構造的不正義
Structural injustice
解説:池田光穂
力の発露としての暴力がなくても、あるいは表面的に見えなくても、「家庭内暴力」や「スウェット・ショップ(=低賃金で隷属環境下での労働現 場)」など、不正義状態が「低強度」でおこなわれていることは、構造的暴力(structural violence)発露の前駆的状態(precursor)であ り、そのような状態を構造的不正義(structural injustice)と命名してもよいだろう(Young 2006)。そして、構造的不正義はいまや全地球を覆っている(→「国 際倫理学」)。それが、新植民地主義の蔓延によるものなのか、世界同時多発発生によるものかは論者の見解によるだろうが、多くの専門家の見解は合 致しているだろう(Young 2006)。
さて、別のページにおいて指摘したが、暴力行使において行為者が特定しにくいものを構造的暴力とよぶ。行為者が特定しにくい暴力行使の特徴は、 力の行使と力の観念の間に複雑な関係があり、行使と観念の間に明確な区別がつきにくい ために、ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung, 1969)は人為的暴力や直接的暴力[→彼は後に行為者暴力とまとめる]との対概念として、この概念を提唱している[ガルトゥング 2003:117]。
ちなみ、トーマス・ホッブスによると、戦争は単に武力衝突が行われている状態の
ことではなく、継続する時間と、それを継続させようとする志向性があることが、その定義に含まれるという。したがって、戦争とは、ホッブスに従うと、極めて「構造的なもの」である。
構造的暴力は、国家や権力集団が、合法性を装い持続的におこなわれる、人権・道徳・排外的な暴力の行使である。それゆえ、構造的暴力は、国家、 民族、人種、権利、正義、性別、宗教的ドグマの名の下に行使され、平和的や人道的であると正当化されることがある。
ガルトゥングは構造的暴力の形態を次の3つに分類する[ガルトゥング 2003:118)つまり、1)抑圧——政治的なるもの、2)搾取——経済的なるもの、そして、3)疎外——文化的なるもの、である。文化はあくまでも社会の成員にときに、暴力的になる危険性をもつことも織り込み済みである。
平和維持のための軍隊の派兵や、途上国における当事者たちの同意なしの不妊手術や投薬は、典型的な構造的暴力である[と私は考える]が、このよ うに構造的暴力を捉えると、構造的暴力がはたして通常の暴力的行使と同じものであるがどうかという点については、いまだ議論の余地があり、また、誰がそれ を構造的暴力と認定するかという点で、極めて論争的な概念である。
ガルトゥングの構造的暴力の概念が、権力概念と区別をつかないとか、あらゆるタイプの間接的暴力に適用可能であるということは、彼の理論が、い かに理性 的合理的モデルに依存しており、そのモデルの限界についてガルトゥングは自覚が足らず、これらの概念を鍛えようとも、その背景には奇妙な神学的弁論(=暴 力を理性により理解し、統御する)が見え隠れしている。
問題(課題)は、それをどのように感じるのかということではない。それに対してどう行動するのかということだろう。また、そのような行動を正当 化する論理(これは「21世紀の正義論」と呼べるだろう)をどのように構築するのかにかかっている。
●サルトルの「プラクティコ・イナート」Practico-inert(実践的無力?), objectification の概念
Having arisen as the result of
a sociopolitical struggle, but no
longer responsive to the needs it was intended to serve. 社会政治的な闘争の結果として生まれたが、もはやその目的のニーズに応えることはできない。
"The “practico-inert” is a term coined by Jean-Paul Sartre in Critique of Dialectical Reason (1960), defined as a field of activity, which despite being the outcome of a successful struggle by some group, has ceased to be responsive to that group’s needs. Bureaucracy is the classic example of a “practico-inert.” The “practico-inert” is the same as “objectification,” but Sartre has a particularly negative view of the prospects for social struggle, perhaps reflective of his experience as a “fellow-traveller” of the French Communist Party. The “practico-inert” responds to the subject’s continued struggle by accommodation, resisting the action of the Subject to which it owes its existence. Thus, whereas the activity of the group is intelligible as dialectic, Sartre describes the movement of the natural world and the “practico-inert” as an “anti-dialectic.” The demobilisation of a subject in the aftermath of a successful struggle, and struggles which achieve victory in the form of binding agreements, bureaucratic incorporation or legal regulations, typify Sartre’s concerns with the “practico-inert.” Once a group “cools down” it leaves behind only an inert trace of its activity."- Practico-inert.
「プラクティコ・イナート」とは、ジャン=ポール・サルトルが『弁証法的理性批判』(1960年)の中で用いた造語で、ある集団による闘争の成
功の結果であるにもかかわらず、その集団のニーズに反応しなくなった活動分野と定義されている。官僚制は "プラクティコイナート
"の典型的な例である。実践的不活性」は「客観化」と同じであるが、サルトルは、フランス共産党の「仲間」としての経験を反映してか、社会闘争の展望につ
いて特に否定的な見方をしている。実践的不活性者」は、主体が闘争を続けることに対して、その存在を負っている主体の行為に抵抗し、融和することで対応す
る。このように、集団の活動が弁証法として理解できるのに対し、サルトルは自然界の運動と「実践的不活性者」を「反弁証法」と表現する。闘争の成功の余波
を受けた主体の復員や、拘束力のある協定、官僚的な法人化、法的規制といった形で勝利を収めた闘争は、サルトルの "実践的不活性者
"に対する懸念を象徴している。ひとたび集団が "冷え "ると、その活動には不活性な痕跡しか残らない。」
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文献
◆ 練習問題
リア充の焚書や芸術の破壊の写真をみていると、まさにデジタル書籍における焚書や検閲というものは、どのようにして成立するのだろう かのか?と 考えてみたくなる。そして、1817年にドイチェ・ブルンシャフト愛国学生団体の大学における焚書があったことは、1933年5月10日のドイツにおける 焚書に十分立派な先駆形態であることがわかる。しかしながら、前者の事件にはプロシア政府は、その愛国的行為の拡大を阻止しようとし、後者のナチは、積極 的に人民を動員して、反ナチ思想とレッテルづける書籍を焚書破壊する。
左はナチスによる焚書のための図書の搬出。右はピノチェトの軍隊による共産主義・社会主義思想の弾圧。
◆ 構造的暴力・戦争をテーマにする内部リンク集
◆ その他の情報
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