はじめによんでください 

カニバリズム(食人)

Cannibalism

'Americae Tertia Pars', attacl of the village by the Tuppinjkinsij (page 364), 1562 (colour engraving)

解説:池田光穂

食人、あるいは喰人(しょくじん)とは、人を食べる こと。英語の喰人主義、喰人嗜好が外来語化して、カニバリズム、あるいはカンニバリズムと呼ばれる。これは西欧の新大陸発見以降に、人喰人種の代表格とし てのカリブ族(西インド諸島の一民族)から由来した俗称である。学問的に、人間を食べるという慣習行為は、より「客観的」な表現として、食人 (anthopo-phagy:アンソロポファジー)と使われる。

カニバリズムは、もともと人間が別の人間を食べる行為のことをさしていただ、このメタファーは、他の動物が別の動物を食べるという行為に拡大されて、今日では「普通」に使われている。;"Cannibalism is the act of consuming another individual of the same species as food. Cannibalism is a common ecological interaction in the animal kingdom and has been recorded in more than 1,500 species.[1; Polis, G. A. (1981). "The Evolution and Dynamics of Intraspecific Predation". Annual Review of Ecology and Systematics. 12: 225–251. doi:10.1146/annurev.es.12.110181.001301.] Human cannibalism is well documented, both in ancient and in recent times.[2:Goldman, Laurence, ed. (1999). The Anthropology of Cannibalism. Greenwood Publishing Group. ISBN 978-0-89789-596-5.]"

Human cannibalism is the act or practice of humans eating the flesh or internal organs of other human beings. A person who practices cannibalism is called a cannibal. The meaning of "cannibalism" has been extended into zoology to describe an individual of a species consuming all or part of another individual of the same species as food, including sexual cannibalism.

食人行為は、多くの社会や民族においてタブーである ので、自分の仲間を食べることは、一般に「おぞましい事」とされる。他方、首狩や(組織的計画的)殺害なども含めて、他者を食べる行為には、その「動機」 が適切に説明されれば、どのような民族でも人喰いの行為を「おぞましいが理解可能な事」あるいは「自分たちには理解不能でおぞましい実践だが野蛮な人たち には《意味のある行為》である」というふうに、我々はその食人行為を、精神的に飼いならすことができる。

文化人類学民族学研 究における食人慣習の研究や、犯罪学があつかう異常行為として食人――これを制度化されていない点で「機会的食人(opportunistic anthropophagy)」と呼ぶ――が、多くの人びとの関心の呼ぶのは、そのようなタブーを知りたいという人間の欲望と「野蛮な連中は人を喰う [喰っている/喰っていた]に違いない」という我々の信念の両方を満たすことができるからである。このような関心が、食人に関する数多くの著作をこれまで 生んできたし、また、このことに無関心、無反省なために、多くの妄想・憶測・ファンタジーが込められた「著作」がほとんどであり、学者と称する研究者の著 作にも、実証的には怪しい記述が多い。

文化人類学者ウィリアム・アレンズは、喰人は機会 的なものとしてもまた慣習的行為としても、それらのレパートリーとしては特異的なものであり「未開人や野蛮人」は我々の想定以上にそれほど「人を喰ってい ない」ということを大胆に提唱した。しかしながら今日では、アレンズのテーゼは実証派の学者達からは暗黙のうちに否定されており、その信奉者は少数派に属 する。

ただしこれはアレンズ・テーゼが本質的に持つ瑕疵や限界ではなく、どんな(想像を絶する残忍な)文化的奇習でも、歴史的現象として例外なく存在しなかっ たと主張することが論理上の構成としてかなり無茶な立論であったためである。そして、またこれは反証可能性すなわち〈無謬論は科学的真理を担保できない〉というK・ポ パーの巧妙な修辞の皮肉な帰結であった。したがって、私が考えるアレンズ・テーゼの重要性は「野蛮人は人を喰う」のではなく「『人を喰う隣人』を(我々 は)野蛮人であるとステレオタイプしてきた」ということにある。歴史資料はアレンズの所論では事実よりもコロニアル言説の批判の素材として利用されてい る。アレンズは、このような(我々の)無反省な〈他者表象化の原理〉をみごとな形で彫琢したのである。

アレンズの著作が岩波書店から折島正司によって翻 訳出版されて今年(2015年)は33年目にあたる。その解説のなかでアレンズ・テーゼには必ずしも組しなかった山口昌男(1931〜2013)がアフリカ研究の盟友であるアレンズの著 作を、友愛をもってたしなめつつ、その全体像を「人を食った人類学」と評した。

序文
(→「みんなのための喰人 入門」)
1. 人類学と人喰い

2. 人喰い族の古典的イメージ

3. 現代の人喰い族

4. 有史以前の人喰いの世界

5. 人喰いの神話

6. 人類学と人喰いの神話

(山口昌男)人を食った人類学者
・生前、ビル・アレンズと友人だった山口は、ブルックリン子のアレンズ が歯に衣を着せない辛口のライティングで、指導教員のニーダムも含めて人類学者が、その批判に当惑したのではないかと解説している。山口には、コロニアリ ズム批判もポストコロニアリズムの観点もなく、どちらかというと、「カニバリズムは存在した」派で、それでもなお、アレンズの主張を友人として容認すると いう姿勢をそれほど崩していない。

◎「食人種」の複雑怪奇な定義表(邦訳 p.20)

1. Endo-cannibalism a. Gastronomic Cannibalism
usage of example, e.g.; Gastronomic Endo Cannibalism
2. Exo-cannibalism
b. Ritual or Magical Cannibalism

3. Auto-cannibalism
c. Survival Cannibalism

◎パリ人肉事件・佐川一政関係

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文献

《前菜》

文化史上の奇習あるいは、その実在について真贋論争 が終わらない喰人(カンニバリズム)に興味のある読者には是非とも一読をすすめたい好著である。日本は世界の先進国のなかでも質の高い歴史書の出版点数が 多く、また宗教的イデオロギーに毒されたジャンク本が少ないことは、自国文化として誇ってもいいと評者は思う。他方そのぶん、この国では粗雑な唯物論や実 証主義――それらを〈悪しき歴史フェチ・イデオロギー〉の源泉と私は呼びたい――の影響のもとでの「篤実」な蓄積がありすぎて、大胆な思想史的冒険がな い。それゆえ歴史学の良書と呼ばれてきたものは、泰西のものにくらべると明らかに「退屈」なものが多い。その点で本書は、そのような潮流から外れた好著だ と言える。著者・弘末雅士(一九五二〜)が言うように、喰人(カンニバリズム)は専門家・市井人を問わず「つねに」好奇の眼に晒されてきた。

《サラダ》

文化人類学者ウィリアム・アレンズは、喰人は機会的 なものとしてもまた慣習的行為としても、それらのレパートリーとしては特異的なものであり「未開人や野蛮人」は我々の想定以上にそれほど「人を喰っていな い」ということを大胆に提唱した。しかしながら今日では、アレンズのテーゼは実証派の学者達からは暗黙のうちに否定されており、その信奉者は少数派に属す る。

《スープ・パン》

ただしこれはアレンズ・テーゼが本質的に持つ瑕疵や 限界ではなく、どんな(想像を絶する残忍な)文化的奇習でも、歴史的現象として例外なく存在しなかったと主張することが論理上の構成としてかなり無茶な立 論であったためである。そして、またこれは反証可能性すなわち〈無謬論は科学的真理を担保できない〉というK・ポパーの巧妙な修辞の皮肉な帰結であった。 したがって、私が考えるアレンズ・テーゼの重要性は「野蛮人は人を喰う」のではなく「『人を喰う隣人』を(我々は)野蛮人であるとステレオタイプしてき た」ということにある。歴史資料はアレンズの所論では事実よりもコロニアル言説の批判の素材として利用されている。アレンズは、このような(我々の)無反 省な〈他者表象化の原理〉をみごとな形で彫琢したのである。

《魚料理からソルベへ》

本書は、アレンズの良心的な学問的反省を、弘末の専 門領域であるエスノヒストリーあるいは東南アジア地域史――彼の場合はインドネシア・スマトラ島のトバ・バタック文化――の歴史叙述のなかに検証したこと にある。私がこれを好著と判断する理由である。

《肉料理》

著作は六章構成であり、最初の二章が、喰人=カンニ バルの語源となった西インド諸島の野蛮人(カリブ海の名称は喰人族カリブから由来するのだ!)の経緯、そして先に述べたアレンズの所論、そして、歴史的喰 人記述のメッカであった現在のブラジルのトゥピ系の人々の「奇習」の謂れなどが詳述されている。三章から五章までは、インドネシア島嶼部北スマトラの食人 ――著者は喰人と書かずこの文字を充てる――風聞や「慣行」についての3つの独立した諸論文からなっている。ここは本書のメインディッシュの部分である。 最終の六章では、喰人慣行の中身の分析よりも、トバ・バタック人=喰人者という言説についての、外部者と当事者による歴史的表象の変遷に関する叙述に力点 がおかれる。最後には短い「あとがき」がある。フルコースの食事としては、この部分は冒頭の一章の中に組み込まれるか「はしがき」と書かれる部分に移され るべきだったかもしれない。なぜなら東南アジア史学の碩学が、どうして今、そしてなぜ人喰い(食人)を取り上げるのかということについて正直にその心情を 語っているからである。

《チーズとフルーツ》

「あとがき」は「はしがき」にむしろ書かれるべきだ ――と評者は思う――という本書の〈書記法に関するクロノロジー批判〉をおこなったついでに、本書の叙述の順番についても注文をつけておこう。冒頭におい てカンニバリズムについてのアレンズの所論を紹介しておきながら、著者は喰人が慣習的に行われたのか、それとも言説にすぎないのかということについての統 一した著者の見解を曖昧にしたまま、終章まで引き延ばしている。しかし終章でも、バタックのカンニバリズム現象についての歴史的挿話と、当事者であるバ タックの人たちがそれに呼応して言わば「演出された本物性」 (E・ゴフマン)を当事者が演出・演技していたのだという事実のみが語られる。だとすれば 冒頭の問題提起は、再度終章において連関する形で吟味・結論されるべきであったのではないか。

《デザート・コーヒー》

アレンズの著作が岩波書店から折島正司によって翻訳 出版されて今年は三三年目にあたる。その解説のなかでアレンズ・テーゼには必ずしも組しなかった山口昌男(一九三一〜二〇一三)がアフリカ研究の盟友であ るアレンズの著作を、友愛をもってたしなめつつ、その全体像を「人を食った人類学」と評した。その意味で、私が奉ずる人類学の盟友たる歴史学のこの地域研 究の泰斗による本書を一言で評するとすると、それは「人を食った歴史学」となるだろう。言説の歴史分析たる本書、弘末の著作は「人を食っていない」トバ・ バタックの歴史記述との相補関係において、今後より明晰なものになるだろう。

《プチフール》
出典:『図書新聞』3196号(2015年2月28日)

■カニバリズム伝説拾遺

クラナッハの絵画を根拠にかつてのヨーロッパ人はカ ニバリズムするといったら、ヨーロッパ人は「だから非西洋の野蛮人はこれだ」と言ってムキになる――ISISの斬首写真のSNS投稿を思い出したまえ。し かし、ほかならぬヨーロッパ人は非西洋の野蛮人をカニバリストと軽蔑しつづけてきただけでなく、植民地主義や帝国主義の時代には、不必要なほど「非西洋の 人びと」の尊厳を踏みにじり、文字通り「人を喰って」統治をしてきたのだ。そこにはフーコー的な統治術など屁ともおもわない暴力的なものだった。それは今 もなお……


ヨハネの首。ルーカス・クラーナハ(父)、1531 年。

フォッサ・ヌォヴァ僧院で死んだトマス・アキナスはその弟子たちが彼の遺体が聖遺物として流出するのを恐れて頭部を切り離し煮て調理したという.フーゴー『聖者伝』より


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Among cannibals who eat smail men, by The Far Side Comic Strip by Gary Larson

仮想 医療人類学辞典

ヒグマ右鮭つきのわひぐまつきのわひぐま