か ならず読んでください

記憶の問題

on human memory, not machine

池田光穂

「記憶はある贖罪の行為を暗示する」(ジョン・バージャー 2005:79)

私は歴史的事象を[自分の議論にとって]それほど本質化していな いので、歴史的事実がどうであるというよりも、そのような歴史的状況の中で人 は、自分の知識をどのように操作して生きているのか、あるいは、どう感じることができるのかについて焦点化したい。

ヨーロッパの古代・中世には、人間の能力における記憶の能力に 高い価値がおかれていたという。

ものごとを理解していることは、ものごとについてどれ だけ知っているということで計られる世界(→メリトクラシー)があるということである。もちろん、我々にも、記 憶の能力が卓越した者に羨望のまなざしが向けられることもある。しかし、我々は記憶よりも、思考においてより評価されるのは、創造性においてである。

創造性が評価されるようになった背景には、記憶の外部化という社会的技術の成功とその開発というものがある。マクルーハンではないが、印刷術で あり、印刷物をプールしておくコンピュータ(→「クラウド」) であり、電話・テレビ・ラジオメディアであり、今日ではデジタル送受信技術に支えられたネットワークコンピュー タシステム(machine)である。

記憶を個人の能力として具備せずに、外部表象化するかわりに求められたの が、記憶の源泉を創造する活動である。これは、別の観点からみると、 情 報の生産であるので、フィクションのような仮想現実でも、その活動に貢 献するものとされた。

つまり、厳格な自然の模倣あるいは神の真意の忖度という真偽問題の呪縛から解放されたということだ。あるいは、創造と現実とをすりあわせて、そ の想像する世界が妥当性のあるものかどうかという検証——最も端的な例は実証主義—— という手続きも生まれた。

過去の事象の記憶に頼らずに、実験的状況を仮構して、それを検証する。そのためには、その過程を観察するという実践行為が要求さえる。

知識や思慮が、記憶(博覧強記が思慮や瞑想と結びつく)や創造力(直観と想像が観察によってチェックされる)と関連づけられるにせよ、これらの 能力は、社会的孤独という経験を通して強化されることが、もうひとつのポイントである(後に触れるLPP(正統的周辺参加)やPBL(問題に基づく学 習)とは対比されるからだ)

こういう世界で動いているのが近代以降の我々の姿である。

しかし、近代的な想像と直観、そしてそれを検証する観察という行為に限界を感じた時、我々には個人の能力としての記憶の問題が再び浮上した。

ただし、それは個人がどれだけ憶えているかということが焦点化されるのではなく、頭以外の記憶、例えば身体が憶えている知(経験)や、集団が憶 えている体の振る舞いなどである。

ヴァルター・ベンヤミンによると、記憶とは自分を逆向きに「読む」ことである という。自分とはまた時間的存在であるので、記憶こそが時間を押し潰すこと ができるとも言えるのだ(→「メシア的時間」)。

LPPPBLが、 我々の新しい知識生産とその伝達(つまり教育)に何かしら新しい世界を切り開くように思われるのは、そのような人間の長い歴 史の産物であるということを、私は言いたいのである(→「歴史的認識の主体」)。


「記憶をすこしでも失ってみたらわかるはずだ、記憶こそがわれわれの人生をつくりあげるものだということが。記憶というものがなかったら、人生 はまったく存在しない」——ルイス・ブニュエル

「記憶はある贖罪の行為を暗示する」——ジョン・バージャー (2005:79)

「逆行性健忘 (retrograde amnesia) とは、発症以前の、過去の出来事に関する記憶を思い出すことの障害である。 逆行性健忘により発症から遡ってみられる健忘の期間は、多くの場合、数か月から数年に及ぶが、数十年に及ぶ症例も存在する」逆行性健忘 - 脳科学辞典)

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