On The Other Question: difference, discrimination and the discourse of colonialism by Homi Bhabha.
解説:池田光穂
●バーバ「差異、差別、植民地主義の言 説」(1990)ノート
「不
安、劣等コンプレックス、恐怖のおののき、卑屈、絶望、下僕根性、これらを手慣れた仕方で詰め込まれた数限りない人間たちについて私は語っているのであ
る」——エメ・セゼール『植民地主義について』
【文 献】
I
【論文の目的】
・目的
「言説内に植民地主体を構築すること、言説を通して植民地の権力を行使することは、差異の諸形式——人種的かつ性的な——の節合」が必 要であることを示唆する(p.62)。節合が重要なのは、肉体が次の二つの機構(エコノミー)によって刻印されている場合である。
(1)快楽と欲望のエコノミー
(2)言説と支配と権力のエコノミー
・バーバの読み
彼(バーバー)の読みとは「介入の地点を、イメージが肯定的であるか否定的であるかを認知することから、ステレオタイプの言説によって 可能になった(あるいは信憑性を帯びた)主体化のプロセスを理解することへ、移行するように示唆する」ことにある。
それを成就するために、ポスト構造主義と精神分析の理論、とくにフェミニストの定式化に負う。
・スティーブン・ヒースの評価
S・ヒースはオーソン・ウエルズ監督『黒い罠』を分析した。これまでのこの種の分析は、「ステレオタイプとイメージを認知し、それらを 詳述するに当たっても民族的アイデンティティの起源と統一性を主張するような道徳主義または民族主義的言説を使ってきた」。バーバが評価することは、彼の 分析が従来の人種的・文化的差異の分析から踏み出していることだ。つまり「テクストの内部における相矛盾する多様な場」に注目したことである。このような 場は、異質、混交、不純という意味素を侵犯と腐敗を引き出すものとして配備することで、民族的/文化的差異を構築している。これはバーバによると、他者性 を意識するよりもより主体の問題に関心をひきつけた議論になっている(しかし、それは無理からぬことだとバーバはいう)。(p.64)
【植民地言説】
・植民地の問題提起に際して次のことをよく考えなければならぬ。
「階級とジェンダーの差異化の分析において生み出される社会的権威の記号と意匠から、文化的・人種的差異の問題をはらんだ表象を単純に は読みとることはできない」(p.61:文書を改変)
「その植民地という限界点において西洋は、文明化させる使命をもつと同時に暴力的な力をもって服従させるという、二重の義務を負ってお り、そうした自己の、独特にずらされて脱中心化されたイメージに直面しなければならない。この植民地という周縁においてこそ、西洋の文化はその差延、その 限界テクストをさらけだす」(p.61)
・権力/知・ステレオタイプ・アンビバレンス
西洋の権威の実践は、戦略としてのアンビバレンスを提示する。その戦略は、差別的権力のもっとも重要な言説的・心理的戦略である。 「このアンビバレンスの力をもってこそ、植民地のステレオタイプが通用するようになり、歴史的・言説的局面を変化させるさいの反復可能性を保証し、個別化 と周縁化の諸戦略を活性化する。」(p.61)
「知と権力のアンヴィヴァレントな様式としてステレオタイプを認識することは、言説と政治の関係を考えるさいの決定論的または機能主 義的諸様式に意義を唱えるような理論的かる政治的な対応を迫られる。」(p.61)
II
・植民地言説
植民地言説「それは、人種的/文化的/歴史的諸差異の認識と否認を作動させる装置である。その支配的な戦略機能は、諸知識の生産を通し て「被支配民族」のための空間を作り出すことであり、それに基づいて監視が行われ、快楽/不快の複合形式が刺激される。その装置は、植民者と被植民者に関 する諸知識(ステレオタイプでありながら、対照的な評価を受ける)を生産することによって、その戦略のための権威づけを求める。」(p.65)
注:この文の後に、植民地のさまざま統治行為の様式を彼は描くが、具体的にはどのような植民地の、どのような政策を心に抱いているの か不明である。空理空論だと非難する以上にこの指摘の意義を検証するならば、具体的な植民地統治の事例をもってきて検証することが必要。(実際にp.66 以降の議論では、テンプル「原住民とその支配者たち1918」、サイード『オリエンタリズム1978』、ファノンの議論(黒い肌・白い仮面、地に呪われた るもの)が素材としてつかわれている)。
・人種差別的・ステレオタイプ的言説(議論の最後に登場する:pp.77-78)
「人種差別的・ステレオタイプ的言説は、植民地時代においては、統治行為の形式を刻印しており、それはその知の構成と権力の行使にお ける生産的分裂によって活性化される。その実践の一部は、人種、文化、歴史の差異を、ステレオタイプ的知識、人種理論、植民地管理の経験などによって加工 されたものとして認識し、それに基づいて、ある範囲の政治的・文化的イデオロギー群を制度化する。こうしたイデオロギー群は、偏見と差別、そして過去の痕 跡をとどめ、古くさくて「神話的」で、そして重要なことにまさにそのようなものとして認識される。そして、こうしたものに基づいて現地の住民を知ることに よって、政治的支配の差別的・権威主義的形式が適切なものであると考えられる。こうして植民された住民は、システムの原因と結果の両方と見なされ、解釈の 円環に閉じ込められることになる。ここで目だつのは、このような規則の必要性であり、それは「文明化の使命」あるいは「白人の重荷」として認識されてい る、改善という道徳主義的・規範的なイデオロギー群によって正当化される。」(pp.77-78)
・では人類学的言説はどこにポジションを見いだすのか?
上の人種差別的・ステレオタイプ的言説とは異なるが、「植民地主義のプロジェクトにはっきりとした正当化」を与えるものがある。「植 民地権力の同じ装置の内部に共存しているのは、政府の近代システムと科学であり、社会的・経済的組織の進歩的・西洋的形式である」(p.78)。人類学的 知もおおむね、そこにポジションを見いだすことは明らかであろうし、それはまたフーコー的な意味においての植民地権力の可視性の議論へと展開されるだろ う。(※「装置」はフーコー『知への意志』のdispositifの概念にそったものである。参考文献:フーコー『同性愛と生存の美学』増田一夫訳、 1987[1977]、哲学書房:pp.108-113)
【植民地権力の可視性】
「植民地権力に特有の可視性とは、その内部においてイデオロギー的空間が政治的・経済的要求とははっきりとした形で協力的に機能している、 統治行為の形式なのである。バラックのそばに教会がたち、その近くに教室が立つ。兵営は「民事線」にくっついて立っている。このような権力制度・装置の可 視性が可能になるのは、植民地権力の行使が、その関係を曖昧にし、それらをフェティッシュとして、自然化された人種的優位性の光景として生産するからだ」 (p.78)
【エスノセントリズムをめぐって】
・反−エスノセントリズムのパラドクス
記号学やグラマトロジーの実践は、現前性と同一性のエピステーメーにもとづく表象の西洋的諸様式を疑問に付す。そこで得られた成果は 「社会的・文化的記号の恣意的・差異的・体系的な構築」を強調する(論難する)。ここまではよい。しかし「他者性の表象の様式」は西洋の言説内にどどま り、かつそれに依存しているのだ。
「反自民族中心主義の態度は、他者性の光景を認識したさいに、こうした自民族中心主義(エスノセントリズム)のパラドクスを隠す戦略である」(p.63)。 つまり、他者の側にたっているふりを装って自己の概念や言説を密かに忍ばせているからだ。バーバはその文に続けて言う。
「なぜなら西洋の観念主義やロゴス中心主義を批判するには、現前性の哲学と瓦状に重なりあった、欠如を構成要素としてもつ言説の存在が 必要となり、そうしてこそ、「行間における」差異的あるは脱構築的読みが可能になるからだ。」
このような事態はカズンズに倣って「差異という名のもとにある類似性を露にする一群の遊戯的な脱構築主義者たちを」産出することにな る。「もしこのような反復性を避けるためには、ロゴス中心主義の戦略的失敗に、位置をずらし転倒させる役割を与えなければならなくなり」、そのためには反 −西洋の認知を通して(何の?)<満足を得られない>ということを実証的に種別化される必要がある。だから「文化的他者性は差延の理論の中で現前性の契機 として機能」し、「他者性は、証明される必要のあるもの(ロゴス中心主義の限界)が(欠如/欲望の運命またはエコノミーとして)想定されるという循環の、 円内の同価性または同一性の点」となる。(p.63)
つまり、差異からはじまった他者性が最終的に同一性を保証するという帰結を生み出すのである。(このバーバ解釈は妥当だろうか?:次 を参照)
In modern usage, the term grammatology
refers to the scientific study of writing systems or scripts.[1] This
usage was first elucidated in English by linguist Ignace Gelb in his
1952 book A Study of Writing.[1] The equivalent word is recorded in
German and French use long before then.[2][3] Grammatology can examine
the typology of scripts, the analysis of the structural properties of
scripts, and the relationship between written and spoken language.[4]
In its broadest sense, some scholars also include the study of literacy
in grammatology and, indeed, the impact of writing on philosophy,
religion, science, administration and other aspects of the organization
of society.[5] Historian Bruce Trigger associates grammatology with
cultural evolution.[6] |
現代的な用法では、文法学(グラマトロジー)という用語は、文字体系ま
たは文字の科学的研究を指す[1]。この用法は、言語学者イグナス・ゲルブが1952年に出版した著書『A Study of
Writing(文字の研究)』において、英語で初めて明らかにされた[1]。
[4]最も広い意味では、識字率の研究も文法学に含める学者もおり、実際、文字が哲学、宗教、科学、行政、その他社会組織の側面に与える影響も文法学に含
まれる[5]。歴史家のブルース・トリガーは文法学を文化進化と関連付けている[6]。 |
Toronto School of communication theory Main article: Toronto School of communication theory The scholars most immediately associated with grammatology, understood as the history and theory of writing, include Eric Havelock (The Muse Learns to Write), Walter J. Ong (Orality and Literacy), Jack Goody (Domestication of the Savage Mind), and Marshall McLuhan (The Gutenberg Galaxy). Grammatology brings to any topic a consideration of the contribution of technology and the material and social apparatus of language. A more theoretical treatment of the approach may be seen in the works of Friedrich Kittler (Discourse Networks: 1800/1900) and Avital Ronell (The Telephone Book). |
トロント学派のコミュニケーション理論 主な記事 トロント学派のコミュニケーション理論 書くことの歴史と理論として理解されている文法学と最も関係の深い学者には、エリック・ハヴロック(『ミューズは書くことを学ぶ』)、ウォルター・J・オ ング(『オラリティとリテラシー』)、ジャック・グッディ(『野蛮な心の家畜化』)、マーシャル・マクルーハン(『グーテンベルクの銀河系』)などがい る。文法学は、どのようなトピックにおいても、テクノロジーの貢献と、言語の物質的・社会的装置についての考察をもたらす。このアプローチをより理論的に 扱ったものとしては、フリードリヒ・キットラー(Discourse Networks: 1800/1900)やアヴィタル・ロネル(The Telephone Book)がある。 |
Structuralism and Deconstruction Swiss linguist Ferdinand de Saussure, who is considered to be a key figure in structural approaches to language,[7] saw speech and writing as 'two distinct systems of signs' with the second having 'the sole purpose of representing the first.',[8] a view further explained in Peter Barry's the Beginning Theory. In the 1960s, with the writings Roland Barthes and Jacques Derrida, critiques have been put forth to this proposed relation. Barthes' writing has been described [by whom?] as interesting as one can see the transition of these two literary styles through comparing his earlier works with his later work. His early work is methodical and very structured in its delivery, with his later works becoming random in sequence and unfocused. Meanwhile, Jacques Derrida published many works on the subject of literary theory but most are considered [by whom?] to be more philosophical than based on literature itself. In 1967, Jacques Derrida borrowed the term, but put it to different use, in his book Of Grammatology. Derrida aimed to show that writing is not simply a reproduction of speech, but that the way in which thoughts are recorded in writing strongly affects the nature of knowledge. Deconstruction from a grammatological perspective places the history of philosophy in general, and metaphysics in particular, in the context of writing as such. In this perspective metaphysics is understood as a category or classification system relative to the invention of alphabetic writing and its institutionalization in School. Plato's Academy, and Aristotle's Lyceum, are as much a part of the invention of literacy as is the introduction of the vowel to create the Classical Greek alphabet. Gregory Ulmer took up this trajectory, from historical to philosophical grammatology, to add applied grammatology (Applied Grammatology: Post(e)-Pedagogy from Jacques Derrida to Joseph Beuys, Johns Hopkins, 1985). Ulmer coined the term "electracy" to call attention to the fact that digital technologies and their elaboration in new media forms are part of an apparatus that is to these inventions what literacy is to alphabetic and print technologies. Grammatology studies the invention of an apparatus across the spectrum of its manifestations—technology, institutional practices, and identity behaviors.[citation needed] |
構造主義と脱構築 スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、言語に対する構造的アプローチの重要人物と考えられており[7]、音声と文字を「2つの異なる記号の 体系」と見なし、2つ目の記号は「1つ目の記号を表現する唯一の目的」を持つとした[8]。1960年代、ロラン・バルトとジャック・デリダの著作によっ て、この提案された関係に対する批判が提示された。バルトの文章は[誰によって]、初期の作品と晩年の作品を比較することで、この2つの文学スタイルの変 遷を見ることができ、興味深いと評されている。彼の初期の作品は整然とした、非常に構造化された表現であり、後期の作品は順序がランダムで焦点が定まって いない。一方、ジャック・デリダは文学理論をテーマに多くの作品を発表しているが、そのほとんどは文学そのものに基づくというよりは、哲学的なものである と[誰が]考えている。 1967年、ジャック・デリダはその著書『文法学(グラマトロジー)』において、この言葉を借用しながらも、異なる使い方をした。デリダは、文章とは単に 音声の再現ではなく、思考が文章に記録される方法が知識の本質に強く影響することを示そうとしたのである。文法学的観点からの脱構築は、哲学史全般、とり わけ形而上学を、そのような「書くこと」の文脈に位置づける。この観点から、形而上学はアルファベット文字の発明と学校における制度化に関連したカテゴ リーや分類体系として理解される。プラトンのアカデミーやアリストテレスのリセウムは、古典ギリシア語のアルファベットを作るための母音の導入と同様に、 識字の発明の一部なのである。グレゴリー・ウルマーは、歴史的文法学から哲学的文法学へと続くこの軌跡に、応用文法学(Applied Grammatology: 応用文法学:ジャック・デリダからヨーゼフ・ボイスまでのポスト(e)-教育学』ジョンズ・ホプキンス、1985年)。ウルマーは、デジタル技術と新しい メディア形態におけるその精巧さが、アルファベットや印刷技術にとっての識字と同じように、これらの発明にとっての装置の一部であるという事実に注意を喚 起するために、「エレクトラシー」という言葉を作り出した。文法学は、テクノロジー、制度的慣行、アイデンティティ行動など、その発現のスペクトルにまた がる装置の発明を研究する[要出典]。 |
Graphocentrism – Focus on written language as "best" language Deconstruction – Approach to understanding the relationship between text and meaning Graphemics – Study of graphemes and writing systems List of writing systems Of Grammatology – 1967 book by Jacques Derrida Post-structuralism – Philosophical school and tradition Structuralism – Intellectual current and methodological approach Writing system – Convention of symbols representing language Written language – Representation of a language through writing |
記述中心主義 - 「最良の」言語としての書き言葉に焦点を当てる。 脱構築 - テキストと意味の関係を理解するアプローチ 書記素論 - 書記素と書記体系の研究 文字体系のリスト 文法学の-ジャック・デリダによる1967年の著書 ポスト構造主義 - 哲学的な学派であり伝統である。 構造主義 - 知的潮流と方法論的アプローチ 書記体系 - 言語を表現する記号の規則 書かれた言語 - 書くことによって言語を表現する |
https://en.wikipedia.org/wiki/Grammatology |
・ふたたびエスノセントリズム問題(p.65)
「他の諸文化の差異というのは、意味作用の過剰、欲望の痕跡あるいは軌跡の差延とは異なるものである。これらは「自民族中心主義」と戦 うのに必要な理論的戦略かもしれないが、それら自身では、再構築されなければ、その他者性を表象するできない。記号論的または脱構築的な行為から、他の文 化的・言説的システムを問題化せずに読むといった方向へ、必然的にスライドしていくようなことはありえないはずだ。そのような読みには権力と知への意志が あり、自身の言表行為と有効性とのフィールドの限界を特定化することができずに、他者性を自身が仮定したことの発見として個別化するようになってしまうの である。(p.63)」
・デリダ批判
「デリダは‥‥、自民族中心主義の問題をロゴス中心主義の限界に固定する傾向がある。その限界とは、形而上学と不可分の前提として、単 なる形而上学の限界のひとつとして、既知なるものの近くに整然と位置づけられた、未知なる領域なのである。このような立場は、他の言説的な場(その場から 植民地文化の差異的な物質性と歴史を検証するような)構築あるいは探求へとはつながらない。‥‥植民地の言説は、常に少なくとも二重に書き込まれており、 植民地の主体の問題はその「独自性」を否定する差延のプロセスのなかで考えなければならないのである。」(p.63)
【オリエンタリズムについて】 (オリエンタリズムのサイード)
・サイード批判
バーバのサイードの評価は省略する(p.67)として、その批判の視点を押さえておくことが重要である。サイードの分析において欠点は どこにあるのか?。
彼は「他性とアンビヴァレンスを不適切に扱う点にある。知識としてのオリエンタリズムの言説の対象自体と、その内部に位置づけられた主 体との分裂を脅かす、これらの二つのエコノミーの節合におけるアンビヴァレンスである。彼はこの脅威を議論内に二項対立論を持ち込むことによって包摂し、 最初にこれらの二つの言説の光景を対立物としてセットすることで、最終的にはこの二つを表象の調和したシステムとして相互に関連させる。そのシステムは政 治的・イデオロギー的意図を通して統一され、その結果、彼の言葉によれば、ヨーロッパは安全かつ非隠喩的に、オリエントよりも優位に発展することができる ようになったのである。」(p.67)、しかし、バーバによればこれは独断である。
彼の欠陥は「オリエンタリズムの内容を、幻想や創作的なエクリチュール群、本質的な諸観念などの無意識な貯蔵庫として同一化し、さらに 顕在的なオリエンタリズムの形式を、歴史的・言説的に決定された通時的な局面として同一化している。そのとき、ここには心理主義的な還元による混乱が生じ ているのである」(pp.67-8)。
III
ファノンを通したフーコー批判
・フーコー的な権力/知の誤解
フーコー的な権力/知の理解についても誤解が生じているという。権力/知の議論は、認識論的な対立としてとらえたり、「逆転させるこ とによって覆されうる、対称的または弁証法的関係——自己/他者、主人/奴隷——には属さない」(p.68)。ところが、「サイードにおいては常に、植民 地権力と言説は植民者によって全面的に所有されているのだと示唆されているが、それは歴史的・理論的な単純化である」。言ってくれるのじゃないの、という 感じだが、あとを続けよう。サイードは「言説の「政治的」諸効果の生産における、歴史的なものと幻想とを(欲望の舞台として)節合する概念として、表象に 不十分な注意しか向けていない」。「彼がオリエンタリズムを、オリエント的本質の誤った表象として拒否しているのは正しい。しかし「言説」という概念を導 入しながら、彼はときに、権力/知の道具主義(機能主義)的使用を要請しているように思われ、しかもそれにまつわる問題について、十分に目を配っていない のである」(p.68)。
その証拠に表象を形成されたもの、変形されたもの(後者はバルト的理解)としてとらえていることからも分かる。
(アンビバレントな)権力/知の関係は「野蛮性、カニバリズム、性欲とアナーキーといった恐ろしいステレオタイプ群であり、植民地の テクストにおいては、自己同一化と疎外の記号的な地点、恐怖と欲望のシーンである。」
・サイード批判の第二のポイント
「閉止=完結性と一貫性を植民地言説の無意識的極の特徴とし、そして主体の観念を問題化しないことは、権力と知の両方の有効性を限定し てしまう‥‥。」(p.68)
【ステレオタイプとフェティシズム】
・フーコーの装置(dispositif)の概念を援用しながら、ステレオタイプとフェティシズムを精神分析(フロイト+ラカン)から議論 する。ここでは、ファノンの作品がそれを解く素材(=触媒?)として用いられる。ただし、よく理解できないので、議論の要約はここでは省略する。むろん、 この論文を理解するもっとも重要な部分であり、この理解を抜きにしては、バーバの批判の正当性を考量できないのだが‥‥。
Homi Bhabha: Translation and Displacement, 2016 - The Graduate
Center, CUNY
One of the foremost figures in postcolonial studies, Homi K. Bhabha discusses translation’s impact on the construction of social memory, historical narrative, and cultural identity. Bhabha, author of The Location of Culture and the Anne F. Rothenberg Professor of the Humanities at Harvard, delivers the keynote talk of the Translation Theory Today conference. Presented on May 6, 2016, by GC Public Programs, the Critical Theory Certificate Program, the Center for the Humanities, the Writers’ Institute, the Ph.D. Program in Comparative Literature, the Ph.D. Program in Sociology, and the Advanced Research Collaborative.
For more information about GC Public Programs, visit:
http://www.gc.cuny.edu/publicprograms
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Prof. Sayan Chattopadhyay, Postcolonoal Literature
文献・リンクなど