テオドール・アドルノの「文化」
The concept of culture, by Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund
解説:池田光穂
「私は、ア
メリカにおいて、文化に対する一種の素朴な信仰から解放され、文化を外側から眺める能力を身につ
けた。……徹底して社会批判を行い、経済的
要因の優位性を十分認識していた私であったにもかかわらず、精神
Geist
のもつ根本的な重要性という考えは、そもそもの出発点から、私にとっては自明にして疑うべからざる半ばドクマのようでものであった……この
ことが自明のこ
とではないという事実を、私はアメリカではじめて知った」(アドルノ 1973, 下線は引用者)
ハンナ・アーレントだと、こ
の精
神 Geistとは、世界観(Weltanschaung)すなわちイ
デオロギーである。精神がある(=主体と外界を結びつけるもの)ことを自明にしてアメリカの人たちは議論していないことが、アドルノにとって
ショックであり、それがまた、自分(=ヨーロッパ人という自負をアドルノは臆面もなく晒す)にとっての精神 Geistの発見だというのだ。
テオドール・アドルノに よると、我々の文化概念は、じつは、その前提に「よき文化」を通して人間 を陶冶することを通して、自らの文化概念を築いてきたわけだから、文化の否定的な側面に関する経験的事実に、文化概念をもって批判することは、批判する実 体が批判する対象でもありうるという逆説や皮肉を生んでしまうという。良き文化を想定して、同じ対象の中に否定的なもの(ここでは「悪い文化」や文 化批判したい「対象」)を見出し人間を陶冶するという前提がそもそもおかしいのと批判する、アドルノの仮想敵はヘーゲルの弁証法である(『否定弁証 法』)。
「語感でものを考えるのに慣れている人は、「文化批判」(Kulturkritik)という 言葉を聞く とむかむかするにちがいない。それは単にこの言葉が、「オートモビル」という言葉のようにラテン語語とギリシア語のごた混ぜだからというだけではない。こ の言葉が、ある明白な矛盾を思い出させるからである。文化批判者は文化が気にいらない。だが、彼が文化を不快に感じることができるのは、ひとえにその文化 のお蔭なのである。彼は、掛値なしの自然であろうが、もっと高次の歴史的状態であろうが、そういう考えを自分が支持するかのように語るが、しかしその批判 者自身は、自分のほうがそれより崇高だと思っている相手と同じ存在なのである。へーゲルは既存の体制を弁護するために、自分は偶然的で制約されたものであ りながら、いま存在しているものの暴力を裁こうとする主観の欠陥を繰り返し叱った。しかしその主観そのものがその最内奥の連関にいたるまで独立した超然た る主観として、主観がそれに対置されているその当の概念によって媒介されているところでは、そういう主観の欠陥は我慢ならないものになる。とはいえ不適切 な文化批判は、その内容からいって、批判/される対象への尊敬の欠如に終わるよりも、むしろ、ひそかにだが、その対象に目がくらんで恭しくそれを承認する という結果に終わる。文化批判者は、たとえ彼がそういう帰属を欠いた文化をもっていても、〔文化への〕帰属を避けることがほとんどできない。批判者の空虚 な虚栄心は文化の空虚な虚栄心を助長する。慨嘆する身振りのうちに、彼は孤立無援、不偏不覚であるかのように、教条的に文化の理念を墨守する。そこで彼は 攻撃を先に延ばす。絶望と度外れの苦しみがあるところに、もつばら人類の意識状態や規範の類落といった精神的なものが告知されているというのである。しか し批判はそれに固執することによって、その精神的なものが人間に見放されていることを、いかに弱々しくであろうと望む代わりに、語り得ないもののことを忘 れたいという誘惑に陥るのである」(アドルノ「文化批判と社会」の有名な冒頭の部分、翻訳は渡辺祐邦・三原弟平訳『プリズメン』Pp.9-10, 1996による)。※OCRによる吸い上げなど問題があるかもしれない。原文にあたってチェックするように
リン ク
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