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革命的主体とは誰か?

What is the/a Revolutionary Subject?

池田光穂

どのようなシステム(例:社会)にも構造 的欠陥(例:官僚的瑣末主義、政治的決断の鈍重さ)があったり構造的過剰(例:裁判の三審制のように正 しい修正機能を担保するが時間とコストがかかる)による問題があるために、システムをドラスティックに変更する革命というプログラムが政治的オプションと してどのような社会にも歴史的に存在してきた。

多くの法治国家では、革命的変革を内乱罪 あるいは大逆罪として重大な犯罪行為として禁止しており、また処罰も死刑を含む厳しいものである。この ことは多くの法治国家は、革命という政治的変革手段に、国際的な戦争敵対行為同様、大変に「恐怖し」あるいは「脅威を感じるもの」であることがわかる。に もかからず、国家側(体制側)は、そのような内乱的行為に対して、国内法を使い、その裁判過程も法の手続きで行わねばならず、公開のプロセスにより反乱側 に有利に報道される危険性もあり、国家運営に対して大変な桎梏になる。いわゆる体制側のガバナンスを大きく揺るがすことになる。

し たがって、革命をおこなう側が、連携・連帯をして、国内外でさまざまな反国家的扇動をおこなうことは、革命を遂行する際におおきな力になる。このような革 命=社会変革をになう人材を革命的主体(revolutionary subject)という。従来の革命的主体は、そのアイデンティティ、社会経済階級、職種、性別などの主題的課題(subjective theme)を共有する必要があるために、革命的社会条件が整うには、大きな努力が必要であると間がられてきた。

ま た多くの政治学者は、国家(体制)の暴力的抑圧性が、その反発を高めやすいために、テロや破壊活動などの挑発が有効であると指摘すると同時に、革命主体だ けの努力だけでなく、国家(体制)の個々の革命勢力への運動にどのように対処するのかという「政治的環境要因」を未来の革命の成否として重要な要因がある と指摘してきた。

アラン・バディウ(Alain Badiou)は、革命的主体を考える 時に、人間の無意識レベルにまで、その行為と倫理の源泉を考えるべきだとして、ソフォクレス『アンティゴ ネー』と『コロノスのオイディプス』を取り上げ検討している。

『アンティゴネー』の場合、……(未完)

What is the Revolutionary Subject?, by DANIEL TUTT.

革命の主体とは何か? 2011年11月11日

 バディウ(A. Badiou)の『主体論(Theory of the Subject)』では、体制の構造的な過剰さの欠如という観点から政治を定義する革命的主体は、常に焦燥と勇気の狭間にある。バディウがアイデンティ ティ、階級、ジェンダーの外にある主体を展開していることを忘れてはならない。 バディウは、主体に関する二つの主要な歴史的・構造的バージョン、すなわち、アイスキュロスのものとソフォクレスのものを提示している。主体を構成する4 つの主題(勇気、正義、不安、超自我)のうち、政治的主体性を基礎づけるものの分裂を支えるのは勇気であり、革命的主体にとっての出来事への忠誠を支える のは勇気である。

主体形成がつねに法からの反乱に根ざしていることを正確に表現しているソフォクレスのヘルダーリンの読みに寄りかかれば、分裂した主体に根ざした主体を見 出すことができる。オイディプスにとっての知識とは、オイディプスが知らない対象(スフィンクス)に向けられるものであり、そこから未知のものが生み出さ れる。

アイスキュロスの主体は、(逆に)思考可能な側であり、正しい側であり、法則から逸脱している側である。超自我の克服に根ざしたソフォクレスの主体こそ、 主体が超自我の法(クレオンや国家)と不安の法(アンティゴネーや法の前の主体)によって破壊され、それらを構成するものの内部分裂は、法的価値を持ちう るものの法を超えた分裂であると主張する(TOS, 164)。ソフォクレスにとっての主体を構成する政治的所在は一つではなく二つである。

それに対してアイスキュロスは、臣民が正義を通じて、政治的主体が基礎づけるこの「一なるもの」の分裂を中断させると仮定する。無意識の法則、内的分裂に よって構成される主体として、フロイトはオイディプスを選んだのである。エーシュリー的な主体形成において、超自我的な命令の逆転を覆そうとする主体は、 新しいものの勇気によって正義に関係する。したがって、エーシュケリヤン的悲劇家は、ソフォクレスの英雄がいるような考えられないものではなく、考えられ るものの側にいる。ソフォクレスにとっての死ではなく、エーシュキュロスにとっての正義は、古い権利を枯らすことである。

どちらのモデルも、勇気と超自我の不安を覆す要求を特権化している。同時に、革命が勇気を抱き、不安と超自我を拒否すればするほど、革命は破壊に参加し、天秤が民衆の行為、プロレタリアートの行為に傾くのである。

階級と全体性の後の主体

マルクスに続いて、プロレタリアの主体がバディウの主要な関心事である。しかし、大衆(現実)に根ざしたこの特殊な主体は、ラカン的なレジスターにおけるシニフィエのように、消えゆく主体である。

マルクスがあらゆるものの中心に据えた)革命的主体を、唯一最も明確な集団として定義することは、バディウの評価において失敗するだけである。階級的差異 に安易に依拠することはもはや不可能である。結局のところ、階級的差異とは弱い差異なのだ。バディウが「全体に属するものは他者の立場にある」 (TOSS, 217)とコメントしているように、マルクス主義が全体から主体を導き出すすべての全体性は、特殊なものにすぎない。彼は続けてこう指摘する:

「どんなマルクス主義も、全体性を調査する立場にはまったくない。カントールによれば、残されたものこそが過剰の価値を根拠づける」(TOSS, 219)。

バディウのテクストの目的のひとつは、大衆の外にある革命的主体の輪郭を定義することにある。大衆は結局のところ、現実の代表者であり、弱い差異の代表者 である。存在するものはすべて弱い差異(ラカンのシニフィアン)から成り、現実の強い差異によってマークされた主体は、可能な限り弱い差異--場所の間の 差異--が「なりゆき」を支配するものとなるように消滅しなければならない(『TOS』61-62)。革命的状況にとって、そして革命的主体にとって、弱 い差異こそが「なりゆき」を支配するものであるならば、勇気が超自我と不安に崩壊するまで、弱い差異がどこまで持続することが可能なのかを問わねばならな い。ジジェクに倣って、熱狂の主体という主体に関する新たな主題を指摘することは意味があるのだろうか。

大衆の主体が消滅する主体であるならば、持続するのは革命的主体だけである。バディウが指摘するように、反乱下の群衆の主体は消滅しないが、超自我の法則 (国家と不安の発生)を超えて革命に忠誠を誓い、勇気を持続させるかどうかが問題となる。それは、まず古いアイデンティティを廃し、弱い差異を存続させ、 新たなあり方や存在の新たな可能性を支配することを可能にすることを中心とした問題である。

群衆は、芸術の、クリナメンの、リアルの、消えゆく言葉である。政治の代表的な場(out)が存在するためには、主体はその古いアイデンティティによって 廃絶されなければならない。しかし、私たちが扱っているのは、そのような主体であり、このプロジェクトは、主体の性的アイデンティティや階級的アイデン ティティに純粋に限定されるものではないことを忘れてはならない。

What is the Revolutionary Subject?, by DANIEL TUTT.



1982年にフランスで出版された『主体論』は、間違いなくアラン・バディウの最も重要な著作のひとつであり、彼の大著『存在と出来事』の多くの基礎を築 いた。本書でバディウーは、ラカン派精神分析の研究を通じて、マルクス主義に主体論を提供しようと試みており、マルクス主義のみならず、精神分析と哲学の 関係に関するより大きな議論にも大きな貢献を果たしている。本書はまた、構造主義とポスト構造主義の歴史と理論、1970年代のフランス毛沢東主義の業績 と1968年5月の出来事の意義についてのユニークな評価、芸術と文学についての息をのむような分析も提供している。理論的統合として、本書はその独創 性、幅の広さ、明快さの点で並外れている。バディウの最も創造的で情熱的な著書であり、現代理論、哲学、精神分析の戦場全体を網羅している。この生き生き とした非常に独創的な思想家に興味を持つすべての人にとって必読の書である。

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