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中川米造

解説:池田光穂

Yonezo NAKAGAWA, 1926-1997

1880年 府立大阪医学校(「源流」は適塾— 1868年に閉鎖しているので「源流」は言い過ぎか)設立(1915年専 門学校令による大学を称し開学)

1919年 大学令による旧制大学「大阪医科大学」として昇格。

1922年 田辺元(1885 -1962)『科学概論』(→「その後の田辺元」)

1926年3月23日、旧植民地の朝鮮・京城(ソウル)生まれ。父は穀物取引業を営む中川泰治、 母は美貴で、米造は長男。

1929年 澤 瀉久敬(1904-1995)・京都帝国大学文学部哲学科を卒業。同年、九鬼周造(1888-1941)、フ ランスより帰国。

1931年 大阪医科大学が、国へ移管されると同時に、台北帝国大学に続く第8番目の大阪帝 国大学となる。1933年(昭和8年)には旧制大阪工業大学を合併した。

1935年 沢瀉、フランス政府給付留学生として渡仏。

1937年 澤瀉、フランス留学より帰国。

1938年 澤瀉、京都帝大講師。

1939年 中川、京城、竜 山公立中学校(旧制=五年制:1925-1945)に入学。(竜山公立中学校は1937 年 第23回全国中等学校優勝野球大会に、朝鮮代表として初出場)

1941年(昭和16年)  

3月6日に「学科課程改革委員会案趣旨」に軍陣医学「国 家国防医学」のカリキュラム(下図)が、大阪帝国大学で構想される国 防医学と「医学概論」は同根の可能性が高い。3月6日教授会資料『学科課程改 革委員会案趣旨』A3版サイズで10枚、ガリ版のなかに「次の述べるが如き内容を有する醫學概論なる科目を先ず追加せんとする意義が存する」とのも文言あり(野村 2008:1)澤 瀉久敬・大阪大学・大阪帝国大学講師に就任。医学概論の授業がはじまる。(一)学科課程改革の必要「科学に関する国家的関心は最近特に甚だ強く、且つ著しく拡げられてきた。醫學に 於いても醫學徒、並びに醫師は単に個人的生活に於て活動するのみでなく、社会生活、 立法、教育等、人文的方向に深く且つ汎(ひろ)く合一関与することが必要となるに 至った。」……「斯(か)くして学問意識に燃える若い学生の科学する心を其の専攻学科の哲学的根底の上に確立させる道を講ずることは見逃すことの出来ぬ大 學への新しい課題の一つである。」(後藤 2010:94)。後藤の推測は、医学部の当時の教員には、このような「哲学的な」文言は書けないので(生理学第一教室の久保教授を媒介にした)澤瀉の作 文によるものだろうと推測している。

1942

1943年 (京城の竜山公立中学校(旧制)を卒業後)旧制・松江高等学校に進学(1945年3月松江高等学校 卒業[戦時下での1943年から修業年限短縮])。当時、高 橋敬視(1891-1948)という哲学教員がいた。授業はほとんどなく「援農」労働奉仕に駆り出される。肺結核を意味する「肺尖カタルと肋膜 炎」と診断されショックに。しかし、後に「異常なし」と診断され、その後の経験に大きな影響を与えたと後に述懐(中川『学問の生命』1991:32- 34)。

1944年 澤瀉は、医学概論(医学哲学)の講義を通して医学理論の哲学的考察により、この頃 「医学の哲学」を構想する(佐藤 2011:117)。

1945年4月 松江高等学校卒業 後、京都大学医学部入学、1か月程度の講義の後、舞鶴港で港湾荷揚げ作業に従 事、そのまま終戦(敗戦)を迎える。

1945年10月 澤 瀉久敬(1904-1995)『医学概論 第1部科学について』出版。初版1万部が売りきれる。佐藤(2011:117)によると、これは当時の 医師数の1割にあたる数字だという。

1946年 2年生の夏休み前の6月、邦人引き上げの「復員船」に乗船する舞鶴で医療助手の募 集。

医学生でありながら、外科主任(「にせ医者」経験)となる。途中「山澄丸」に二度乗船する。 この経験は『医事新報』に後に寄稿。山澄丸は、総トン数:6.850トン、速力:12.5ノット、登録寸法:128.0×18.2メートル、建造年:昭和 19年、船の種類:貨物船、主な引揚地:ナホトカ・大連、就航回数:13回、引揚乗船者総数:24.716名。http: //www.geocities.jp/k_saito_site/hikiagesen1.html

中川の結論は、中国侵略と植民地への移住がなかったら、戦争と敗戦がなかったら、引き揚 げ船 で病没する人などはいなかったのではないか、というもの(佐藤 2011:124-125)。

1946 年11.3 日本国憲法公布。1947年5月3日施行。

1947 年3.31 教育基本法公布(法律25)、 学校教育法公布(法律26)。6・3・3・4制の新学制を規定。9.30 帝国大学令・帝国大学官制、国立総合大学令・国立総合大学官制と改称(政令204)。京都帝国大学は京都大学と改称。

1948 年8.2 文部省学校教育局長、医学部および歯学部を有する大学総長に対し、医学部および歯学部の新制大学切替えについて通達。旧制大学における医学歯学教育刷新の 問題は戦後早くから取り上げられ必要な改革が行われていたことにより当面新制大学の1学部として承認し、審査は2年後に実施するとする。9.18 全日本学生自治会総連合(全学連)結成。10.28 医学部学生大会開催。大学法試案要綱への反対を決議。

1949 年民主主義学生同盟(民学同)主催の大学法案 [占領軍Civil Information and Education Division, CIE提案による—引用者]反対決起大会開催。職組、民主主義科学者協会(民科)、理学部自治会などの応援を得、学内外での宣伝啓蒙を全国的運動に拡大す ることを決議。

以上の 記述は[京大百年史年表より]。

1947年 中川は澤瀉久敬『医学概論第1部科学について』を読み、私淑し、やがて澤瀉を訪れ師 事することになる。京大内に「医学概論研究会」を創設。「醫学概論の必要性」『芝蘭會雑誌』。

1947年 帝国大学廃止、京都大学、大阪大学となる。

1949年  旧制大阪高等学校・旧制浪速高等学校・大阪薬学専門学校などを統合し、文学部・法経学部・理学部・医学部・工学部の5学部と一般教養部からなる新制大阪大 学が発足。

1949年 京都大学医学部(耳鼻咽喉学)卒業。同年、結婚。

1950年 5月耳鼻咽喉科医局に入局[志願医員助手→志願医員]、10月に助手(耳鼻咽喉科)に採用される。同 50年9月医師免許取得。

1952年9月 保健診療所に配置換(〜1954年2月)

1954年8月 大阪大学医学部講師(衛生学講座)に就任澤 瀉久敬が大阪大学文学部教授に就任。

1955年8月24日付で医学博士の学位(論題 Relation du Systeme Nerveux Vegetatif et de L'equilibre - Essai d'une Synthese Psychophysiologique. 旧制 学位記番号 3485)を京都大学より授与されている。

1955年森永砒素ミルク事件が発覚(現在の表記では、森永ヒ素ミルク中毒事件

1955年 生理学専攻の授業担当を正式に任命される1年前に「神経学の理論的問題」の標題 で医学概論特論の授業担当している。

1956年4月 生理学専攻の授業担当を正式に任命される。この年の医学概論特論テーマは 「形態学と機能論の論理」。

1957年 医学概論特論「病者論と医師論」(澤瀉)

1958年 医学概論特論「社会医学の基礎的問題」(澤 瀉)/丸山博(1909- 1996)衛生学教室の教授として赴任

1959年 医学概論特論「健康の科学としての医学理論」(澤 瀉)/中川米造、イアゴ・ガルドストン(Iago Galdston, 1895-1989)『社会医学の意味』を法政大学出版局より翻訳刊行する。

1960年 澤瀉久敬、大阪大学より医学博士授与(内容は「医学概論」の著作)

1960年 日本科学史学会の医学史分科会(大阪)が丸山博教授[衛生学、在任1958- 1973]のもとで発足、翌1961年より『医学史研究』の発刊がはじまる。この時、おそらく宗田一と知己になる(→「医療と神々」)。医学概論特論「理論生物学」

1961年 医学概論特論「医学思想史」

1962年 丸山博は、衛生学教授に赴任してから4年後の1962年に、講義おい て森永ヒ素ミルク中毒事件を取り上げるようになる。

1964年 東パキスタン(バングラディシュ)調査旅行。『医学の弁明』

1965年 助教授に昇進(衛 生学講座)。医学概論の担当ポストは単独であったため研究室は、衛生学教室(丸 山博[1909-1996]教授)に附属するかたちで処遇される。

1966年 3月 生理学第一教室の久保教授の退官。「医学概論」の世話教室は衛生学教室とな る。

1966年 東アフリカへの調査旅行

1967年 日本科学史学会編集の『日本科学技術史体系・医学編1.2』第24・25巻を丸 山と中川が編集担当し出版(第一法規)。

1967年 この頃、大阪大学医学部学生自治会・医学教育研究委員会は『医学教育』を発刊し続け ていた。

1968年 澤瀉久敬・大阪大学を定年退官、南山大学教授に就任と同時に、澤瀉は日本学士院会員に推 挙、承認される。

1969年 森永ヒ素ミルク中毒事件を、丸山教授とともに調査。

1970年 中川『医学をみる眼』(→治療者の類型論、時代にドミナントな医学の歴史的変遷タイ プ)

1970 和田心臓移植を告発する会 編『和田心臓移植を告発する——医学の進歩と病者の人権』 保健同人社

1971年 学部内に新設された教育企画調整室の創設に関わり、5期10年間副室長を務める。

1973年 丸山博教授退官。丸山は1969年以降、森永ヒ素ミルク事件の中毒後後遺症調査 会活動のため、小児科学教室と反目関係にあったため名誉教授の称号を与えられなかったといわれる[この挿話はよく語られるが事実関係は不詳]。

1973年 12月「森永ミルク中毒の子どもを守る会」(当時)、国、森永乳業の三者により「確 認書」が締結される。

1974年 「森永ヒ素ミルク中毒訴訟」の原告側証人として出廷。(2年後の『医療的認識の探究』巻末に「付録・ヒ素ミルク中毒訴訟の証言メモ」として収載

1974年 4月「ひかり協 会」(公益財団法人ひかり協会)設立

1976年 『医療的認識の探究』

1977年 朝日新聞社編『現代人物事典』で小 坂富美子(1947- )が「中川米造」の項目を執筆(1976年ごろ)公刊する。

1980年 大阪大学大学院医学研究科に修士課程が新設されることに伴い、衛生学教室を改組する 計画があり衛生学教室の教授に就任——当時は衛生学講座で環境医学になるのは2年後の1982年——に就任する(旧・衛生学教室教授は後藤稠[ごとう・し げる, 1923-1997])。大阪大学から医学概論教室が消失する(佐藤 2011:113)。(澤瀉が書いたといわれる)「医学概論」の木札があり、中川はそれを大切にする(佐藤 2011:115)。

1981年 森村誠一『悪魔の飽食:「関東軍細菌戦部隊」恐怖の全貌! : 長編ドキュメント』を公刊。

1982年 衛生学教室を改組し 大教室化した環境医学(医学概論)教室の教授に就任。中川が、澤瀉の揮毫(中川談)による「医学概論」の木札を研究室に掲げるようになるのはこの時期か?

1982年 『悪魔の飽食』の中国語訳「 食人魔窟 : 日本关东军细菌战部队的恐怖内幕  / 森村诚一著 ; 祖秉和,唐亚明译,群众出版社 , 1982」が公刊。

1984年 グリコ・森永事件(讀売新聞社編集部に「森永 まえに ひそで どくの こわさ よ お わかっとるや ないか」を記載する「挑戦状」が届く)

1986年 

日本保健医療行動科学会の創設、初代会長に就任。医療人類学者の波平恵美子教授との シンポジウムなど増える。

医療に関する人権には3つある。1)幸福追求の原理、2)自由の権利=自己決定権、3)平等の権利(中川 1986:143)——中川米造・加藤尚武対談「テクノロジーとしての医療」加藤尚武『バイオエシックスとは何か』未来社、1986年

1987年 医学部医学倫理委員会が設置、委員となる。

1988年 医療人類学研究会編『医療人類学』発刊(〜1996年)。「退官記念講 演」

1989年 大阪大学を定年退官し、滋賀医科大学教授[実際は88年より就任し、大阪大学教授 は併任となっていた](滋賀医科大学副学長[当時の学長(1987-1995)は佐野晴洋(1926-2017)佐野は中川の京大医学部の同窓])。1989年大阪大学名誉教授。

1989年 1月7日裕仁(昭和天皇)崩御。病いの視座 : メディカル・ヒューマニティーズに向けて / 中川米造編。

1990年 明仁即 位の大嘗祭(11月22-23日大嘗祭は即位の礼[11月12日]の一環)挙行反対の署名をす。

1991年 医学会総会(京都:岡 本道雄(Michio OKAMOTO, 1913-2012)会頭)において「医学史展示」委員長に就任する。七三一部隊記録展示を企画するが他の委員の非協力にあり、写真の提示にのみ終わる。

1991年 滋賀医科大学を退官した。財団法人ひかり協会理事長に就任。大阪国際女子大学 (1994-96) 、仏教大学(1996-死亡時まで)教授を歴任。

1992年 医療人類学研究会編『文化現 象としての医療』メディカ出版、 1992年

1996年 仏教大学教授に就任。医学史研究会代表幹事に就任。7月7日宗田一死去。10月10日丸山博死去。

1997年6月頃

1997年9月30日腎癌摘出後の肝転移が発見され、それにより自宅にて家族に看取られながら死 亡。

1997年10月6日NHK,ETV特集「病と誌をみつめて——医学者中川米造の遺言」

1998年 友吉唯夫「中川米造先生の医学観:思い出と追悼」『からだの科学』199号:94- 97.

1998年 石原理年、石田純郎、中島憲子「追悼・中川米造大阪大学名誉教授」『医譚』復刊73 号 Pp.6-9, 1998. (→pdf 5MB強あります。パスワードは半角小文字でc*s*c*dのアルファベット4文字を入力します)

2002年 Margaret Lock, Twice dead : organ transplants and the reinvention of death, University of California Press (2002)において、Margaret Lock教授は、 その書を「故中川米造に捧ぐ」と献辞する。

2009年 11月7日「医療の原点を振り返る:癒しの医学」(滋賀医科大学図書館「中川米造回 顧著作展:”医”とは何かを問いつづけて」10月30日〜11月30日)


リンク

文献(医学部関係)

文献(中川関係)

  • 小坂富美子、1977「中川米造」『現代人物事典』朝日新聞社。
  • 中岡哲郎、2001「労働・近代・技術」インタビュー(聞き手/柿原泰)『現代思 想』 29(10):62-73.
  • 佐藤純一、2011「いのち・病い・死・癒しの語りべ:中川米造論へのメモ」 Pp.106-147、岩波書店。
  • 和田心臓移植を告発する会 編 1970『和田心臓移植を告発する——医学の進歩と病者の人権』保健同人社
  • 中川米造『学 問の生命』佼成出版社、1991年
  • 後藤幸一「中川米造「医学概 論」講義」『日本保健医療行動科学会』25巻, Pp.92-99, 2010.(この文献は、野村拓(2008)の内容に酷似し、後者の剽窃の可能性があるので引用しないほうがよいだろう)
  • 野村拓「阪大「医学概論」創設時の資料」『医学史研究』90:1-6, 2008.
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    著者不詳(村岡潔氏の可 能性が高い)、いわゆる「(中川米造先生の)叙勲に関する申請関連資 料等」(非公開)

    池田光穂

    大阪大学医学伝習史刊行会編、1978『大阪大学医学伝習百年史』(基礎講座・研究施設  編)、Pp.234-235、大阪大学医学伝習史刊行会[大阪大学医学部学友会]。なお「医学概論研究室」の記述については全文をリンク先に掲示してある。

    資料

    写真

    Margaret Lock(1936- )氏と共に(出典:https://www.mcgill.ca/ssom/staff/lock)

    関連リンク

    謝辞


    マーガレット・ロック先 生を迎えて、没後20周年の中川米造回顧シンポは、2018年3月17日に山西記念福祉会館で、およそ50数名の参加者を得て無事終了しました【詳しくはこちらでリンク】——このページ一番下にある写真は 1980年代の ロックさんの中川へのイ ンタビュー中の写真です!




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