フィールドワークの現象学
Phenomenology of anthropologist's fieldwork
Edmund Gustav Albrecht Husserl, 1859-1938
◆ キーワード:文化人類学、フールドワーク、 現象 学、エトムント・フッサール、(→「フィールドワークの現象学講義」)
「真剣に哲学者になろうとする人は誰でも、「一生に一度は」自分自身へと立ち帰り、自分に とって これまで正しいと思われてきたすべての学問を転覆させ、それを新たに立て直すよう試みるのでなければならない。哲学ないし知恵とは、哲学する者の一人一人 に関わる重大事である。」フッサール『デカルト的省察』(浜渦辰二訳、pp.18-9)
「人類学のなかで哲学者の関心を惹く点は、人類学が人間の生活や認識の実際の状況のなかで、 人間 をあるがままにとらえるというまさにこの点である。人類学に関心をもつ哲学者とは、世界を説明したり構成しようとする哲学者ではなく、存在のうちへと差 し込まれた我々のあり方をさらに深く差し込もうとする哲学者である」メルロ=ポンティ『シーニュ』(みすず書房1:198, ただし翻訳[谷 徹 1993:594]は英語版からのもの)
「世間では、自分が『実は何をやっているのか』について無頓着、そこで用いている手段につい
て無知であるのを、あらゆる主観性の排除とみなしているのである。……(手書きによる書き込み)解釈学的状況を錬成するとは、哲学的な探究の既成事実的な
『諸条件』や『諸前提』を掌握することである」——ハイデガー「アリストテ
レスの現象学的解釈」(高田珠樹訳)
■ まずは、現象学の方法入門から
現象学とは、まずは、意識にあらわれる体験の構造を「説明」する方法であり、その方法論に は、理論・推論・科学的仮説を動員しない、近代に生まれた思想運動のなかでは、きわめてユニークなものである。
エトムント・フッサール(1859-1938)の方法論は、ヴィルヘルム・ディルタイ (1833-1911)——後にフッサール『厳密な学としての現象学』で批判されるが——の提唱した記述心理学の考え方にもとづくものである。記述心理学 は、心的現象を因果的に説明しようとするのではなく、与えられるがままに——ここが曲者なのだが——記述・分析するという方法をとる。
木田元(2014:19-20)によると、フッサール自身が、現象学の用語が、エルンスト・ マッハ(1838-1916)らによる命名に由来するものであることを認めている(1928年「アムステルダム講演」『フッサリアーナ』第IX巻、 1962年刊行)
まず、現象学の野心としては、主観と客観を乗り越える(〈超越論〉という言葉がキーワード) ということが最初にある。
ただし、その方法論は、主観を客観に対する矮小なものとして見下すやり方とは、きっぱり手を 切り——まさに潔いやり方だ!——、いわゆる主観(※)の徹底化に特徴がみられる。
※:だって最終目的は主観/客観の乗り越えにあるから、これらの区分は結局はどーでもよ い、ないしは形式上の区分ということになるからだ。
フッサール『デカルト的省察』には、この方法の出発点は、独我論的自我学(英訳: solipsistical egology)とよべる立場で、この主観化の方法の徹底を表現している。[「独我論的に制限された自我論」岩波文庫版、p.277](→独我論、あるいは毒蛾論の迷宮)
そこで、フッサールの次の課題は、どーやって、主観を徹底化するのか? ということである。
フッサールは、我々が日常生活を何の問題もなくやり過ごしている生活態度を「自然的態度」 (しぜんてきたいど)と命名する。彼によると、この自然的態度からの脱却が、現象学的領域へと知的認識を進める次の一歩になる。
自然的態度からの脱却の方法論として、もっとも代表的なもの(方法や状態を表した標語のよう なもの)が、〈判断停止〉とも翻訳されることのある〈エポケー〉である[p.48]。
エポケーによって、一度自然的態度に充ち満ちていた自分の身の回り〈世界〉を失う必要性があ る。いわゆる無根拠からもう一度〈世界〉をとり戻すという作業をおこなわなければならない。エポケーに到達する方法全体をさして、フッサールは〈現象学的 還元※〉という、難解な言葉で表現しています。
※:フッサールやその背徳の弟子ハイデガーなどは、日常用語をもじった変な造語法を量産 する傾向があり、これが敷居を高くしているんだな〜。しかし、造語法は、概念を操作して考量を進める研究者の病気かもしれません。
やれやれ、という感じですが、〈反省〉を導く方法論としては、世界中にある、宗教的職能者の 人たちが説く、世界認識の方法と類似していないこともありません。誰にでも開かれた、よい方法なのではないでしょうか。
この説明を聞いた人の中には、「これってデカルトの方法と似ていない?」という質問が出てく るかも知れません。なぜなら、デカルトの cogito ergo sum (私は考える、それゆえに私は存在する)[それ以上に何を疑えちゅうんでしょうか?—疑えない、つまり、ここが存在の根拠であり、思考の出発点でおます] は、双六の振り出しと同じで、最初に戻って考え直す(反省・省察しなおす)という自己のテクニックだからです。
そうです。だからフッサールは現象学の方法について述べた本を『デカルト的省察』と名付け、 デカルトの方法に敬意を払うと同様に、それをもっと過激に押し進めるという自負心をもっていたのではないかと、(素人の)私は思います。
■ 次に、人類学と現象学の関係
さて、人類学のアウトラインを学んだり、その方法論であるフィールドワークの意義について多 少なりとも理解した人なら、フッサールの方法と文化人類学の方法は、かなりちがうなぁ〜と思うはずです。
どうしてかって? そりゃ、(1)まず現象学者のコギト(私は考える、というラテン語の一人 称現在の表現)ではなく、現地にいって体験するのが文化人類学の方法ではないか、そして、(2)人類学者は〈自然的態度〉そのものにこだわるのであって、 現象学者が考えるような克服すべき対象ではない、てなリアクションが出てくるかもしれません。
しかし、だからと言ってフッサールの発想を「非人類学だ」と断罪してはいけません。現象学は もっと奥深いことを私たちに教えてくれます。それは、むしろ現象学的発想から、人類学者が当たり前としての受け入れ入れている〈自然的態度〉を相対化する ことができるからです。つまり、現象学という方法を借りて、人類学をもっと豊かにすることができるからです。
先の人類学の強調点は、現象学的反省から、次のように言いなおすことができます。
(1)人類学者はフィールドでの体験を一次的なデータとして強調するが、その背景には人類学 者が何も考えないでおこなっていることはない。人類学者はフィールドをするのではなくフィールドで考えるのだ(これはギアーツの言葉の捩りです)。
(2)〈自然的態度〉を相対的に観ることに変わりはないのだが、自分を含めた〈自然的態度〉 のあり方を、思念ではなく、対話などの経験にもとづいて構築することに多大なる関心がある。そう考えると、現象学者もじつは〈自然的態度〉を単に乗り越え るべき状態としてのみ理解しているのではなく、そのような態度があるという経験的事実とそのラベルを通して、常識のあり方について、人類学者に対して教え てくれたのだ、ということがわかるはずだ。そしてフッサールの〈自然的態度〉は乗り越えるべき目標であるのだが、それは同時に、乗り越えための手がかりそ のものであり、また、そこに繰り返し回帰する原点ですらあるのだ。
ここで引用:
「メルロ・ポンティは、そもそもわれわれがおこなういかなる理解も、間主観的に構成され た意味の世界を介しておこなわれたものだという事実に注意を促す。つまり社会の一成員として生きるわれわれが、特に主題化することなく「自明的なもの」と して受け入れている、もろもろの沈殿した意味的形成物、間主観的に構成された「生活世界」こそ、理解の唯一の源泉だというのである。結局「理解す る」とはわれわれにとってわかるように理解する以外の何ものでもないのであり、人類学者といえども、こうした「間主観性の経験」に何ものも負っていないか のような振りをすることはできないのだ」(浜本 1984:285)。
かいせつ:間主観とは、主観をもったそれぞれの人間のあいだに成り立つ、理解や齟齬 の総体というふうにここでは理解しておいてください——引用者解説。
ここでいう「生活世界」(Lebenswelt)という用語は『デカルト的省察』の第五省察 に出てくる(アルフレット・シュッツにより社会学・人類学に後に導入されることになる)重要な概念である。
超越論的主観性が独我的で社会的なものの考察に使えないという批判にフッサールは答えて、相 互主観性(Intersubjektivita"t)への可能性を開く、他者の経験を自分がどのように体験するのかという可能性について考える。フッサー ルによると、それは他者の経験を感情移入(Einfu"hlung)することによって可能にするという。他者の心の中(=内面)は分からない。しかし、自 分がそうすることの想像を通して、他者の経験を追体験することができるという。その時、自己の主観のなかに他者の主観が移入されて、自我の中に相互主観性 ができるというのである。 複数の人によって共有された主観の世界こそが、生活世界なのである(→フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)。
しかし、この感情移入というフッサールが提示した方法は、方法論的にはナイーブだ(ちょうど 文芸批評理論における印象主義のように思われる)。フッサールが相互主観性に満ち満ちている生活世界の理解において、他者への感情移入(Einfu"hlung)が可能にすると主張した時に、その理論的な脆弱性を埋める(=補強する?)ものが、後期 ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論おいて展開されていると言っても過言ではない。
■ では、何を読めばよいのか?
やっぱり、原典のフッサール(浜渦辰二訳『デカルト的省察』岩波文庫、2001)、それから アルフレート・シュッツ(現象学的社会学)の著作、そして、クリフォード・ギアーツのいくつかの論文でしょうか。幸い、品切れ、絶版のものもあるが、多く は翻訳で読めます。
● デリダは『声と現象』を通して現象学批判そのものが 形而上学的企てだと暴露する
ちくま文庫版『声と現象』の解説にこんな記述がある: 「デリダは、フッサールを読むことによって、「読む」とは何か、「書く」とは何かを根底的に考え直した。本書は、フッサールの『論理学研究』(第二巻『認 識の現象学と認識論のための諸研究』)の第一部「表現と意味」の驚嘆すべき綿密な読 解を通して、現象学的批判という方法が「形而上学的企てそのもの」—— 他に「独断論的あるいは思弁的な癒着」( p.10)とも——だということを暴き出す。その困難な作業のなかから、「脱構築」「痕跡」「差延」「代補」「エクリチュール」…といった魅力的な「操作 子」(言葉でも概念でもない脱構築の道具)が産み出された。後に「たぶん最も愛着を覚えている詩論だ」とデリダ自身が言っているその代表作。」https://amzn.to/36N1eWB.
■ フィールドワークと「現地調査 の記録・民族誌」の文献研究との関係
エヴァンズ=プリチャードが、長期フィールドワークの経験のほとんどなかったローベル・エル ツの著作(『右手の優越』)を評論して、彼の属したフランス『社会学年報』派がもつ深い学識と同時に欠点、つまり文献派の陥穽について論じる。
「こ
れらの異なった慣習はすべ て、この場合問題になるのは一つの慣習の他の慣習からの由来ではなく、ある共通の精神である、ということを示している。そし
て、人はみずからこのような儀式をすべて考え出す(創作する)ことができよう。そして、それを考え出す精神はまさにこの共通の精神であろう」——ウィトゲ
ンシュタイン「フレーザーの『金枝篇』について(1931)」(ウィトゲンシュタイン全集6、大修館書店版、420-421ページ)
★間主観性(相互主観性)とはなにか?——ウィキペディア(英語:Intersubjectivity)からの解説
In philosophy,
psychology, sociology, and anthropology, intersubjectivity
is the relation or intersection between people's cognitive perspectives. Definition Intersubjectivity is a term coined by social scientists to refer to a variety of types of human interaction. For example, social psychologists Alex Gillespie and Flora Cornish listed at least seven definitions of intersubjectivity (and other disciplines have additional definitions): people's agreement on the shared definition of a concept; people's mutual awareness of agreement or disagreement, or of understanding or misunderstanding each other; people's attribution of intentionality, feelings, and beliefs to each other; people's implicit or automatic behavioral orientations towards other people; people's interactive performance within a situation; people's shared and taken-for-granted background assumptions, whether consensual or contested; and "the variety of possible relations between people's perspectives".[1] Intersubjectivity has been used in social science to refer to agreement. There is intersubjectivity between people if they agree on a given set of meanings or share the same perception of a situation. Similarly, Thomas Scheff defines intersubjectivity as "the sharing of subjective states by two or more individuals".[2] Intersubjectivity also has been used to refer to the common-sense, shared meanings constructed by people in their interactions with each other and used as an everyday resource to interpret the meaning of elements of social and cultural life. If people share common sense, then they share a definition of the situation.[3] Psychoanalyst Jessica Benjamin, in The Bonds of Love, wrote, "The concept of intersubjectivity has its origins in the social theory of Jürgen Habermas (1970), who used the expression 'the intersubjectivity of mutual understanding' to designate an individual capacity and a social domain."[4]: 19 Psychoanalyst Molly Macdonald argued in 2011 that a "potential point of origin" for the term was in Jean Hyppolite's use of l'inter-subjectivité in an essay from 1955 on "The Human Situation in the Hegelian Phenomenology".[5] However, the phenomenologist Edmund Husserl, whose work Habermas and Hyppolite draw upon, was the first to develop the term, which was subsequently elaborated upon by other phenomenologists such as Edith Stein, Emmanuel Levinas, and Maurice Merleau-Ponty. https://en.wikipedia.org/wiki/Intersubjectivity |
哲学、心理学、社会学、人類学において、相互主観性とは、人々の認知的
視点間の関係や交差のことである。 定義 間主観性とは、社会科学者が人間の相互作用の様々なタイプを指すために作った造語である。例えば、社会心理学者のアレックス・ギレスピーとフローラ・コー ニッシュは、間主観性について少なくとも7つの定義を挙げている(他の学問分野でもさらなる定義がある): ある概念の共有された定義に関する人々の合意; 人々の同意や不同意、理解や誤解に関する相互認識; 人々の意図性、感情、信念の互いへの帰属; 人々の他者に対する暗黙的または自動的な行動指向; 状況内での人々の相互作用的なパフォーマンス; 人々が共有し、当然のこととして受け入れている背景的前提(同意の有無にかかわらず)。 「人々の視点間の可能な多様な関係」[1]。 間主観性は、社会科学において合意を意味するために使用されてきた。人々の間に間主観性が存在するのは、彼らが与えられた一連の意味について同意している か、ある状況について同じ認識を共有している場合である。同様に、トーマス・シェフは間主観性を「2人以上の個人による主観的状態の共有」と定義している [2]。 間主観性はまた、人々が互いの相互作用の中で構築し、社会的・文化的生活の要素の意味を解釈するための日常的な資源として使用される共通感覚、共有された 意味を指すのにも使用されている。もし人々が共通感覚を共有しているならば、彼らは状況の定義を共有していることになる[3]。 精神分析家のジェシカ・ベンジャミンは『愛の絆』の中で、「間主観性の概念は、ユルゲン・ハーバーマス(1970)の社会理論に起源を持ち、彼は『相互理 解の間主観性』という表現を用いて、個人の能力と社会的領域を指定している」と書いている[4]: 19 精神分析学者のモリー・マクドナルドは2011年に、この用語の「潜在的な起源点」は、ジャン・ヒポライトが1955年に発表した「ヘーゲル現象学におけ る人間的状況」に関するエッセイの中でl'inter-subjectivitéを使用したことにあると主張している。 [しかし、ハーバーマスとヒュポリテが引用している現象学者エドムント・フッサールがこの用語を最初に開発し、その後、エディット・スタイン、エマニュエ ル・レヴィナス、モーリス・メルロ=ポンティといった他の現象学者によって精緻化された。 |
Philosophy Contemporarily, intersubjectivity is the major topic in both the analytic and the continental traditions of philosophy. Intersubjectivity is considered crucial not only at the relational level but also at the epistemological and even metaphysical levels. For example, intersubjectivity is postulated as playing a role in establishing the truth of propositions, and constituting the so-called objectivity of objects. A central concern in consciousness studies of the past 50 years is the so-called problem of other minds, which asks how we can justify our belief that people have minds much like our own and predict others' mind-states and behavior, as our experience shows we often can.[6] Contemporary philosophical theories of intersubjectivity need to address the problem of other minds. In the debate between cognitive individualism and cognitive universalism, some aspects of thinking are neither solely personal nor fully universal. Cognitive sociology proponents argue for intersubjectivity—an intermediate perspective of social cognition that provides a balanced view between personal and universal views of our social cognition. This approach suggests that, instead of being individual or universal thinkers, human beings subscribe to "thought communities"—communities of differing beliefs. Thought community examples include churches, professions, scientific beliefs, generations, nations, and political movements.[7] This perspective explains why each individual thinks differently from another (individualism): person A may choose to adhere to expiry dates on foods, but person B may believe that expiry dates are only guidelines and it is still safe to eat the food days past the expiry date. But not all human beings think the same way (universalism). Intersubjectivity argues that each thought community shares social experiences that are different from the social experiences of other thought communities, creating differing beliefs among people who subscribe to different thought communities. These experiences transcend our subjectivity, which explains why they can be shared by the entire thought community.[7] Proponents of intersubjectivity support the view that individual beliefs are often the result of thought community beliefs, not just personal experiences or universal and objective human beliefs. Beliefs are recast in terms of standards, which are set by thought communities. Phenomenology Edmund Husserl, the founder of phenomenology, recognized the importance of intersubjectivity, and wrote extensively on the topic. In German, his writings on intersubjectivity are gathered in volumes 13–15 of the Husserliana. In English, his best-known text on intersubjectivity is the Cartesian Meditations (it is this text that features solely in the Husserl reader entitled The Essential Husserl). Although Husserlian phenomenology is often charged with methodological solipsism, in the fifth Cartesian Meditation, Husserl attempts to grapple with the problem of intersubjectivity and puts forward his theory of transcendental, monadological intersubjectivity.[8] Husserl's student Edith Stein extended intersubjectivity's basis in empathy in her 1917 doctoral dissertation, On the Problem of Empathy (Zum Problem der Einfühlung). Intersubjectivity also helps to constitute objectivity: in the experience of the world as available not only to oneself, but also to the other, there is a bridge between the personal and the shared, the self and the others.[citation needed] |
哲学 現在、間主観性は、哲学の分析的伝統と大陸的伝統の両方における主要なトピックである。相互主観性は、関係性のレベルだけでなく、認識論的、さらには形而 上学的なレベルにおいても重要であると考えられている。例えば、間主観性は命題の真理を立証し、対象のいわゆる客観性を構成する役割を果たすと仮定されて いる。 過去50年間の意識研究の中心的な関心事は、いわゆる「他心の問題」であり、私たちの経験がしばしば示しているように、人は自分とよく似た心を持ってお り、他者の心的状態や行動を予測できるという信念を、どのようにして正当化できるかを問うものである[6]。 認知的個人主義と認知的普遍主義の論争において、思考のいくつかの側面は、完全に個人的なものでも、完全に普遍的なものでもない。認知社会学の支持者たち は、間主観性-私たちの社会的認知について、個人的な見方と普遍的な見方との間でバランスの取れた見方を提供する、社会的認知の中間的な見方-を主張して いる。このアプローチは、人間は個人的あるいは普遍的な思考者である代わりに、「思考共同体」-異なる信念の共同体-に加入していることを示唆している。 思考共同体の例としては、教会、職業、科学的信条、世代、国家、政治運動などがある[7]。この視点は、なぜ各個人が他の個人と異なる思考をするのか(個 人主義)を説明する。しかし、すべての人間が同じように考えるとは限らない(普遍主義)。 間主観性は、それぞれの思考共同体が他の思考共同体の社会的経験とは異なる社会的経験を共有することで、異なる思考共同体に属する人々の間に異なる信念を 生み出すと主張する。このような経験は私たちの主観を超越したものであり、思考共同体全体で 共有できる理由を説明している[7]。間主観性の支持者は、個人の信念は多くの場合、 個人的な経験や普遍的で客観的な人間の信念ではなく、思考共同体の信念 の結果であるという見解を支持している。信念は、思考共同体によって設定される基準という観点から捉え直される。 現象学 現象学の創始者であるエドムント・フッサールは、間主観性の重要性を認識し、このトピックについて幅広く書いた。ドイツ語では、間主観性に関する彼の著作 は『フッサリアーナ』の第13巻から第15巻に収められている。英語では、間主観性に関する彼の最もよく知られたテキストは『デカルト的瞑想』である (『The Essential Husserl』と題されたフッサール読本で唯一取り上げられているのはこのテキストである)。フッサールの現象学はしばしば方法論的独在論で告発されて いるが、第五の『デカルトの瞑想』においてフッサールは間主観性の問題に取り組もうとし、超越論的でモナド論的な間主観性の理論を提唱している[8]。 フッサールの弟子であるエディット・シュタインは、1917年の博士論文『共感の問題について』において、共感における間主観性の基礎を拡張した。 間主観性は客観性を構成する助けにもなる。自分だけでなく他者も利用可能であるという世界の経験において、個人的なものと共有されるもの、自己と他者の間 に架け橋が存在するのである[要出典]。 |
Psychology Discussions and theories of intersubjectivity are prominent and of importance in contemporary psychology, theory of mind, and consciousness studies. Three major contemporary theories of intersubjectivity are theory theory, simulation theory, and interaction theory. Shannon Spaulding, Assistant Professor of Philosophy at Oklahoma State University, wrote: Theory theorists argue that we explain and predict behaviour by employing folk psychological theories about how mental states inform behaviour. With our folk psychological theories, we infer from a target's behaviour what his or her mental states probably are. And from these inferences, plus the psychological principles in the theory connecting mental states to behavior, we predict the target's behaviour (Carruthers and Smith 1996; Davies and Stone 1995a; Gopnik and Wellman 1992; Nichols and Stich 2003).[9] Simulation theorists, on the other hand, claim that we explain and predict others' behaviour by using our own minds as a model and "putting ourselves in another's shoes"—that is, by imagining what our mental states would be and how we would behave if we were in the other's situation. More specifically, we simulate what the other's mental states could have been to cause the observed behaviour, then use the simulated mental states, pretend beliefs, and pretend desires as input, running them through our own decision-making mechanism. We then take the resulting conclusion and attribute it to the other person.[9] Authors like Vittorio Gallese have proposed a theory of embodied simulation that refers to neuroscientific research on mirror neurons and phenomenological research.[10] Spaulding noted that this debate has stalled in the past few years, with progress limited to articulating various hybrid simulation theories—"theory theory" accounts.[9] To resolve this impasse, authors like Shaun Gallagher put forward interaction theory. Gallagher writes that an "... important shift is taking place in social cognition research, away from a focus on the individual mind and toward ... participatory aspects of social understanding...." Interaction theory is put forward to "galvanize" the interactive turn in explanations of intersubjectivity.[11] Gallagher defines an interaction as two or more autonomous agents engaged in co-regulated coupling behavior. For example, when walking a dog, both the owner's behavior is regulated by the dog stopping and sniffing, and the dog's behavior is regulated by the lead and the owner's commands. Ergo, walking the dog is an example of an interactive process. For Gallagher, interaction and direct perception constitute what he terms "primary" (or basic) intersubjectivity. Studies of dialogue and dialogism reveal how language is deeply intersubjective. When we speak, we always address our interlocutors, taking their perspective and orienting to what we think they think (or, more often, don't think).[12] Within this tradition of research, it has been argued that the structure of individual signs or symbols, the basis of language, is intersubjective[13] and that the psychological process of self-reflection entails intersubjectivity.[14] Recent research on mirror neurons provides evidence for the deeply intersubjective basis of human psychology,[15] and arguably much of the literature on empathy and theory of mind relates directly to intersubjectivity. |
心理学 間主観性に関する議論や理論は、現代の心理学、心の理論、意識研究において顕著かつ重要である。間主観性に関する現代の3つの主要な理論は、理論理論、シ ミュレーション理論、相互作用理論である。 オクラホマ州立大学のシャノン・スポルディング助教授はこう書いている: 理論理論家は、精神状態がどのように行動に反映されるかについての民間心理学的理論を用いることによって、われわれは行動を説明し予測すると主張する。私 たちの民間心理学的理論によって、私たちは対象の行動から、その人の精神状態がおそらくどのようなものであるかを推測する。そして、これらの推論と、心的 状態と行動を結びつける理論における心理学的原理から、私たちは対象の行動を予測する(Carruthers and Smith 1996; Davies and Stone 1995a; Gopnik and Wellman 1992; Nichols and Stich 2003)[9]。 一方、シミュレーション理論家は、私たちは自分自身の心 をモデルとして使用し、「他者の立場に立って」、つまり、他者の 状況にいたら自分の精神状態はどうなり、どのように行動す るかを想像することによって、他者の行動を説明し予測すると 主張する。より具体的には、観察された行動を引き起こすために相手の精神状態がどうであったかをシミュレートし、シミュレートされた精神状態、見せかけの 信念、見せかけの欲望を入力として使い、自分の意思決定メカニズムに通す。ヴィットリオ・ガレーゼのような著者は、ミラーニューロンに関する神経科学的研 究や現象学的研究に言及した、身体化されたシミュレーションの理論を提唱している[10]。 この行き詰まりを解決するために、ショーン・ギャラガーのような著者は相互作用理論を提唱している。ギャラガーは、「......社会的認知研究におい て、個人の心への焦点から、......社会的理解の参加的側面への重要なシフトが起こっている」と書いている。インタラクション理論とは、相互主観性の 説明における相互作用的転回を「活気づける」ために提唱されたものである[11]。ギャラガーはインタラクションを、2つ以上の自律的な主体が共同制御さ れた結合行動に従事することと定義している。例えば、犬を散歩させるとき、飼い主の行動は犬が止まったり匂いを嗅いだりすることによって規制され、犬の行 動はリードと飼い主の命令によって規制される。つまり、犬の散歩は相互作用的なプロセスの一例なのである。ギャラガーにとって、相互作用と直接知覚は、彼 が「第一次」(あるいは基本的)間主観性と呼ぶものを構成している。 対話と対話主義の研究は、言語がいかに深く間主観的であるかを明らかにしている。このような研究の伝統の中で、言語の基礎である個々の記号やシンボルの構 造は間主観的であり[13]、自己反省の心理的プロセスは間主観性を伴うと論じられてきた[14]。 [14] ミラーニューロンに関する最近の研究は、人間の心理学が深く間主観的な基盤を持っていることを示す証拠であり[15]、共感や心の理論に関する文献の多く は、間違いなく間主観性に直接関係している。 |
In child development Colwyn Trevarthen has applied intersubjectivity to the very rapid cultural development of new born infants.[16] Research suggests that as babies, humans are biologically wired to "coordinate their actions with others".[17] This ability to coordinate and sync with others facilitates cognitive and emotional learning through social interaction. Additionally, the most socially productive relationship between children and adults is bidirectional, where both parties actively define a shared culture.[17] The bidirectional aspect lets the active parties organize the relationship how they see fit—what they see as important receives the most focus. Emphasis is placed on the idea that children are actively involved in how they learn, using intersubjectivity.[17] Across cultures The ways intersubjectivity occurs varies across cultures. In certain Indigenous American communities, nonverbal communication is so prevalent that intersubjectivity may occur regularly amongst all members of the community, in part perhaps due to a "joint cultural understanding" and a history of shared endeavors.[18] This "joint cultural understanding" may develop in small, Indigenous American communities where children have grown up embedded in their community's values, expectations, and livelihoods—learning through participation with adults rather than through intent verbal instruction—working in cohesion with one another in shared endeavors on a daily basis. Having grown up within this context may have led to members of this community to have what is described by some as a "blending of agendas",[18] or by others as a "dovetailing of motives".[19] If community or family members have the same general goals in mind they may thus act cohesively within an overlapping state of mind. Whether persons are in each other's presence or merely within the same community this blending of agendas or dovetailing of motives enables intersubjectivity to occur within these shared endeavors.[18] The cultural value of respeto may also contribute to intersubjectivity in some communities; unlike the English definition of 'respect', respeto refers loosely to a mutual consideration for others' activities, needs, wants, etc.[18] Similar to "putting yourself in another's shoes" the prevalence of respeto in certain Indigenous American communities in Mexico and South America may promote intersubjectivity as persons act in accordance with one another within consideration for the community or the individual's current needs or state of mind. Shared reference during an activity facilitates learning. Adults either teach by doing the task with children, or by directing attention toward experts. Children that had to ask questions in regard to how to perform a task were scolded for not learning by another's example, as though they were ignoring the available resources to learn a task, as seen in Tz'utujil Maya parents who scolded questioning children and asking "if they had eyes".[20] Children from the Chillihuani village in the Andean mountains learned to weave without explicit instruction. They learned the basic technique from others by observing, eager to participate in their community. The learning process was facilitated by watching adults and by being allowed to play and experiment using tools to create their own weaving techniques.[21] |
子どもの発達 コルウィン・トレヴァーテンは、生まれたばかりの乳児の非常に急速な文化的発達に間主観性を適用した[16]。研究によると、赤ん坊の頃、人間は生物学的 に「自分の行動を他者と調整する」ように配線されている[17]。さらに、子供と大人の間の最も社会的に生産的な関係は双方向的であり、両者が積極的に共 有文化を定義している。子どもは間主観性を用いて、どのように学ぶかに積極的に関与するという考え方が重視されている[17]。 文化を超えて 間主観性がどのように生じるかは文化によって異なる。ある種のアメリカ先住民のコミュニティでは、非言語的コミュニケーショ ンが非常に普及しているため、「共同文化的理解」と共有された努力の歴史が一因となって、コミュニティの全メンバーの間で間主観性が定期的に生じることが ある[18]。この「共同文化的理解」は、子どもたちがコミュニティの価値観、期待、生業に組み込まれて成長し、意図的な言葉による指導ではなく、大人と 一緒に参加することを通して学習し、日常的に共有された努力の中で互いに団結して働いているような、小規模なアメリカ先住民のコミュニティで発達すること がある。このような背景の中で育ったことで、このコミュニティのメンバーは、ある人は「意図の融合」[18]、またある人は「動機の一致」と表現する [19]。人々が互いに存在しているか、単に同じ共同体の中にいるかにかかわらず、このような意図の融合や動機の鳩合によって、これらの共有された努力の 中で相互主観性が生じることが可能になる[18]。 英語の「尊敬」の定義とは異なり、レスペトは他者の活動、ニーズ、欲求などに対する相互的な配慮を緩やかに指している[18]。メキシコや南米の特定のア メリカ先住民のコミュニティにおけるレスペトの普及は、「他者の立場に立つ」ことに似ており、コミュニティや個人の現在のニーズや心の状態を考慮しなが ら、人々が互いに合わせて行動することで、相互主観性を促進する可能性がある。 活動中の共有参照は学習を促進する。大人は、子どもたちと一緒に課題を行うことによって教えるか、専門家に注意を向けることによって教える。タスクを実行 する方法に関して質問しなければならない子どもたちは、他の人の手本を見て学んでいないとして叱られ、まるでタスクを学ぶために利用可能なリソースを無視 しているかのようであった。これは、質問する子どもたちを叱り、「目があるかどうか」を尋ねるツツウジルマヤの親に見られたことである[20]。 アンデス山脈のチリワニ村の子どもたちは、明確な指示なしに機織りを学んだ。彼らは自分たちのコミュニティに参加することを熱望し、観察することによって 他の人から基本的な技術を学んだ。その学習プロセスは、大人を見たり、道具を使って遊んだり実験したりすることを許可されたりすることによって促進され、 彼ら独自の織物技法を生み出した[21]。 |
Consensus reality Intersubjective verifiability Intersubjective psychoanalysis Perspectivism |
コンセンサス・リアリティ 主観的検証可能性 間主観的精神分析 パースペクティヴィズム |
https://en.wikipedia.org/wiki/Intersubjectivity |
★授業シラバス案:「現象学の基礎理論」
回 |
講義題 |
内容 |
現象学入門 : 新しい心の科学と哲学のために
/ ステファン・コイファー, アントニー・チェメロ著 ; 田中彰吾, 宮原克典訳 |
現象学入門 : 歴史的観点から
/ セッポ・サジャマ, マッティ・カンピネン著 ; 木下喬訳, 東北大学出版会 , 2020 |
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第1章 カントとヴント—18世紀と19世紀の背景 |
第1部 内容理論の歴史: 序論/ 要約と結論 |
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2 |
第2章 エトムント・フッサールと超越論的現象学 |
アリストテレスからオッカムまでの指向性 |
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3 |
第3章 マルティン・ハイデガーと実存的現象学 |
経験論とその批判者 |
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4 |
第4章 ゲシュタルト心理学 |
ブレンターノと指向性の復活 |
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5 |
第5章 モーリス・メルロ=ポンティ—身体と知覚 |
トワルドフスキーの対象理論 |
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6 |
第6章 ジャン=ポール・サルトル—現象学的実存主義 |
マイノングの対象理論 |
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7 |
第7章 ジェームズ・J.ギブソンと生態心理学 |
内容理論 |
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8 |
第8章 ヒューバート・ドレイファスと認知主義への現象学的批判 |
フレーゲとフッサール |
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9 |
第9章 現象学的認知科学 |
第2部 いくつかの特別な論題: 知覚の指向性 |
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10 |
射映と地平 |
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11 |
De Re 作用の問題 |
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情動の指向性 |
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まとめとおさらい |
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リンク
文献
その他の情報