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経験論と主体性

Empirisme et subjectivité : essai sur la nature humaine selon Hume

池田光穂

第1章 認識の問題と道徳の問題 ・ひとつの人間科学の構想(5)
・精神・想像・観念の三位、これが経験、経験は自然と対比的
・因果性の特権(10)
・原因を探求するな、その結果=効果を探れ(11)
・連合(12)
・主体性とは、自己を超出しながらも受動的なもの(14)
・精神は能動化されて、主体に生成していく(14)
・原子論
・連合諸原理(17)
・精神はどのようにしてひとつの自然に生成するのかが、ヒュームの哲学の問題(17)
・超出とは(19)
・理性は情感(サンチマン)(21)
・主体が変様し、そしてその心理学が主体の哲学になる、それこそが合理主義が失ったのものである(21)
・原子論〈対〉連合説
情念は精神に恒常性の内容を提供し、実践的かつ道的活動を可能にし、歴史にその意味を与えるのである。そうした二重の運動なくしては、人間的自然さえ存在しないだろうし、想像は空想にとどまるだろう。だが、対応関係はそれで終わりというわけではない。(25)
・科学の研究対象は、人性である(25)
・実践に関する理論(26)
・「私の指のかすり傷よりも世界全体の破壊を好んだりしても、理性に反することにならない」(27)『人性論(4)』p.17
・実践の(1)は知性判断
・実践の(2)は道徳

第2章 文化の世界と一般規則 ・「道徳心の本質とは、是認することおよび否認することである。わたしたちをして称賛および非難をさせるような情感(サンチマン)には、つまり美徳を規定する快および悪徳を規定する苦には、或る独自の本性がある」(33)
・「共感はわたしたちを一般性へと誘うのではあるが、この一般性そのものの裏側はある種の偏りであり「感情の不平等」であって、この不平等は、共感のなかで、わたしたちの自然[本性〕の特徴としてわたしたちに与えられているのである」(35)
・「わたしたちの自然[本性]が道徳的であるというわけではなく、私たちの自然のなかにこそわたしたちの道徳がある」(35)
・人間は共感するもの(37)
・「共感が変化しても、わたしたちの敬意は変化しない」(39)
・一般規則(41)
・アフェクションは合理性(理性)に対立する。アフェクションは自然と同じだが、同時にマインドを派生する(46)
・欲求は自然、欲求の構造は文化(45)
・人間存在の無根拠性(49)
社会の本質は、法ではなく制度である(49)
・《自然権》に反対するヒューム(49)
・「社会とは、功利性にもとづくもろもろの黙約の総体であって、契約にもとづくもろもろの責務の総体ではない」(50)
・功利性は制度を説明しない(53)
・人間は本性を変えられない(59)→人間ができるのは、自分の状況を変えて、正義に近づき、不正から遠ざけることだけだ(→「研究倫理」「ELSI」)
・「真の道徳は、人間的自然を変えるのではなく、人間自然を悪しき面に勝利を収めさせないようにする客観的でかつ人為的な条件を考案することだ」。(59)
第3章 道徳における、そして認識における想像の能力 ・(ヒューム自身の弁)「悲劇の作り事は、たんに悲しみを減らし弱めることによってではなく、むしろこうい言ってよければ新たな情感を注入することによって、情念を鎮めるのである」(72)
・「人為は、文化の直面目な世界でもある。自然と文化の区別は、まさしく、自然の諸 原理の単純な結果=効果と複雑な結果=効果の区別あえる。そしてヒュームが、『人性論』の全体にわたって動物心理学の諸問題に対する変わらぬ関心している のは、おそらく、動物は文化(=教養)なきひとつの自然であるからであろう」(76)
・権利はどこまでも連合主義的なものだ(78)
・「空想の錯覚は、文化の現実である。文化の現実は、知性の観点からすればひとつの錯覚であるのだが、しかし、知性がそうした「空想の]錯覚を消散させることができず、またそうするべきでもないひとつの領域で、文化の現実は肯定されるのである」(80)
・「問題の核心は、情念と想像の諸関係のなかにある」(81)
・「想像の傾きとは、現在から未来へ赴くということだ」(83)
・「ようやくここで、ヒュームの希望にひとつの意味を与えることによって、自我[私〕の問題を解決することができはしないだろうか。いまやわたしたちは、主体性という観念が何であるのかを言うことができる。主体[従わされるもの〕とは、諸観念のコレクシヨン[所与〕に属する一性質ではなく、諸観念のコレクションが性質づけられることなのである」(84)
・「人間的自然は、《自然》の観察や《自然》の経験という回り道を通る。ヒュームによれば、まさしくそこに本質的な点がある」(87)
・習慣の本質(88)、ヒューム自身の弁「習慣は、自然の諸原理のひとつにほかならず、みずからの力を、そうした[自然という]起源から引き出すのである」(88)
・ヒューム自身の弁「経験とは、過去における諸対象のいくつかの様々な連接を、私に教えてくれる原理であるとは、未来においてそれと同じことを期待するよう、私に決心させる別の原理である。それら二つの原理は、互いに結びついて想像に働きかける」(90)
・「すなわち、経験は、恒常的に連接されるべき諸事例が精神による観察に対して現前するという原理であり、習慣は、その同じ諸事例を観察する精神のなかでその諸事例が接合されるという原理である。その意味で、ヒュームは、因果性に関してつねに、結び合わされた二つの定義を与えている」つまり「ひとつの対象から他の対象への推断、および、互いに似ている諸対象の接合」である(93)
・「想像は、一般的なものと偶発的なものを混同して信念を偽造することなしには、信じるということをしない。習 慣という原理は、経験を偽造することなしには、また同時に虚構的な反復を援用することなしには、けっして経験を援用しない。それゆえに、事後の反省が必要 になるのであって、この反省は、矯正として、除去として、第二の種類の[矯正的な]規則として、すなわち一般的なものと偶発的なものとの量化された区別の 基準として、はじめて与えられるのである」(98)
・ヒュームの弁「一般規則を遵守するというのは、ほとんど哲学的ではない種類の見込みであるが、それでもなおわたしたちは、そうした規則を遵守することによってはじめて、すべての非哲学的見込みを矯正することができるのである」(100)
第4章 神と世界 ・多神論と有神論(103)
・宗教心とは人間の想像の[さらに逸脱の]産物(104)
・「偶像崇拝者とは、「技巧的な[人為的な]生活」を送る人間であり、異常なことがらを本質に仕立あげる者であり、「《至上の存在》への直接的な奉仕」を探し 求める者である」(104)
・「ヒュームは、『自殺論』のなかで、例外に関するその理論の一例を、次のように分析している。自殺は、《神》へのわたしたちの侵犯ではなく、社会へのわたしたちの義務に対する侵犯でもない。自殺 は、「家を建てに不敬虔ではなく」、例外的ないくつかの事情において利用すべき人間的能力である」(108)
・哲学は、ここで文化において『迷信に対する実践的闘争』として完結する(109)
・ヒュームの弁:「信仰によって動かされる者は、何人もおのれ自身のうちに持続している奇跡を自覚しており、そうした奇跡は、その人の知性の原理をすべて崩壊させ、その人に、慣習や経験にもっとも反したことを信じる決意を与えるのである」(110)
・「想像は、諸感覚機能だけで行き当たりばったりになさた経験のまったく偶発的でしかない内容を、洗練された一般的 な経験として、知性に提供するのである」(116)
・「ヒュームによれば、矛盾は、拡張と反省、想像と理性、諸感覚機能と知性のあいだで肯定される」(119)
・「想像と理性とのそうした感性的な活動は、両者の調停[和解〕それは、或る矛盾の執拗な存続であり、わたしたちは、矛盾する各項を次々に把握してゆくだけである」(121)
・「それは、妄想である。虚構が原理へと生成しているとき、反省は反省することをやめはしないが、ただし、もはや矯正することはできない。そのとき、反省は、妄想的な妥協のなかに身を投じるのだ」(122)
・「古代哲学は、実体、実体形相、偶有性、隠れた性質というかたちで、妄想を鍛造している。つまり「暗闇の幽霊」をつくりあげている」(122)
・それ(=誤った理性、理性がまっくないかを選ぶしかない方途)は痴呆状態だ。「痴呆状態とは、そうしたことなのである。精神のなかで、理性と妄想とが分離可能であること、すなわち、永続的で有無を言わせない普遍的な諸原理と、変わりやすく空想的で不規則な諸原理とが分離可能であること、これを期待するのは、だからこそ、当然の結果として無駄であろう。近代哲学はそれを期待しているが、それは近代哲学の間違いである。わたしたちは、想像の示唆に逆らってまで知性を選択する手段はもちあわせていないのである」(124)
・「痴呆は、精神に委ねられた人間的自然〔人間本性]であり、良識〔理性〕は、人間的自然に委ねられた精神である。一方は、他方の裏返しなのである」(125)
第5章 経験論と主体性 ・主体性という謎(127)——主体性とはどのようなものものなのか?
・「人間は、いかなる権利をもって、自分が知っている以上のことを肯定するのか。わたしたちは、感覚可能な諸性質と自然の諸能力とのあいだに、或る連結を、すなわち認識されていない連結を推断する」(128)
・「そこで問題はこうなる。どのようにして主体は、所与のなかで、所与を超出するようなものとして構成されうるのか。なるほど、主体それ自身もまた与えられる。なるほど、所与を超出するもの[主体]もまた与えられるもの[所与]である」(129-130)
・所与とはなにか(131)
・精神の流れは実体ではない(133)
所与、つまり、精神は自分自身以外に拠り所をもとめるしかない(136)
・期待と習慣(142)——期待は習慣であり、習慣は期待。
・「周知のように、ヒュームによれば、複雑な諸関係によって規定されたいくつかの占有状態がある。たとえば、社会の確立以前では、現時点での占有、ひとた び社会が確立されれば、先占、時効、従物取得、相続がそれである。しかし、そうした占有状態を所有の権原に仕立てあげているのは、もっぱら習慣と期待とい う潜勢力である。ヒュームの独自性は、まさにそうした潜勢力の理論にある。すなわち、期待とは、習慣が遂行する過去と現在との総合である。期待、つまり未 来は、主体が精神のなかで構成するそのような時間の総合である」(143) 
・時間と主体性(144)
・「時間は主体とたいへん深く関係しており、主体はわたしたちに時間の総合を提示するほどであって、ひとりこの総合のみが生産的で創造的で考案的[発明的]なものである——それがもつとも的確な言い方であろう」(144)→主体が時間の総合として現前する(146)
・「諸君が、物体の本性を自分の過去の経験から学び知ったのだと主張しても無駄である。物体の隠れた本性、ひいては物体のすべての結果=効果およびすべて の影響は、物体の感覚可能な諸性質が変化しなくても、変化しうるのである。そうしたことは、ときおりは、そしていくつかの対象に関しては生じている。しか し、なぜそうしたことは、つねに、そしてすべての対象に関して生じないのだろうか。いかなる論理が、いかなる推理過程が、そのような想定から、諸君を守っ ているのだろうか」(147-148)
・主体が精神のなかで形成するときに、時間は変形される。
・情念の生産(151)
・「どのようにして主体は諸コレクションのなかで構成されるのか、……関係は関係の諸項に対して外在的である。たとえば、ジェイムズだと言うとき、彼は原 則的にはそれ以外のことを語っていず、ラッセルがときもまた同様なのである。わたしたちは、その命題のなかに、すべての経験論に共通する点を見なければな らない」(154)
・関係は虚構なのだ(156)
・主体が精神へと成長するだけでなく、そうしなければならない。なぜなら、そうでなければ主体は精神のなかで指示されることはない(158)
・関係は外在的(159)
・ヒューム自身の弁「すなわち、何にでもかまわず手当たりしだいに二つの観念を選んでみても、それらのあいだにはかならず類似があり、しかもかならず接近もあるとさえ言ってよい」(161)→観念連合の最初の提唱者としてのヒューム
・情念の諸原理(164)
・主体はその本質において実践的(165)
第6章 人間的自然の諸原理 ・「原子論とは、関係が観念に対して外在的であるかぎりでの、観念の理論である」(167)
・主体は所与のなかで構成される、関係は観念に対して外在的である、という問いをたてる(171)
・ヒューム自身の弁「問題を正しく考察すれば、理性とは、わたしたちの心の驚嘆すべき本能にほかならず、この本能は、わたしたちを或る一連の観念に沿って導き、そしてそれらの観念の特殊な状況と関係に応じて、それらの観念に特殊な性質を付与するのである」(172)
・「要するに、経験論を、認識は経験から生ずるとする理論として定義するのは、不可能なように思われるのだ。もとより「所与」という語の方が、いっそう適切である」(173)
・カントとヒューム(175--)
・「事実、経験論は、想像力の哲学であって感覚機能の哲学ではない。……〈どのようにして主体は所与のなかで構成されるのか〉という問いは、〈どのように して想像はひとつの能力へと生成するのか〉」という問いを意味している。ヒュームによれば、想像像がひとつの能力へと生成するのは、表象=再現前化の再生 の一法則、再生のひとつの総合が原理の結果1=効果のもとで構成されるかぎりにおいてである。ではカントによる批判はどこから始まるのか。いずれにせよカ ントは、認識の問題を立てうる場としては、構想力(想像力)がたしかに最良の場であるということを信じて疑わない。カントは三つの総合を区別し、彼自身わ たしたちに、それら3つのうち構想力の総合を、他の2つの総合の根底となるものとして提示している」(176-177)
・カントは、所与を主体に委ねる必要がある。そして自然が理性的存在の本性=自然に合致することを必要とする。
・カントもヒュームも、認識の諸原理は経験に由来しない。しかし、ヒュームでは、思考のなかで超出するもの(=超越論的なるもの?)は何もない。その諸原 理は、自然の諸原理に由来し、経験をかたちづくるが、経験のための対象を必要不可欠としない。ヒュームが、カントに対して「経験論」的と言われる理由。 (177-178)
・主体=無根拠=あるがまま?(178-179)
・合目的性(purposiveness)(178)——主体が所与に、所与の諸能力に、《自然》に合致すること(179)
情念という楽器(179)
・主体性はプロセス(180)
・主体の分解(193)
結論 合目的性(purposiveness) ・功利性(200)
・主体=空想の効果(202)
・ヒュームの弁「記憶、感覚機能、および知性はすべて想像にもとづいている」(202)
・感覚的印象(205)「感覚的印象は精神の起源であり、空想の財産である。関係が設定されてし まえば、感覚的印象は、その印象に関係づけられるあらゆる観念におのれの生気を伝達しようとする傾向をもつ」(205)
・精神=空想(209)
・志向的合目的性(intentional purposiveness)(211)
・「主体は期待するだけなく、自己自身を保存しもする。……わたしたちは、信じそして考察することによって、所与そのものをひとつの[人間的]《自然》に仕上げるのである(213)
・「哲学は、わたしたちがおこなうことについての理論として構成されるべきであっ て、存在するものについての理論として構成されるべきではない。わたしたちのおこなうことにはそれなりの諸原理がある。そして《存在》とは、わたしたちが おこなうことにはそれなりの諸原理そのものに総合的に関連づけられる対象としか。けっして把握されないものなのである」(214)

●ヒューム論(1972)

1. 経験論の意義

2. 関係の本性

3. 人間の本性

4. 虚構

5. 想像

6. 情念

7. 民衆的で科学的な哲学

1. 経験論の意義 ・経験論の意義は、感官や感覚の内にない何かが、観念の内にあるのかという問いを肯定するか、否定するかに関して、合理論を逆転するもの
・生得性とアプリオリ性を批判するもの
・ヒュームの経験論は別のところにある
・一種のSFの宇宙、つまり虚構の世界に別の生命体がやってくる。我々の世界に、我々と言う生命体がやってくる(→火星の人類学者
・フランシス・ベーコン:理論(法廷)→調査(科学理論)→実践(ヒューム)《虚構にみえる世界の実践》
・連合論
・法と正義の実践〜〜連合論の使命と真理(280)
2. 関係の本性 ・ヒューム「関係は関係する項目に対して外在的」
・関係性のパラドックス(280-281)
・関係する項目、→関係を内在させる
・関係が内在するような包括的で深層項を発見する
・連言「と」と関係
・ピエールはポールより小さい:この関係は外在的
・ピエールは内在項、ポールもまた関係項
・古典経験論……一切の起源、感覚の内、精神による感覚の操作
・ヒュームの経験論(=外在的関係を問う)は、「観念に、感覚印象の内にあるもの以外のもの、以上のものが含まれていないのは、関係する項目に対して(すなわち)印象や観念に対して関係が外在的で異質だからである」(281)
・ヒュームの思考は原子論と連合論の複式簿記でできている(282)
・精神の物理学:いかにして観念や感覚印象が空間と時間を産出する最小点に関連するかを示すもの。
・関係の論理学:いかにして関係がいつでも項に外在的な別の原理に依存しているにもかかわらず、項の間でできあがるかを示すもの
3. 人間の本性 ・関係とはなにか。関係とは私たちを与えられた印象や観念から現実には与えられていない何かの観念へ移行させれるもの(ジル・ドゥルーズ)
・関係:連合の原理、隣接の原理、類似の原理、原因性の原理→人間本性、特定の観念から別の観念へ。ことの帰結。私・世界・神概念の破壊。形而上学の頂点をなす
4. 虚構 ・虚構と自然はある仕方で経験論の世界に配分される
・自然宗教についての対話

ディア(啓示的宗教論者)

クレアンテス(自然宗教論者)

フィロン(懐疑論者)

・経験の超越などない(286)

5. 想像 ・連合の原理
6. 情念
7. 民衆的で科学的な哲学 ・人性論、25歳

●自然宗教についての対話

ディア(啓示的宗教論者)

クレアンテス(自然宗教論者)

フィロン(懐疑論者)

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