中川米造
Yonezo NAKAGAWA, 1926-1997
1880年 府立大阪医学校(「源流」は適塾— 1868年に閉鎖しているので「源流」は言い過ぎか)設立(1915年専 門学校令による大学を称し開学)
1919年 大学令による旧制大学「大阪医科大学」として昇格。
1922年 田辺元(1885
-1962)『科学概論』(→「その後の田辺元」)
1926年3月23日、旧植民地の朝鮮・京城(ソウル)生まれ。父は穀物取引業を営む中川泰治、 母は美貴で、米造は長男。
1929年 澤
瀉久敬(1904-1995)・京都帝国大学文学部哲学科を卒業。同年、九鬼周造(1888-1941)、フ
ランスより帰国。
1931年 大阪医科大学が、国へ移管されると同時に、台北帝国大学に続く第8番目の大阪帝 国大学となる。1933年(昭和8年)には旧制大阪工業大学を合併した。
1935年 沢瀉、フランス政府給付留学生として渡仏。
1937年 澤瀉、フランス留学より帰国。
1938年 澤瀉、京都帝大講師。
1939年 中川、京城、竜 山公立中学校(旧制=五年制:1925-1945)に入学。(竜山公立中学校は1937 年 第23回全国中等学校優勝野球大会に、朝鮮代表として初出場)
1941年(昭和16年)
3月6日に「学科課程改革委員会案趣旨」に軍陣医学「国 家国防医学」のカリキュラム(下図)が、大阪帝国大学で構想される。国 防医学と「医学概論」は同根の可能性が高い。3月6日教授会資料『学科課程改 革委員会案趣旨』A3版サイズで10枚、ガリ版のなかに「次の述べるが如き内容を有する醫學概論なる科目を先ず追加せんとする意義が存する」とのも文言あり(野村 2008:1)。澤 瀉久敬・大阪大学・大阪帝国大学講師に就任。医学概論の授業がはじまる。(一)学科課程改革の必要「科学に関する国家的関心は最近特に甚だ強く、且つ著しく拡げられてきた。醫學に 於いても醫學徒、並びに醫師は単に個人的生活に於て活動するのみでなく、社会生活、 立法、教育等、人文的方向に深く且つ汎(ひろ)く合一関与することが必要となるに 至った。」……「斯(か)くして学問意識に燃える若い学生の科学する心を其の専攻学科の哲学的根底の上に確立させる道を講ずることは見逃すことの出来ぬ大 學への新しい課題の一つである。」(後藤 2010:94)。後藤の推測は、医学部の当時の教員には、このような「哲学的な」文言は書けないので(生理学第一教室の久保教授を媒介にした)澤瀉の作 文によるものだろうと推測している。
■大阪帝国大学医学部、新カリキュラム(国 家国防医学)——「学科課程改革委員会案趣旨」昭和16年3月6日より(出典:野村拓「阪大「医学概論」創設時の資料」『医学史研究』90号、Pp.1- 6、2008年)
「「1. 学科課程改革の必要」では、医 学に対する国家・国防医学的要請と、医学の 認識論的根拠を明確にすることとの統ーがう たわれているが、到底、医学部教授会からは 生まれそうもない哲学的表現が見られるのは 沢瀉久敬氏の関与があったからと思われる。 また、「人文科学的刺戟の比較的淡い大阪大学 に於ては特に其の(文化科学的素養の充実) 重要さを露呈してゐる。翠に学科課程改革の 始めとして次に述べるが如き内容を有する医 学概論なる科目を先づ追加せんとする意義が 存する」(野村 2008:1)。
「医 学概論は其の1 及び其の2 に大別し、其の1 においては科学の分類、方法、論理及び認識 の意義を取扱ふ科学概論を以てし、ひいては 医学の本質の認識論的基礎の把握への途を拓 かんとする。其の2 は医学各領域の歴史性を 主幹として、其の流れを講じ、思想の発展の 跡を逐ひつり通論的に其の学的内容の鳥轍的 把握を与へんとする。即ち教育技術上其の1 は1 学年1 学期1 週各2 時間を以てし、適当 なる専攻自然哲学者に嘱し、其の2 は基礎医 学及び臨床医学を通じ、適宜各々、学科担当 者をして順次分担せしめ、第2 学年第l 学期 の終に於て既に医学全野に亘る縦の概観的視 野を与へ、以て医学学習への能動的意慾の崩 牙を期待する」(野村 2008:2)。
「航空医学中生機学的な部門は第2 学年の 終りに講を起し、漸次臨床医学的色彩を加ヘ つつ也の項目に移り、大半のものは第4 学年 第3 学期に於て講じ、国家観念の高揚に資す べき公民学を以て終る」(野村 2008:2)。
3.本改革案の活用:「医学概論を以て学的根拠の深みに触れし め、医学の内容をなす夫々の分科を一丸とし てその綜合体を以てこれを受け、高学年に至 るに及んで医学の国家的性格を自覚せしめ、 学生をして将来の新体制を指導し実践すべき 青年としての準備を完了せしむべき点に焦点 を結び得られるとの確信をもつ」(野村 2008:2)。
1942
1943年 (京城の竜山公立中学校(旧制)を卒業後)旧制・松江高等学校に進学(1945年3月松江高等学校 卒業[戦時下での1943年から修業年限短縮])。当時、高 橋敬視(1891-1948)という哲学教員がいた。授業はほとんどなく「援農」労働奉仕に駆り出される。肺結核を意味する「肺尖カタルと肋膜 炎」と診断されショックに。しかし、後に「異常なし」と診断され、その後の経験に大きな影響を与えたと後に述懐(中川『学問の生命』1991:32- 34)。
1944年 澤瀉は、医学概論(医学哲学)の講義を通して医学理論の哲学的考察により、この頃 「医学の哲学」を構想する(佐藤 2011:117)。
澤瀉は、のちに医学概論は医学哲学であると述べ、またその概論の用語の起源は田邊元の『科学 概論』から来ていると中川は解説している。
1945年4月 松江高等学校卒業 後、京都大学医学部入学、1か月程度の講義の後、舞鶴港で港湾荷揚げ作業に従 事、そのまま終戦(敗戦)を迎える。
1945年5.22 戦時教育令公布(勅令320)。全学校・職場に学徒隊結成。日本敗戦後には鳥取?に居住。また敗戦時には舞鶴にいたとの話を同級生の方からうかがったこと がある。中川は「自分の少年時代はかなり熱心な軍国少年であった」旨を発言。また、入学直後、医学が専門分野に分かれ、医学そのものを教授することがな く、軍陣医学の僭称に対して「医学がわからなくなった」経験を生涯に 何度も述懐する——「語り部」としての中川(佐藤 2011)。
8.24
文部省学徒動員局長、地方長官・学校長に対し、学徒軍事教育並戦時体練及学校防空関係諸訓令等ノ措置ニ関スル件を通牒。軍事教練に関する一連の訓令を廃
止。
9.17 真下俊一医学部教授以下10名、大学の原子爆弾災害総合研究調査班として広島で調査中、暴風雨による土砂崩壊で死去。 10.9 杉山繁輝医学部教授死去。 10.11 大学葬挙行。
10.22 GHQ、覚書「日本教育制度ニ対スル管理政策ニ関スル件」において、軍国主義的、超国家主義的教育の禁止、教育関係者の審査などを指令。
11.24
GHQ、理化学研究所・京大・阪大のサイクロトロンを破壊し海中に廃棄。
以上の記述は[京大百年史年表よ り]
1945年10月 澤 瀉久敬(1904-1995)『医学概論 第1部科学について』出版。初版1万部が売りきれる。佐藤(2011:117)によると、これは当時の 医師数の1割にあたる数字だという。
1946年 2年生の夏休み前の6月、邦人引き上げの「復員船」に乗船する舞鶴で医療助手の募 集。
医学生でありながら、外科主任(「にせ医者」経験)となる。途中「山澄丸」に二度乗船する。 この経験は『医事新報』に後に寄稿。山澄丸は、総トン数:6.850トン、速力:12.5ノット、登録寸法:128.0×18.2メートル、建造年:昭和 19年、船の種類:貨物船、主な引揚地:ナホトカ・大連、就航回数:13回、引揚乗船者総数:24.716名。http: //www.geocities.jp/k_saito_site/hikiagesen1.html
中川の結論は、中国侵略と植民地への移住がなかったら、戦争と敗戦がなかったら、引き揚
げ船
で病没する人などはいなかったのではないか、というもの(佐藤 2011:124-125)。
1946 年11.3 日本国憲法公布。1947年5月3日施行。
1947 年3.31 教育基本法公布(法律25)、 学校教育法公布(法律26)。6・3・3・4制の新学制を規定。9.30 帝国大学令・帝国大学官制、国立総合大学令・国立総合大学官制と改称(政令204)。京都帝国大学は京都大学と改称。
1948 年8.2 文部省学校教育局長、医学部および歯学部を有する大学総長に対し、医学部および歯学部の新制大学切替えについて通達。旧制大学における医学歯学教育刷新の 問題は戦後早くから取り上げられ必要な改革が行われていたことにより当面新制大学の1学部として承認し、審査は2年後に実施するとする。9.18 全日本学生自治会総連合(全学連)結成。10.28 医学部学生大会開催。大学法試案要綱への反対を決議。
1949 年民主主義学生同盟(民学同)主催の大学法案 [占領軍Civil Information and Education Division, CIE提案による—引用者]反対決起大会開催。職組、民主主義科学者協会(民科)、理学部自治会などの応援を得、学内外での宣伝啓蒙を全国的運動に拡大す ることを決議。
以上の 記述は[京大百年史年表より]。
1947年 中川は澤瀉久敬『医学概論第1部科学について』を読み、私淑し、やがて澤瀉を訪れ師 事することになる。京大内に「医学概論研究会」を創設。「醫学概論の必要性」『芝蘭會雑誌』。
1947年 帝国大学廃止、京都大学、大阪大学となる。
1949年
旧制大阪高等学校・旧制浪速高等学校・大阪薬学専門学校などを統合し、文学部・法経学部・理学部・医学部・工学部の5学部と一般教養部からなる新制大阪大
学が発足。
1949年 京都大学医学部(耳鼻咽喉学)卒業。同年、結婚。
1950年 5月耳鼻咽喉科医局に入局[志願医員助手→志願医員]、10月に助手(耳鼻咽喉科)に採用される。同 50年9月医師免許取得。
1951年11.12 京都大学に天皇訪問。学生、天皇の乗った車を遠巻きにして平和の歌を高唱。同学会、天皇への公開質問状を作成(天皇事件)[京大百年史年表より]。
1952年9月 保健診療所に配置換(〜1954年2月)
1952年6月24-25日 吹田事件(大阪大学豊中 キャンパスから出撃した朝鮮戦争反戦暴動。箕面市の笹川良一邸宅襲撃と吹田操作場軍用列車襲撃未遂[進駐軍C.W.クラーク准将襲撃を実行]をおこす。)1952年以降「青年科学史家集団」が形成され、青木靖三、広重徹、坂本賢三[1952年吹田事件に参 加]、荻原明男、山田慶児、中岡哲郎、後藤邦夫らと共に中川はこの集団の活動に参加(中岡 2001:62)。
1954年 武谷三男『弁証法の諸問題』理論社[武谷 は星野芳郎とならんで、日本共産党の科学論イデオローグになる]。
1954年8月 大阪大学医学部講師(衛生学講座)に就任/澤 瀉久敬が大阪大学文学部教授に就任。
澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき, 1904-1995)が1941年より開講した大阪大学医学部での医学概論の授業に参加していたものと思われる。これ以降、中川の自称する専門分野は医学 概論となる。当時の職務命令書によると、実際に[大学院]授業担当になるのは1956年4月からであり、所属教室は、生理学第一教室である。これは澤瀉久 敬と親交の厚かった生理学第一教室の久保秀雄教授[在任1937-1966]の計らいによるものであろう[関連リンク]。ではこの間、中川が何をやっていたのか?——少な くとも1955年8月までは学位論文の実験・執筆に勤しんでいたのだろう。また学位取得後は、澤瀉や久保ならびに梶原三郎医学部長[衛生学教授で丸山博(1909-1996)の前任者在任1952-56;梶山の生 没1895-1986]との良好な関係をもちながら医学概論にむけての本格的な勉強をしていたと思われる。私(池田)も中川がこの頃を回顧して「当時、随 分勉強させてもらった」旨の発話を聞いたことがある。
1955年7月、日本共産党第6回全国協議会(六全 協)で武装闘争戦術を放棄する。
1955年8月24日付で医学博士の学位(論題 Relation du Systeme Nerveux Vegetatif et de L'equilibre - Essai d'une Synthese Psychophysiologique. 旧制 学位記番号 3485)を京都大学より授与されている。
1955年森永砒素ミルク事件が発覚(現在の表記では、森永ヒ素ミルク中毒事件)
1969年12月以降の裁判闘争を支援した丸山博研究室と関わることになる。丸山研究室 のこのサークルは「森永ヒソミルク中毒追跡調査会」と呼ばれる[百年史 p.232による]。丸山博は、衛生学教授に赴任してから4年後の1962年に、講義おいて森永ヒ素ミルク中毒事件を取り上げるようになる。
[中岡(2001:62-63)によれば、砒素ミルク事件へのコミットは、六全協ショッ ク以降の科学史家としての生活と意識の建て直しであったと考えられると指摘]。
1955年 生理学専攻の授業担当を正式に任命される1年前に「神経学の理論的問題」の標題 で医学概論特論の授業担当している。
これは1955年に新制大学院が発足したため、医学概論がその主科目のひとつになったか らと言われている。(1949年に新制大学の発足されたので年次進行で6年後に医学研究科の新制大学院は発足か?)[百年史 p.235]。
1956年4月 生理学専攻の授業担当を正式に任命される。この年の医学概論特論テーマは 「形態学と機能論の論理」。
1958年、星野芳郎『技術革新の根本問題』勁草書 房。島成郎、日本共産党から除名、共産同へ。
1957年 医学概論特論「病者論と医師論」(澤瀉)
Yonezo NAKAGAWA in a lecture on Patients and Doctors, ca. 1957
1958年 医学概論特論「社会医学の基礎的問題」(澤 瀉)/丸山博(1909- 1996)衛生学教室の教授として赴任
1959年 医学概論特論「健康の科学としての医学理論」(澤 瀉)/中川米造、イアゴ・ガルドストン(Iago Galdston, 1895-1989)『社会医学の意味』を法政大学出版局より翻訳刊行する。
"Dr. Iago Galdston (1895—December 19, 1989) was born in Kishinev, Russia and trained at Fordham University and the Wagner-Jauregg Institute in Vienna. After working at the Union Health Center and the New York Tuberculosis Association he joined the New York Academy of Medicine in 1928. For 34 years, Dr. Galston's was its spokesman and promoter of public activities; after his retirement in 1962 he became director of resident training for Connecticut's Department of Mental Health. At age 78 he started practicing psychiatry full time until a few weeks before his death at 94." - https://www.wnyc.org/people/iago-galdston/
中川の1973年版での「訳者あとがき」には、中川自身の社会医学を次のように解説する。引 用は(佐藤 2011:135)による。
「社会の中で病む個体 の、感性的な救済への要請は、非合理的と言える」「このような、非合 理な人間の主体性を、科学の名の下に提出し、実践的に解決しようとするもの、それが社会的ないし社会学的ということに他ならない」(中川 1973:137)。
そこから佐藤は、中川医学概論(医学哲学)は、患者中心の医療を説いたのではなく、「医学を語る・見る・関わる主体として患者側に立っている主体」であると喝破して いる。
1960年 澤瀉久敬、大阪大学より医学博士授与(内容は「医学概論」の著作)
1960年 日本科学史学会の医学史分科会(大阪)が丸山博教授[衛生学、在任1958- 1973]のもとで発足、翌1961年より『医学史研究』の発刊がはじまる。この時、おそらく宗田一と知己になる(→「医療と神々」)。医学概論特論「理論生物学」
1960年1月19日、日米相互協力および安全保障条 約(新安保条約)調印。5月20日【60年安保】衆議院本会議、日米新安保条約を強行採決。全国の大学で60年安保闘争が起こる。新安保条約は6月19日 に自然承認される。
当時の医学部長(西沢義人・小児科学専攻)に当てた未提出の手紙(「医学史研究会」後藤幸一 保管・中川米造手稿)。なお西沢は「厚生省の依頼で日本医師会が設けた「西沢委員会」の長で、砒素ミルク被害の診断・治療方針策定に携わったほか、同省が 事件収拾のため別途設置した医療識者機関、「五人委員会」にも招かれ」ている。https://www.citymilk.net/bin/ote/morinaga4.htm. この「書簡草案」は200字原稿用紙22枚に及んだ(後藤 2010:96)。
「暑中御見舞申しあげます。/ 既に御存知かとは存じますが小生医学部において「医学概論」を担当させ て戴いております。この科目乃至特に小生に対し御好感を持たれていない由 で,既に澤瀉教授も御話しに参上した事でありますが,小生といたしまして も一言謡解申し上げた<, 直接お目にかかるには,先生御多忙のために困難 と存じますので書面を以て申し上げます。/小生,昭和24年京大卒業後,京大耳鼻科に入局致しました。学生の頃より医学の理論的構成に疑念を持ち,其の方 面の著書や論文を読んだり,自ら思 索を試みたり致しておりました。そのころ阪大に澤瀉教授が「医学概論」な る講義をなされていると聞き,同志と語って京大にも同じ講義がなされるよ う奔走しました。澤潟教授と小生との関係は従いまして昭和22年来の師弟関 係でありまず。……/「昭和29年には米国シンシナチ大学よりの招きで留学が決定し,帰国後某大 学の助教授として赴任が内定致しておりました。/この時,阪大より医学概論専任として来てはという御意向が澤潟教授を通 じてありました。右せんか左せんかにつきましては大変迷いましたが,将来, それが正式の教室になるという御話しもあり,又世界にも類例のない教室だ と考え,このために一生を捨ててもよいと考えた末,阪大に参りました。」(後藤 2010:95-96)。
「小生に対する御不満の一つには,在校時間の問題があるように承けたまわ りましたが……今一つの御不満は,小生がアルバイトをしていることの様にうけたまわり ました。これにつきましては特に厳格な態度で臨まれるとか」。「このように申しましたが,それでは,研究費を増額して戴ければアルバイ トを止めると申すつもりではありません。小生の俸給にせよ,又研究費にせ よ国民の税金であります。未だはっきりと自信をもって,この医学概論が国 民のためになるといえない現在,そのような要求は掲げようとは存じません。 唯専任の講師として戴いているだけで幸福だと思い,又少なくともそれだけ の意義ぱ認められるという責任の自覚で精一ぱいであります。/ 同封の「全国医学校医学概論講義状況の調査」にもあります如く,各医学 校で医学概論の講義が行われておりますが,専任講師のあるところは,当大 阪大学だけであります。その特色を生かし,なんとかこれを育てる責任は自 覚しておりますが,浅学非才よく其の任に耐えるかどうか,小生自身に甚だ 疑いとするところであります。自分の能力の範囲内で秘かにコツコッと積み上げて,退官までに纏め上げていささかでも阪大及び日本の医学のためにな るものをと願っております。/「阪大に参りました折は,将来教室にするからという御話でしたが,実際に 専門家としての修行を始めてみますと,それは仲々に大変なものであること も判って参り,専任講師として通す方が責任が軽いことも知れてきました。 澤瀉教授は教室創設に熱心でありますが,小生としましては,それには余り 関心がありません。唯講師として,このまヽの生活を送れることが願いであ ります。この上希望を述べることが許されますならば,研究費を多少とも増 額して戴くこと,つまり,必要図書を校費で購入して置いておきたいことで ありますが,勿論これは絶対的なお願いではありません」(後藤 2010:96-97)。
1961年 医学概論特論「医学思想史」
1962年 丸山博は、衛生学教授に赴任してから4年後の1962年に、講義おい て森永ヒ素ミルク中毒事件を取り上げるようになる。
1964年 東パキスタン(バングラディシュ)調査旅行。『医学の弁明』
解
剖学教室の小濱基次教授は1964年〜1967年にかけてタイ、マレー、東パキスタン、インド、アッサム、ネパールで人類学調査している。助教授は欠田早
苗(1931-)欠田早苗『東パキスタン紀行』豊中市 : 大阪大学インド・東南アジア研究センター、1967年5月(NCID BA45156684)
1965年 助教授に昇進(衛 生学講座)。医学概論の担当ポストは単独であったため研究室は、衛生学教室(丸 山博[1909-1996]教授)に附属するかたちで処遇される。
丸山と共に「森永ヒ素ミルク中毒症」の追跡調査(=「14年目の訪問」1969年頃?)をはじめる。『日本科学技術史体系・医学1』日本科
学史学会編、第一法規、1965年
1966年 3月 生理学第一教室の久保教授の退官。「医学概論」の世話教室は衛生学教室とな る。
1966年 東アフリカへの調査旅行
1967年 日本科学史学会編集の『日本科学技術史体系・医学編1.2』第24・25巻を丸 山と中川が編集担当し出版(第一法規)。
1967年 この頃、大阪大学医学部学生自治会・医学教育研究委員会は『医学教育』を発刊し続け ていた。
1968年 澤瀉久敬・大阪大学を定年退官、南山大学教授に就任と同時に、澤瀉は日本学士院会員に推 挙、承認される。
1969年 森永ヒ素ミルク中毒事件を、丸山教授とともに調査。
1970年 中川『医学をみる眼』(→治療者の類型論、時代にドミナントな医学の歴史的変遷タイ プ)
1970 和田心臓移植を告発する会 編『和田心臓移植を告発する——医学の進歩と病者の人権』 保健同人社
「本当は医学と科学は違うものなんですが、医師にはそれを、同じ次元で考えている傾向がある と思うんです」(和田心臓移植を告発する会 1970:218)
中川米造(44歳)——和田心臓移植を告発する会(1970:175)より
1971年 学部内に新設された教育企画調整室の創設に関わり、5期10年間副室長を務める。
教育企画調整室という医学教育カリキュラムの改革部局が設置される背景には、1960年 末に絶頂を極める大学紛争を形成する流れのひとつに無資格医の医局労働搾取に関するインターン闘争[ca.1965-1968]があったからである。
1970年には丸 山博教授が代表になったアーユルヴェーダ研究会が発足する。丸山が 退官した73年以降は、中川研究室で1984年まで月例研究会が開催されるようになる。
1973年 丸山博教授退官。丸山は1969年以降、森永ヒ素ミルク事件の中毒後後遺症調査 会活動のため、小児科学教室と反目関係にあったため名誉教授の称号を与えられなかったといわれる[この挿話はよく語られるが事実関係は不詳]。
1973年 12月「森永ミルク中毒の子どもを守る会」(当時)、国、森永乳業の三者により「確
認書」が締結される。
1974年 「森永ヒ素ミルク中毒訴訟」の原告側証人として出廷。(2年後の『医療的認識の探究』巻末に「付録・ヒ素ミルク中毒訴訟の証言メモ」として収載)
「問(裁判官)証人の経歴について述べて下さい。/答(中川)私は本年四八歳。昭和二四年三 月京都大学医学部医学科を卒業、同大学病院にて臨床医として勤務のかたわら、医学概論を研究していました。昭和二九年、大阪大学医学部講師として招かれ医 学概論を担当、昭和三九年助教授になり、現在にいたってます。大阪大学のほか、数校で医学概論の講義を行っております。/医学概論とは、医学とは何か、とくにその論理や思考様式を研究するもので、私は、それを歴史的 に、社会的に、および哲学的あるいは論理的に研究するものと規定しています。/私は昭和二〇 年に医学校に入学しましたが、医学そのものについて医学校では全く教えない上に、医学の考え方が、はなはだアイマイな論理の 上に立っていることに驚きと不満を持って勉強を始めました。日本では医学概論の専門家は私一人であり、世界的にもその数は多くはありません」。『医療的認識の探究』より
1974年 4月「ひかり協
会」(公益財団法人ひかり協会)設立
1976年 『医療的認識の探究』
1977年 朝日新聞社編『現代人物事典』で小 坂富美子(1947- )が「中川米造」の項目を執筆(1976年ごろ)公刊する。
同年に出版された『医の倫理』にて、近代医学の論理的帰結としての人体実験は必然的であると の見解に到達する。それは、近代医学の論理と、古典的な倫理観(=医学の進歩は犠牲を必要とした)の組み合わせによる帰結であり、その犠牲者は、権力を持 たない者、「障害者」「社会的弱者」、被支配的民族などが、インフォームド・コンセントなしにおこなわれた(佐藤 2011:122)。
大阪大学アメリカ人講師のフィリップ・カール・ペーダ氏が「ジーンズ姿の女子学生の受講を
「作業着であり、女性にはそぐわない。もっとエレガントであってほしい」という理由で教室から締め出し」たという。学生側は抗議し「ペーダ氏が大阪大学を
退職する形で収束」する(出典はこちら)。
このことに関して、1980年当時の中川は、私たち(池田ならびに佐藤純一)に、問題の当時、ジーンズでできたスーツを購入し、抗議の意味で、医学部に出
勤してきたという。その時の中川は、同じデニム生地のスーツを来ていて、環境医学の教室員が中川に質問した際の出来事である。
1980年 大阪大学大学院医学研究科に修士課程が新設されることに伴い、衛生学教室を改組する 計画があり衛生学教室の教授に就任——当時は衛生学講座で環境医学になるのは2年後の1982年——に就任する(旧・衛生学教室教授は後藤稠[ごとう・し げる, 1923-1997])。大阪大学から医学概論教室が消失する(佐藤 2011:113)。(澤瀉が書いたといわれる)「医学概論」の木札があり、中川はそれを大切にする(佐藤 2011:115)。
1980年4月、佐藤純一がはじめての博士課程の大学院生になる。佐藤は1982年以 降、木曜会あるいは木曜ゼミと呼ばれる中川研究室のゼミナールの実質的運営者となり、1988年7月に発足した医療人類学研究会[中川会長][資料]発足・発展・休会を経て、医療文化研究センターにおいて若手研究者および市民向 けゼミナールを続けていた[2007年3月末現在/現在は消滅し、医療社会学研究会が、その活動を継続しています。2014年現在]。
1980年公刊された『医療的行為の論理』の「医療的人間論」において、人が医療者になって いゆく 過程を、レヴィ=ストロースが引用するフランツ・ボアズの「ケサリード」を範にとり、科学的知識の習得ではなく、試行錯誤を繰り返しながら「ある範囲の治 療法」に確信をもつ方途にしかないと述べる(佐藤 2011:127-128)。佐藤によると、このような確信は、中川が自分自身の臨床経験を語る時に、自分の研修医時代の経験はほとんど語らず、1946 年6月からの舞鶴とそこから往還した復員船乗船時代の「にせ医者」ばかりを語ることにきたのではないかと推理している。
医師は、自分がきちんと治療できない、あるいは自分の力で患者が本復したという確信を持てな いにもかかわらず、患者に科学的知識をもつように振る舞う間にジレンマがあることを指摘している。そのため、科学的知識に強い信念をもつ医師が自分が病気 になった時には(一般の人よりもなお逆に)「みじめさ」を感じるのではないと主張する——同じく「医療的人間論」より。
佐藤は、この時期(1980年前後)であるとは明示しないが、澤瀉が医学概論を
Philosophy of Medicine と翻訳していたが、中川はそれを Medical Humanities
あるいはそのまま外来語として「メディカル・ヒューマニティズ」と呼ぶようになったという。蒼穹社社主の野島さんは、中川医学概論に共鳴して雑誌『メディ
カル・ヒューマニティ = Medical humanity』を発刊するが、その時期は1985年である。
1981年 森村誠一『悪魔の飽食:「関東軍細菌戦部隊」恐怖の全貌! : 長編ドキュメント』を公刊。
1982年 衛生学教室を改組し 大教室化した環境医学(医学概論)教室の教授に就任。中川が、澤瀉の揮毫(中川談)による「医学概論」の木札を研究室に掲げるようになるのはこの時期か?
1982年 『悪魔の飽食』の中国語訳「 食人魔窟 : 日本关东军细菌战部队的恐怖内幕 / 森村诚一著 ; 祖秉和,唐亚明译,群众出版社 , 1982」が公刊。
1984年 グリコ・森永事件(讀売新聞社編集部に「森永 まえに ひそで どくの こわさ よ お わかっとるや ないか」を記載する「挑戦状」が届く)
1986年
日本保健医療行動科学会の創設、初代会長に就任。医療人類学者の波平恵美子教授との シンポジウムなど増える。
医療に関する人権には3つある。1)幸福追求の原理、2)自由の権利=自己決定権、3)平等の権利(中川 1986:143)——中川米造・加藤尚武対談「テクノロジーとしての医療」加藤尚武『バイオエシックスとは何か』未来社、1986年
1987年 医学部医学倫理委員会が設置、委員となる。
1988年 医療人類学研究会編『医療人類学』発刊(〜1996年)。「退官記念講 演」
1989年 大阪大学を定年退官し、滋賀医科大学教授[実際は88年より就任し、大阪大学教授 は併任となっていた](滋賀医科大学副学長[当時の学長(1987-1995)は佐野晴洋(1926-2017)佐野は中川の京大医学部の同窓])。1989年大阪大学名誉教授。
1989年 1月7日裕仁(昭和天皇)崩御。病いの視座 :
メディカル・ヒューマニティーズに向けて / 中川米造編。
1990年 明仁即 位の大嘗祭(11月22-23日大嘗祭は即位の礼[11月12日]の一環)挙行反対の署名をす。
1991年 医学会総会(京都:岡 本道雄(Michio OKAMOTO, 1913-2012)会頭)において「医学史展示」委員長に就任する。七三一部隊記録展示を企画するが他の委員の非協力にあり、写真の提示にのみ終わる。
1991年 滋賀医科大学を退官した。財団法人ひかり協会理事長に就任。大阪国際女子大学 (1994-96) 、仏教大学(1996-死亡時まで)教授を歴任。
1992年 医療人類学研究会編『文化現 象としての医療』メディカ出版、 1992年
「病気の理解のされかたや医療の形式を文化現象として捉える立場を医療人類学というのだが、
その
視点から、現代医療を切り取る言葉を選んで注解を試みたものが本書である。それぞれは医学一般用語よりも社会的・文化的な意味の強い言葉であるので、異論
も多いであろう。しかし、そうした異論はコミュニケーションの前提である。今、ますます医療の社会性が問われようとしているときである。長らく密室状況に
閉ざされていた医療世界を開くための一助として読まれることを、期待してやまない」——中川米造「刊行によせて」より
1996年 仏教大学教授に就任。医学史研究会代表幹事に就任。7月7日宗田一死去。10月10日丸山博死去。
1997年6月頃
佐藤純一「(中川)先生のこれまでの医学概論は、多くの人を変えましたか?」
中川米造「わからん......でも、種はまいた。これからは、あたたちの仕事だ」(→「この発語をめぐっての議論」)
1997年9月30日腎癌摘出後の肝転移が発見され、それにより自宅にて家族に看取られながら死 亡。
1997年10月6日NHK,ETV特集「病と誌をみつめて——医学者中川米造の遺言」
1998年 友吉唯夫「中川米造先生の医学観:思い出と追悼」『からだの科学』199号:94- 97.
1998年 石原理年、石田純郎、中島憲子「追悼・中川米造大阪大学名誉教授」『医譚』復刊73
号 Pp.6-9, 1998. (→pdf
5MB強あります。パスワードは半角小文字でc*s*c*dのアルファベット4文字を入力します)
2002年 Margaret Lock, Twice dead : organ transplants and the reinvention of death, University of California Press (2002)において、Margaret Lock教授は、 その書を「故中川米造に捧ぐ」と献辞する。
2009年 11月7日「医療の原点を振り返る:癒しの医学」(滋賀医科大学図書館「中川米造回 顧著作展:”医”とは何かを問いつづけて」10月30日〜11月30日)
リンク
文献(医学部関係)
文献(中川関係)
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著者不詳(村岡潔氏の可 能性が高い)、いわゆる「(中川米造先生の)叙勲に関する申請関連資 料等」(非公開)
池田光穂
大阪大学医学伝習史刊行会編、1978『大阪大学医学伝習百年史』(基礎講座・研究施設 編)、Pp.234-235、大阪大学医学伝習史刊行会[大阪大学医学部学友会]。なお「医学概論研究室」の記述については全文をリンク先に掲示してある。
資料
「大阪大学名誉教授である故中川米造教授の個人蔵 書の寄贈を受けたものである。内容は医療倫理学、医学史を中心とした文献からなり、広く哲学、社会学、歴史学、文化人類学、心理学なども含む(5,000 点所蔵)」(同図書館の紹介記述より)
写真
Margaret Lock(1936-
)氏と共に(出典:https://www.mcgill.ca/ssom/staff/lock)
関連リンク
謝辞
ウェブページ作成に際して、佐藤純一(元)高知大学医学部教授のご支援を賜りました。記して 御礼申し上げます。またリンク先の「中川米造先生文献業績」は、村岡潔・仏教大学教授からの資料提供によりました。ご両名の先生に熱く/厚く御礼もうしあ げます!
マーガレット・ロック先
生を迎えて、没後20周年の中川米造回顧シンポは、2018年3月17日に山西記念福祉会館で、およそ50数名の参加者を得て無事終了しました【詳しくはこちらでリンク】——このページ一番下にある写真は
1980年代の
ロックさんの中川へのイ
ンタビュー中の写真です! |