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ウィトゲンシュタイン年譜

Ludwig Josef Johann Wittgenstein, 1889-1951

1929年にトリニティカレッジから奨学金 を受賞した時に撮影されたもの(部分)/Ludwig Wittgenstein (1930), porträtiert von Moriz Nähr

解説:池田光穂

1889年4月26日 生誕 

ルー トヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)はウィーンで誕生:1889年4月26日 ウィーン(オーストリア=ハンガリー帝国)で生まれる。9月26日ドイツ・メスキル ヒにてフ リードリヒ・ハイデガーとヨハンナの第一子としてマルチン・ハイデガー生まれ る

1902 長男ハンス自殺、次兄ルドルフ は1904自殺、三兄クルトは1918年に自殺。

1903年まで 自宅で教育を受ける

1903-06 リンツ高等実科学校(ヒ トラーも在籍している)

1906 シャルロッテンブルグ工科大学 入学:シャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)で機械工学を学ぶ(〜1908——飛び級卒 業か?)

1908 マンチェスター大学工学部:マ ンチェスター大学のプロジェクトに参加(大気圏上層における凧の挙動)

1911 フレーゲは22歳のウィトゲン シュタインにラッセルを訪れるように促す(野矢 2006:76)。(秋) バートランド・ラッセルを訪問

1912 トリニティ・カレッジ(ケンブ リッジ)入学:ラッセル、ムーアに師事。ジョン・メイナード・ケインズと親交

1913 ウィーンに帰郷(父の死亡)  そのままノルウェーの山荘で過ごす(ケンブリッジには何度か戻るが)。学位論文をめぐって、当局と折衝 したムー アの手紙に、激怒。罵倒の返信を書く。

1914 6月 第1次大戦勃発 8月に オーストリア=ハンガリー帝国軍に志願。クラコフに着任。トルストイの福音書解説に出会う。ニーチェ選 集なども読む。(自殺願望頻発)

1914 オーストリアハンガリー帝国軍 志願兵。入隊後、トルストイの註釈に感銘を受け「福音書の男」と呼ばれる。

1915 「論理哲学論考」のアイディア と草稿がまとまる

1916 3月 対ロシア砲兵隊に配属。 伍長に昇進。

1916 7月6-7日『論考』の基本的 枠組みが完成したといわれる(星川・石神 2016:241)

1917 ロシア革命の影響で戦線は平穏 化

1918 少尉に昇進。イタリア戦線に。 「論考」の完成、出版社に送るが拒絶される。11月イタリア軍の捕虜になり、収容所に。

1919-1920 小学校教員養成所

Ludwig Wittgenstein, schoolteacher, c. 1922

1918-1922までの『論理哲学論 考』の翻訳に関するエピソード

1922 『論理哲学 論考』出版:英独対訳版『論理哲学論考(Tractatus Logico-Philosophicus)』の出版(→pdfの入手:グーテンベルグ・プロジェクトhttps://www.gutenberg.org/files/5740/5740-pdf.pdf.


https://bit.ly/3Bh9Kze

1927-29 ウィーン学団との交流

1927 モーリッツ・シュリック(36 年に反ユダヤ主義の学生より射殺される)がストーンボロー邸のウィトゲンシュタインを訪問。

1927 エドムント・フッサールによっ て創刊された『哲学および現象学研究のための年報』の第8巻においてハイデガー『存在と時間』 の初版を公刊。『現象学の根本 問題』(Die Grundprobleme der Phänomenologie)

1928 ワイスマンとファイグルと邂逅 (3月)。ケインズとの手紙の交換。(→Ethik und Ästhetik sind Eins

「わ たくしの記憶には、もう一つの出来事がはっきりと残っている。オ ランダの数学者ルイツェン・エグベルトゥス・ヤン・ブラウワーが数学に おける直観主義についてウィーンで講演するととにきまったとき、ワイスマンとわたくしがヴィトゲンシュタインをうまく説得し、すったもんだ の末に、やっと その講演にわれわれと一緒に出席させることができたことがある。講演終了後、ヴィト ゲンシュタインとわれわれが喫茶店へ行ったとき、大変な出来事が起っ た。突然、きわめて弁舌さわやかに、ヴィトゲンシュタインが哲学を語り始めたのである——しかも長時間にわたって。たぶんこのことが転機となって、ヴィト ゲンシュタインは1929年にケンブリッジ大学へ移り、爾後再び哲学者となって、途方もない影響力を発揮しはじめたのである。その結果、まぎれもない騒乱 が英国の哲学界に生じ、それがすぐに米国へもオーストラリアへも波及していった。バートランド・ラッセルはヴィトゲンシュタインの哲学の示した新たな転向 に当惑し、最初は冷たく沈黙を守っていたが、後には公然とこれに反対した。カルナップは、時代の流れにあまり動かされることがなかったから、自己の構成的 な仕事をプラハで、また後にはアメリカで続けていった」(ヘルベルト・ファイグル 1973:233)。ファイグル、ヘルベルト「アメリカのウィーン学 団」藤本隆志訳、Pp.217-280, 『人文科学者・芸術家 』レヴィン他、みすず書房(The Intellectual migration : Europe and America, 1930-1960 / edited by Donald Fleming and Bernard Bailyn, Belknap Press of Harvard University Press (1969))

ヤ ン・ブラウワーの直観主義とは「数学的概念とは数学者の精神 の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合 において、背理法によって、非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった。そのために、無限集合において「排中律」、すなわち、ある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるとい う推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。ブラウワーとは逆に、 ヒルベルトの形式主義は、排中律(という原則)を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる」

こ のLWの「転回」のエピソードは、前期の論考、後期の探究というLWの思考史における切断を物語るものであり、人生における徹頭徹尾形而 上学者であった(その論拠はあの有名な論考の「倫理学と美学は同一である」 の部分である)という細川亮一の主張とは共存しない主張である。つまり、後者の細川は、LWの著作全般にみられる超越論的な思考をもって形而上学者とみな す立場 であり、ファ イグルのエピソードは、ブラウワーの直観主義にみられるような、命題の真偽のみで意味の空間を語る前期の思考法から、哲学的概念とは言語がもたらす思考 (精神)の産物であり、哲学的概念の存在は、その構成により示されるべきである、という後期の思考法に移り変わることが、論考をもって学位論文として提出 する前から出発していたのではないかという解釈である。細川のようにLW書物から兆候的に読み取る態度ではなく、ファイグルのエピソードは、人生における 経験が、その人の思考の変えうるということを雄弁に主張するものである。また、これは、トゥルーミンとジャニク(2001)が主張するような、ウィトゲン シュタインは徹頭徹尾ウィーンの知的環境のなかで知的成熟を遂げた首尾一貫した倫理学者であった、という主張とも異なる。

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1929 ケンブリッジに舞い戻る(16 年ぶり)。『論考』を学位論文として提出。トリニティ・カレッジ・フェロー

1939(50歳)ケンブリッジ大学教授 (哲学):2月ムーアの後釜として、ケンブリッジ大学哲学教授になる。4月英国の市民権(国籍)を取 得。

1949 前立腺がんの診断。『哲学探 究』原稿の完成

1950 4月アンスコム宅に寄寓。11 月、ベヴァン医師宅に寄寓。

1951 

1953 『哲学探究』死後2年後に公刊

1-88 言語ゲームと意味の使用説
89-133
論理学と哲学
134-242
規則に従う
243-315
私的言語の議論
316-693
心理学の哲学

関連人物集

関連リンク集

文献

Mitzub'ixi Quq Chi'j