「感覚経験の人類学」に関する理論的備忘
Theoretical Notes on the Anthropology of Sensory Experience
「感覚経験の人類学」に関する理論的備忘
ASC altered state
of consciousness |
変性意識状態とは、日常的な意識状態以外
の意識状態のこと。「1966にArnold M. Ludwigが提唱し、1969年発行のチャールズ・タート(Charles Tart)の著作
[2]を通じて一般に知られるようになった。Altered state of mindまたはaltered state of
awarenessともいう」 |
サウンドスケープ
(soundscape) |
1960年代終わりに、カナダの作曲家マ
リー・シェーファー(Raymond
Murray Schafer, 1933-
)によって提唱された概念で「音風景」、「音景」などと訳される。風景には音が欠かせないという考え方で、そこからサウンドスケープデザインが生まれた。 |
感情の理論(W. ジェイムズ) Theory of emotion, by William James |
ジェー
ムズは、カール・ラングとは独立に1880年代に提唱した「感情のジェームズ・ラング説」の2人の提唱者のうちの1人である。この説では、感情とは何らか
の刺激によって生じる生理学的状態を心で知覚することであるとされる。ジェームズがよく引用する例では、私たちは熊を見、それを恐れて走るのではなく、熊
を見て走る。その結果、私たちは熊を恐れる。アドレナリンの分泌量や心拍数の上昇など、心で知覚したものが感情である。 James is one of the two namesakes of the James–Lange theory of emotion, which he formulated independently of Carl Lange in the 1880s. The theory holds that emotion is the mind's perception of physiological conditions that result from some stimulus. In James's oft-cited example, it is not that we see a bear, fear it, and run; we see a bear and run; consequently, we fear the bear. Our mind's perception of the higher adrenaline level, heartbeat, etc. is the emotion. (The Principles of Psychology.) |
Media Studies,
Tronto University |
Institute of Communication, Culture,
Information and Technology. |
感覚経験の宗教学 |
感覚経験の宗教とは、感覚/感性のエスノ
グラ
フィーの記述を試み、そこから得られるデータを比較検証し、感覚経験の経験主義的理解を深める理論的貢献に挑戦する宗教研究の分野である。そのためには、
感覚のエスノグラフィーについての知識が有用である。感覚の宗教学の研究方法論は、文化人類学のフィール
ドワークによるエスノグラフィー資料の収集である。感覚にまつわる社会現象の収集のために、参与観察の他に、Gopher等をつかった動態的映像記録、ナ
ラティブ映像などを現場で再生して被調査者自身がメタコメンタリーをするなど、《感覚経験にまつわる内省》と《感覚経験の言語化》手法を動員することが主
眼になる。 |
民族音楽学 |
「音楽(music)とは、わたしたちが楽曲をすぐに想像するように、ある時間経過の中で進行す るメロディー、ハーモニー、リズム、そして音色の 要素から構成されます。 若年性の糖尿病により36歳で斃れるエリック・ドルフィーというサクソフォニストは、晩年のレコーディングアルバムのなかにある 「ミス・アン」という曲が終わった瞬間に、"When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again."(君が音楽を聴き、それが終わったとき、虚空の彼方に消えてしまう。君はそれを二度とつかむことは決してできない)という声を残しています。 このような「儚い」音響的特性を研究するのが民族音楽学(ethnomusicology)なのです。しかしながら、虚空の彼方に消えてしまう音楽をどのよ う にして研究することができるのでしょうか?その手がかりは、文化人類学の方法に あります。すなわち後者は、研究対象になる人びとの生活に訪問し、彼/女らと同じ食事を し、言語を学び、インタビューをおこない、観察し、彼/女らのおこなっていることを記録する一連の方法からなります。インタビューの会話もまた対話が終 わった時に虚空の彼方に消えてしまうでしょう。しかし記憶と記録は残るのではないでしょうか。音楽も民族ごとにさまざまな様式の音楽が存在します。音楽やひいては人びとの〈音的経 験〉もまた、記譜の形で記録し、また身体記憶として呼び戻す(=それを演奏や再演といいます)ことが可能なのです。民族音楽学は、このように音楽を紡 ぎ出す人びと(=民族)の〈音的経験〉を、楽器の発展や変化の歴史や、そして語りや行動を記述することを通して明らかにします。この記録された書物や録音 を「音楽経験のエスノグラフィー(ethnography of musical experience)」と呼ぶことができるでしょう。民族音楽学(音楽人類学)者は、このような音のエスノグラフィーを編む文化人類学者のことなのです。音楽を通して2つの学問は融合するといっても過言でありません」(原文は池田による)。 |
モーダリティ (modality) | モダリティ
(modality)とは、哲学では様相論理学の様相のこと。言語学では、言語表現のうちで「雨が降るかもしれない」というような可能性や蓋然性を表現する様相(モード)を有していることをさす。
言語学では、話している内容に対する話し手の判断や感じ方を表す言語表現のことをさす。「可能性が高い」「望ましい」「許される」などの意味を表す表現で
ある。英語の用法としては、"could"、"should"、"must "などの助動詞、"possibly"、"incuratively
"などの副詞、"conceivable"、"probable
"などの形容詞などが挙げられる。しかし、反事実、命題態度、証拠、習慣、ジェネリックなど、数え切れないほどの自然言語表現の意味に可能性や蓋然性など
が表現としてふくまれるので「モーダルな要素」がそこにあると考えるのである(→「クロスモーダル」「マルチモーダル」)。 ウィキペディアの事例をひいてみよう。「対事モダリティには、「かもしれない」や「だろう」に見られるような可能性や蓋然性などに関わる認識様態のモダリ ティ(epistemic modality)と、「なければならない」や「てもよい」に見られる義務や許可などに関わる義務モダリティ(deontic modality)がある。認識様態モダリティと義務モダリティは言語によっては同じ形式で表現されることもある。例えば英語ではmust(に違いない/ なければならない)やmay(かもしれない/てもよい)が両意味に用いられる。日本語「なければならない」も文脈によっては義務でなく必然性を表現する」 |
倫理的判断 |
ジャッ
ク・ラカンによると《倫理とは不可能な欲望の充足行為 Ethics is the act of satisfying impossible
desires》と言うことができるかもしれない。倫理が欲望に根ざすものであるとすると、倫理を探究するものは、その欲望が何であるかを、常に意識しな
ければ、その解明は難しいだろう。 |
感覚の市場調査・感覚マーケティング(sensory
marketing) |
Sensory branding
is a type of marketing that appeals to all the senses in relation to
the brand. Wikipedia |
芸術経験 |
芸術の定義は、すべての芸術は存在を作り出すこと、現実的でも非現実でも、作品を通して現存を生じせしめる問題に関わるのである(アリストテレス)。 |
場所をつくる( place making) |
Gupta and Ferguson, |
空間認識 |
Massey, 2005. For Space. |
実践コミュニティ |
実践共同体あるいは実践コミュニティ(community of
practice)とは、参与者(参加者)が、ある集団への具体的な参加を通
して知識と技巧の修得が可能になる場のことである。また、そのような参加者の社会的実践がくりひろげられる場も総称して、実践共同体あるいは実践コミュニ
ティ(community of
practice)という。人びとは実践共同体において、さまざまな役割を担い行為することで、実践共同体を維持することに
貢献する。その際の学習とは、知能や技能を個人が習得することではなく(→学習の古典的定
義)、実践共同体への参加を通して得られる役割の変化や過程そのものである。徒弟制にもとづく伝統的職場、近代社会制度としての職場や学校などでみられ
る、集団への参与を通 して知識と技巧の修得が可能になる社会的実践がくりひろげられる場を実践共同体あるいは実践コミュニティ(community
of practica)という。ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガー(1993)による用語。 |
都市環境(urban setting) |
世界のグローバル・シティのなかで、人々が経験していることは、その環
境に共通点があるために、同じような経験をしているのか?それとも、個々のグローバル・シティに(先行する)固有の歴史的・文化的環境に依存して変化や多
様性がみられるのか? |
倫理的問題 |
検討すべき倫理・道徳的側面ついての課題;1)調査の倫理、2)過去の
事象に対するモラル的関与、3)普遍的倫理と局所的倫理、4)倫理的相対性と歴史 |
感覚性(sensoriality) |
Sarh Pink (2015:3)に登場する概念. |
実体性・有形性(corporeality) |
実体としての存在様式や様態(corporeal existence)(Pink 2015:16) |
応用研究(allied research) |
「応用」とは、集団的でかつ学問的な実用的関わりをさす。したがって、応用学者は、団体や組織(エージェント)に属し、またその職業倫理も、組織と開発対象への2つの領域(セクター)に対応するものとなるだろう。 |
具体化・エンボディメント(embodiment) |
抽象的な観念や実体概念に対して、実際に形が与えられること |
現象学 |
現象学、
とりわけ哲学的現象学(philosophical
phenomenology)は、主観的に生き、経験される客観性と現実(より一般的な)についての哲学的研究である。外界についての仮定を避けながら、
意識の普遍的な特徴を調査しようとするものであり、対象者に 現れる現象を記述し、生きた経験の意味と意義を探求することを目的としている。
このアプローチは、様々な科学分野、特に社会科学、人文科学、心理学、認知科学における質的研究において多くの応用を見出しているが、健康科学、建築学、
ヒューマンコンピュータインタラクションなどの多様な分野においても応用されている。これらの分野における現象学の応用は、行動に焦点を当てるのではな
く、主観的経験をより深く理解することを目的としている。 |
存在論と認識論 |
・存在論(オントロジー,
ontology)とは、存在自体のこと、在るとはどういうことかについて研究する学問。通常、哲学の一分野とみなされている。スタンフォード哲学エンサ
イクロペディアの「存在論的コミットメント」には、存在論とは、語源が示すように、「存在すること」、「存在するもの」について研究する学問である。存在
論者は問う:
どのような実体や種類の実体が存在するのか?人や水たまりや陽子といった具体的な実体のほかに、集合や数といった抽象的な実体は存在するのか。また、それ
らをインスタンス[=審級つまり審問のレベルを階層]化する特定の実体のほかに(あるいは代わりに)、性質や普遍は存在するのか。このような疑問は、時代
を超えて哲学者たちを分断してきた、とある。 ・エピステモロジー(Epistemology; 古代ギリシア語のἐπιστήμη (ἐπισE17↩τήμη) '知識'、および-logyから)は、知識に関する哲学の一分野である。認識論者は、知識の性質、起源、範囲、認識論的正当化、信念の合理性、および様々 な関連する問題を研究する。現代の認識論における議論は、一般的に以下の4つの核となる分野に集約されている。 (1)真理や正当化など、知識の性質や信念が知識を構成するために必要な条件についての哲学的分析; (2)知覚、理性、記憶、証言など、知識や正当化される信念の潜在的な情報源 (3)正当化された信念はすべて、正当化された基礎となる信念から導かれなけれ ばならないのか、それとも正当化には首尾一貫した信念の集合だけが必要なのかなど、 知識の体系や正当化された信念の構造、 (4)哲学的懐疑論は、知識の可能性を問うものであり、懐疑論は私たちの通常の知識主張に脅威を与えるのか、懐疑的な議論に反論することは可能なのか、と いった関連する問題である。 これらの議論やその他の議論において、認識論は「人は何を知っているのか」、「人が何かを知っているというのはどういうことか」、「正当化された信念は何 によって正当化されるのか」、「人は自分が知っていることをどうやって知るのか」といった問いに答えることを目的としている |
学習・学ぶこと(learning) |
さまざまな社会的活動に参与することを通して学ばれる知識と技能の習得実践のことを、状況的学習(situated learning)と
いう。外部表象化された〈知識や技能〉を学習者の内部に取り込む(=命題的知識の習得)というメタ
ファー(例:数式が頭に入った。ろくろを上手に回すことを覚えた)で、語ったり理解したりすることのできない学習——これを古典的学習という——への批判
あるいは乗り越えるために、人工知能研究者であるジー ン・レイブと人類学者エチエンヌ・ウェンガーの同名の書籍, "Situated
Learning"(1991)において主張された言葉である。これはウィリアム・ハンクス(による序文)が的確に示すように、学習の構
造が何であるかという考え方に対する根本的な革新に他ならない。「学習を命題的知識の獲得と定義する(→「古典的学習」)のではなく、レイブとウェンガー
は学習を特定のタイプの社会的共同的参加という状況の中におく。学習に
どのような認知過程と概念的構造が含まれるかを問うかわりに、彼らはどのような社会的関わり合いが学習の生起する適切な文脈を提供するのかを問う」(ハン
クス 1993:7) |
記憶(memory) |
感覚的記憶(sensory memory/memories):記憶と
は、データや情報が符号化され、保存され、必要に応じて取り出さ
れる心の機能である。それは、将来の行動に影響を与える目的で、時間をかけて情報を保持することである。過去の出来事を記憶できなければ、言語、人間関
係、あるいは個人のアイデンティティを発達させることは不可能である。[2] 記憶喪失は通常、物忘れや健忘症として説明される。 |
エスノグラフィーの場所(ethnographic place) |
エスノグラフィーの場所(ethnographic place)(Pink 2015:48) |
予測不可能な世界(unpredictable world) |
予測不可能な世界が存在するので、エスノグラファーはフィールドにでか けて実証的な調査に従事する。 |
方法論 |
1)その方法論は君が知りたい情報/活動したい場に、ふさわしい場所
か、また、その方法論は君のやりたいことに有益に貢献するのか? 2)調査において使用するメディアは適切か? |
主観性と客観性 |
主観性と客観性:ある主張が、ある感覚を持つ存在の視点から考えたときにのみ真である場合、それは主観的に真である。 心とは無関係に確認できるものは客観的である。ある主張が、感覚を持つ存在の視点以外で考えても真実である場合、それは客観的に真実であるとされる。 |
間主観性 |
心
とは無関係に確認できるものは客観的である。ある主張が、感覚を持つ存在の視点以外で考えても真実である場合、それは客観的に真実であるとされる。科学
的客観性とは、偏見や偏見、外部からの影響を意図的に減らしながら科学を実践することである。道徳的客観性とは、道徳的または倫理的規範が、異なる対立す
る視点ではなく、一連の普遍的な事実または普遍的な視点を通じて互いに比較されるという概念である。えば、客観性は幻想であり、全く存在しないという特定
の思想家の見解や、主観性と客観性の間にグレーゾーンを含むスペクトルが存在するという見解、ある
いは20世紀以降に発展した間主観性の概念を通して他の心の問題を見るのが最善であるという見解などである。主観性と客観性の語源は、主観と客観であり、
それぞれ観察者と観察されるものを意味する哲学用語である。 |
インタビュー |
(Pink 2015:73) |
メディア |
メ
ディアはメッセージである(マーシャル・マクルーハン)。「ある所与の文化において、有意味なデータをアドレス指定して送り、記録保存し、処理す
ることを可能ならしめる諸技術と諸制度のネットワーク」キットラーのメディアの定義『書き取りシステム1800・1900』邦訳書解説(p.769) |
誘発(elicitation) |
(Pink 2015:88) |
「そこにいた」経験('being there'
experience) |
(Pink 2015:100) |
感覚的弟子としてのエスノグラファー |
(Pink 2015:103).エスノグラファーの経験の組織化 |
メディアを媒介にする(mediated) |
(Pink 2015:117).感覚経験のテキスト化
(textualization of sensory
expericence)が可能になるから、感覚経験のエスノグラフィーは言語的なマテリアルとして成果物として世に問うことができるが、それは、文字
データのみならず、人びとの五感に働きかけるメディアを使って表現可能である。現地の料理や食事体験、栄養問題などを、「こちら側(being
here)」の人と共有するためには、現地食のレシピの公開のみならず、実際に現地食を作ってみて、感覚経験のテキストであるエスノグラフィーとあわせ
て、試食会や試飲会をすることで、経験を多層化することができる。 |
多元感覚研究(multusensory research) |
(Pink 2015:141). |
感覚的テキスト(sensory text) |
(Pink 2015:144).
感覚経験のテキスト化(textualization of sensory
expericence)が可能になるから、感覚経験のエスノグラフィーは言語的なマテリアルとして成果物として世に問うことができる。 |
センススケープ (sensescape) | センススケープは、環境のなかでの行為者の感覚経験のことをさす。
Constance Classen and David Howes, "The
Museum as Sensescape: Western Sensibilities and Indigenous Artifacts"
を参照。 |
『判断力批判』 |
『判断力批判』はカントの三批判の最後の著作。判断力批判は第一部の美
的判断批判と、第二部の目的論的判断批判の2部に分かれる。 |
芸術人類学 |
芸術とは「作品や活動を通して、その存在意義や問題
(課題)をもたらすもの全てのこと」を言う(池田光穂)。したがって芸術はコミュニケーションのひとつである(「美的コミュニケーション」)。それゆえ、芸術を研究対象にする
人類学的研究を、芸術人類学という。 |
ヤン・ムカジョ
フスキー |
ヤン・ムカジェフスキー(1891年11月11日 -
1975年2月8日)は、チェコの文学者、言語学者、美学者である。『チェコ構造美学論集 : 美的機能の芸術社会学』(→ヤン・ムカジョフスキーと美的機能) |
ナディア・セレメタキス(C. Nadia Seremetakis) |
当
該論文は、コルポルタージュ(書籍の販売や行商)というメタファーを使って感覚とナラティブの経験が移動するという主張なので、セレメタキスは、ノスタル
ジーでもリアリズムではないと言っている(7ページの右のカラム、下から第二パラグラフ)。セレメタキスのコルポルタージュの概念はちょっと特異的な使い
方をしている。 C. Nadia Seremetakis. THE MEMORY OF THE SENSES:HISTORICAL PERCEPTION, CCMMENSAL EXCHANGE. Visual Anthropology Review. 9(2):2-19. 1993 |
創造的情動(émotion créatrice,
creative emotion) |
「創造的情動とは、知性における直観の発生である。人間が開かれた創造
的な全体性に到達す
るのは、したがって、観照することによってではなく、むしろ行動すること、創造することに
よってである。哲学そのものには、なお多くの観照が前提されている。〔哲学においては〕あたか
も知性はすでに情動に、したがって直観に浸食されていたかのようにすべてはなされるが、こ
の情動に即して創造をするには充分ではない。それゆえ、哲学者よりもより遠くへ向かう偉大
なる魂は、芸術家の魂や神秘家の魂なのである(少なくともベルクソンは、キリスト教の神秘
主義的信仰を、溢れかえる活動性そのもの、行為や創造として描いている)。極限的には、神
秘家こそがあらゆる創造を利用し、それが動的なものであればあるほど適切なその表現を発明
するのである。開かれた有限の神(それがエラン・ヴィタールの特徴である)に仕える神秘的
な魂は、全宇宙を能動的に活用し、そのなかにはみるべきものも観照すべきものも何もない全
体の開けを再生産する。すでに情動につき動かされている哲学者は、経験のなかで与えられた
混合物を分かちあう線を解き放った。そして哲学者は、「転回点」の向こう側にまでその痕跡
を延長させ、そのはるか遠くに、すべての線が再び出会う潜在的な点を指示していたので
あたかも、哲学的直観のなかで未規定のままにとどまっていたものが、神秘的直観のなかであ
らたな種類の規定をうけとるかのようであるー~あたかも、本来の意味で哲学的な「蓋然性」
が、神秘的な確実性へと延長されたかのようである。おそらく哲学者は、神秘的な魂を外部か
らしか、蓋然性という自らの線の観点からしか考察することができない。しかしまさしく、神
秘主義の存在そのものが、この最終的な確実性への変質に対して高次の蓋然性を与えるのであ
り、方法のあらゆる様相に対する外皮や極限のようなものを与えるのである」(ドゥルーズ『ベルクソニズム』2017:127-128)。 Elle [émotion créatrice] est la genèse de l'intuition dans l'intelligence. Si l'homme accède à la totalité créatrice ouverte, c'est donc en agissant, en créant plutôt qu'en contemplant. Dans la philosophie même, il y a encore trop de contemplation supposée: tout se passe comme si l'intelligence était déjà pénétrée d'émotion, donc d'intuition, mais non pas suffisamment pour créer conformément à cette émotion (1). Aussi les grandes âmes, plus loin que les philosophes, sont celles des artistes et des mystiques (du moins d'une mystique chrétienne que Bergson décrit comme étant tout entière activité surabondante, action, création) (2). A la limite, c'est le mystique qui joue de toute la création, qui en invente une expression d'autant plus adéquate qu'elle est dynamique. Servante d'un Dieu ouvert et fini (tels sont les caractères de l'Élan vital), l'âme mystique joue activement tout l'univers, et reproduit l'ouverture d'un Tout dans lequel il n'y a rien à voir ou à contempler. Déjà animé par l'émotion, le philosophe dégageait des lignes qui se partageaient les mixtes donnés dans l'expérience; et il en prolongeait le tracé jusqu'au-delà du « tournant », il indiquait dans le lointain le point virtuel où toutes se rencontraient. Tout se passe comme si ce qui restait ndéterminé dans l'intuition philosophique recevait une détermination d'un nouveau genre, dans l'intuition mystique - comme si la « probabilité » proprement philosophique se prolongeait en certitude mystique. Sans doute le philosophe ne peut-il considérer l'âme mystique que du dehors, et du point de vue de ses lignes de probabilité (1). Mais précisément, l'existence même du mysticisme donne une probabilité supérieure à cette transmutation finale en certitude, et comme une enveloppe ou une limite à tous les aspects de la méthode. (pp.118-119) |
身体化された認知(Embodied cognition) |
身体化された認知(認識)とは、認知が生物の身体の状態や能力によって
どのように形成されるかを調査する、多様な理論のグループを指す。身体化された要因
には、運動系、知覚系、環境との身体的な相互作用(状況依存性)、生物の脳と身体の機能構造を形成する世界についての想定などが含まれる。身体化された認
知は、これらの要素が、知覚バイアス、記憶想起、理解、高度な精神構造(意味の帰属やカテゴリーなど)、およびさまざまな認知タスク(推論や判断)のパ
フォーマンスなど、幅広い認知機能に不可欠であることを示唆している。
身体化された心理論は、認知主義、計算論、デカルト主義的二元論などの他の理論に異議を唱えている。[1][2]
拡張された心理論、状況的認知、非活性化説と密接に関連している。現代版は、心理学、言語学、認知科学、力学系、人工知能、ロボット工学、動物認知、植物
認知、神経生物学の最新の研究から得られた理解に基づいている。 |
リ ンク
文 献
そ の他の情報
CC
Copyleft,
CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099