心身二元論のジレンマ
Artificial intelligence, AI
解説:池田光穂
エリザベートのデカルトに対する1643年5月16日の手紙(A.T.,III, 661)で「思惟する実体にすぎない人間の魂は、意志の行為にあたりまして、どのようにして身体の精気=エスプリを決定することができますかを、どうか説明してくださいま
せんか?」と彼女は質問した。それに対して、デカルトは、思惟する精神(res cogitans)と延長をもつ物体(res extensa)の結合について彼女が曖昧な感じを
えるのは、彼女があまりにも注意深い省察をなすからなので、その結合は感覚を通じ
て、ただ生活と日常生活によってのみ明らかにされると答えた。これは、後者のデカルトが、一切の感覚を否定して、省察を徹底し、疑いえない
精神(cogito)のみ認める者の返答としては(結果として懐疑論を徹底化した者としては)あまりに安易ではないか?
■派生 する問題としての心身二元論
「精神を身体から切り離して考える代表は、17世紀に活躍した近代西洋哲学の父デカルトである。彼は、一切の先入観を排し、肉体的な感覚や 肉 体の存在自体まで含めたあらゆる事象をまず疑うことが、真理に至る唯一の方法だと考えた。「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉は、それらを疑いにか けている間も私自身は何者かでなければ、その自分の思考を保証しえない、という彼の主張を示している[デカルト 1978]。彼は、この考える主体こそ精神であると考えた。このように、肉体から精神を切り離し精神は肉体を支配するとする彼の考え方は、心身二元論と呼 ばれる。デカルトの二元論は、精神に高い地位を与える(=至高の精神)が、それはまた同時に卑しい肉体という容器(=肉体という牢獄)に幽閉されている事 実を認めなければならない。これはプラトン以来の、精神の自由のジレンマ(=精神は肉体という牢獄から解放されたいと願うが、肉体のない主体[=精神]は 存在しえない)といわれる」(池田光穂「心と社会」『医療人類学のレッスン』)
「デカルト二元論などと訳知り顔で主張することが(一面で正しいにも関わらず)どれほど表面的な理解であり、恥知らずなことであることがよ く わかるであろう。デカルトの心身二元論の矛盾あるいはアイロニーを批判したギルバート・ライル「機械の中の幽霊」という表現は、それから300年後に発せ られることになる」(延長をもつ実体)
■「ジョン・サールによる一人称的知識の復権」より
「要
点は、知識が客観的・三人称的・物理的事実であるかぎりは、その知識およぶ範囲からは必然的にとりこぼされてしまう現実の現象がある、
ということだ。現実の現象とは、かたや色の経験であり、かたやコウモリの感覚である。これらは主観的・一人称的・意識的な現象だ。……私はある種の存在物
(エンティティ)、つまり私の色の経験とある関係を結ぶ。コウモリはある種の存在物、つまりコウモリであるとはどのように感じることかという経験とある関
係を結ぶ。世界にかんする完全な三人称的な記述は、これらの存在物をとりこぼす。そ
れゆえ、その記述は不完全である。メアリーとコウモリの専門家の例は、 その不完全さを示している」(サール 2006:133)。
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Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099