ジェンダートラブル:第3章
Gender as one of sociological categories
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Not gender trouble but gender harmony!!!
解説:池田光穂
【ポータル】【旧ポータル】 1999年版の序文"1/2 Butler's Preface of Bender Trouble (1999)"+"2/2 Butler's Preface of Bender Trouble (1999)" →pdf withpassword JB_GT_preface1999.pdf |
第1章 セックス/ジェンダー/欲望の主体 One: Subjects of Sex/Gender/Desire |
第2章 禁止、精神分析、異性愛のマトリクス の生産 Two: Prohibition, Psychoanalysis, and the Production of the Heterosexual Matrix |
第3章 撹乱的な身体行為 Three: Subversive Bodily Acts |
竹村和子あとがき(kazuko_takemura1999.pdf)with password |
クレジット:ジェンダートラブル、あるいはジェンダーはとらぶっている(→Gender Trouble)
03 第3章 撹乱的な身体行為Three: Subversive Bodily Acts ch03-Butler_gendertrouble-3.pdf
12. ジュリア・クリステヴァの身体の政治
13. フーコー、エルキュリーヌ、セックスの不連続の政治
14. モニク・ウィティッグ—身体の解体と架空のセックス
15. 身体への書き込み、パフォーマティブな撹乱
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ch03-Butler_gendertrouble-3.pdf |
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1.ジュリア・クリステヴァの身体の政
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クリステヴァの同性愛=精神病をみなす立場を批判。クリステヴァの前提
は、異性愛を象徴界の基盤とする構造主義の前提を受け入れているからだと指摘。 |
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女の同性愛=精神病のクリステヴァの批判はつづく |
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クリステヴァの出産欲望 |
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(構造主義者の前提の批判が続く) |
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女のセックスという単声的な概念 |
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フーコーによる「セックスという虚構のカテゴリー」 ※このあたりから、バトラーは、『性の歴史(1)』のフーコーの主張と、エルキュリーヌ・バルバンの手記序文の間にみられる亀裂あるいは矛盾をつく主張を 展開する。 「『性の歴史』の第一巻の終章で、フーコーは、セックスのカテゴリ1を「虚構の統一体〔と〕〔…〕原因をなす原理〔の両方〕」として利用することに警告を 発し、セックスという虚構のカテゴリーは因果関係の逆転を促して、その結果、「セッ クス」は、欲望の構造や意味の原因と理解されることになったと主張する」(168) ・性別される以前の自然の身体は性別ではない ・ゆきゆきて「知への意志」知への意志 (性の歴史1)/ ミシェル・フーコー [著] ; 渡辺守章訳 東京 : 新潮社 , 1986.9:Ch0405_his_sex1976.pdf |
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・フーコーは、バトラーにとって、クリステヴァの女性の身体を本質化す
る言説に解毒剤になるという主張をおこなう 「フーコーの枠組みは、女の身体についてのクリステヴァの見解から発生する認識論的で政治的な問題のいくつかを解決する手段を示してくれる」(169) |
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母性的リビドーのメカニズムの、記述の見直しの必要性 |
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「クリステヴァはもっばら、父の法の禁止的側面だけに自分の議論を限定
してしまったために、父の法がいかに自然な欲動という形態で、ある種の欲望を産出しているかを説明できかった」(170) |
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2.
フーコー、エルキュリーヌ、セックスの不連続の政治(→エルキュリーヌ・バルバンの手記序文:Foucault_Herculine_Barbin.pdf) Herculine Barbin, 1838-1868 |
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「『性の歴史』第一巻でフーコーが示したセクシュアリティの理論は、一
九世紀のフランスの両性具有者エキュリーヌ・バルバンの日記をフーコーが翻刻したときに、彼がつけた短いが重要な序文と矛盾している」(172) 「フーコーは『性の歴史』のなかでは、セクシュアリティは権力と同延上にあると論じているが、ここでは、エルキュリーヌのセクシュアリティの構築と弾劾の 両方をおこなう具体的な権力関係を、認識できずにいるのである。実際フーコーは、彼/女の快楽の世界を美化して、「アイデンティティのない幸福な中間状態 (リンボー)」——セックスやアイデンティティのカテゴリーを超えた世界——と呼んでいる。しかしエルキュリーヌ自身の自伝的著作では、性差の言説やセッ クスのカテゴリーがふたたび登場してきており、これによって、フーコーがおこなったテクストの美化と無視とはべつの工ルキュリーヌ読解が可能だと思われ る」(173) |
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・フーコーの性の歴史の主張では:「身体の快楽は、セックス特有の本質
をその原因とするものではなく、むしろその種の「セックス」の表出とか記号として解釈可能なものになっている」(173) ・セックスはオリジンではなく帰結である(フーコーのテーゼ) ・「セックスという概念は根本的な転倒を引き起こした。それは権力とセクシュアリティの関係の表を逆転させて、セクシュアリティを、権力とのあいだに本質 的で実際的な関係をもつものではなく、権力がなんとか支配しようとする特殊で還元不能な衝動に根をもつものとして出現させてしまった」(174-175) |
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・フーコー派の主著:セックスは歴史的に産出される。したがってセック
スは本質的ではない(←→フェミニズム) |
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・「エルキュリーヌ・バルバンの日記の編集と出版によってフーコーが
はっきりと示そうとしていることは、半陰陽的あるいは間性的な身体が、セックスのカテゴリー化という規制的な戦略をそれとなくあばき、それに異を唱える様
子である」 ・マルクーゼとフーコーにはそれほど違いがない |
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・
「『性の歴史』第一巻のフーコーの立場と『ェルキュリーヌ・バルバン』の序文とのあいだにあるこの重要な隔たりは、『性の歴史』そのもののなかに、解決不
能な緊張としてすでに内在していたものである。そこで彼は、さまざまな規制的な戦略の押しつけに先立って存在する年齢差のある性的交換という、「牧歌的」
で「無垢な」快楽に言及している。一方でフーコーは、言説と権力の複雑な相互作用によって生産されることのない本来的な「セックス」など存在しないと主張
したいのだが、他方で、特定の言説/権力の交換の結果ではない本来的な「快楽の多様性」があると言いたいようだ」(176-177 |
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・エルキュリーヌの日記は、フーコーのような理論的回収に抵抗している
(とバトラーが擁護) ・エルキュリーヌ(男性)とアレクシナ(女性)だが、バトラーは、そこにジェンダーを与えることを控えていることに留意せよ。 |
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・エルキュリーヌのサラへの愛 ・告白による、サラからの強制的な離別経験 ・問題は、誰がエルキュリーヌを殺したか?——フーコーのようにエルキュリーヌを美化してはならぬ、エルキュリーヌの自殺を問題化しなければならないと、 バトラー先生はいう。 ・バトラー先生への池田の忖度:「女性は、どのようなセクシュアリティを持とうと フェミニズムの同盟軍になり得る、というテーゼを展開している」 ・バトラー先生は、フーコーの誤読にかなりお怒りのようである→「エ ルキュリーヌは 途切れ途切れではあるが、学校時代の他の少女たちとの関係や、修道院での「マザー」たちとの関係、最後には、彼/女の恋人となったサラヘの情熱的な愛につ いて語る。最初は罪意識にとらわれ、次には明瞭に述べられていない生殖器の病気を患ったエルキュリーヌは、彼/女の秘密を医者に、次には司祭に告白し、こ の一連の告白行為のせいで、結果的にはサラとの離別を強要されることになった。権威者たちは協議し、彼女が法的に男に変わるようにはからったが、そのせい で彼女はそれ以降、男の服装をしたり、男のさまざまな社会的利権を行使することを義務づけられることになった。センチメンタルなメロドラマの口調で、日記 は、自殺で頂点に達するたえまない彼/女の危機意識を語る。法的に男になるまえのアレクシナには、「セックス」のカテゴリーの法制的で規制的な圧力を逃れ る快楽を享受する自由があったと言ってよいかもしれない。実際フーコーは、この日記が暗示しているのは、単声的なセックスという法の押しつけのまえに存在 する規制を受けない快楽の世界だと考えているようだ。だが彼の読みが根本的に誤読していることは、このような快楽は、あまねく存在しているが分節化されな い法のなかに、つねにすでに埋め込まれており、それが歯向っているはずの法によって、実際には生産されているということである」(178) Title page of Ambroise Tardieu's 1872 book in which excerpts of Herculine Barbin's memoirs were first published. |
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「」 |
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・修道院のなかの女性の同性愛がエルキュリーヌのセクシュアリティをつ
くりあげた? ・「エルキュリーヌと彼/女のパートナーのあいだにセクシュアリティを生みだす権力のさまざまなマトリクスのなかには、修道院やそれを支える宗教理念が奨 励しつつ弾劾する、女の同性愛の慣習があることは明らかである。エルキュリーヌについてわかっていることは、彼/女が読書家だったこと、それも大量の読書 家だったこと、また当時一九世紀のフランスの教育はフランス・ロマン派と古典を教えることだったので、彼/女自身の語りはこういった文学の既存の慣習の内 部で語られているということである。事実こういった慣習が、フーコーもエルキュリーヌもその慣習のそとにあるとみなしたセクシュアリティを生みだし、それ をそのようなセクシュアリティとして解釈していくものなのである。不可能な愛というロマンティックで感傷的な物語が、このテクストに登場するあらゆる形態 の欲望や苦悩を作りだしているが、他方で、不運な運命をたどる聖者たちについてのキリスト教の伝説や、自殺する両性具有者を描くギリシア神話や、キリスト 像そのものもまた、同じ役割をはたしているようだ」(179) ・と、同時にキリスト教は彼女を殉教者(=自殺者)に仕立て上げた。 ・バトラー先生を忖度すると、フーコーは、まったく、女の同性愛をわかっとらん、とお怒りのようだ。 |
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・バトラー先生は、明らかに、女が同性愛で苦しんで自殺することがエル
キュリーヌ以降あってはならぬと、いっているように感じる。 ・「そうではなくて、禁止の法によって作りだされ、その喜ばしい拡散とい結果があったにもかかわらずエルキュリーヌの自殺で頂点に達する逃れがたい二律背 反を、わたしたちは論じるべきなのである」 |
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「フーコーはついうっかりと、エルキュリーヌの「アイデンティティのない幸福な中間状態(リンボー)」は、特定の時代のセクシュアリティの編成によって可
能になった——すなわち、「ほとんど女しかいない排他的な集団に隔離された」ために可能になった——とほのめかす。フーコーの言葉をつかえば、この「奇妙
な幸福状態」は、修道院の慣習の枠のなかでは「義務的なものであり、同時に禁止されたもの」である。彼がここではっきりと語っているのは、この同性愛的な
環境は、エロス化されたタブーの場合と同じ構造をもち、「アイデンティティのない幸福な中間状態」を巧みに奨励していくものである。ゆえにフーコーはこの
あとすぐに、エルキュリーヌが女の同性愛の慣習を実践したという自分の指摘を引っ込め、そこに戯れているのは多様な女のアイデンティティではなく、「アイ
デンティティがないこと」だと強調する。もしもエルキュリーヌが「女の同性愛」という言説の位置にいるとなると、セックスのカテゴリー——それこそ、エル
キュリーヌの物語がわたしたちに拒絶するよう促しているとフーコーが信じているもの——に、フーコー自身が関与してしまうからだ」(181) |
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「だがここで問いかけなければならないことは、言説によって構築されるセックスの曖昧さのレベルにおいてさえ、「セックス」にかかわる問題——実際には、
セックスのカテゴリーの自由な戯れに制限をもうける「権力」と「セックス」の関係にかかわる問題——が存在するのではないかということである。換言すれ
ば、そのような戯れは、前ー言説的なリビドーの多様性として考えられるものであれ、あるいは言説によって構築された多様性として考えられるものであれ、本
当に自由なものなのか。当初フーコーがセックスのカテゴリーに反対していた点は、セックスのカテゴリーが、存在的に二分された一対の性機能とその要素に、
統一性と単声性という人為的な特質を押しつけるということに対してであった」(183) |
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・フーコーの困ったパラドクス ・バトラー先生は、レズビアンとゲイホモセクシュアルは、同性愛でも非対称的関係の産物だと主張したいかのようだ ・「もしもフーコーが、同性愛の文脈において〈性的ァイデンティティがないこと〉が奨励されると主張するなら、アイデンティティを構築するものは異性愛の 文脈であると彼が考えていることになるだろう。事実フーコーは、セックスのカテゴリーやアイデンティティのカテゴリーを、たいていは規制的な性体制の結果 であり手段であると理解している。だがここで明瞭にされていない事柄は、この規制が生殖的、異性愛的なものなのか、それともべつのものなのかという点であ る。セクシュアリティのこの規制は、対称的な二元関係にある男女のアイデンティティを生産するものなのか。もしも同性愛が〈性的アイデンティティがないこ と〉を生産するのなら、同性愛が、互いに似ているというアイデンティティに依拠することはできなくなる。事実、同性愛は、もはやそのようなものとして記述 することはできない。では同性愛は、名づけえないリビドーの異種混消性の場所を意味しているというのなら、おそらく次には、それが本当に、その名を語れな い、あえて語らない愛なのかどうかを問わなければならない。換言すれば、フーコーは同性愛に関するインタヴューは一つしかおこなわず、また自分の著作では 自分自身の告白の契機にはつねに抗っていたにもかかわらず、エルキュリーヌの告白については、厚顔にも教訓的なロ調でそれをわたしたちに提示するのであ る。ということは、これは、彼の人生と彼女の人生のあいだに連続性や平行性があるとみなす一種の置換された告白だと考えてよいのか」(184) |
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・「ある意味で互いに「よく似ている」身体があるというフーコーの序文
の言葉は、欲望する相手の女と自分はまったく異なっていると語るェルキュリーヌの発言ばかりでなく、彼/女の身体の半陰陽的徴も軽視するものである」
(185) ・ボルヘスを使って逃げるなよ、という、バトラー先生のご指摘。 |
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・法との位相(→フーコー「性的欲望の装置」) |
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【結論としての非科学的な補遺】 |
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3. モニク・ウィティッグ ——身体の解体と架空のセックス |
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4. 身体への書き込み、パフォーマティブな撹乱 【審問】 |
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《結論》 |
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●竹村和子「訳者解説」
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・フーコーは反復する言説のなかに、権力の法機能と産出機能をもつとい
う。 |
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・エキュリーヌ・バルバン(フーコー)=性的アイデンティティの幸福な
辺獄(リンボー)としての宙づりにする。 ・不可能なセクシュアリティを撹乱の位置として審美化していると批判。エキュリーヌの意味とは、固定した性的アイデンティティの幻想を揺るがせることだ。 |
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15 |
●ジェンダートラブルの位置 女という虚妄性を暴露する |
291 |
16 |
フェミニズムとアイデンティティの撹乱 ・性の社会的な非対称性 ・フェミニズムは、性の社会的な非対称性を糾弾しながらも、性の本質性に回帰する危険性をはらむ、ジェンダー・トラブルはそれを批判する。 ・バトラーが難解のように見えるのは、フェミに対して肯定的と否定的な面があいまいだからだ。 ・だとしたら、曖昧さはある種の判断の中断——快楽の至福のプラトーを持続する——ものであるのか? |
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生物学的性別=セックスの用語をつかう、お約束 |
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・異性愛の自明性を疑う |
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・言語による反復の問題 |
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・イヴ・セジックの著作 |
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21 |
・ジェンダー・トラブルの社会的構築性 ・ラウレティス「愛の実践」 |
22a 22b |
Butler, Judith (1999) [1987].
Subjects of Desire: Hegelian Reflections in Twentieth-Century France.
New York: Columbia University Press. |
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23 |
翻訳時の苦労。この本は「粘着的な本」 |
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24 |
バトラー先生の現在の所属(Judith Butler,
1956- )※ウィキペディアの記述は、ジェンダーに分けられる代名詞を避けて固有名詞で表現して書かれているので一読に値する。/"Butler
is a lesbian,[76] they are legally non-binary,[77][78] and go by she or
they pronouns.[79] They live in Berkeley with their partner Wendy Brown
and son, Isaac.[80]"-Judith Butler. |
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編集者、母の思い出に捧げらている |
● 用語法
シ
スジェンダー(Cisgender)とは、性
自認(自分の性をどのように認識しているか)と生まれたときに割り当てられた性別が一致している人のことを指す。
リンク
文献
その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
軍艦ですら船のジェンダーは女性
Andy Warhol, Marilyn Monroe, 1967./Andy Warhol, Brillo Box (Soap
Pads), 1964(MoMA)
Columbia, personification of the United States, wearing a warship
bearing the words "World Power" as her "Easter bonnet" on the cover of
Puck, 6 April 1901.