はじめに よんでください

よい死に方も悪い死に方もない!すべて生き残った人間達の思い込みにすぎない!

 How to play as good parson when you have time to die


第22 回生命表(厚生労働省,2015年)より(下線部で出典に、図をクリックすると拡大します)

池田光穂

2年ほど前に、大学院生向けの授業の「死に逝[ゆ] く人とのコミュニケーションを実演する:ディネ先住民チャーニーの死に方を学ぶ」といテーマの体験型の授業をおこなったことがある。

僕は、保健学や医療学で教えられる「看取り方」の勉 強というスタイルは看護技法の習得など必要なことは多いと思うが、すくなくとも「心構え」などの死に逝く人の気持ちを生きている人が忖度する教育などは、 全く無駄とは思わないが、なにか基本的な方向性が間違っていると思う人間である。

救急部に務めたことのある僕の敬愛する医師の友人 は、瀕死で担ぎ込まれ傷病患者を前に、基本処置すら覚束ない若い研修医に「ビビるな!死ぬのはお前じゃない!」と叱咤したそうだ。さすがに人事不省になっ ている患者ですら朦朧としたなかで自分について医師が部下にそう語ったら、落語ではないが途端に覚醒して「先生、見捨てないでください!」と叫ぶことだろ うと思う。現在では使われないかつてのカンフル剤、同様、少なくともこの言葉は患者にとって強力な〈心理的カンフル剤〉になったことだろうと思う。

また、別の医師は若い時に、高齢で幸せな末期を迎え つつある比較的コミュニケーションを良好にとっている老婦人患者に、不覚にもこう呟いたそうである「もう十分に人生を満喫されたわけですから死ぬことにつ いては、そんな怖くないんじゃないですか?」。そうしたらその婦人はちょっと真顔になって「先生は自分で死んだことがありますか?いろんなことを経験して きた私ですが、まだ死んだことがないで、多少なりとも不安で怖いし、ちょっとはドキドキしますよ」と。

僕はこのエピソードを思いだすたびに、この老婦人患 者は若い医者よりも数倍上手の〈名医〉になって、彼の臨床教育を立派に果たしたと思った。臨床死生学や緩和ケアに関する最近の着実な臨床経験の教育上の話 を僕はしばしば耳にするが、これらを凌駕する、ブラック気味だが小気味よい2つの教訓(=挿話)を聞いたことがない。

みなさんも僕も、死ぬときはどうも1回きりなようで す。是非、死ぬときにはこのような小気味のよい話の主人公になって、あの世で「あの人のように、私も死にたいなぁ」と言われたくありませんか?

練習問題

アクティブ・エイジングという言葉があります。その意味は「人びとが歳を 重ねても生活の質が向上するように、健康と参加と安全の機会をもっともふさわしいようにする過程のこと」です(→「アクティブ・エイジング」)。 では、私はこの講演で申し上げた、「よい死に方」の中に、アクティブ・エイジングの最終段階として位置づけできるでしょうか?それとも、私は(生きている 間に死のことを考えるなんて!)上記のアクティブ・エイジングに反したことを主張しているでしょうか?みんなで考えてみましょう!

私が会場の聴衆の方からいただいた宿題

「娘を五歳で亡くした人に対して先生は、その死を 『よい死』と言えるでしょうか?」という質問をいただきました。夭折ですよね。よい死とは言えないかもしれません。あるいは、僕たちが小児がん病棟の子供 たちの映像や、子供たちの闘病を知るにつけて「がんばれ!」とエールを送りたくなるのは、「まだ死ぬのは早い!」つまり「よい死に方」ではないものが、そ れぞれに年齢にはあるということをはからずも私の前提を暴露してしまいました。もっと考えてみます。

クレジット:市民フォーラム「看取り」で経験を語る会、主 催、大阪医科大学看護学部、2018年6月17日(日)13:30-16:00(公財)在宅医療助成「勇美記念財団」 助成。

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■私の現時点での結論(2019年8月6日)

「現在の僕の結論は、よい死に方も悪い死に方もない。人間には「ま、しょうがない死に方」と「酷い死 に方」あるいは「残念な死に方」の2タイプしかなく、それは生き残った人たちの身勝手な議論で、すでに死んだ人たちには(死後、化けて出る亡霊たちも含め て)なーんの関係もないものだということです。」

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その他の情報

おじさんのじこしょうかい

おじさん のなまえは、いけだ みつほとよびます。お じさんは、だいがくで、せんせいをしています。おじさんが、だいがくでおしえている、じゅぎょうは「ぶんかじんるいがく」といいます。そのなかでも「い りょうじんるいがく」というべんきょうが、おじさんのもっともとくいとするかもくです。ぶんかじんるいがく」というべんきょう は、いろいろなひとたちのじんせいやせいかつについてしらべます。それを「ふぃーるどわーく」 といいます。「ふぃーるどわーく」をとおして、ひとびとのじ んせいやせいかつについて、かきあらわした、ほん、しゃしん、びでお、ろくおん、などをまとめて、だれにでもつかえるようにしたものを「みんぞくし」とい います。おじさんは、「ぶんかじんるいがく」というべんきょうをとおして、せかいのいろいろなひとと、であいました。そして、せかいのひとが、いろいろな 「ぶんか」や「ことば」がことなっているにもかかわらず、にんげんというものは、おたがいに、とてもにていることにきづきました。おたがいに、おなじにん げんなのに、もし、ぼくたちが、かっこうがちがう、きもちわるい、なかまはずれにしよう、というきもちをもてば、それは、おなじ、じぶんを、わるくいうこ とに、つながります。だから「ぶんかじんるいがく」というべんきょうは、ぼくたちに、「にんげんがひとりひとりちがうことは、たいせつなんだ!」そして 「ちがうからこそ、なかよくできるんだ!」とげんきづけて、くれます。おじさんのぺーじをよんで、「ぶんかじんるいがく」を、たのしくべんきょうしてくだ さいね。(→「こちらをみてね!」)

■クレジット:池田光穂「「よい死に方」について考 え、そして行動してみよう!」市民フォーラム「「看取り」で経験を語る会:大切な人との時間を考える——いま、そしてこれから——」第1回講演、2018 年6月17日、大阪医科大学看護学部講堂、大阪府高槻市。

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