の残虐性に直面して、彼なりの魂の慰撫行為をおこなっているのだ。真実を明らかにすることが、正真正銘の慰撫だとするのが奥崎な ら、沈黙の中の祈りこそが本当の慰撫であるという山田の間に、相互了解などはなく、実際に議論にもなっていない。
しかし、そのような奥崎のおよそ常人の感覚では許せない〈対話の暴力〉が、真実への道を拓くことは、今日の戦争犯罪や内戦時の超法規的処刑に対 する処罰においては不可欠になっていることからみても、奥崎は20世紀の最後の10年にようやく〈常識〉となるような真相究明の論理を、まったく滅茶苦茶 な方法によって〈予言〉しているのである。
同時に、奥崎の非理性的で暴力的な真相究明は、今も昔もかわらない逸脱した方法に依存している。つまり、
・正しいことを知るためには、相手を騙したり、嘘を言うことが正当化できるのか?——できない
・目的は手段を正当化できるのか——できない。
だがそれを〈事後的に〉国家の名において正当化したのがイスラエルの諜報機関モサドによるアドルフ・アイヒマ ンの 拘束であり、ミュンヘン・オリンピック籠城事件おけるイスラエル選手団救出つまりゲリラ殲滅作戦だ。当時の西ドイツのフランクフルトの検事長のフリッツ・ バウアー(Fritz Bauer, 1903-1968)は、ドイツ国内でアイヒマンを裁くために、さまざまな努力をするが、それができないために、最初はまったく信じるつもりのなかった、 モサドにわざわざ国交のないイスラエルに足を運び、最終的にはアルゼンチンで偽名リカルド・クレメントで暮らして男がアイヒマンそのものであると告げるこ とができた。
この真実の暴力ドラマ——ニューギニアにおける旧日本軍兵士による同胞の超法規的処刑と、その真相究明をめぐる奥崎の暴力的進軍——彼の滑稽な 用語だと「神軍」の進軍だ——は、処刑の現場の責任者の古清水中隊長への殺人未遂事件で、奥崎が逮捕されることで唐突に終わる。刑務所に収監中に奥さんは 亡くなり。そして、いっしょにニューギニアにいこうと約束した、遺族の母親である島本イセコもまた死ぬ。
存命中に奥崎と一緒に墓参りした島本イセコの「岸壁の母」が流れ、イセコのつたない旅券のサインが涙を誘う。
このドキュメンタリーは、すでに修復できない不誠実な処刑——だがしかし翻って「誠実な処刑」などというものがそもそも存在するのか?——の不 誠実な発言の集積、目的のための不誠実な手段の合理化、不誠実で中途半端な官憲による介入(官憲の職分の前に誠に奥崎は人間的に避けたい人ではあり、その 部分は官憲と言えども人間であり同情に値する)、など、何においても隔靴掻痒感が残るドラマである。
ただしイセコへの鎮魂が最後の部分ですべての贖罪の可能性を拓いていると言えないこともない。無垢な気持ちで我が子の帰還を待っていたこの母親 に対して、何が何でも真相究明を暴力的に叫ぶ奥崎謙三においてすら、その惨めで悲惨な末路について語ったり、ほのめかした形跡はない(そんな人の墓前の間 で、奥崎は飯盒で炊飯をおこなわなかったのではないか?)。
つまり奥崎もまた、〈沈黙の効用〉や〈沈黙の可能性〉について無理解であったわけではないことだ。
その意味で、このドラマは、いかに視聴者に異様に見えようが、それ自体で一種の完結した〈物語構造〉をもつのだ。もちろん、構造をもつからこ そ、〈暴力を考える〉授業——つまり教材として——に使うことができる。それが、どのようなねじ曲がった理解をされようが、見ることからはじまらない物語 だという限りにおいて。
私にとっての奥崎は『ラモーの甥』(ディドロ)にほからならなかった[ヘーゲル『精神現象学』長谷川宏訳、Pp.356-36.]。
【おことわり】
この文章に登場する実名の方々については敬称を省略させていただいていますが、それは私がすべての登場人物に敬意をもつことと矛盾していま せ ん。ご了承ください。
【授業終了後に板書したこと】
おばあさんの 使われなかった パスポート(旅券) 原一男 奥崎謙三 ドキュメンタリー 戦争犯罪 贖罪 処罰 超法規的 暴力
悪/正義、慰撫(ただし誰に対して? 嘘・誘導 目的は手段を正当化できるのか? 真実/真相究明
●場外乱闘編
KLEO -
「ベルリンの壁崩壊後、旧東ドイツの元工作員は、誰がなぜ自分を裏切ったのかを突き止め、高い技術とスキルを駆使してひとり残らず始末をつけることを胸に
誓う」→昨日から見始めたけど、オモロすぎ。ジェ
ラ・ハーゼの演技とファッション(ジャージや囚人服)がまた、これがいいんだね。東独女乱波の大リベンジ。奥崎謙三をもっとバイオレントにかっこ
よくした劇映画
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