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第14章 コミュニティ参加の保健プロジェクト:実践の医療人類学(テキスト校注と精読のために)

池田光穂


池田光穂『実践の医療人類学—中央アメリカ・ヘルスケアシステ ムにおける医療の地政学的展開—』世界思想社、2001年(ISBN4-7907-0874-8)本体定価5,800円

目次
第I部 医療人類学と国際保健

第1章 医療人類学[→医療人類学入 門1997

第2章 健康の開発史[→「健康の開 発」史

第3章 世界医療システム[→世 界医療システム

第II部 医療体系論

第4章 制度的医療論

第5章 医療的多元論[→医療的多 元論 ][→医療的多元化の理論

第6章 医療の動態的過程[→伝統医療と近代医療の二元論を超えて

第III部 疾患の民族誌

第7章 村落保健[→あるメス ティソ農村社会の医療民族誌

第8章 民俗疾患概念

第9章 食 生 活

第10章 自己投薬[→自 己投薬行為

第IV部 疾患と健康

第11章 疾患の文化的解釈I[→下痢性疾患と社会

第12章 疾患の文化的解釈II

第13章 健康の概念[→ヘルス・プ ロモーションとヘルス・イデオロギー

第V部 コミュニティ参加と現代社会

第14章 コミュニティ参加の保健プロジェクト

第15章 「医療と文化」を再考する[→「医療と文化」再考

第16章 結  論

附録 コミュニティ参加の保健研修
あとがき
薬用・野生食用植物一覧
村落保健用語集
文献目録
附表 疾患と医療のモデル

池田光穂 著
定価6,090円(税込)
2001年発行
A5判/406頁
ISBN978-4-7907-0874-2

【帯】
低開発国に対する医療援助・協力の現場では、いったい何が起こってい るのか。本書は、村落保健に関するフィールドワークとグローバル化する国際保健研究を
総合した労作である。第一人者の案内で、臨床=応用人類学のフロンティアへ!



 第一四章 コミュニティ参加の保健プロジェクト

1  はじめに 近代社会のシステムが、世界のさまざまな伝統的社会に影響を与え、それらの社会のシステムそのものをも変えつつあることは、第二次大戦後つとに 強調されてきたことである。公衆衛生思想にもとづく医療政策は、現在ではほとんどの国家の政策理念として採用されており、それが社会に与え続けている影響 は大きい。にもかかわらず、この近代医療政策が住民の間で具体的にどのような形で遂行されているかについての報告は少ない。中央アメリカを旅すれば、日本 の国土よりひとまわり大きい四二万平方キロにある五つの国の政治、経済、文化的状況がきわめて多様であるのに対して、制度的医療を形成する近代医療の施行 形態はほとんど変わらないことに気づくはずである。近代医療の施行形態はどこも似たりよったりなのだが、それらの国が実際に抱える医療問題はきわめて多岐 にわたる。本章のテーマに即していえば、中央アメリカの国々ではコミュニティ参加の保健施策をとっているが、その施策が当該の社会のなかで経験すること は、その社会の実情に応じて多様に変化しているということだ。  この章ではコミュニティ参加型の保健プロジェクトに焦点を当てて、コミュニティと国家の医療施策の関係について考察する。冒頭では、国家という枠組から 近代医療を成り立たせている政治的文脈について概観し、次に私が調査した  ホンジュラスの村落と都市におけるコミュニティ参加型の保健プロジェクトについて検討し、その可能性や問題点を明らかにしていく。

2 中央アメリカ各国における保健プロジェクト 中央アメリカでは、政治的文脈が変わればコミュニティ参加の保健プロジェクトの意味づけもまた変わる。五カ国の過去四〇年間の政治と保健状況の変化を、国ごとに概観してみよう。 第14章 コミュニティ参加の保健プロジェクト第Ⅴ部 コミュニティ参加と現代社会 

2―1  グアテマラ グアテマラでは、西部高地を中心に、二一の言語グループから成る先住民族が多数派を占めている(制度的医療と先住民族の状況に関しては第四 章参照)。しかし、公衆衛生行政をはじめ政府の重要なポストは少数派である混血のメスティソ(ラディノ)が占めている。農村と都市との経済格差が著しく、 民族的な問題の絡まった政治的な抗争が絶えなかった。一九八〇年代前半は左翼ゲリラと軍部の戦闘によって、農村では多数の死傷者が出た。死亡統計に対する 事故死の比率が突出する時代が長く続いた。そのため、七〇年代後半から政府ならびに民間団体によって養成されてきた保健普及員の制度は、軍部からゲリラの 農民啓蒙工作と同一視された。村落の保健普及員のなかには、ゲリラないしは軍部から嫌疑をかけられ、それらのテロリズムの対象にされた者も少なくない。三 〇年以上にわたる軍政から民主政に移行したのは八六年になってからである。治安が安定に向かっていく九〇年代以降は、もともとNGOによる援助プロジェク トが多かった中西・中北部の先住民族(インディヘナ)居住地域を中心に、コミュニティ参加の医療が少しずつ再開されてきた。一九九三年には大統領自身によ る政変未遂があり、内政は混乱した。九六年の暮れに、ゲリラの連合体であるグアテマラ国民革命連合(URNG)と政府との間で和平合意条約が締結され、お よそ三六年間にわたって二〇万人以上の犠牲者  を出した内戦が終結した。先住民族の文化復興運動や内戦時代のさまざまな諸問題を歴史的記憶のなかにとどめておこうとするプロジェクト(歴史的記憶の回復 プロジェクト 2000)などが試みられているが、人権保護関係者の暗殺など社会的不安はいまだに絶えることがない(次章参照)。  一九九八年のGDP成長率は四・一%で、一人あたりのGDPは一七六〇ドル。GDPに対する全保健支出は一・一%。九七年の政府の全支出に対して国際協 力が占める割合は一二%である。政府の保健省(保健社会福祉省)によると、保健省の三二%、グアテマラ社会保険庁の二五%、私立医療機関の一〇%が、国民 の医療サービスの範囲をカバー(人口比)しているという。国民の医療費支出の割合は、保健省四〇%、社会保険庁三〇%、私立医療機関三一%となっている。 政府は九六年よりヘルスケア統合システム(Sistema Integral de Atencio〓n de Salud, SIAS)という保健計画を策定して、NGOの協力のもとにコミュニティレベルでの保健普及員のネットワークを構築しようとしている。これは米州開発銀行 による融資を受けた「保健サービスの近代化プログラム」といわれている(PAHO online 2000a)。  

2―2  エルサルバドル 六〇年間にわたり、軍部によるクーデタが繰り返しおこされてきた。民政に移行した一九八二年以降九〇年代に入るまでは実質的に内戦状態 にあった。そのため、国民五百万人のうち約一〇%にあたる人びとが米国に難民として流出し、さらに別の一〇%がゲリラのテロリズムや政府軍の反乱鎮圧作戦 つまりゲリラ掃討作戦などによって、国内において居住地を追われたと報告されている(Meyers 1989)。このようななかで、七六年から開始された国のコミュニティ参加の医療施策は、八〇年以降の政治的状況の悪化によって、実質的にはほとんど機能 してこなかったと見てよい。エルサルバドル保健省(保健福祉省)は一九七六年から、村落部において「村落保健補助員(auxiliares rurales de Salud)」の制度を開始した(Rubin 1983)。しかし、七九年から八四年の六年間でおよそ四万人の市民つまり非戦闘員が殺され、その後の八九年までの五年間で七万人が殺されている。和平へ の道のりは長く、政府とファラブンド・マルティ国民解放戦線  (FMLN)が最終的に停戦に合意したのは九二年の一月である。国民解放戦線はその後合法政党となった。  一九九七年の一人あたりのGDPは一〇一五ドル。九六年のGDPに対する保健支出は七・三%。同じ年の国民に対する第一次レベルでの保健サービスは、全 人口に対して六〇%が政府保健省、一五%が社会保険庁(ISSS)、五%が他の公的機関、七%が非営利機関、一三%が営利の私的機関によると発表されてい る。政府は九四年から五カ年計画で保健省内の機構改革を含む「近代化」に取り組み、九九年以降は地方分権(descentralizacio〓n)を含め た全国の施設内の統廃合に取り組んでいる。それには、国内外のさまざまな保健機関の統合と調整が含まれ、「近代化」のための調整機関(Comite〓 Integral para la Modernizacio〓n del Sector Salud, CIM)がつくられた(PAHO online 2000b)。これらは、米州開発銀行の融資や米国開発庁などの協力体制のもとで、経済の構造調整や地方分権を進める動きと連動している。  

2―3  ホンジュラス 冷戦構造のもとでのホンジュラスでは、長く親米政権が続いてきた。隣国ニカラグアではサンディニスタ社会主義政権(一九七九―九〇年)が 続いたため、自国領内にアメリカ合衆国が後押しする反ニカラグア政府ゲリラ「コントラ」の基地の存在を黙認していた。ニカラグアの反政府ゲリラ活動には民 族問題も絡んでいた。ニカラグア領内東北海岸部におけるミスキート族は伝統的にニカラグア政府への反発を繰り返しており、サンディニスタ政権末期には反政 府組織がニカラグアとホンジュラスの国境付近ならびにホンジュラス領内にあった。ゲリラたちは武器援助を含むアメリカ合衆国からの「人道的」援助を受けて いた(Pozas 1988)。そのような状況下で中米最大の米軍基地が形成され、パナマとならんでアメリカ合衆国による中央アメリカ政策の要となる国となっていった。それ ゆえ九〇年代初頭まで米国の中央アメリカ政策、とくに軍事的援助と相まって民生安定のための医療および食糧援助も継続的に行われてきた。一人あたりの GDPは七二二ドル(一九九五年)で、経済成長率は〇・五八%である。九〇年のニカラグアでの親米政権成立以降、アメリカ合衆国の中央アメリカ外交政策の 変更に伴って政治的状況が変化し、アメリカにとっての地政学的意義は急速に  消失していった。冷戦時二万五千人以上いた軍隊は徴兵制が廃止され七千人レベルにまで削減された。九四年にはさまざまな人権侵害に関わっていたといわれる 軍警察が解体され、九六年には治安警察軍が国家市民警察へと改編された。  九〇年代における第三次産業の比重の増大と農業の衰退は、都市への人口集中をもたらした。また、九九年には四〇億ドルにも膨らむことになる多重債務問題 とそれに伴う経済援助の打ち切りによって、国家財政は九〇年代中頃には一六~二五%も削減を余儀なくされた。一九九八年一〇月にハリケーン・ミッチが襲 い、都市部を中心に死者・行方不明者一万九千人(推定)、被災者が二百万人にものぼった。ホンジュラスもまた他の中央アメリカ諸国と同様、保健サービスの 「近代化」に取り組んでいるが、住民の極端な貧困状態、保健サービスへのアクセスの不足、保健財政の極度の不足という事態から免れていない。国民に対する 基本的な医療サービスは、全人口の七〇%を保健省が、二一%を社会保険庁が担っていると推定されている(PAHO online 2000c)。  

2―4  ニカラグア 一九八九年に革命一〇周年を迎えたニカラグアは、国内に大きな問題を抱えていた。反政府ゲリラによる破壊工作、アメリカ合衆国による経済封 鎖、国内の経済政策の行き詰まりなどによって、国民の経済活動は疲弊し数千%にわたる物価の上昇を経験していた。九〇年二月の大統領選挙では、革命後政権 を執ってきたサンディニスタ国民解放戦線が、国民野党連合に大敗し野に下った。サンディニスタ政権下では、文教政策において識字運動が、医療政策において ポリオ予防、マラリア対策、経口補水療法の普及などの大衆保健運動が、国家的な規模において行われた。その結果として識字率の上昇や乳幼児死亡率の改善な どがみられ、対外的にも評価されてきた(Garfield 1985)。しかしながら、長期にわたる経済条件の悪化のもとで、結核とマラリアの流行が全土でおこり、八九年初頭には下痢による幼児死亡率は前年度の二 倍に増加した(Vilas 1990)。大衆保健運動によって保健政策を推進していたサンディニスタ政権に比べて、アメリカ合衆国の援助に期待をかける新政権は大幅な保健予算の削減 を試み、民間主導の保健政策がはじまった。しかし九〇年代  には腐敗や政治的不安が続発し、九六年には構造調整策の受け入れによるインフレーションによって人びとの生活が打撃を受けた。これに追い打ちをかけたのが 九八年一〇月のハリケーン・ミッチによる被害で、死者・行方不明者あわせて一万人(推定)、被災者は九〇万人にのぼった。  ニカラグアでの医療サービスは、保健省、国防省の軍医スタッフ、内務省、および社会保険庁からなる公的セクターと、非営利ならびに営利の私的セクターに 二分されており、そのうち公的セクターは全人口の八九%をカバーしている。保健省が「近代化」改革に着手するのは遅く九八年以降である(PAHO online 2000d)。  

2―5  コスタリカ ニカラグアとパナマに挟まれたコスタリカは、政治的不安定さが指摘される中央アメリカのなかでもきわめて特異な位置にある。「中米のスイ ス」とよばれ、正規軍をもたず、一九四九年以降民主政治が続いている。五つの共和国のなかでも優等生的存在とみなされている国家である。コミュニティ参加 の保健プロジェクトについても、コスタリカは七二年当時から政府がプライマリヘルスケアを遂行する方針を打ち出し、公的にもその成功を表明していた (Halsted 1985)。しかしながら、八二年、コミュニティ参加の医療政策が政治的活動と化したという批判のもとで、保健省の担当部局そのものが廃止されたという経 緯がある(Morgan 1989 : 234)。コミュニティに力点がおかれた保健活動はその後再開したが、現在ではコスタリカ社会保障基金がその活動の基礎になっている。政府保健省による保 健施策に大きな意義が与えられていない理由は、地方分権が早くから進み、公的あるいは私的機関による医療制度が普及しているという点にある。社会保障基金 の加入者は、コスタリカの給与所得者の八四%以上で、加入家族分を含めれば、国民の九〇%以上がその受給資格者である。  コスタリカの一人あたりのGDPは二一五〇ドル(一九九五年)、当時の成長率は四・七%であった。コスタリカの公的医療は、保健省、大統領府、コスタリ カ社会保険基金、国民保険庁、上下水道庁、コスタリカ大学から成り立つ  (PAHO online 2000e)。

3  政治的環境と保健プロジェクト コミュニティ参加の保健プロジェクトは一種の大衆運動の形態をとらざるをえないために、既存の政治権力の影響を受けやすい し、また同時に政治的問題にも発展しやすい。概括的になるがそのことを要約すると、次のようになる。  まず、コミュニティ参加の保健プロジェクトは、政治的に不安定な文脈のなかでは政治的活動の先鋭的な形態と理解される。内戦状態にあるグアテマラやエル サルバドルでは、政府あるいは反政府勢力から政治的文脈のなかで再解釈され、保健省の活動員そのものがスパイや権力の手先という形で危険にさらされたり、 また実際に命を失うことにつながった。コミュニティ参加の保健プロジェクトは、もともと住民の自助努力によって健康の達成を図る方法に他ならないのに、そ れは常に中央政府という外部からもたらされるために、政治的介入のシンボルとされるのである。  他方サンディニスタ時代のニカラグアのように、コミュニティ参加という方法論が政治的に公認されており、またそれが全体主義的な文脈で国家目標になれ ば、識字率や乳幼児死亡の改善という草の根レベルでの保健施策が功を奏するとともに、それ自体がまたさらなる政治目標としてエスカレートする。これがニカ ラグアのようにコミュニティ参加が国家目標ではなく、コスタリカのような地方分権が定着していると思われるような地域社会において中央政治の道具になる と、その弊害によって方法論自体が危険視されるという事態を招くという不幸な結果になる。  しかしながら、ホンジュラスのように社会の政治的安定のもとでコミュニティ参加そのものが中立視され、多くの人たちに受け入れられるところでは、プロ ジェクトそのものが施行側にも受益者にもエスカレートしないために、さほど有益な効果を得ることができなかった。結局のところ、一九九一年にはじまる冷戦 構造の終結は、国内における内戦を終結させただけではなかった。保健政策における「近代化」とよばれる保健サービスの効率化や、経済における構造調整策  の受け入れを背景にする、民営化や地方分権を押し進めるためのコミュニティを基礎にした保健施策への変貌を招いたのであった。しかし、これは一九八〇年代 におけるプライマリヘルスケア運動の盛り上がりとは政治的意味合いが異なり、国家医療費の軽減と医療資源の効率的運用というネオリベラルな市場至上主義的 の動機にもとづくものである。  この失望すべき経験的事実は、この方法論を案出した医学者や社会科学者がもっていたと思われる社会観の変化を如実に反映している。すなわちコミュニティ 参加の保健プロジェクトは、社会的な紛争の少ない平和な文脈のなかで案出されたのであり、また冷戦終結後は従来の国家主導の福祉政策の代替策としてその中 身はまったく異なったものになったのである。

4  コミュニティ参加の現場 言うまでもないが、政府の保健施策は、コミュニティ参加に偏重したものではなく、むしろ生物医療的な近代医療施設の拡充にその力 点がある。近代医療施設の拡充には、各国からの政府開発援助(ODA)が大きな役割を果たしてきた。日本政府のホンジュラス共和国に対するかつての政府開 発援助は、他の中央アメリカ諸国へのそれに比べて突出しており、八〇年代を通して、我が国から、マラリア・デング熱の抑制計画への資材供与の他に、医療機 材供与や地域病院整備計画への援助が行われた。また村落に勤務する医師の多くも、地味なコミュニティ参加の医療よりも生物医療を中心とする近代医療に絶大 な信頼を寄せている。  中央および地域レベルでの保健行政における政策決定に関して発言権をもつのは、保健省の職員のなかでも都市出身の人びと、地方においては比較的裕福な階 級の出身者に限られている。多くの中央アメリカ諸国では、こういった都市のエリートが自己の属する階級の利益誘導のために国家政策を遂行する傾向があり、 ホンジュラスにおいてもそれは例外ではない(Ugalde 1980)。    にもかかかわらず、政策担当者は人口の七割近くを占める村落部に配慮しないわけにはいかない。そして、都市周辺の低所得住居地区保健省の職員たちは「周 縁地区(colonia marginal)」とよんだに代表される福祉サービスから疎遠な地区では、コミュニティ参加の方法論にもとづく保健政策が推進されていた。  ホンジュラス共和国の制度的医療の枠組のなかで、コミュニティ(=共同体)の住民を積極的に組み込む方針が決定されたのは、一九七〇年代の半ば以降であ る。当初は、住民をそのまま村落における医療の担い手として位置づけようとしていたのではなく、保健センターを中心とする医療システムに組み込み、保健省 が主導する保健活動を補助させるというものであった。保健省によると、一九七八年に全国で一一八五名の「健康の番人」ボランティアが一一万四千件あまりの 傷病のケースに対処した。また、同じ時期に登録された一九五八名の「訓練された出産介助者」は四万二千件あまりの出産に立ち会ったと報告されている。これ らは、保健省の公的な窓口(病院・保健センター)で処理された全部の傷病件数の約四・一%に相当する(MSP 1979 : 26, 132)。  八〇年代以降の保健医療プロジェクトでは、外部からコミュニティに人や物資が入ってくるようになってきた。村落における簡易水道や簡易便所の普及(環境 衛生)、あるいは乳幼児や妊産婦への予防接種の推進(母子保健)、下痢の乳幼児に対する経口補水塩の普及(特定の疾患対策)という、より具体的にコミュニ ティへ介入する戦術が登場してきたのである。これは、コミュニティの内部に窓口、言い換えれば橋頭堡になる住民を組織し、その協力によって、コミュニティ 全体の協調関係をつくりだす施策とみなすことができる。  コミュニティ参加のプロジェクトにとっての要員は、ほとんどの場合、無償で働くボランティアである。公的な文書や発言には、「彼らはコミュニティ住民に よって互選される」と表現されることがあるが、実際にはコミュニティの顔役や役員、協同組合、農民組合、主婦の会などの各種団体のメンバー、政治的党派な どのつながり、あるいは保健省職員との人的なつながりといったなかで〓意的に選ばれることが多かった。  このような人員が保健省職員らによって選ばれた後に、それぞれの目的に従ってクルソとよばれる養成研修(curso de capacitacio〓n)  が村落あるいは近隣の町で行われる。クルソ(curso)とは学校教育における講義や授業のコースのことをさすスペイン語で、特定の教育テーマに絞った研 修を意味する。さらに、クルソは、今まで述べた住民からのボランティア養成の他に、保健省のスタッフに対する内部教育のこともさす。すなわち、クルソは住 民に対してコミュニティ参加を促すため保健省職員が行う実践的な 方法であると同時に、コミュニティ参加の医療に従事する当の職員を訓練する、保健省が行う研修のことでもある。  一連の研修において、参加を表明した人びとの出席率は高い。また、研修での中途落伍者は少なく、研修そのものは円満に終了するのが常である。これは、ほ とんどの研修には旅費が支給されること、および終了時に「研修修了書」が与えられることが、その理由として考えられる。とくに後者の修了書は重要であり、 学位を表す言葉であるディプロマ(diploma)とよばれる。研修後それぞれの家に持って帰られ、小さな額に入れられ、家屋の居間に飾られてある修了書 をしばしば眼にすることができる。このことから、人びとの、学校教育以外に付加的な教育を受けることに対する大きな期待感がうかがえる。  また、研修は、遠隔地の同僚との再会や、未知の友人との出会いの場でもあり、研修に参加することそのものが「楽しみ」と化している。これらはディプロマ とともに、参加者の後の生活における記憶やアイデンティティの形成に寄与しているものと思われる。  保健省がコミュニティ参加の医療に関して行ったいくつかの研修のなかで私が参加したものについて、その概要を本書の巻末に資料として掲げた。取り上げた のは、保健省職員に対するものと、地域住民から選ばれた候補者をボランティアへ養成するものである。前者は、(一)保健省職員に対して行われた「現地での プログラミング」(Programacio〓n Local)とよばれる研修である。その目的は、全国レベルでの世帯ごとの人口調査と衛生状況のチェックを住民ボランティアを組織して行うことであり、そ の方法論や住民の組織化について保健省職員が研修を通して実習することにあった。住民のボランティア養成については、二つの異なる研修を取り上げた。すな わち、(二)都市周辺の低所得住居地区  で行われた住民に対する保健教育研修と、(三)村落で無料奉仕のボランティアとして働く保健普及員である「健康の番人」を養成した研修である。  研修という教育の現場においてコミュニティ参加の医療の理念やそれにもとづいた実践についての考え方が伝達されるという点で、研修は注目に価する。ま た、そこでの参加者の反応は、保健省の職員のそれを含めて、コミュニティ参加の医療における最初の人びとの反応とも位置づけられよう。総じて、研修の参加 者は「新しい勉強」の機会を享受しているように見えた。「勉強においてどんな新しいことを学んだか」あるいは「どれだけ勉強が進んだか」について、教師が 授業中に再確認する光景はホンジュラスの初等中等教育の現場でもしばしば眼にする。近代社会において、新しいことを学ぶことは進歩として肯定的に評価され る。研修もそれとほぼ同じような文脈で進行した。しかしながら、その感想を聞くと「有意義であった」「コミュニティ参加の重要性がわかった」という一般的 な感想がまず返ってくる。「コミュニティ参加の方法は、よきものであり推進させなければならない」という学習したばかりの紋切り型の答えを返す者もいた。  コミュニティ参加の医療についての研修が終わった後の人びとの反応は、一回のみのインタビューによっては十分には明らかにされなかった。人びとが保健省 の医療をどのように受け入れているのかということを、実際の行動や長期にわたる意見聴取から把握する必要がある。


5 受容と拒絶 研修会を開催した共同体において、コミュニティ参加の医療の実施には、いくつかの問題点がみられた。  まず最初に、コミュニティの概念が曖昧であり、保健省が提示するコミュニティの概念と、人びとが描くそれとの間にはギャップがあった。保健省によるコ ミュニティの概念は、「利益を共有する近隣の居住者たち」であると定義され  ている。しかし、人びとにとってコミュニティ(comunidad)という用語で理解されるイメージは多様で、ひとつに定まったものではない。コミュニ ティという用語は、むしろ村落開発など外来のプロジェクトが近年になって新たにもちこんだ概念であると言える。保健省の使うコミュニティという言葉から人 びとが連想するものはきわめて多様であった。家族や世帯としての共同体、兄弟を中心とする父系的連帯を協調する家族的な連合(familia)、近隣の人 びとの連合体(vecindario)、行政区としての郡(municipio)、教区(parroquia)や守護聖人を共有する人びと (patrocinado/-da)など、現実の「コミュニティ」をみてみると、それは多元的に構成されていることがわかる。  さらに、施策する側はコミュニティをひとつの首尾一貫した「集まり」と理解していた。コミュニティがいくつかのサブグループから形成されていることを保 健省関係者が十分に気づいていなかったのである。コミュニティ参加の医療を組織するために選ばれたボランティアが、コミュニティにおいて経済的あるいは政 治的に優位なサブグループの一員であり、それより劣位グループとの格差を拡大するようにプロジェクトが機能するという危険性は早くから指摘されている (Erasmus 1968)。  保健省は「コミュニティ参加」を公共的な概念でとらえ、それを市民(ciudadano)の義務ないしは社会正義を助長し実現させていく過程とみなして いる。しかし、コミュニティ参加の概念が導入された時、人びとはむしろコミュニティを「共同の利益を享受する集団」として解釈し直す。そして、コミュニ ティに住み、そこを活動の拠点にしている保健省職員も同様な見解をもち、プロジェクトが住民に対して何らかの利益をもたらすという含みをもって住民に働き かける。  その例をあげよう。一九八五年、ドローレスのある村において第二番目の簡易診療所が開設されようとしていた。コミュニティ参加の保健活動に長年従事して きた、専門看護者の資格をもち保健省の管理職についている女性は、その村(コミュニティ)を評して次のように述べている。その村の人びとは「非常に好意的 であり、よく協力している」と。それに対して、彼女は、ドローレス村の住民たちは「保健省の医療サービスに慣れきっており、もはや、そのような住民  の熱心な協力は望めない」と批判する。住民の非協力を人びとの「移り気(capricho)」に帰して、彼女は次のように説明する。「医療サービスがない 時、人びとは一致団結し、我々(=保健省職員)と協力して、それを求めようとする。しかし、いざサービスが普及すると、人びとはもう協力しようとしな い」、と。この場合の、人びとの「協力」とは具体的には次のようなことをさす。例えば、新しい簡易診療所の建設に際して資金や資材が不足した時、新任の看 護者に対して給与が出されない時、あるいは簡易診療所の開設や改築などに労働提供が必要な時。そのような時、コミュニティの全員が、自らで募金活動を行 う、あるいは、町役場や援助機関などに働きかけて、資金、資材、医薬品などを調達する。さらには、自発的な作業や労働の提供を申し出ることである。  このような簡易診療所開設にまつわる協力の組織化の背景に、住民に対して、開設後にコミュニティに利益がもたらされるだろうと説く保健省あるいは援助団 体の職員の姿を見ることは容易である。にもかかわらず、奉仕という投資に見合った利益こそを人びとが期待しているという可能性について、看護者をはじめ保 健省の職員は配慮することはなかった。共同体の人びとの協力は簡易診療所の開設直前にクライマックスを迎える。そして開設後には、協力「体制」というもの は急速に衰退していく。「利益を得ることができなくなった」コミュニティ参加のプロジェクトに関して、人びとが関心を急速に失っていくことは、保健医療政 策のみならず、農業、村落開発、児童福祉などの外部から働きかけたプロジェクトにおいてもおしなべてみられる。このような人びとの行動原理については、応 用人類学者たちが爾来さまざまな文化的説明をしてきた。  ラテンアメリカにおいて応用人類学的研究に長年従事してきたジョージ・フォスターは、それを農民の心性(cognitive orientation)から説明し、「限られた財(limited good)」という有名な仮説を提唱した(Foster 1965)。それは、農民が考える、資源、富、健康、名声などの概念には、拡大再生産の考え方が見あたらず、むしろ「限られた財」を減らさないように維持 していく理念があると指摘した。フォスターの主張によれば、その仮説を傍証するかのように、農民の民俗医学には衛生や予防の概念がないと言い、あたかも先 に投資をすれば後で利益を得られるような思考法がない  と言うのである。またリチャード・アダムスも、農民や先住民族はこのような考え方を本質的にもっているという同様の仮説にすがりつく。彼によれば、人びと の健康の概念は「再生不可能(non-regenerative)」だと考えられており、それはあたかも村の女性が長い髪を大切にして切らないごとくだと 言う(Adams 1955 : 446)。また南イタリアの村落の低開発性を支える住民のエートス(心性)について研究したバンフィールドは、それを「道徳意識の欠けた家族主義 (amoral familism)」と名づけ、このようなエートスが生成する要因として、村落の高い死亡率、土地所有制度、拡大家族の制度をもたないこと、という三つの 理由をあげた(Banfield 1958)。さらにエラスマスはラテンアメリカの開発プロジェクトに非協力的な住民の性格を描写して、「エンコヒード症候群(Encogido Syndrome)」スペイン語で「臆病」「萎縮」を意味するという病理的メタファーで評した(Erasmus 1968)。  このようなビジョンで農民社会をみると、人びとはそのような考え方を維持しているから、内部にある富や慣習を守ろうとして、外部からやってくるコミュ ニティ参加の保健プログラムのような新しい事業には排他的になる、ということが一見わかったような気になってしまう。実際、開発を妨げる文化的要因につい て研究が盛んであった一九六〇年代のアメリカ人類学では、それまでの文化とパーソナリティや幼児の社会化などの諸研究の蓄積があり、住民が新しい公衆衛生 プログラムなどを受けつけないのは、彼/彼女らの集団心理的な性格が問題であるからだという、現在からみればかなり奇妙な主張が大きな疑問をもたれること なく受容されてきた。  しかしながら歴史的に繰り返される農民反乱、中央政府に対する村落を中心とするゲリラ的反抗など、ある歴史的社会的状況のもとでは、別種の新しい思潮を 受け入れたり、新規事業をおこす企業家的農民も存在する。つまり、農民社会のあり方が、常にその社会に生きる人たちの観念によって縛り続けられているわけ でもないというのは自明である。例えば、エルサルバドルの農民反乱に見られるコミュニティの組織や運動論についての諸研究(Kincaid 1987)からは、社会のあり方をそこに属する人びとの心理的傾向で説明すること自体の問題性が明らかになる。  ホンジュラスでのケースに戻ろう。研修では人びとがコミュニティ参加について賛同の意を示すにもかかわらず、現  実の政策に対して掌を返したように無関心になる事実には、やはり人びとにとってそのような行動を正当化するに足るだけの意識的な理由があるからだと、仮定 しないわけにはいかない。人びとの行動に対して共同体の外側からの理由や説明ではなく、人びとが直接的にプロジェクトに異議を申し立てている内容に耳を傾 けてみよう。  例えば、たび重なる「社会調査」とそこで吹聴されるプロジェクトによるバラ色の設計図に「騙される」ことに、飽き飽きしていると人びとが表明することが ある。プロジェクトを計画立案する政府あるいは民間の援助団体はプロジェクト実施の前にいろいろな地域をめぐって、コミュニティの「診断」を行う。それを もとに、いくつかの計画が採用されるわけであるが、調査官などは、そのコミュニティに対してあたかもプロジェクトが行われるかのように人びとに吹聴する傾 向がある。しかし、実現に移されるのはそのうちの一部にすぎない。村落部では、このように外界に対して、とくに政府機関の人間に対する警戒心が、長期にわ たって防衛的に形成されてきた。例えば、政府の高官の言うことは口先だけで中味は「戯言(*pura paja")」ということを、村落、都市部を問わず住民の間でしばしば耳にすることがあった。  「中央政府への政治的不信」と、その当の中央政府が頻用する「社会的正当性を強調する言説」への不信は、オーヴァーラップしており、それらが相乗効果を なして外界からのプロジェクトへの否定感につながっていくと考えられる。このような、「中央政府」対「村落」という認知的な対立が、コミュニティ参加の医 療の現場では観察される。金持ちや官僚が主導する「政府」に対決する貧しい「人びと」という図式がそれである。そのようななかで、人びとは「施す側」から 引き出せる利益を最大にするために協力するような実践を培ってきたので、プライマリヘルスケアが提唱するような自助努力の理念が実現するチャンスはほんの わずかなのである。  

6 「コミュニティ参加型医療」批判 中央アメリカ・ホンジュラス共和国の保健施策における、プライマリヘルスケア戦略に則ったコミュニティ参加の医療というものを概観してみた。  コミュニティ参加の医療をめぐる議論を通して、我々はお互いに関連する次の三つの要点を指摘することができる。つまり、(一)認識論的限界、(二)建設的批判、(三)健康の政治性である。  

6―1  認識論的限界 コミュニティ参加の医療は、住民からの顕在的、潜在的な批判にさらされた。コミュニティ参加の医療に対する批判のひとつに、それは政策を 指向する側の概念の注入と実践の押しつけであり、住民の側がもつ概念や、それに対する行動における反応などは、十分には配慮されていない、というものがあ る。  ラテンアメリカで行われたいくつかの保健プログラムにおけるコミュニティ参加の実態を比較研究したウガルドは、コミュニティ参加のプロモーションのなか に二つの誤った前提があると論じている(Ugalde 1985)。そのひとつは、「貧困者(the poor)のもつ伝統的な価値観は発展や保健の改善に対して障害となっている」という偏見であり、他のひとつは、「貧困者たちは彼ら自身では自らを組織化 できない」という偏見である。それゆえ、コミュニティ参加のプロジェクトでは、共同体の外部から人材が投入され、「伝統的な価値観」を変更するようなイデ オロギー的な教化が試みられることは、今までみてきた通りである。  また、八〇年に右派クーデタによって、五年間続いたコミュニティ参加の医療プロジェクトが中断されたボリビアの事例において、クランドンはその体験をも とにプロジェクトの人類学的検討を行っている。それによると、「コミュニティ、  患者を上位の施設に送る参照システム、予防および土着医療」について、プロジェクトを計画する西洋医学のプランナーたちが抱く概念とボリビアの人たちが抱 く概念とは、ことごとく異なっている(Crandon 1983)。クランドンは、プロジェクトが現実の政治体制の変動によって中断されたのではなく、土着のイデオロギーによって、計画の内容そのものがクーデ タ以前にすでに無力化されていたことを、述懐している。  

6―2  建設的批判 コミュニティ参加の医療批判に対して、現在、二つの方策が提示されている。ひとつは、批判の俎上にある政治的過程を重要視せず、医療統計に 表れる「保健の指標」の改善を施策上の目標として、それに技術的に対処していくことである。これは「選択的プライマリヘルスケア」の立場である。他のひと つは、コミュニティ参加をイデオロギーの注入の場ではなく、イデオロギー生成の場であると規定し直し、保健の改革を政治的な改革と位置づけていく方法であ る。この後者の立場は「包括的プライマリヘルスケア」である(第二章参照)。  選択的プライマリヘルスケアにおける方策は、明らかに選択的プライマリヘルスケアが主張することと一致する。「人間の基本的要求」である保健の問題を政 治的抗争の場にしてはならず、生物医療とくに疫学領域における技術的な問題として十分に対処可能であると考えるのである。他方、包括的プライマリヘルスケ アの立場は、それとは反対に、医療の問題をより大きな政治的な問題の端緒であると考える。健康は、しばしば資本主義社会における生産関係のなかで位置づけ られたり、またその世界的規模での発展と低開発の帰結として理解されたりする。それゆえ政治経済的な諸制度の改革を通して、医療の問題は解決しうるのだと 主張する。このことは、コミュニティ参加の医療を政治的に批判する立場のみならず、政治的含みを抜きにした選択的プライマリヘルスケアを批判する包括的プ ライマリヘルスケアの論理のなかに通底している。包括的プライマリヘルスケアにおける批判を押し進めれば、人間の基本的要求という概念そのものも、開発す る側の西洋社会が押しつけてきた虚構であり、目標を立ててそれを満たすための道具として現在では  濫用されるまでにいたったということになる(イリッチ 1996)。  

6―3  健康の政治性 一九四八年の世界保健憲章以来の人類の至高の「達成目標」としての健康が、プライマリヘルスケアの理念において再確認されたことは、その 実践を通して結果的に「健康」の概念を強化し拡張する基盤を社会に与えた。その概念の拡張のうちで顕著なもののひとつは、健康の達成に政治経済的な介入が 必要であることを人びとに容認させたことであった。そして、それは同時に、ある政治経済的状況が人びとの健康の達成に障害となる可能性があることを私たち に知らしめた。

7  おわりに 〈政治経済的な改善が民生(public welfare)の安定、ひいては人びとの健康をもたらす〉という主張は、一九世紀のドイツ自由主義的ブルジョアジーの論客、細菌学者であり衛生学者で あったルドルフ・ウィルヒョウに代表される西欧の政治言説のひとつである。そこでは、健康が経済的な生活の向上の帰結として理解されている。この主張は、 リベラル・デモクラシーあるいはかつての社会主義の言説においてよく語られてきた。例えば、エルサルバドルのかつての反政府ゲリラの制圧地域においては、 衛生兵(sanitario/-ria)が、ゲリラ戦による傷病者を手当てするだけでなく、詰所を設けて地区住民の診察や出産の介助などを行っていた。そ こで構築された医療システムは、住民の自助努力や薬草などの代替的使用など、プライマリヘルスケアが掲げる具体的施策にきわめて類似している (Clements 1984)。しかし他方で、反動としばしばラベルされる政治体制や軍事的作戦行動においてもこの主張に沿って政策が推進されるのである。ベトナム戦争期に 米軍で考案された反乱鎮圧戦術では、住民を強制移住させて治安の安定した「戦略村」をつくり、共産ゲリラ  を封伐しようとしたが、そこでもコミュニティを基盤としたプライマリヘルスケアに類似した保健施策が試みられた。内戦期(一九八〇年代)のグアテマラで は、先住民族に対して、この種の「モデル村」への強制移住が行われた。ベトナムの経験から、アメリカ合衆国は、七〇年中期以降、それまでの反乱鎮圧戦術を 転換することになる。その結果、米国の敵であったサンディニスタ政権期のニカラグア政府に対して、政治、経済、心理的な揺さぶりをかけ、「草の根レベルで の総力戦」を企図した低水準紛争(low intencity conflict)が中央アメリカ地峡地帯全体に展開された。このなかで、医療は民生の安定のための重要な手段として位置づけられていた(狐崎 1990)。  中央アメリカにおける健康の達成について考える際に、革命後三〇年間のキューバやサンディニスタ政権期のニカラグアで実践された保健教育や医療政策のな かで、コミュニティ参加の医療というドクトリンが果たした役割を考えることは非常に重要である。ニカラグアでは、サンディニスタによる政権奪取の三年前に 遡る七六年、米国の国際開発庁の協力のもとに改革計画が試みられた。しかしながら、ソモサ政権の垂直的な官僚的支配と部局のセクショナリズムによって、そ の改革は頓挫したという(Donahue 1983)。しかし、サンディニスタ政権の前半では、コミュニティ参加による医療施策によって短期間の間に乳幼児死亡率が急速に改善された。プライマリヘ ルスケアにみられるようなコミュニティへの介入は、国家と国民の大多数が総動員される体制によって容易に実現されてしまうのである。そのような文脈のもと では、病気の起源は、経済的格差や資本家の陰謀とみなされ、大衆を教化したり、ひいては保健の指標の改善が国際政治におけるその国家の名声を確保すること にもつながっていったのである。実際にキューバでは、革命政権が人民の福祉のために保健政策の整備をはじめた。このことは同時に、軍医や衛生兵を含む義勇 軍の派兵など、革命政権の外交的プレゼンスの基盤としての医療制度や医学教育の拡充へと発展し、キューバが国際社会において押しも押されもせぬ医療と福祉 サービスの国家という名声を獲得することに貢献した(Feinsilver 1989)。  政治的な安定が住民の健康をもたらすという論理私はそれをウィルヒョウ・ドクトリンと名づけようは、健康を引き出すことが半ば自己目的化した先進福祉国 家においてもなお自明のものである。しかしながら、そのような  社会では、もはや政治経済的な安定と健康の因果関係は曖昧になっている。ここからネオリベラルな市場至上主義者になること、つまり健康を購入する「賢い消 費者」への道は目と鼻の先にある。人びとは、政治が安定しているから健康であるのか、それとも市民が健康であるから社会が健全であるのか、人類社会の苦い 経験を忘れてしまっている。社会の政治経済的安定が達成される、すなわち社会そのものの健全さと人びとの健康の間に隠喩的関係が記憶されているだけで、か つての健康の政治経済的起源ウィルヒョウ・ドクトリンは忘却されてしまった。コミュニティ参加の保健プロジェクトの短い歴史は、その歴史的再演なのであ る。

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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