書評:花渕馨也『精霊の子供――コモロ諸島における憑依の民族誌』横浜:春風社、2005年
『文化人類学』71巻2号、Pp.266-269、2006年9月 による変奏エッセイ
11.0 したがって、ここは著者に対して人類学者ベイトソンの所論とがっぷり四つに組み取ってコモロ憑依論を展開して欲しかった[地方大学で人類学教育経験にどっぷり浸かった私のジニはそのような声色で要求する]。また、コモロ諸島の憑依研究者で本書の議論にも大いなる影響をもたらしたマイケル・ランベックに関する議論が冒頭において集中的に、また全般的には随所に見られるのに、最終章ではわずかしか触れられていないのは、多少なりとも奇異な感じがする。著者のねらいは虚構のグランドセオリーを打ち立てるのではなく「人々が、ある生き方をし、ある現実を作り上げ」ることを「可能な限り正確に彼らの現実を翻訳、記述する」ための方法論が、いったい何であったのかを述べ、彼がとった方法論の可能性と限界を次にくる人類学者に明確に提示することにあるように思われる。そうであるならば、ランベックのとった方法論や修辞の戦術に対して果敢にコメンタリーを積み重ねてゆくことも必要であろう。なぜならコモロ諸島の地域のずれ、研究者と現地の人たちの関係性のずれ、憑依現象の表象化戦術のずれ、憑依現象一般に対する理解のずれが、ランベックと花渕の間には想定されるからだ。この比較のダイナミズムに関する考察を多くの読者は期待している[実は本書の出版後ある研究会においてその片鱗となる彼の発表を聞いたことがある。本当は彼の研究プログラムは着実に進んでいるのだ]。
書評:花渕馨也『精霊の子供――コモロ諸島における憑依の民族誌』横浜:春風社、2005年、『文化人類学』71巻2号、Pp.266-269、2006年9月
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