書評:花渕馨也『精霊の子供――コモロ諸島における憑依の民族誌』横浜:春風社、2005年
『文化人類学』71巻2号、Pp.266-269、2006年9月 による変奏エッセイ
10.0 終章の冒頭のショック療法の後に続いて、憑依のメタコミュニケーション論が展開されるが、著者が高く評価する西村清和のグレゴリー・ベイトソン批判の有効性を私は十分に理解することができなかった。私の無知を承知で披瀝するとこうである。[我々が議論している憑依を暗示する]「遊び」に関する西村の仮象論批判は、遊びがもつ多様性や多義性という現実の様態を無視したために、ベイトソンの遊びの仮象論を論理的に論破したと西村が勝手に思いこんでいるだけではないか。ベイトソンの言わんとしていることは、遊びが生む同時多発的な多様性や多義性をメタコミュニケーションという形式を通して把握しようとするものであり、これは西村が文法用語から借用した中動相という形式を通して「遊び」の多様性や多義性を主張しているのと同じように思える。中動相は、憑依や遊びに典型的にみられる多様性や多義性を指し示すのにもっとも適正な言葉であり、結局のところベイトソンの指摘の適切さ(コミュニケーションとメタコミュニケーションの同時存在)を逆に証明しているのではないかと思われる[さらに言えば、メタコミュニケーションに複数の論理階型を想定するベイトソン派のほうが理論的にはより洗練されている]。
書評:花渕馨也『精霊の子供――コモロ諸島における憑依の民族誌』横浜:春風社、2005年、『文化人類学』71巻2号、Pp.266-269、2006年9月
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