先住民運動からみた日本の保守とリベラルの位相
Distorted Political Identities between Conservative and Liberal in post-war Japan: a cultural analysis of Indigenous movement's point of view
Spinoza, Excommunicated by Samuel Hirszenberg, 1907
1.政治的アイデンティティとしての「民族」と、それに対する不審(distrust)
この発表は、先住民運動というもうひとつの「政治的立場」から、保守とリベラルという政治的位相を照射することを通して、21世紀の世界と国民国家(日本)における政治的対立構造のダイナミズムを明らかにするものです。
先住民運動が、ある種の政治運動であることを理解していただくためには、政治学理論における文化多元主義を論じる中で、民族(または民族集団)が政治的アイデンティティとして構築されることについての理解が必要になります。
2.政治理解のプラグマティック・オークショット主義(Pragmatic Oakeshottian)
マイケル・オークショット(Michael Joseph Oakeshott, 1901-1990)は、保守思想あるいは政治におけるテクノクラシーや計画経済を批判した政治学者で、とりわけ「政治における合理主義 (Rationalism in Politics)」(1947)の論文が有名です。
オークショットによると、政治は、政治的状況に対応することに関わる実践的活動であり、自然的な必然性からではなく、人間の選択や行動から 生じたと認められる物事の状態であり、かつ、政治的状況は、「私的」状況ではなく「公的」状況である。彼によると、どのような条件下でも、政治状況という ものは「観察可能」であり、社会科学者にとり「解釈」が求められるものであり、また未来にむけての「対応」をも含めてその理解には「熟議」が必要である、 と。
3.先住民運動の歴史的構築:アイヌ民族を事例にとって
アイヌ先住民は、2007年「先住民族の権利に関する国際宣言(Declaration on the Rights of Indigenous Peoples, 略称:UNDRIP)」の国連総会採択以降、先住民族は当人ならびに国際社会から(どこに居住しようとも)先住の民として自認しそのアイデンティティを持 つものと理解されています。宣言は、先住民を本質的に定義すると同時に構成的にも可能な存在として認めています。
しかしながら、日本では「純粋なアイヌは存在しない」というヘイト発言に代表されるように、先住民/先住民族を人種にもとづく本質的に規定 する傾向が強いのです。言い方を変えると、アイヌを定義する時に、この国の社会的文脈では、文化人類学のいう民族(ethnie, ethnic group)よりも人種的概念が優先するようです。
アイヌ民族の運動家に公定の日本史とは異なる自民族の歴史の語りがあります、私は発表論文の脚注の中で、それは「対抗史(counter-history)」と名付けました。
4.あべこべの、保守〈対〉革新の対立
現代日本における保守とリベラルという対立の位相を、党派政治に当てはめると奇妙な捩れがみらます。自民党はネオリベラル経済政策をとりな がら様々な改革政治をおこないます。他方、リベラル派は、五十五年体制において自民党と日本社会党が築いた国民皆保険や社会福祉政策を、今後も護持し続け ることです。また憲法改正に反対する野党の人たちは護憲つまり憲法を変えないことを、その政治主張として掲げています。つまり日本では、保守主義的政策を リベラルを自認する人たちが支持しています。
ここでオークショット論文「政治における合理主義」や「保守的であること」を思い起こしましょう。革命やテクノクラシー官僚による社会改革 は合理的に社会を改造できる進歩主義的な信念にもとづいてなされるが、それには予測不能な不確実性が生じると彼は批判します。そのような不確実な変革に委 ねるよりも、変革を避け、今ある政治的資源を活用して自分たちの生活の快適さや楽しみを追求するほうがよいとみなします。日本の現今のリベラル派は、ネオ リベラル的政策である規制緩和や(景気を下支えする[かもしれない])企業への減税には反対します。つまり、政治経済制度の法改正には関心がなく、選挙民 が喜ぶ福祉政策の拡充という改革には与党よりもさらに熱心に国民に働きかけます。
この伝統的な「保守〈対〉革新」の体制の枠組みは、日本のリベラル・ナショナリズムの通奏低音であり続けています。そのなかでは、国民統合 に棹差す先住民運動は、自民党あるいは超党派の日本会議派においては国家統合の分断分子に他ならず、その支持者たちからヘイト運動を生み出す原因になって います。またリベラル派は、LGBTを含めてあらゆるタイプのマイノリティー擁護を是とする中での先住民運動を基本的に支持しますが、国際基準のダイ ヴァーシティ容認には、保守志向の選挙民に配慮しつつ、それらのテーマの政治化には警戒しています。
「保守〈対〉革新」の対立という枠組みが、現代日本では、本来あるべきであった「保守〈対〉革新」の対立とは「あべこべ」になっています。
ここで、冷戦期すなわち革命〈対〉リベラリズムの対立構造があった時代における国民国家あるいは連邦国家が先住民をどのように包摂することができたのか、アルジダス・グレマス(1992)による「意味の四角形」 の図式で当てはめて考えてみましょう。
ロシア革命が達成されたソビエト連邦は、田中克彦(1991)先生に言わせればその名称が地名に由来しない世界初の国家だと言います。連邦 をなすそれぞれの共和国は地名ではなくエスニック・ネーション(民族分類による国民)から構成されて、それを包摂するのがソビエトすなわち「労働者・農 民・兵士の評議会」の意味です。民族と言語の多様性はソビエトではこのように担保されました。このタイプの共産主義型の多文化主義をとらなかったのが中国 共産党で「少数民族」の虐殺を含む弾圧が現在においても終わりそうにないのは衆知のとおりです。他方、冷戦期のリベラリズムの代表格であるアメリカ合衆国 は、同化主義の政策を特段改めることになく先住民の抵抗を受けながら徐々に多文化主義に転換し、採用することになりました。先住民族の国家内での歴史上の 承認が開拓時代における外交文書として保管されていたために、土地返還などの訴訟裁判でも法的権利が認定されたからです。
5.保守〈対〉リベラルの政治文化対立の中に先住民運動を組み込む
しかしながら、冷戦構造終結後の世界では、南米のボリビアやベネズエラなどを除けば、政治革命や軍人指導の社会革命が起こりませんでした。 このような統治システムが異常あるいは破綻している地域を除くと、冷戦後は保守〈対〉リベラリズムの対立構図における先住民族政治は、近年におけるポピュ リズム政治の台頭以前には、かつてのリベラリズムが採用してした多文化承認型の同化政策を保守派がとり、リベラル派は、グローバルスタンダードとして確立 した多文化政策を推しすすめ、国家内に先住民族による独自の自治単位である国家内ネーションを認める方向にすすめてきました。リベラル国家がこのような政 策をすすめるのは、単純に国家内領域の先住民族の権利保障に真剣であるというよりも、国内融和をすすめ、先住民の分離独立運動を防ぎ国民国家の国内的安全 保障を維持しようという「治安上の理由」も考えられます。
このような国際的スキームの中で日本の先住民は不利な闘いを強いられています。それが、先に触れた先住民族側の分断・分派です。先住民運動 には、日本のマイルドな国民国家への包摂を基調とする政府と融和しようとする派が一方にあり、他方では、海外の先住民運動の影響を受けて国際社会並みの権 利獲得のためにはより積極的に政府と対峙しようとする対政府派が存在しているからです。
21世紀における保守とリベラルの対立は、直接投票による大統領選挙や国民投票が契機になり政治的分断が起こり、サイレントマジョリティが 政党をしてポピュリズム化を推し進めることが起因することが特徴としてみられます。そこでは「合理主義による政治」というものから、真理よりも情動に訴え る政治へ、冷静よりも怒りや興奮を基調にするものが多いと言えましょう。そこで使われる政治言説もまた「情動の語彙」が多用されます。
アイヌ先住民へのヘイト活動は、政治改革に関する捻れた関係をもつ、保守派にとっても、リベラル派にとっても「扱いにくい」政治的不満の受 け皿になるというポピュリズムの流れを育成するインキュベーター(孵卵器)になっている可能性があります。あるいは、オークショット流の熟議にもとづく保 守主義の伝統も政治的合理主義(テクノクラートと政治的改革派)の伝統もいまだ定着していない日本の政治文化の貧困状況を表しているものと思われます。
このような状況を克服するためにはたくさんの可能性を模索することが社会に求められているのは言うまでもありません。そのためには、大学に おける若い世代に対して、オークショットに倣い、先生方が組する現代の政治思想についてイデオロギー的な押し付けを中断し、(言葉の正しい意味での)「政 治学」や「弁論術」の古典や基礎を学び育む必要があるように思われます。私がこの発表において提唱したプラグマティック・オークショット主義 (Pragmatic Oakeshottian)というものに何らか価値があるとすれば、性急な政治改革に期待するのではなく、すでにある多数派にとっての政治経済的資源の配 分が、社会の中のマイノリティの存在により、既存の政治枠組みを大幅に変えることなく「公正に」配分できるように働かせることにあると思われます。
さて、最近は僕は琉球の先住民遺骨返還運
動に関わっています。琉球の先住民性は、国連勧告などで明確で、日本政府は国内の多言語多民族性、多文化性の承認をして、国民の多様性のなかに、世界の先
端をゆく多民族共存のモデルとして前進させるべきです。その意味でも「琉球の同胞(僕はネオリベラル・コミュニストですから同志と呼びたい)」の立場も複
雑です。琉球の先住民性を後進性や原理主義とみなす沖縄のモダニストや、それを分離主義と糾弾する国民派があり、さらに辺野古移設問題や沖縄(琉球)アイ
デンティティ論が絡みとても錯綜しています。ヤマトの僕としては、その都度、私=俺(→反響としてのお前)は何者だといつも自問しています。 ●遺骨や副葬品を取り戻しつつある先住民のための試論 ●金関丈夫と琉球の人骨 ●先住民運動からみた日本の保守とリベラルの位相 |
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●新自由主義 ● |
◎クレジット:第93回日本社会学会大会11月1日09:30-12:30AM)権力・政治(司会:中澤秀雄・中央大学)フルペーパー(JSSA20201101mikeda.pdf)パスワードなし
リンク(先住民と政治について)
リンク(政治について)
文献
その他
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099
先住民の視点からグローバル・スタディーズを再構築する領域横断研究研究課題(基盤研究(B), 18KT0005)
先住民族研究形成に向けた人類学と批判的社会運動を連携する理論の構築(基盤研究(A), 20H00048)