ケア倫理の人類学
Ethics of Care, gender free
解説:池田光穂
ケアの倫理(ethics of care, care ethics)と
は、ケアという実践活動の社会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論から出発する、ケア
する役割の政治に関する議論のことである。したがって、ケアの倫理は、ケアする人は(ジェンダーへの着目を抜きにして)ケアをする人の倫理や道徳はこうである、ああであるとい
う議論ではない、ことに注意しなければならない。
そのなかで出発点となる重要な著作が、ギリガン、キャロル, 1986『もうひとつの声』生田久美子・並木美智子訳、東京:川島書店(Gilligan, Carol., 1983. In a Different Voice. Cambridge, Mass.: Harverd University Press.)である。
キャロル・ギリガンは、ローレンス・コールバーグのジレンマに対する態度のジェンダー差から、これまで「道徳的ジレンマに関する」発達心理的態 度は、男性の発達プロセスを標準にして考えられているために、ギリガンがいうところの「ケアの倫理」とは、より劣った社会的に未熟な態度であるとみなされ る傾向があったと指摘する。コールバーグのジレンマとは次のようなものである。
「ハインツ氏は、妻が特殊ながんに罹患し、現在瀕死の状態である。彼女の主治医はある薬店で製造販売している非常に高価な薬(100万円) を摂るしかないという。その薬の原価(製造コスト)は販売価の1/10にすぎない。ハインツは、友人たちからお金を借りるなどして半分まで集めたが、購入 することができない。そのためハインツは薬店にかけこみ半額に値切るように依頼をした。しかし、薬店主は自分の努力によりこの製造方法を会得したので、半 額で売ることできないと断った。ハインツは悩んだ末に、その夜、薬屋に忍び込むことを決心した」、というものである。
コールバーグは、道徳性の発達の基準は、以下のようなプロセスを経るという。まず自己中心主義(例:妻を見殺しにすると社会的制裁をうけるので 盗むべきだ/盗むと警察に捕まってしまうので盗むべきではない)。つぎに社会的視点の 獲得(例:妻は薬を必要としているから盗みは正当化される/薬を盗ま ずに妻が死んでもお金が集まらなかったことは非難されるべきじゃない、従って、盗むという手段に訴える必要はない)。そして原理的な考察にいたるような視 点に至る(例:薬を盗むことと「生命(一般)を救うこと」は直結しているので、命を救うためには盗みはやむ終えない/ものを盗むことは一般的に反道徳的な 行為なので盗んではならない)。
コールバーグの結論は、最終的に女性は自分の行動を正当化できないが、男性は行動の理由を説明できると結論づけているのである。これは、ジャ
ン・ピアジェの、女性は抽象的思考ができず、道徳の完成という規範化には至らないという断定と類似のような判断であると言える(ブルジェール
2014:28)。
ギリガンは、このような道徳性の発達性が男性(男の子)を中心的モデルにしているために、ジレンマに直面した女性(女の子)の意見、すなわち, モデル形成から抜け落ちた「もうひとつの声(原題:a Different Voice)」に耳を傾け、そこから導きだせる、ジェンダーと結びついた(あるいはそのように訓育される)倫理観を「ケアの倫理」という形で定式化した。
ギリガンの被験者である、ジャックという男の子は、刑務所に入ってもハインツは奥さんを救うために薬を盗むべきだと答える。他方、エイミーとい
う女の子は、盗むべきか/断念すべきかという問いの立て方に対して、薬剤師に話して緊急の事態であり、説得すべきだという問いが前提にする判断とは別のア
プローチを考案する(端的に言えば、それこそが関係性の倫理すなわち「ケアの倫理」だということができる)。ギリガンは、コールバーグの論理だと、エイ
ミーの判断は「社会的視点」から「原理的な考察」に至る段階で止まっているとするところが(コールバーグ自身の)
問題だとするのである。
ケアの倫理は、正義の倫理とは対極的な位置にある。正義の倫理とは、裁判のようにさまざまな行動のタイプと、それに対する正当性を検討し、行動 とその行動に価値付けれたものに優先順位をつけるべきだと考えるものである。
したがって、ケアの倫理学とは、「ケアという実践活動の社 会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論の学問」のことである。そして、ケア倫理の人類学とは、「ケアという実践活動の社 会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論の学問」を文化人類学的に分析する学問である(→「」)
それに対して、ケアの倫理は、ジレンマにある複数の人たちの責任とそれらの関連性(ネットワーク)に着目し、状況(文脈)を踏まえたナラティブ な(contextual and narrative)思考様式で説明するものである。
この倫理は、ギリガンは女性(女の子)からの資料収集からモデル化されたが、ジェンダー区分に必ず帰着するわけではなく、男性(男の子)もまた ケアの倫理を共有している——この意義を取り違えるとギリガンはセクシストと誤った理解を誘導することになる。そのため、正義の倫理とケアの倫理は、もち ろん共存可能だとギリガンは主張する(cf. 川本 2005:2-3)。
The moral imperative that emerges repeatedly in interviews
with women is an injunction to care, a responsibility to discern and
alleviate the "real and recognizable trouble" of this world. For
men, the moral imperative appears rather as an injunction to respect
the rights of others and thus to protect from interference the
riglits to life and self-fulfillment. Women's insistence on care is at
first self-critical rather than self-protective, while men initially
conceive
obligation to others negatively in terms of noninterference.
Development for both sexes would therefore seem to entail an
integration
of rights and responsibilities through the discovery of the
complementarity of these disparate views. For women, the integration
of rights and responsibilities takes place through ail understanding
of the psychological logic of relationships. This understanding
tempers the self-destructive potential of a self-critical
morality by asserting the need of all persons for care. For men,
recognition
through experience of the need for more active responsibility
in taking care corrects the potential indifference of a morality
of noninterference and turns attention from the logic to the
consequences
of choice (Gilligan and Murphy, 1979; Gilligan, 1981). In
the development of a postconventional ethical understanding,
women come to see the violence inherent in inequality, while men
come to see the limitations of a conception of justice blinded to the
differences in human life (Gilligan 1983:100).
「女性へのインタビューで繰り返し出てくる道徳的要請とは、世話をす
ることへの命令であり、この世の「現実で認識できる困難」を見分けて、
それを緩和する責任である。男性にとっての道徳的要請とは、むしろ他者の権利を尊重し、その結果、生命と自己実現のための権利を妨害から守る
という命令として現れるのだ。女性の配慮の主張は、最初は自己保護と
いうより自己批判的であり、一方、男性は他者への
義務を干渉しないという観点からそれを否定的に考えている。したがって、男女の発達は、これらの異なる見解の相補性を発見することによって、権利と責任を統合すること
を必要とするように思われる。女性の場合、権利と責任の統合は、人間
関係の心理的論理を理解することによって行われる。この理解は、すべ
ての人のケアの必要性を主張することによって、自己批判的な道徳の自己破壊的な可能性を和らげるものである。男性にとっては、ケアをする上でより積極的な責任が必要であることを経験を通じて認識するこ
とで、不干渉の道徳の潜在的な無関心を正し、論理から選択の結果へと注意を向ける(Gilligan and Murphy,
1979; Gilligan, 1981)。ポスト慣習的(=現代的?)な倫理的理解の展開において、女性は不平等に内在する暴力を見るようになり、一方、男性は人間の生命の差異に目をつぶった正義の概念の限界を見るよう
になるのだ(Gilligan 1983:100)」。
だ が、ケアの倫理を中性化して男性にも分有できるようになると考えるのは早計である。社会(近代西洋社会)は、ジャックとエイミーにそれぞれ、そのように振 る舞うように社会化してきた可能性がある。そして、普遍的・合理的と思われるようなジャックの倫理的判断を、エイミーのような他者の幸福や相互扶助を導き だすような倫理よりも、より高度な位置に置いて、〈男性に都合のよい女性の道徳的行動を強いる支配〉を貫徹してきたのではないかという、これまでのジェン ダーの政治に関する歴史への反省を促してると、ギリガンの主張を受け止めることは重要である。これは「フェ ミニスト」アプローチへの第一歩である。
「フェミニストであることは、聞かれなかった声を聞こえるようにする必要から始まる」——ファビエンヌ・ブルジェール(1913)Fabienne Brugère (1964- ).
Carol Gilligan on 'In A Different Voice'(2分14秒)
Carol Gilligan on Women and Moral Development(6分30秒)
■In a Different Voiceの章立て
ギ リガンは、また、女性の中絶の問題を分析して、彼女達がおかれた困難な状況のなかでどのようにして「他者への責任」をやりとげるのが、配慮としてのケアの 実現について考察する(ブルジェール 2014:32/Gilligan 1983:112-115[2008年の仏訳のページの可能性])。
ギリガンにとって「異なる/もうひとつの声」とは、これまで押し殺されてきた女性の声である。「フェミニストであることは、聞かれなかった声を 聞こえるようにする必要から始まる」という(ブルジェール 2014:28)ということは、このような実践のことを差している。
■クレジット:池田光穂「ケアの倫理」「ケアの倫理学」(これは「医療人類学辞典」)
の項目のひとつでもある。
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