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アリストテレスの実践知入門

Introduction to Aristotle's phronesis

解説:池田光穂

● なぜ徳の議論が、現代において重要になるのか?

「18世紀のイマヌエル・カントから20世紀のジョン・ロールズに至る近現代の政治哲学者に よれば、われわれの権利を規定する正義の原則は、美徳(すなわち最善の生き方)についてのいなかる特定の考え方をも土台とすべきではないという。公正な社 会とは、各人が良き生き方に関するみずからの考え方をも土台とすべきではないという。公正な社会とは、各人が良き生き方に関するみずからの考え方を選ぶ自 由を尊重するものなのだ。/したがって正義をめぐる古代の理論は美徳から出発し、近現代の理論は自由から出発すると言えるかもしれない」マイケル・サンデ ル『これから「正義」のはなしをしよう』鬼澤忍訳、早川書房、p.17、2010年

御存知のようにサンデルはコミュニタリアン(共同体主義)で、ロールズのような個人の自由を 最優先するリベラリストではなく、むしろ、共同体の価値(サンデルの場合は「家族」)すなわち、その成員がもつ美徳=徳を重視する立場をとります。文化人 類学者のである私(池田)もまた、世界のさまざまなコミュニティに身をおいて調査する研究者ですので、どうしても、個人がどのように共同体のなかで実践 し、社会の規約を守ったり逸脱したり、また改変したり新たに創造したりしていく有り様(=実践)に強く魅かれます。

アリストテレスは、そのようなあり方を指摘した人のひとりです。もちろん古代ギリシャの人の 市民は奴隷制を容認しましたし、女性の参政権などについても、近代のそれとはまったく「異質な」考え方をします。おまけに、人間のあり方のみならず、世界 のあり方についても、我々とは非常に異なる思考法をとります[→アーレントの「公 的領域と私的領域に関する議論」に関する議論]。にも関わらず、アリストテレスに拘るのは、中世に彼の哲学がイスラーム世界からの再輸入され てこのかた現在にいたるまで、多様に多角的に検討されてきたからです。アリストテレスを、現代のある異文化社会の物知りなインフォーマント(情報提供者)だと考えると、それを理解することを通して、我々の社会の 成り立ちを再考するきっかけになるからです。

# アーレントの「公的領域と私的領域に関する議論」に関する議論 # プラトン『国家』(第1巻)における正義の技術と定義の違い
# トラシュマコス(ソフィスト):正義とは、強者の利益になることである——この説明を通して、正義というものの記述を試みる。
# ソクラテス:正義とは、あらゆる人間がその人に相応しいもの(=徳)を捉え、それを実行することである——この説明を通して、正義というものの定義を試みる。
# 「それはともかく〈正義〉は徳(優秀性)であり、知恵であること、不正は悪徳(劣悪性)であり無知であることに、ぼくたちの意見が一致したのでぼく(=ソ クラテス)は論をすすめることにした)」(350D:岩波文庫版、藤沢令夫訳(上)p.97)。「正義は協調と友愛をつくり出すものだからだ」 (351D:同書、p.100)。「討論の結果ぼくがいま得たものはと言えば、何も知っていないということだけだ。それもそのはず、〈正義〉それ自体がそ もそも何であるのかがわかっていなければ、それが徳の一種であるかないかとか、それをもっている人が幸福であるかないかとかといったことは、とうていわか りっこないからね」(354C:同書、p.110)。

● 『ニコマコス倫理学』におけるアリ ストテレスの議論の進め方

● ここでいう実践知とは、思慮(知慮)あるいはプロネーシス/フロネーシス (φρονησιζ)のことである。

熟慮**することに関係、(学問的知識は)他の仕方ではありえない。

* この表記はアリストテレスの解説本によく登場する校注の入った底本であるベッカー版のページ数と欄(a[左]とb[右]に分かれる。またこの表記の後には 行数が入ることもある。私は、2002年の朴一功[ぱく・いるごん]訳の参照にしたので、ベッカー版の行数については記載していない。)

**熟慮すること=ブーレウエスタイ

● たましいの中には、人の行動と真理を支配するものが3つある。

● 魂(たましい)には、理性的な2つの部分がある(1139a*)

(1)エピステーモニコン(知識的部分)

他の仕方でもありうる[→技術的な知に関する?]

(2)ロギスティコン(理知的部分)