はじめに よんでください

コロナ時代、あるいは「いちばん大切な人と最も距離をとらなけ ればならない時代の哲学」について

El amor en los tiempos del corona, ó filosofía que ordena mas lejos entre mas amoros@s, ou Ἔρως-ποίησις


これまで18歳以上限定にしていましたが公開 後半年が経って内容を仔細に検討した結果18歳未満にも公開することとします

池田光穂


最も大いなるものは愛である——コリント第1 (13:13)/これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である(コロサイ人への手紙 3:14)

「我々は我々の身体の持続についてはきわめて非妥当 な認識しかもつことはできない」——スピノザ『エチカ』第2部定理30(畠中尚志訳)

Era inevitable: el olor de las almendras amargas le recordaba siempre el destino de los amores contrariados. - El amor en los tiempos del cólera,

(苦いアーモンドを思わせる匂いがすると、ああ、こ の恋も報われなかったのだなとつい思ってしまうが、こればかりはどうしようもなかった)

【本歌取り】

ガブリエル・ガルシア=マルケス『コ レラの時代の愛El amor en los tiempos del cólera, 木村榮一訳, 新潮社、2006年

Pp.13-155
Marquez_amor_colera01.pdf
Pp.402-502
Marquez_amor_colera02.pdf

【シノプシス】

初恋の女性を51年9ヶ月と4日待ち続けた男の壮大 な愛の顛末を描く(以下は「ウィキペディア『コレラ時代の愛』」による)

(1)81歳の夫フベナル・ウルビーノ博士は自殺し た友人ジェレミーアの葬儀を前に、オウムを捕まえようとしたはしごを登って足を踏み外して亡くなる。傷心で葬儀に臨む老いた妻フェルミーナのもとに76歳 のフロレンティーノ・アリーサが現われ「わたしはこの時がくるのを待っていた。もう一度永遠の貞節と変わることのない愛を誓いたいと思っている」と告げ る。

(2)時代は遡り、1897年、コロンビア・カルタ ヘナ。17歳の貧しい郵便局員のフロレンティーノはある日、配達先の裕福な商人の13歳の娘フェルミーナに一目惚れして、2人はたちまち恋に落ちる。母親 が「うちの息子の病気はたった一つ、コレラなのよ」と恐慌をきたすほどの恋に浮かれる。1リットルのオーデコロンを飲み続けた末に香水の匂いのする吐瀉物 にまみれたり、フェルミーナからの手紙を薔薇の花を食べながら読み返す。しかし、元ラバ商人で闇の商売で儲けている彼女の父は、娘を名家に嫁がせると決め ており、娘と1年半にもわたる旅に連れ出す。こうして2人の仲は引き裂かれてしまう。

(3)やがてフェルミーナは、コレラの撲滅に尽力す るヨーロッパ帰りの医師ウルビーノ博士に見初められ、結婚する。それを知ったフロレンティーノは、何年でも彼女を待ち続けると心に誓う。後年、叔父から引 き継いだ河川運輸会社のトップになることもあり、600人を超える女性と恋愛を楽しむのであった。

【クロノロジー】ウィキペディア「コレラ時代の愛」による

詳しい年譜は垂水源之介版「★コレラ時代の愛の物語について

Florentino Ariza
フロレンティーノ・アリーサ
郵便局員。フェルミーナ・ダーサに一目 惚れをし、51年9ヶ月と4日待ち続ける。
Fermina Daza
フェルミーナ・ダーサ
裕福な商人の娘。フロレンティーノ・ア リーサに横恋慕される。のちウルビーノ博士と結婚。
Dr. Juvenal Urbino
フベナル・ウルビーノ博士
フランス留学から帰国後、コレラを駆逐 したことで国民的英雄となる医師。フェルミーナ・ダーサと結婚。
Lorenzo Daza
ロレンゾ・ダーサ
フェルミーナ・ダーサの父。フロレン ティーノを軽蔑し、フェルミーナと会うことを力づくで止める。成功のために数々の違法ビジネスに関与したと物語内でほのめかされている。
Jeremiah de Saint-Amour
ヘレミーア・サンタムール
作品の冒頭で自殺し、ウルビーノ博士に 検死される。写真家。ウルビーノ博士とチェスの好敵手。
Aunt Escolástica
エスコラスティカ叔母さん
フェルミーナとフロレンティーノために 手紙の仲立ちをした女性。その行為がロレンゾの耳に入りダーサ家から追放される。
Tránsito Ariza
トランシト・アリーサ
フロレンティーノの母。フェルミーナへ の恋慕または失恋で神経衰弱気味の息子を支え続ける。
Hildebranda Sánchez
イルデブランダ・サンチェス
フェルミーナの従姉妹。快活な性格。
Miss Barbara Lynch
ミス・バーバラ・リンチ
ウルビーノが関係を持って告白する女 性。フェルミーナとの長い結婚の間でただ一人の愛人。
Leona Cassianii
リオーナ・カッシーニ
R. C. C.(のちフロレンティーノが支配する会社)のレオ12世おじさんの「個人秘書」として登場。フロレンティーノと利害や深い敬意、おそらくは愛を共有する が、互いのために、実際に一緒にならないことは示唆されている。彼女を路上から救い出し、仕事を与えたフロレンティーノに対して母性的な愛を持つ。
Diego Samaritano
ディエゴ・サマリターノ
物語の最後にフェルミーナとフロレン ティーノが乗った川船の船長。
América Vicuña
アメリカ・ヴィクーニャ
物語の終わりにフロレンティーノと同居 する14歳の少女。学校にいる間はフロレンティーノが保護者なのだが、性的関係を持ってしまう。試験に失敗し衝撃の行動に移す。

2019 11月に中華人民共和国湖北省武漢市付近 でSARS-CoV-2による感染症COVID-19の発生が初めて確認。

2020 

1月7日、世界保健機関 (WHO) は、中国武漢で発生している疾患の原因であるウイルスを2019-nCoV(2019 novel coronavirus の略称)と暫定的に命名。

2月11日 国際ウイルス分類委員会 (ICTV) がSARS-CoV-2(Severe acute respiratory syndrome coronavirus 2 の略称)と正式命名。このウイルスによる疾患をCOVID-19(Coronavirus disease 2019 の略称)と命名。

4月7日、初の緊急事態宣言(日本)4月16日に は対象は全国に拡大(日本)

5月14日東京都、大阪府など8都道府県以外の県 の緊急事態宣言は解除(日本)、5月16日0時現在、COVID-19に関連した感染症の感染者は16,237例と報告した。また死亡者は725名、退院 者は11,153名と報告。

10月7日現在、感染者数86,540。死者数 1,609名。

10月6日(下図)コロンビアの1日あたりの SARS- CoV-2の感染者数のCOVID-19による死者の変動(→「メキシコ 中米パナマを中心としたCOVID-19対策の現在」)

(左)ロイター社のサイトより(https://tmsnrt.rs/33C48y5)(右)2020年 10月7日現在の過去2週間の感染者数マップ

スピノザ的生き方とCaute

1675 年「『エチカ(Ethica, ordine geometrico demonstrata)』の実質的完成、しかし前年(1674)の『神学・政治論』禁書事件で公刊を自粛——オルデンブルグ宛書簡(7月[喪失]とその 返書62)。 ライプニッツにあてた書簡では、エチカの内容を口外しないように念を押す」(畠 中 2006:9)。

● トーマス・マン『ヴェニスに死す(Der Tod in Venedig)』

ウィキペディアのシノプシス:「20世紀初頭のミュ ンヘン。著名な作家グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、執筆に疲れて英国式庭園を散策した帰り、異国風の男の姿を見て旅への憧憬をかきたてられる。 いったんアドリア海沿岸の保養地に出かけたが、嫌気がさしてヴェネツィアに足を向ける。 ホテルには長期滞在している上流階級のポーランド人家族がおり、その10代初めと思われる息子タージオの美しさにアッシェンバッハは魅せられてしまう。 やがて海辺で遊ぶ少年の姿を見るだけでは満足できなくなり、後をつけたり家族の部屋をのぞきこんだりするようになる。 様々な栄誉に包まれた「威厳ある」作家である彼は、こうして美少年への恋によって放埒な心情にのめりこんでいく。だが、ヴェネツィアにはコレラが迫ってい た。 滞在客たちが逃げ出し閑散とする中、アッシェンバッハは美少年から離れたくないためにこの地を去ることができない。そして、少年とその家族がついにヴェネ ツィアを旅立つ日、アッシェンバッハはコレラに感染して死を迎えるのであった。 」

ヴェニスに死す、実吉捷郎訳
Der Tod in Venedig Death in Venice
数年前からすでに、インドのコレラは、ま んえんと移動のいよいよいちじ るしい傾向を現わしつつあった。ガンジス河の三角州の熱い湿地からうまれ、人のよりつかぬ、うっそうとして無益な、原始のままの荒野と島の荒野――そこの 竹やぶにはとらがうずくまっているのだ――その荒野の毒気をふくんだいぶきとともに立ちのぼって、この疫病は、持続的にかつ異常にはげしく、全インドに猛 威をふるった上、東のほうはシナへ、西の方はアフガニスタンとペルシアへ進入して、隊商の交通の主要路にそいながら、その恐怖をアストラカンにまで、い や、モスコオにまでも伝えたのである。しかしその妖怪がそこから陸路 を取ってのりこんでくるかもしれぬ、とヨオロッパがおののいていたあいだに、妖怪はシリアの商船で海上を引かれて行って、地中海の諸港にほとんど同時に出 現し、ツウロンとマルガで首をもたげ、パレルモとナポリでたびたび顔を見せ、そしてもうカラブリアとアプリアの全土から、立ちのこうとしない様子だった。 この半島の北部は災害を受けずにすんだ。ところがことしの五月なかば、ヴェニスで、全く同じ日に、ある船頭の下ばたらきとある青物売の女との、やせおとろ えた黒ずんだ死体の中に、おそるべき螺旋菌が見いだされた。この事件はひみつに付された。しかし一週間後には、それが十件になり、二十件、三十件になっ て、しかもさまざまな区域に及んだ。オオストリアのいなかからきて、自分の楽しみのために、数日ヴェニスに滞在していた男が、故郷の小さい町へ帰ると、う たがわしい徴候をあらわして死んだ。こうして潟の都ヴェニスの災禍についての最初の風評が、ドイツの新聞に出ることになったのである。ヴェニスの官憲は、 市の健康状態がかつてこれほど良好だったことはない、と答えさせた。そして最も必要な駆除法を講じた。しかしおそらく食料品が――野菜か肉類か牛乳かが、 感染を受けたのであろう。なぜといって、否定されもみ消されながらも、死は裏町のせまいなかにはびこって行ったのである。そして不時にはじまった夏の炎熱 ――そのために運河の水はなまあたたかくなってしまったのだが――それがとりわけまんえんを助けた。それどころか、なんとなく疫病がその力をさらに強めら れたような、その病源体のねばりと繁殖力が倍加されたような模様であった。回復した病例はまれだった。罹り病者の八割は死んだ――しかもおそるべき死にか たで。なぜならこの災厄さいやくは極端な狂暴さで現われてきて、あの「乾性」と名づけられている、最も危険な形態をしばしば示したからである。その場合肉 体は、血管から多量に分泌される水分を排出することさえできない。わずか数時間のうちに患者はひからびてしまって、瀝青れきせいのように濃くなった血液の ため、けいれんとかすれた悲鳴のうちに、ちっそくしてしまうのである。発病が、軽い不快ののちに、ふかい失神の形で起こる場合には――これは時折あること で、患者はその失神から二度とさめないか、またはほとんどさめることはない――かれはしあわせなのである。
Seit mehreren Jahren schon hatte die indische Cholera eine verstärkte Neigung zur Ausbreitung und Wanderung an den Tag gelegt. Erzeugt aus den warmen Morästen des Ganges-Deltas, aufgestiegen mit dem mephitischen Odem jener üppig-untauglichen, von Menschen gemiedenen Urwelt-und Inselwildnis, in deren Bambusdickichten der Tiger kauert, hatte die Seuche in ganz Hindustan andauernd und ungewöhnlich heftig gewütet, hatte östlich nach China, westlich nach Afghanistan und Persien übergegriffen und, den Hauptstraßen des Karawanenverkehrs folgend, ihre Schrecken bis Astrachan, ja selbst bis Moskau getragen. Aber während Europa zitterte, das Gespenst möchte von dort aus und zu Lande seinen Einzug halten, war es, von syrischen Kauffahrern übers Meer verschleppt, fast gleichzeitig in mehreren Mittelmeerhäfen aufgetaucht, hatte in Toulon und Malaga sein Haupt erhoben, in Palermo und Neapel mehrfach seine Maske gezeigt und schien aus ganz Calabrien und Apulien nicht mehr weichen zu wollen. Der Norden der Halbinsel war verschont geblieben. Jedoch Mitte Mai dieses Jahres fand man zu Venedig an ein und demselben Tage die furchtbaren Vibrionen in den ausgemergelten, schwärzlichen Leichnamen eines Schifferknechtes und einer Grünwarenhändlerin. Die Fälle wurden verheimlicht. Aber nach einer Woche waren es deren zehn, waren es zwanzig, dreißig und zwar in verschiedenen Quartieren. Ein Mann aus der österreichischen Provinz, der sich zu seinem Vergnügen einige Tage in Venedig aufgehalten, starb, in sein Heimatstädtchen zurückgekehrt, unter unzweideutigen Anzeichen, und so kam es, daß die ersten Gerüchte von der Heimsuchung der Lagunenstadt in deutsche Tagesblätter gelangten. Venedigs Obrigkeit ließ antworten, daß die Gesundheitsverhältnisse der Stadt nie besser gewesen seien und traf die notwendigsten Maßregeln zur Bekämpfung. Aber wahrscheinlich waren Nahrungsmittel infiziert worden. Gemüse, Fleisch oder Milch, denn geleugnet und vertuscht, fraß das Sterben in der Enge der Gäßchen um sich, und die vorzeitig eingefallene Sommerhitze, welche das Wasser der Kanäle laulich erwärmte, war der Verbreitung besonders günstig. Ja, es schien, als ob die Seuche eine Neubelebung ihrer Kräfte erfahren, als ob die Tenazität und Fruchtbarkeit ihrer Erreger sich verdoppelt hätte. Fälle der Genesung waren sehr selten; achtzig vom Hundert der Befallenen starben und zwar auf entsetzliche Weise, denn das Übel trat mit äußerster Wildheit auf und zeigte häufig jene gefährlichste Form, welche »die trockene« benannt ist. Hierbei vermochte der Körper das aus den Blutgefäßen massenhaft abgesonderte Wasser nicht einmal auszutreiben. Binnen wenigen Stunden verdorrte der Kranke und erstickte am pechartig zähe gewordenen Blut unter Krämpfen und heiseren Klagen. Wohl ihm, wenn, was zuweilen geschah, der Ausbruch nach leichtem Übelbefinden in Gestalt einer tiefen Ohnmacht erfolgte, aus der er nicht mehr oder kaum noch erwachte.
For the past several years Asiatic cholera had shown a strong tendency to spread. Its source was the hot, moist swamps of the delta of the Ganges, where it bred in the mephitic air of that primeval island-jungle, among whose bamboo thickets the tiger crouches, where life of every sort flourishes in rankest abundance, and only man avoids the spot. Thence the pestilence had spread throughout Hindustan, raging with great violerce; moved eastward to China, westward to Afghanistan and Persia; following the great caravan routes, it brought terror to Astrakhan, terror to Moscow. Even while Europe trembled lest the spectre be seen striding westward across country, it was carried by sea from Syrian ports and appeared simultaneously at several points on the Mediterranean littoral; raised its head in Toulon and Malaga, Palermo and Naples, and soon got a firm hold in Calabria and Apulia. Northern Italy had been spared-so far. But in May the horrible vibrions were found on the same day in two bodies: the emaciated, blackened corpses of a bargee and a woman who kept a green-grocer's shop. Both cases were hushed up. But in a week there were ten more-twenty, thirty in different quarters of the town. An Austrian provincial, having come to Venice on a few days' pleasure trip, went home and died with all the symptoms of the plague. Thus was explained the fact that the German-language papers were the first to print the news of the Venetian outbreak. The Venetian authorities published in reply a statement to the effect that the state of the city's health had never been better; at the same time instituting the most necessary precautions. But by that time the food supplies-milk, meat, or vegetables-had probably been contaminated, for death unseen and unacknowledged was devouring and laying waste in the narrow streets, while a brooding, unseasonable heat warmed the waters of the canals and encouraged the spread of the pestilence. Yes, the disease seemed to flourish and wax strong, to redouble its generative powers. Recoveries were rare. Eighty out of every hundred died, and horribly, for the onslaught was of the extremest violence, and not infrequently of the "dry" type, the most malignant form of the contagion. In this form the victim's body loses power to expel the water secreted by the bloodvessels, it shrivels up, he passes with hoarse cries from convulsion to convulsion, his blood grows thick like pitch, and he suffocates in a few hours. He is fortunate indeed, if, as sometimes happens, the disease, after a slight malaise, takes the form of a profound unconsciousness, from which the sufferer seldom or never rouses.
https://www.aozora.gr.jp/cards/001758/card55891.html
http://www.gutenberg.org/cache/epub/12108/pg12108-images.html
https://literaturesave2.files.wordpress.com/2009/12/thomas-mann-death-in-venice.pdf

Jacopo Tintoretto, Tarquin and Lucretia (c. 1578-80), Art Institute of Chicago

●コロナ時代の愛、あるいは「いちばん大切な人と最 も距離をとらなけ ればならない時代の哲学」について(プランAとB)

プランA
(最初の講演です:事務局の事前検閲にかかり中止に)
ブランB
(人畜無害な講演です。どなたでも視聴できます)公開用のリハーサル

●ガルシア=マルケスのこと

ガルシア・マルケスは1928 年、コロンビアのカリブ 海沿岸にある人口2000人ほどの寒村アラカタカに生まれる[1]。事情により両親と離別し、祖父母の元に預けられて幼年期は3人の叔母と退役軍人の祖父 ニコラス・コルテス、迷信や言い伝え、噂好きの祖母ランキリーナ・イグアラン・コテスと過ごした。のちに代表作になる『百年の孤独』および一連の小説は、 祖父母が語ってくれた戦争体験や近所の噂話、土地に伝わる神話や伝承に基づくところが大きい。特に『百年の孤独』は、ガルシア・マルケスが17歳のときに 執筆を決意した作品であるため、祖父母の影響が色濃く残っている。特にガルシア・マルケスに影響を与えたのは祖父で、『落葉』の老大佐、『大佐に手紙は来 ない』の退役大佐、『百年の孤独』のアウレリャーノ・ブエンディーア大佐などのモデルになったと言われている。1936年、女系家庭の中で唯一の男性であ り、なんでも話せる男友達のようであった祖父がなくなる。1941年、両親の元に戻る。 高校時代からガルシア・マルケスは執筆活動を始めており、『エル・エスペクタドール』紙(スペイン語版)に短編を投稿し掲載されている[2]。1947 年、コロンビア国立大学法学科に入学する。この頃、ラテンアメリカの作家を志す若者らは一般に法学科に入籍することが多く、ガルシア・マルケスと並び評さ れるマリオ・バルガス・リョサ、その他多くの作家が法学科に在籍していた。このコロンビア国立大学法学部時代、同級生だったカミロ・トーレス・レストレポ と親友となり、カミロ・トーレスはガルシア=マルケスの二男に洗礼を授けるなど以後長く交友を続けた[3]。 1948年、ボゴタ暴動が起こり学校が閉鎖されたため、家族の住むカルタヘナのカルタヘナ大学に移る[4]が、生活難により中退する。『エル・ウニベルサ ル』紙の記者として働き、安アパートで貧乏暮らしをする。…… 1954年には『エル・エスペクタドール』紙の記者としてボゴタへ戻り、翌1955年に教皇崩御を伝えるためにローマへ飛ぶ。ローマにて映画評論を本国へ 送るかたわら、「映画実験センター」の映画監督コースで学ぶ。この体験によって後年、自身が映画監督を務めることにもなる。しかし同じ1955年、自由党 派『エル・エスペクタドール』紙は当時の独裁者ロハス・ピニーリャの弾圧によって廃刊する。これにより収入のなくなったガルシア・マルケスは、安アパート 「オテル・ド・フランス」で極貧生活を送ることになる。ガルシア・マルケスはこの地で『大佐に手紙は来ない』を執筆する。 1957年、友人が編集長を務めるベネズエラの首都カラカスの雑誌『エリーテ』にヨーロッパから記事を送り生活する。1958年に結婚するためコロンビア にいったん戻り、カラカスに移り住む。この時に使われた旅費は1955年に出版された『落葉』によるものだった。『落葉』は、ガルシア・マルケスがヨー ロッパ滞在中に彼の友人が祖国で『落葉』の原稿を見つけて、本人に無断で出版社に持ち込んだ作品であった。いわば偶然世に出た作品であった。 1959年キューバに渡りフィデル・カストロを知り、キューバ革命成立とともに国営通信社「プレンサ・ラティーナ」のボゴタ支局編集長となったが、間もな く編集部の内部抗争に嫌気がさし辞職する。しかしカストロとの親交は続き、2007年3月には病床のカストロを見舞った[5]。 1961年にメキシコに渡り映画製作に携わるかたわら、『大佐に手紙は来ない』を発表する。1962年に前年から書いていた『悪い時』とカラカス時代に書 き溜めた短編集『ママ・グランデの葬儀』を発表している。 1967年は『百年の孤独』が発表された年である。1965年のある日、アカプルコ行きの車の中で17歳の頃から温めていた構想が一気にまとまったとい う。18ヶ月間タイプライターを叩きつづけて『百年の孤独』は完成した。『百年の孤独』は、スペイン語圏で「まるでソーセージ並によく売れた」と言われ、 貧乏生活から足を洗うことになる。1960年代、フリオ・コルタサルやバルガス・リョサ、ガルシア・マルケスを中心としたラテンアメリカ文学の人気は 「ブーム」と呼ばれ、日本でも例外ではなく、知識人なら読んでいなければ恥であると言われるくらいのものだった。特に『百年の孤独』は、大江健三郎や筒井 康隆、池澤夏樹、寺山修司、中上健次など多くの作家に影響を与えた。 1973年チリ出身のノーベル文学賞受賞者で、ラテンアメリカの代表的詩人パブロ・ネルーダが亡くなった時、ガルシア・マルケスはアウグスト・ピノチェト の軍事政権が消滅するまでは新しい小説を書かないと宣言したが、ネルーダ未亡人の懇望によって1975年、政治風刺色の強い『族長の秋』を発表した。ただ ガルシア・マルケス自身は「小説家の任務は優れた小説を書くこと」として、政治の舞台には一度も上がっていない。 1981年、ガルシア・マルケス自身が最高傑作だという『予告された殺人の記録』を発表した。この作品は実際に起きた事件をモチーフにして書かれたもので あるが、あまりにも描写が精緻であったために、事件の真相を知っているのでは、と当局に疑われたという逸話を持っている。 1982年10月21日、スウェーデン王立アカデミーにて、ラテンアメリカでは4番目となるノーベル文学賞を受賞した。受賞の理由としては、「現実的なも のと幻想的なものを結び合わせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界」を創り出したことにあった。 1992年に肺に出来た腫瘍を除去した。1997年、メキシコに移住する。1999年、ロサンゼルスの病院でリンパ腫の治療を受けた。 2004年10月20日、10年ぶりに新作の小説『わが悲しき娼婦たちの思い出』を出版する。海賊版の出回りを防ぐために出版直前に最終章を変更してい る。 2012年6月12日、認知症を患っている可能性があると報じられた[6]。同年7月7日、ガルシア・マルケスの弟が「兄が電話で基本的なことを何度も尋 ねてくる」などと語り、家族として初めてガルシア・マルケスが認知症を患い、記憶障害に陥っていることを公言したと報じられた[7]。 2014年3月下旬より肺感染症などで入院し[8]、4月上旬に退院し自宅療養していたが[9][10]、4月17日にメキシコ市内の自宅で死去。87歳 没[11][12]。メキシコシティの自宅前にはファンが相次いで花を供え、4月21日には追悼式が行われた[13]。また、生地であるコロンビアでは3 日間の服喪が宣言された[14]。」ウィキペディア(日本語)
"La filo de Gabriel Eligio García kaj de Luisa Santiaga Márquez Iguarán, Gabriel García Márquez naskiĝis en Aracataca, en la departemento Magdalena (Kolombio), la 6-a de marto de 1927, kiel rakontas la propra verkisto en siaj memoroj.[6] La amhistorio de liaj gepatroj estis romantisma kun la gepatroj de la estonta patrino malakceptante la rilaton ĉar Gabriel Eligio García, nome telegrafisto, ekstergeedza filo, konservativulo kaj virinema, ne taŭgis al ili kiel bofilo.[6] La estonta patro de GGM insistis per leteroj kaj muzikema ampretendo kaj finfine sukcesis atingi rilatpermeson kaj geedziĝon la 11an de junio de 1926 en Santa Marta. La historio de tiu amafero inspiros poste al la filo la romanon El amor en los tiempos del cólera.[6] En 1929 la gepatroj translokiĝis al Barranquilla, kaj Gabriel restis en Aracataca ĉe siaj patrinaj geavoj. Ĉar li vivis kun ili dum la unuaj vivojaroj, li ricevis fortan influon de la kolonelo Márquez, kiu juna estis mortinta viron en duelo kaj havis, krom tri oficialaj filoj, aliajn naŭ ekstergeedzajn kun diversaj patrinoj. La kolonelo estis liberala veterano de la Milito de la Mil Tagoj, konata ĉar li ne volis forgesi pri la masakro de la bananplantejoj, okazintaĵo kie mortiĝis centoj da personoj fare de la kolombiaj militistoj dum striko de la laboristoj de la bananplantejoj, kio García Márquez aperigos en sia verko.[6] La kolonelo alkutimiĝis la nepon al rakontoj kaj rakontado, al ofta konsultado de la vortaro, al ĉiujara vizitado de cirko kaj eĉ al ekkono de la «miraklo» de la glacio, nome ĉe la oficejo de la United Fruit Company.[6] Ankaŭ la pezo de la murdo farita de la avo pasos al la verko de García Márquez.[6][7][8] La avino, Tranquilina Iguarán Cotes, emis pri historioj de fantomoj, superstiĉoj kaj similaĵoj, kio influis sur García Márquez same kiel ŝia edzo, ĉar inspiris al li pri la originala formo per kiu ŝi traktis ĉion eksterordinaran kiel io perfekte natura kiam ŝi rakontis historiojn sen atenti ĉu ili estas fantastaj aŭ neverŝajnaj, sed kiel nedisputebla vero. Krom la stilo, la avino Mina inspiris ankaŭ la rolulon de Ursula Iguarán kiun, post tridek jaroj, ŝia nepo uzos en Cien años de soledad, lia plej populara romano.[6][9] Lia avo mortiĝis en 1936, kiam Gabriel estis okjaraĝa. Pro la blindeco de sia avino, li iris loĝi kun siaj gepatroj en Sucre, en la departemento Sucre (Kolombio), kie lia patro laboris kiel apotekisto. Lia infanaĝo estas rakontita en siaj memoroj Vivir para contarla.[6] Post 24 jaroj de foresto, en 2007 revenis al Aracataca por omaĝo fare de la kolombia registaro kiam li estis 80jaraĝa kaj jam pasis 40 jaroj ekde la unua publikigo de Cien años de soledad." wikipedia- esperanto


2020年12月17日某財団講演会のための準備ノート集(下記はプランAのスライド)

1
コロナ時代の愛、あるいは「いちばん大切な人と最も距離をとらなければならない時代の哲学」について
2
最も大いなるものは愛である
(コリント第1 13:13)

3
「我々は我々の身体の持続についてはきわめて非妥当な認識しかもつことはできない」—スピノザ『エチカ』第2部定理30(畠中尚志訳)
4

Era inevitable: el olor de las almendras amargas le recordaba siempre el destino de los amores contrariados. -a Dr.Juvenal Urbino, “El amor en los tiempos del cólera,” 1985.

(苦いアーモンドを思わせる匂いがすると、ああ、この恋も報われなかったのだなとつい思ってしまうが、こればかりはどうしようもなかった)
—ガブリエル・ガルシア=マルケス『コ レラの時代の愛』木村榮一訳, 新潮社、1985年
5

    •    コロナ時代の愛について考える(ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説『コレラ時代の愛』の本歌採り)1881-1896年のコレラの世界流行も2020 年の現在も「いちばん大切な人と最も距離をとらなければならない時代」という共通点をもつ。
    •    BBCが真面目に報じたマスクをしたカップルの性行為。そして、コロナ感染を防ぐもっともベストな「愛し方」は後背位だというのだ―宣教師の体位ではなく 宣教師が嫌がる野蛮人で獣性をもつ我々非白人が得意とする体位である。
    •    感染症の原語は “communicable/contagious/infectious disease” であるがcommunicate はラテン語の動詞 communicare つまり「シェアすること」に繋がる。SARS-CoV-2 (severe acute respiratory syndrome coronavirus 2)をお互いにシェアした結果のパンデミック(世界流行)である
6

    •    1.男女共同参画社会基本法(1999)が施行されて20年以上経つのに、職域におけるジェンダーバランスは厳然として存在し、男女の雇用格差賃金格差の 差別構造は温存されたまま。
    •    2.超高齢化社会を迎えても男性老人支配(male gerontocrasy)の企業体質はいっこうに改善されていない。またセクシュアルハラスメントや男性の攻撃的心性に由来するパワーハラスメントも数 多く存在するからである。「老人男性の心性」に関する解剖と分析が必要である。
    •    3.国内の多くの金融機関はこのような差別的かつ不正義な日本の企業社会に、金融を通してコントロール・是正するような公共的正義を実践していないこと。
    •    4.無力な一文化人類学者にすぎない私がなぜこういう行為におよぶか?それは、この財団の趣旨や、この講演会に集まる参加者の「良心」に訴えたいがためで ある。
7

    •    波状的なコレラ世界流行期の渦中の1897年、17歳の郵便局員のFlorentino Arizaは、裕福な家の娘 Fermina Dazaに一目惚れし、2人は恋に陥る。
    •    1901年ごろFermina Dazaは、コレラの撲滅に尽力するフランス帰りの医師Juvenal Urbino博士に見初められ、結婚。Florentino Arizaは、何年でも彼女を待ち続けると心に誓う。しかしながら、Florentino Arizaは叔父から引き継いだ河川運輸会社のトップになることもあり、この間に600人を超える女性と(もちろん性交を伴う)恋愛を楽しむ。
    •    1956年ごろ、Juvenal Urbino博士は自殺した友人ジェレミーアの葬儀を前に、オウムを捕まえようとしたはしごを登って足を踏み外して81歳で亡くなる。傷心で葬儀に臨む老 いた妻Fermina Dazaのもとに76歳のFlorentino Arizaが現われ「わたしはこの時がくるのを待っていた。もう一度永遠の貞節と変わることのない愛を誓いたいと思っている」と告げる。同年、ディエゴ・ サマリターノの船上にて、51年9ヶ月と4日の恋愛をFlorentino Ariza が成就する。
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    •    「船長がその声を聞きつけて、船の航路を変更させたおかげで、両腕で赤ん坊を抱いて乳を飲ませている巨大な母親のマナティーをついに見ることができた。 FlorentinoもFerminaも、自分たちがお互いにどれほどよく理解し合っているか、分かっていなかった。彼女は浣腸をするときに手伝い、先に 起きて、眠っている間はコップに入れてある入れ歯を磨いてやった。のべつ眼鏡を失くすという困った問題も解決した。本を読むにも、つくろいをするのにも、 彼の眼鏡がちょうどよかったのだ。ある朝日を覚ますと、すでに彼が暗い中でワイシャツのボタンつけをしようとしていた。こういうことをしてもらうには、も うひとり妻がいるな、と彼が例の文句を口にする前に、彼女はあわててボタンをつけてやった。彼女が求めたのは、背中の痛みをとるために瀉血をしてもらうこ とだけだった」(pp.496-497)
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    •    「船長がその声を聞きつけて、船の航路を変更させたおかげで、両腕で赤ん坊を抱いて乳を飲ませている巨大な母親のマナティーをついに見ることができた。 FlorentinoもFerminaも、自分たちがお互いにどれほどよく理解し合っているか、分かっていなかった。彼女は浣腸をするときに手伝い、先に 起きて、眠っている間はコップに入れてある入れ歯を磨いてやった。のべつ眼鏡を失くすという困った問題も解決した。本を読むにも、つくろいをするのにも、 彼の眼鏡がちょうどよかったのだ。ある朝日を覚ますと、すでに彼が暗い中でワイシャツのボタンつけをしようとしていた。こういうことをしてもらうには、も うひとり妻がいるな、と彼が例の文句を口にする前に、彼女はあわててボタンをつけてやった。彼女が求めたのは、背中の痛みをとるために瀉血をしてもらうこ とだけだった」(pp.496-497)
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    •    私(池田)の感想:若い女と添寝するなかで、江口の過去の vita sexualis が想起されて時間的な脱臼をおこす。
    •    三島由紀夫の解説:「形式的完成美を保ちつつ熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品」「言語による観念的淫蕩の極致」「静的幻想につ ねに嫌悪が織り込まれている」「官能の閉塞状態」「性慾が純粋性慾に止まって相互の感応を前提とする『愛』の浸潤を防ぐ」「それは『愛』からもっとも遠い 性慾の形」
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    •    三島由紀夫が絶賛した純粋性慾という幻想が、日本の老人男性のセックスであり、それが日本の経済力のパワーをコロナ禍の中で完全に削いでしまった。
    •    コロナの終焉を待つことの意味を、(老人たちの情事は当事者以外には「美味しい」ものではないが)初恋の相手 Fermina と結ばれる事を51年9ヶ月と4日待ったFlorentino が辛抱強く(600人の女と情事を重ねながら)待つ意味と重ねてみたい。コレラ時代のFlorentinoやFerminaは、コロナ時代にはジェンダー が入れ替わってFlorentinaやFerminoになってもいいし、同性の間の「愛」でもかまわない。
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    •    ガルシア=マルケスの奇矯な恋愛小説の終盤に登場するクルーザーのディエゴ・サマリターノ号の船長という「愛」の傍観者=証人の視点に活路を見出す
    •    「皿の上の料理をすべて平らげた船長はテーブルクロスの端で口を拭き、川船の船長は言葉遣いが丁寧だという評判を一気に地に落とすような下品なスラングで しゃべりはじめた。べつに誰かに話しかけたわけではなく、抑えようのない憤りをぶちまけていたにすぎなかった。乱暴なののしり言葉を並べ立てたあと、コレ ラの旗を掲げたばかりにとんでもないトラブルに巻き込まれたが、この苦境を脱する手立てはないと断じた。/Florentino Arizaはまばたきもせず船長の言葉に耳を傾けた」(p.501)
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    •    ガルシア=マルケスの奇矯な恋愛小説の終盤に登場するクルーザーのディエゴ・サマリターノ号の船長という「愛」の傍観者=証人の視点に活路を見出す
    •    「皿の上の料理をすべて平らげた船長はテーブルクロスの端で口を拭き、川船の船長は言葉遣いが丁寧だという評判を一気に地に落とすような下品なスラングで しゃべりはじめた。べつに誰かに話しかけたわけではなく、抑えようのない憤りをぶちまけていたにすぎなかった。乱暴なののしり言葉を並べ立てたあと、コレ ラの旗を掲げたばかりにとんでもないトラブルに巻き込まれたが、この苦境を脱する手立てはないと断じた。/Florentino Arizaはまばたきもせず船長の言葉に耳を傾けた」(p.501)
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    •    ガルシア=マルケスの奇矯な恋愛小説の終盤に登場するクルーザーのディエゴ・サマリターノ号の船長という「愛」の傍観者=証人の視点に活路を見出す
    •    「皿の上の料理をすべて平らげた船長はテーブルクロスの端で口を拭き、川船の船長は言葉遣いが丁寧だという評判を一気に地に落とすような下品なスラングで しゃべりはじめた。べつに誰かに話しかけたわけではなく、抑えようのない憤りをぶちまけていたにすぎなかった。乱暴なののしり言葉を並べ立てたあと、コレ ラの旗を掲げたばかりにとんでもないトラブルに巻き込まれたが、この苦境を脱する手立てはないと断じた。/Florentino Arizaはまばたきもせず船長の言葉に耳を傾けた」(p.501)
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    •    三島由紀夫が絶賛した純粋性慾という幻想が、日本の老人男性のセックスであり、それが元凶となり日本の経済力のパワーをコロナ禍の中で完全に削いでしまっ た。(奇しくも今年は「憂国忌」五十周年)
    •    コロナの終焉を待つことの意味を、初恋の相手 Fermina と結ばれる事を50有余年待ったFlorentino が辛抱強く待つ意味と重ねてみたい。もちろんコレラ時代のFlorentinoやFerminaは、コロナ時代にはジェンダーが入れ替わって FlorentinaやFerminoになってもいいし、同性の間の「愛」でもかまわない。
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おしまい

以下のYouTube画像は18歳未満の方には閲覧することができません。
また、YouTubeユーザーにタグ付けされた年齢確認が18歳以上でないと閲覧できません。
https://bit.ly/3ngujBR

◎プランA、これをつくって財団に事前照会したら「やめてく れ」と制止がかかったものです


●実際の映像(プランB)りそなアジア・オセアニ ア財団 第37回セミナー 「ポストコロナ社会へどう向き合うか ~ヘルスコミュニケーションの重要性を考える~」2020年12月14日


リンク(愛の修辞)

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文献

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