ヘルスコミュニケーションの認識論
Epistemology for
Human to Human Health Communication
解説:池田光穂
私は、ヘルスコミュニケーションというものが、歴史的文脈を超えて普遍的に共通 する一般像を結ぶとは考えていない。身体観や宗教が文化や社会に おいて多様な広がりをもつものだとすれば、ヘルスコミュニケーションもまた多様な広がりをもつ可能性を誰が否定することができようか。病気や治療の概念が 異なるように、ある社会における極北のヘルスコミュニケーションが、別の社会では中心的な課題になることだってあるはずだ。重要なのはヘルスコミュニケー ションがもつ総合性である。医者—患者関係が、しばしばシャーマン—クライアント関係に擬されて分析されることがあるように、ヘルスコミュニケーションに も、それを成り立たせているエージェントやプレイヤーがおり、それらの役割と社会的期待や理想像をもつことという、行動や価値観のパターン化には共通性を 認めることもある。それらの間の共通性は、ウィトゲンシュタインの家族的類似性のように、多項的な配列の重なりあいでしか共通点を見いだすようことができ ないような組み合わせである。ヘルスコミュニケーションは、それがおかれた文化的背景によって、その意味内容・社会的意義・実践的意味機能が異なる。その 社会の人たちが考えるヘルスコミュニケーションは、文化や歴史というものに影響を受ける極めて動態的なものであるということである。
Elementos de moral médica o Tratado de las obligaciones del médico y del ... By Félix Janer
私は、ヘルスコミュニケーションの具体像について考える時、多様化する地球規模的な要因について考える必要があると考える。グローバリゼーショ ンがもたらす、世界の均質化と、同時にそれとは矛盾するように思われる世界の分節的多様化の影響が、当然ヘルスコミュニケーションの社会現象にも表れてい る。ヘルスコミュニケーションは、歴史的社会的に普遍的な一般像をもつような文化的事象ではないし、それゆえこの事象に対して本質主義的な定義をおこなう ことはナンセンスである。他方で、歴史的社会的文脈の詳細な分析をすれば、人びとがヘルスコミュニケーションとして受け入れるようになったプロセスがすべ て解明されるわけでもなかろう。ヘルスコミュニケーションは、現時点で確固とした実在として取り扱うことを否定しないが、文脈に依存している流動的かつ不 安定なものとしても理解しなければならない。もし仮にヘルスコミュニケーションになんらかの実体を想定してアプローチするのであれば、このコミュニケー ションに関わる人びとから構成されるきわめて立体的な構成物だと言うことができる。
ヘルスコミュニケーションとは何かという問いについては、管見の及ぶかぎり、すでに1ダース余りの定義がなされている[Schiavo 2007: 8-10]。2010年に設立された日本ヘルスコミュニケーション学会では「ヘルスコミュニケーション学は、医療・公衆衛生分野を対象としたコミュニケー ション学」と解説している。言い換えると、ヘルスコミュニケーションとは、医療・公衆衛生分野を対象としたコミュニケーションのことらしい。同じサイトに あるウェブページでは「医学研究の成果を…分かりやすく正確に伝えるということ」、「関係者がお互いに伝え、受け取る、双方向のコミュニケーション」、 「患者との良好なコミュニケーションが患者満足度の向上、紛争の予防・解決に結びつ」き、「職員のやる気・能力を高め、組織内の紛争を防ぐためにもコミュ ニケーションが果たす役割は重要」であると述べている[日本ヘルスコミュニケーション学会 Online]。ここでのコミュニケーションの役割はシャノン=ウィーバー流の情報伝達であり、コミュニケーションがうまくいくと、患者は満足し、患者が 医療者に仕掛ける紛争は回避できると論じられている。ホームページの説く効用はそれだけではない。職員同士の仕事のパフォーマンスをも高めるものとされて いる。いわば良いことずくめとして説明されている。
他方、米国の疾病予防研究センター(CDC)の定義では「健康を増進する個人とコミュニティの決定に情報や影響を与えるコミュニケーションの諸 戦略の研究と利用のこと」と簡潔に規定している[CDC 2001, cited from Schiavo 2007:8]。この米国流の定義は、WHOによる定義と共通性をもち、コミュニケーション手段を、ヘルスプロションをはじめとして人びとの健康のために 功利主義的な道具として利用すると指摘している。それはソーシャル・インクルージョンを含む、あらゆる保健施策に関わる関係者の動員に関わる必要事項であ ることを示唆している。ソーシャル・インクルージョンは、社会的排除という現象に対して行政の対処政策および当事者の抵抗戦略の思想として登場してきたも のである。その意味で、米国におけるヘルスコミュニケーション政策は動的な保健医療福祉政策のシンボル的存在だと位置づけられている。これに対して、日本 のそれは〈コミュニケーション〉よりも〈ヘルス〉という概念のほうにより大きく比重がおかれている。医療官僚や医療専門職向けに、その速やかな必要性を説 き、かつ既存の医学教育にいち早く組み込まれることを望んでいる。その意味ではこの説明は限りなく表面的皮相で、了見の狭いものであり、その具体的なポリ シー策定と並んで改善の余地があるものとなっている。
1996年WHOのある保健プログラムが作成した『ヘルスプロモーション用語集』[AMRO/PAHO 1996]ではヘルスコミュニケーションを次のように説明している。「ヘルスコミュニケーションは、公的な計画表(アジェンダ)における健康の関心事に対 する情報を人びとに提供し、重要な保健課題を維持するための主要な戦略のことである。大衆に有益な保健情報を普及するために、マスメディア、マルチメディ アあるいはその他の技術的イノベーションの利用は、健康の進展に重要なだけでなく、個人および集団の健康の特異な側面への気づき(アウェアネス)を増大さ せる」。最初のセンテンスは、シャーボ[2007:8]がその著作のなかで掲げているオーストラリアのニューサウス・ウェールズ州政府保健局[2006] の定義と全く同じである。オリジナルの定義がなされた頃は世界の先進国でインターネット革命が次第に進行している時期であり、今日的なインターパーソナル なコミュニケーションの強調よりも、コミュニケーションIT技術の到来により多くの期待感を寄せているようにも思える。
それに遡る10年前、ヘルスプロモーションのためのオタワ憲章[1986]では、コミュニティという言葉は重要な用語として文書の中でたびたび 使われているが、興味深いことに、コミュニケーションという言葉は一度たりとも使われていない。その理由でなんであろうか。推測できることは、(1)コ ミュニケーションおよびその重要性は今も昔もあえて説明を必要としない言葉なので、わざわざ言及する必要がなかったか、(2)ヘルスプロモーションという 用語が、住民を保健行動に参入させるためのヘルスコミュニケーションそのもの、つまり同義語として捉えられていたか、ということであり、私はその比重の多 寡は別にして、そのどちらも十分に考えられることであろうと思う。
スペインの医師であり歴史家〈かつ〉哲学者——要するに知識人——であるペドロ・ライン・エントラルゴ(Pedro Lain Entralgo, 1908-2001)の名著『医者と患者』のスペイン語の初版は1964年(邦訳1973年)に出版されているが、その第5章は「医者—患者関係の構造」 と題され、「医者—患者間のコミュニケーション」から説き起こされている[エントラルゴ 1973:149-162; Lain Entralgo 2003]。英米語圏の医療社会学では、「医者—患者関係」は1956年のサズとホレンダーの米国医学会(AMA)の『内科学雑誌(Archives of Internal Medicine)』に掲載された論文のなかでの指摘がもっとも初期に属するものである[Szasz and Hollender 1956]。医者—患者関係(Doctor-Patient relationship)は、しばしばD-P関係と言い換えられ、久しく医療関係論のなかで最も基本的なモデル とされてきた。今日でもその伝統は生き残っており、医者も患者も、その属性や役割などが拡張されて現在では「実践家—クライアント関係 (practitioner-client relationship)」などと呼び習わされていることは周知のとおりである[Gabe et al. 2004:96-101]。
最後に、ヘルスコミュニケーションの研究について考えよう。ヘルスコミュニケーション理解の第一歩はケアの現場から得られる情報の集積と分析で ある。最初に着手すべきは、(a)医療サービスに関わる、スタッフの職種や実際の職域、制度や法などの規約に関わる事柄を明確にすることである。次にその 職種を包摂する(b)サービスの提供と分配に関する機能的な参与者を区分し、それらが適切なカテゴリーに分類されることである。これには、ケアの消費者、 提供者、アドボケート、そして支援スタッフなどが経験的に区分することができよう。最後は、サービスの循環や交通という広い意味での(c)コミュニケー ション行為の最小のユニットになるエージェントやアクターの存在を明確化することである。ブルーノ・ラトゥールやミッシェル・カロンらのアクターネット ワーク理論は、ただ単にアクターの動態を調べて満足するだけでなく、人間以外の物質や制度などもアクターとして取り扱い、それらをめぐる社会的事象がその 問題や実践のたびごとに構成されているという立場をとる。カロンはこの方法論をエージェンシーと構造を対立物としてみる従来の社会学に対比して「翻訳の社 会学」[Callon 2001:62]という用語を与えている。ヘルスコミュニケーションは、どのような主体や行為者からなるのか。これをめぐる推論は、ヘルスコミュニケー ションが起こる場において、どのような種類の行為者がいるのかを実際に抽出し、その動態を分析するほかはない。
言うまでもなくヘルスコミュニケーションは臨床技法としての顔をもつ。ケア現場から要請があるテーマに関するコミュニケーション教育では、座学 としてさまざまな役割について学ぶだけでなく、学生実習などを通して実践・実修することが強調される。実際の臨床現場では、対処する疾患別の応談などの接 遇技法から、社会生活や対象者(ターゲット)集団への広範囲なヘルスプロモーションまで大きな広がりをもつ。疾患別のコミュニケーション技法が発達する背 景には、患者の心理的身体的状態や日常生活への復帰においてきめの細かい経過観察と介入が必要となり、その技法の改善のためには現場力や実践知が不可欠だ からである 。疾患は、その個人や家族にとっても社会にとってもリスク要因となるために、(1)リスク予防、(2)リスク対処準備態勢、そして(3)リスク対応、とい う観点からの取り組みも必要になる。これらの時系列のすべての事柄にヘルスコミュニケーション技法は、非常に力強いツールとなり、さまざまな局面に介入す ることになるだろう。
ヘルスコミュニケーションの臨床面への効用が説かれるのが、医療を受ける側の当事者へのエンパワメントツールとしての役割である。このような実 践上の努力の結果として、実現されるであろうと希望が持たれているのが「患者中心の医療(Patient-Centered Medicine)」である[Bensing 2000]。ほとんどヒポクラテスの昔から、患者はケアが必要とされるために古くから「脆弱な存在」あるいは「保護の必要な存在」と見なされてきた。この ため洋の東西を問わず医療の原則は、最近になるまでその再考が促されるまでは、きわめて長い間、技術と知識という権能をもった医療者が患者に行使するパ ターナリズム(父権主義)原則で運営されていた 。しかし患者の権利、インフォームド・コンセント、精神的ケアの浮上、さらにはユーザー自身がインターネット上における情報を収集し活用することなど、患 者をエンパワーする技術や社会的制度が整備されてきた。その中でも疾患・薬剤・自助グループなどに関するさまざまなケア情報を提供する健康情報技術 (Health Information Technologies, HITs)あるいは e-Health の発達により、患者集団は以前よりもより自律性の高い集団として機能する可能性も出てきた。とりわけ1990年代以降に本格化する携帯電話などのモバイル 端末やインターネットの普及は、すくなくとも医療の専門家のみならず市井の人びとに(不正確な風評も含めて)膨大な健康情報がもたらされることになった。 通信技術の発達と、新しいコミュニケーションツールの開発は、ヘルスコミュニケーションのあり方にこれまでは量的なインパクトをもたらしてきたが、今後は 最適で必要な情報を短時間でどこにおいても提供しユーザーが簡便に入手することができることを通して、人びとの医療行動の多様化をもたらす、大きな質的な 影響を与えるかもしれない。
私の分析は、実践の現場で従事されておられる諸兄諸姉(しょけい・しょし)には、言わずもがなの幼稚なものであったろう。しかしながら、教育の 現場で、ヘルスコミュニケーションのアウトラインについて学ぶ学生と教師が、この学問とそれが齎す技法が、表面的な効用を超えて、現代においてどのような 意味を持っているのか——我々は何を知りうるか、我々は何をなしうるか、我々は何を欲しうるか、 という批判哲学をめぐるカント的問い——に考える出発点に幾度も立ち返る意義は少なく ともあると思う。
参照文献
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[略歴]
池田光穂(垂水源之介):北海道医療大学助教授(1992-1994:教養部・文化人類学)、熊本大学助教授/教授(1994-2006:文学部/文学研究科/社会文化 科学研究科・文化人類学/文化表象学/文化政策論)、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授を経由して、現在、大阪大学COデザインセンター・社会イノベーション部門教授・副センター長。
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