書評:花渕馨也『精霊の子供——コモロ諸島における憑依の民族誌』横浜:春風社、2005年
『文化人類学』71巻2号、Pp.266-269、2006年9月 による変奏エッセイ
3.0 さて著者の憑依論の核心は、これまでの議論が憑依の「背景に想定される原因や機能、あるいは隠された意味やメッセージを追求することに性急」であったことを批判し、その代替案として「憑依の表面的ふるまいそのものを綿密に見つめ」(p.38)、「ある社会に生きる人々が、ある生き方をし、ある現実を作り上げて」おり、それを「可能な限り正確に彼らの現実を翻訳、記述」(p.400)するということにある。では、著者は憑依現象の理解に何を求めようとするのか。従来、憑依された主体が振る舞う様態に関する民族誌記述は、本人あるいは精霊のどちらかの二者択一の選択肢のなかでゆらいできたという。だが著者にとってそのような選択は不毛である。花渕によると憑依の根本問題は、端的に「ある行為が人称化され主体が帰属させられるルール、しかも、それが身体の本来のもち主ではなく、外部主体に帰属させられるルールがいかなるものであるかを問う」ことにあるからだ(p.43)。
書評:花渕馨也『精霊の子供——コモロ諸島における憑依の民族誌』横浜:春風社、2005年、『文化人類学』71巻2号、Pp.266-269、2006年9月
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