はじめによんでください

ヤン・ムカジョフスキーと美的機能

Jan Mukařovský and his aesthetic function


池田光穂

Jan Mukařovský (11 November 1891 – 8 February 1975) was a Czech literary, linguistic, and aesthetic theorist.

Mukařovský was professor at the Charles University of Prague. He is well known for his association with early structuralism as well as with the Prague Linguistic Circle, and for his development of the ideas of Russian formalism. Among other achievements, he applied ideas from Geneva linguist and semiotician Ferdinand de Saussure to the analysis of literary and artistic expression, systematically applying and extending the concept of linguistic function to literary works and their reception in different periods. Mukařovský had a profound influence on structuralist theory of literature, comparable to that of Roman Jakobson.
ヤン・ムカジョフスキー(1891年11月11日 - 1975年2月8日)は、チェコの文学者、言語学者、美学者である。

プラハ・カレル大学の教授であった。初期の構造主義やプラハ言語学サークルと関わり、ロシア形式主義の思想を発展させたことで知られる。また、ジュネーブ の言語学者・記号学者フェルディナン・ド・ソシュールの思想を文学・芸術表現の分析に応用し、言語機能の概念を文学作品とその受容に体系的に適用・拡張す るなどの業績がある。ムカジョフスキーは、ローマン・ヤコブソンに匹敵する文学の構造主義理論に大きな影響を与えた。
Mukařovský studied linguistics and aesthetics at the Charles University in Prague and graduated in 1915. In 1922 he received his doctoral degree. Until 1925, he taught in Pilsen, then at a grammar school in Prague. In 1926 he was among the founders of the Prague Linguistic Circle, along with his close friend Roman Jakobson. In 1929, Mukařovský received his habilitation with the Máchův Máj. Estetická study, a work examining the romantic Czech poet Karel Hynek Mácha in the field of literary aesthetics.

In 1934, Mukařovský was appointed professor at the University of Bratislava in Slovakia. In 1938 he was appointed associate professor of aesthetics at the Charles University in Prague, which, however – like all other Czech universities – was closed by the occupying Nazis in November 1939. From 1941 to 1947 Mukařovský worked as an editor. After World War II, Mukařovský was favorable towards communism, and in 1948, the year of the communist coup d'état, Mukařovský became full professor at the reopened university in Prague. In the same year he was also elected Rector, a post he held until 1953. Due to increasing Stalinist pressure, Mukařovský recanted his prewar semiotic structuralism. In 1951 Mukařovský was appointed the director of the Institute for Czech Literature of the Czechoslovak Academy of Sciences, and remained in that position until 1962.
ムカジョフスキーは、プラハのカレル大学で言語学と美学を学び、 1915年に卒業した。1922年には博士号を取得した。1925年までピルゼンで教鞭をとり、その後プラハの文法学校で教壇に立つ。1926年には、親 友のローマン・ヤコブソンとともに、プラハ言語学会の創設者の一人となる。1929年、ムカジョフスキーは、Máchův Máj.のハビリテーションを受けた。これは、チェコのロマン派詩人カレル・ヒネク・マーチャを文学的美学の観点から考察した研究である。

1934年、スロバキアのブラチスラバ大学教授に就任した。1938年、プラハのカレル大学の美学准教授に任命されたが、他のチェコの大学同様、1939 年11月に占領下のナチスによって閉鎖された。1941年から1947年までは、編集者として活躍した。第二次世界大戦後、ムカジョフスキーは共産主義に 好意的で、1948年、共産党のクーデターが起きた年に、再開されたプラハの大学で正教授となった。同年、学長にも選出され、1953年まで在任した。ス ターリンの圧力が強まり、ムカジョフスキーは戦前の意味論的構造主義を撤回した。1951年、チェコスロバキア科学アカデミーのチェコ文学研究所の所長に 就任し、1962年までその職を務めた。
Mukařovský's significance is not limited to his membership in the Prague Linguistic Circle. His ideas extended beyond the realm of linguistics into the fields of poetics and aesthetics. However, reception of his theories in the West remains limited, due in part to linguistic barriers.

Mukařovský proposed to understand the literary work as a complex form. He distinguished four basic functions of language: the representative, expressive, appellative and the "aesthetic" function (Mukařovský 1938). Karl Bühler had introduced the first three functions in the "Theory of Language" (Bühler 1934) and Mukařovský added the fourth. Emphasis on the aesthetic is also reflected in his fundamental essays on the question: What is art? In "Art as Semiotic Fact," Mukařovský emphasized two characteristics of the artwork: The autonomic function and the communicative function.

Prior to World War II, Mukařovský, along with Jakobson, was close to members of the Czech avant-garde, interesting himself particularly in the Devětsil group and the Prague surrealist group.
ムカジョフスキーは、プラハ言語学派の会員であったことだけが重要なの ではない。彼の思想は言語学の領域を超えて、詩学や美学の分野にも及んでいる。しかし、西洋では言語の壁もあり、彼の理論の受容はいまだ限定的である。

ムカジョフスキーは、文学作品を複雑な形式として理解することを提案した。彼は、言 語の基本的な機能を、代表的機能、表現的機能、呼称的機能、そして「美的」機能の4つに区別した(Mukařovský 1938)。 最初の3つの機能は、カール・ビュラーが『言語論』(ビュラー1934年)で紹介していたが、ムカジョフスキーはその4つ目の機能を追加した。美学的なも のの重視は、この問題についての彼の基本的なエッセイ「芸術とは何か?」にも反映されている。ムカジョフスキーは、「記号論的事実としての芸術」におい て、芸術作品の二つの特性を強調した。「自律的機能」と「伝達的機能」で ある。

第二次世界大戦前、ムカジョフスキーはヤコブソンとともにチェコ前衛芸術のメンバーと親交を持ち、特にデヴィエチル・グループやプラハのシュールレアリス ト・グループに関心を寄せていた。
Dějiny české literatury (1959–1961), history of Czech literature, chief editor, three volumes
Studien zur strukturalistischen Ästhetik und Poetik (1974)
On Poetic Language (1976), translated by John Burbank and Peter Steiner
The Word and Verbal Art: Selected Essays (1977), translated and edited by John Burbank and Peter Steiner
Kapitel aus der Ästhetik (1978)
Structure Sign and Function: Selected Essays (1978), translated and edited by John Burbank and Peter Steiner
Aesthetic Function, Norm and Value as Social Facts (1970), Mark E. Suino translator

https://bit.ly/3wwk7Mr.
https://www.deepl.com/ja/translator.
美 的機能は個々人の生活と社会の生活の中で、重要な位置を占めている

芸術と直接接触し ている一群の人たちは、もちろん極めて限られている——ひとつには芸術的才能が相対的に稀で あるか、あるいは少くとも芸術的才能が時として芸術の特定の領域に限られているためであり、 もう一っには人間の社会的階層の垣根のためである(ある種の社会層にとっては、芸術作品と 接したり美的教育を受けたりする可能性が限られている)。

だが芸術はその作用の結果、芸術 と直接の関係を持たない人間をもとらえる(例えば言語体系の発展に対する詩の作用)。その ほか美的機能は、芸術自体よりも遥かに大きな作用領域を持っている。任意の対象と任意の事 象(自然の事象であろうとあるいは人間によってひき起された事象であろうと)が美的機能の にない手になりうる。この主張は汎唯美主義を意味しない

というのは、(1)それは美的機 能の一般的可能性をのべているにすぎず、美的機能の必要性をのべているわけではない。(2) 美的機能の全領域にとって、所与の諸現象において美的機能が他の諸機能の中で、指導的な地位 を占めることを、研究もせずに決定するわけではない。(3)それは美的機能を他の諸機能と混 同することでもなく、また他の諸機能を美的機能の単なる変種と理解することでもない。

われわ れはそれによって、美的領域と非美的領域の間に明確な境界は存在しないという意見を公言す るにすぎない。その本質からいって、あるいはその構成において美的機能のにない手への、時 や場所や判断者を無視するような対象や行為は存在しない。また現実に適応するために、美的 機能の領域へ入りこめないような対象や行為が他に存在するわけでもない。一見そのような主 張は、誇張と見えるかもしれない。人はそれに反対して、見たところ美的機能など全くありえ ないような事柄や行為の例(例えば呼吸のような生理上の二三の基本行為、あるいは非常に抽 象的な思考過程)を挙げるかもしれない。また逆にその構造全体に基いて、前もって美的作用 が予定されている諸現象、例えば芸術の諸作品のような例を挙げるかもしれない。

現代芸術は 自然主義以来、テーマを選ぶに当って現実のいかなる領域をも除外せず、立体派とそれに類似 の方向からは他の芸術においては、テーマと素材を選ぶ際にいかなる制限も課そうとしなくな っており、その現代芸術とさらに、美的領域の幅に大変重きを置いている同時代の美学(ギュ イヨー、デッソワーとその学派など)が、伝統的な見解によれば美としての効果が認められな いものでも、美的事実になりうるということに対し、十分に証明を与えた。例としてわたしは ギュイヨーの言葉を引用しよう。「深く呼吸するとか、血が空気に触れて浄化されるのを感ず るのは美的価値を否認することの難しい、全くうっとりさせるような体験ではないだろうか?」 (『現代美学の諸問題』)。あるいはデッソワーの文を引用しよう。「われわれが機械とか、数学の問 題の解法とか、ある特定の社会的グループの秩序とかを美しい物と形容するとすれば、それは 単なる表現形式以上である」(『美学および一般芸術学』シュトゥットガルト、1906年)。

一方逆 の例を挙げることもできる。すなわち、美的機能の公認のにない手である芸術作品が、その 機能を失うこともあり、また余計なものとして抹殺される(例えば、古いフレスコやスグラ フィットを新しい上塗りやモルタルで塗りつぶす)とか、あるいはその美的な使命を考慮せず に使用される(例えば、古い宮殿を兵舎に変えるなど)という例を挙げることができる。

しかし しながら——芸術には、また芸術をはずれたところにも——その構成から言って美的作用を目 標としているものがある。それが結局芸術の本質的標識である。しかし美的機能への積極的な 適応は、たとい事物が意図的に美的機能を目ざしている場合でも、事物の実際の性質ではなく、 それは一定の事情の下で、すなわち一定の社会的コンテキストでしか現われないものである。

 すなわち、ある時代あるいはある国などで美的機能の公認のにない手で あった現象が、別の時 あるいは別の国などではこの機能に不適格であるということもありうる。芸術の歴史において は、ある作品の本来の美的な、いやそれどころか芸術的な効力が、学問的な研究を通じて初め て、新しく発見されたという立証も欠けてはいない(例えば、N.S ・トルベッコイ、『文学的記念碑 としてのアファナシー・ニキチンの旅行記』ヴョルスティ、一九二六年号、パリ、あるいはR.ヤゴディッ チ、『古代ロシアの生活の様式』第二回国際スラヴ学会議報告集、リルシャワ、一九三四年、を参照せよ」(ムカジョフスキー 1975:110-112)
・芸術の作用は拡大する
・「芸術はその作用の結果、芸術 と直接の関係を持たない人間をもとらえる(例えば言語体系の発展に対する詩の作用)。その ほか美的機能は、芸術自体よりも遥かに大きな作用領域を持っている。任意の対象と任意の事 象(自然の事象であろうとあるいは人間によってひき起された事象であろうと)が美的機能の にない手になりうる。この主張は汎唯美主義を意味しない

・美的機能の相対性・歴史性
・「ある時代あるいはある国などで美的機能の公認のにない手で あった現象が、別の時 あるいは別の国などではこの機能に不適格であるということもありうる。芸術の歴史において は、ある作品の本来の美的な、いやそれどころか芸術的な効力が、学問的な研究を通じて初め て、新しく発見されたという立証も欠けてはいない
そ れゆえ美的領域の境界は、現実そのものによって与えられてはおらず、きわめて流動的で ある。このことはとりわけ諸現象を主観的に評価する立場から見ると、甚だ明瞭になる

われ われは誰でも自分の周囲に、すべてのものが美的機能を持つと考えている人間を知っているし、 その逆に美的機能を最少限にしか認めない人間をも知っている。それどころか美的領域と非美 的領域の間の限界が美的受容能力の程度にかかっておりわれわれの誰にとっても、年令や健 康状態の変化につれて、さらにまたその時の気分によってさえ、その限界が変化することを、 個人的体験から知っている。

しかしわれわれが個人の観点のかわりに、社会的コンテキストの 観点を仮定するとなると、直ちに、あらゆる一時的なニュアンスを越えて、事物と行為の世界 の中に、美的機能が驚くほど強固に分布していることがわかる。

美的機能の領域と非美的諸現 象との間の境界線は、もちろんその場合でも、必ずしも明確ではないであろう。というのは、 美的機能の関係する程度にはたくさんの段階の差があるからである。そしてほんの僅かの美的 残滓すら絶対的に欠けていることを、完全な確実性をもって確認できることは稀である。一方——種々の徴候によって——例えば居住とか着物を 着るとかいう行為その他に美的機能がどれ だけの関係を持っているかということは、客観的に確認できるであろう」(ムカジョフスキー 1975:112-113) 。
・美的領域の境界は流動的である
・美的機能の評価は相対的である
「しかしながら、時間的にであろうと空間的にであろうと、あるいは一っ の社会構造から他の 社会構造(例えば階層から階層へ、世代から世代へなど)へ視点を移すというだけでも、われ われは直ちに、そのために美的機能の配置とその領域の境界も変化することに気づく。例えば 食事の美的機能はフランスでは、わが国におけるよりもはるかにきわ立っている。衣服の美的 機能は、わが国の都市環境では、男性におけるより女性の方が強いが、しかし民族衣裳を着る 環境の場合は、この区別はしばしば当てはまらない。特定の社会的コンテキストに妥当する典 型的な諸状況の中での衣裳の美的機能は、さまざまである。そこで仕事着の美的機能は、晴れ着 の美的機能よりはるかに弱くなっている。時間の推移の問題について言えば、今日と異り、一 八世紀(ロココの時代)の頃にはまだ、男性の衣裳も女性の衣裳と同様に強い美的機能を持っ ていたと言う例をあげることができる。世界大戦後の時代には、衣裳と住居の美的機能は、は るかに広い社会的な広がりを獲得し、戦争前の時代よりも多くの数の諸状況が刻印された」(ムカジョフスキー 1975:113-114)。

美的領域と非美的領域との間に境界線を引くに当っては、厳密に分離さ れ相互に独立してい る領域が問題になっているのではないということを、常に念頭に置いていなければならない。 その領域は相互に、弁証法的アンチノミーと特徴づけることのできる常に力動的な関係の中に ある。美的機能がどれ程広く(あるいは狭く)現実全体の上に分布しているか、その限界は比 較的はっきりしているかそれとも流動的であるか、美的機能は社会的コンテキストの構成層全 体に一様にあらわれているか、それとも主としていくつかの層と環境にしか現われないかとい う設問をすることなしに、美的機能の状態やその展開を研究することはできない。これらすベ てはもちろん、特定の時期と特定の社会的総体に関して言えることである。別の言い方をすれ ば、美的機能の状態とその展開にとっては、それがどこに、そしてどのように現われるかとい うことの確認が特徴的であるだけでなく、どの程度に、またどのような状況の下に美的機能が 存在しているか、あるいは少くとも弱まった形で現われるかということの研究もまた特徴的である」(ムカジョフスキー 1975:114-115)。
・美的機能と非美的機能の境界線は引きにくい。
「今度は美的領域そのものの内的組織に目を向けよう。われわれはすで に、それがさまざまに 多様化していることを示唆した。それは、一方では種々の現象における美的機能の強度によっ て、他方ではその当該の社会的総体の個々の形態に目を向けた場合のこの機能の位置づけによ っている。しかしながら、美的なものの多面的領城全体を二つの主要部分に分けるある種の分 割線があり、他の諸機能に比べてどれだけ美的機能が含まれているかという相対的な重さによ っている。つまりここで問題になっているのは、芸術を芸術以外の美的諸現象から分ける線で ある。芸術と美的なものの他の領域との間の境界、いやそれどころか芸術と非美的諸現象との 間の境界は、美学にとってだけでなく、芸術の歴史にとっても重要である。というのはそれを 確認することが、歴史的素材の選択にとって決定的な意味を持っているからである。芸術作品 というものは、明確に一定の構想(作られ方)を持っていることを特色としているように見え る。実際にはしかしこの標準は——しかも無制限にではなく——その作品が本来向けられてい るか、あるいは向けられていた社会的コンテキストに対してしか妥当しない。その由来から言 って、われわれと時間的あるいは空間的に遠い社会に結びついている所産を眼前にするや否や、 それを自分自身の評価の仕方に従って位置づけることはできなくなる。そこに所属する社会的 コンテキストにとってそのような所産が芸術作品であったかどうかを、複雑な学問的処置方法 を使って確認する必要がしばしば生ずるということはすでにのべてある。つまりある作品の諸 機能が、われわれの価値体系の観点からわれわれに見えているのとは、全く別種類のものであ ったという可能性を排除することは、決してできない。その上芸術と芸術の外にあるものとの 間の移行は常に急激なものではなく、時にはほとんど確認不可能である。建築を例に取ろう。 すべての建物は、いかなる美的機能も持たない所産から芸術作品に至るまでの‘連続的な一系 列をなしている。この系列の中で芸術の始まる地点を発見することは、しばしば不可能である。 厳密に取れば、その地点を確実に示すことは決してできない。われわれ自身の社会的コンテキ ストと結びついている建築の場合ですらそうである。空間的あるいは時間的にへだたっている ために、われわれにとってエキゾチックである所産の場合には、なおさら不可能である。さら にそこへE.ウーティッツが注意を喚起した第三の困難が加わる(『一般芸術学基礎論Il』、シュト ウットガルト、1920、5ページ)。かれは次のように言う。「芸術であるということは、芸術的 価値と全く別のことである」。別の言菓で言えば、芸術作品の美的価値の問題は、基本的には 芸術の境界の問題とは別であるー|われわれの観点から否定的に判断される芸術作品でさえも、 芸術というコンテキストに属している。なぜなら他ならぬ芸術を顧慮して、その作品が評価さ れるからである。実際にはもちろん、この理論的原則を守ることが非常にむずかしいことがよ くある。特にいわゆる周辺的な芸術あるいはJ ・チャペクの表現によれば、「もっともっつま しい芸術」が問題である場合には、容易ではない。そのような所産(例えば「女中小説」とか、 掲示物にはり出された絵)に対して、それが芸術という印象を与えるかどうかという問いを提 出する場合、機能の確認を評価と混同することが起りがちである」(ムカジョフスキー 1975:115-117)。
・建築のもつ美的機能
わかり切ったことであるが、芸術と芸術外の領域との間に移行があるこ と、それどころか非 美的領域との間の移行さえもはっきりしてはおらず、それの確認はきわめて複雑なので、本当 に厳密な境界を設定することは、実際には妄想である。それでは境界を定める試みはすべて断 念しなくてはならないのであろうか? それにもかかわらず、われわれは、芸術とは異なる「美 的」諸現象の領域との間の差異は基本的なものであるとあまりにもはっきりと感じている。そ れは何に基づくものであろうか?それは、芸術の場合は美的機能が支配的機能であるのに対 し、芸術の外では、たとい美的機能が存在していても、それが占める位置は二次的であるとい うことに基づくものである。これに対して、芸術の場合でも美的機能は著者の側なりあるいは 公衆の側から計画的に他の機能に従属させられることが稀ではないという異論が出されるかも しれない(芸術において「明白な目的」を要求する主張を参考とせよ)。しかしこの異論は首 肯させるだけの力がない。つまり、ある作品が自然発生的に芸術の領域に組み入れられた場合 は、美的機能と別の機能に置かれた力点は、決して普通のケースではない、芸術の本質規定に 対する論争と評価される。何らかの非美的機能が優位を占めることは芸術の歴史では、稀では ない。それにもかかわらず芸術においては、美的機能の優勢な状態は常に基本的な「特徴を持 たない」場合と感じられる。それに対し、他の機能の優勢な状態は「特徴的」と評価される。 すなわち普通の状態が妨げられたものと評価される。芸術の美的機能と他の諸機能との間の関 係は、本来の意味で美的諸現象の領域である芸術の性質から論理的にでてくることである。最 後に、美的機能の優勢という前提は、諸機能の相互区分がなされた場合にだけ、完全に重要性 を持つものであることも確認する必要がある。しかし機能領域を徹底的に細分化することを知 らない環境も存在する。例えば中世社会とかフォークロアの領域がそれである。そのような場 合でももちろん、諸機能が相互に上位に置かれるか下位に置かれるかという関係は、発展の推 移の途中で変化することがあるが、しかしその諸機能の中の―つがある特定の場合に、きわめ て明瞭に他の機能を支配するというような風には決してならない」(ムカジョフスキー 1975:117-118)。

「ここで再び、美的領域と非美的領域の境界線の場合に確認したのと同じようなアンチノミー が問題となる。すなわち前には、美的機能が全く不十分な場合と存在する場合との間に対立が あったが、今度は美的機能が諸機能のヒェラルキーの中で従属的位置を占めるか、それとも支 配的な位置を占めるかということに、対立がある。それゆえ美的なものの領域は、二つの相互 に厳しく区別された領域に分けられているのではなく、全体として二つの対立した構成要素に よって支配されるのである。その二つの構成要素は、この領域を組織化すると同時に解体させ る。すなわちこの領域の中に、持続的な発展の動きを保持しているのである。芸術をこの側面 から見ると、芸術の基本的な課題は、美的諸現象の広大な領域の不断の更新として現われる。 この問題についてはこの研究の第二章で、美的規範の分折の際に、より詳細に論ずることにしよう」(ムカジョフスキー 1975:118)。

チェコ構造美学論集 : 美的機能の芸術社会学 / ヤン・ムカジョフスキー著 ; 平井正, 千野栄一訳, せりか書房 , 1975年
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p.105
 ・序言
・「美的機能」
・「規範」
・「美的価値」
これらの3つはきわめて密接につながっている、
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・ロシア・フォルマリズムとの関係
・「ロシア・フォルマリズム(ロシア形式主義、英語: Russian formalism、露: Русский формализм)は、1910年代半ばから1930年代にかけてのロシアの文学運動・文学批評の学派。シクロフスキーやヤコブソン、トゥイニャーノフ らが中心となって行われた。文学作品の自律性を強調し、言語表現の方法と構造の面からの作品解明を目指した[1]。文学性を言語の詩的機能や、「異化作 用」から特徴づけ、作品の素材を手法の動機付けとした。構造主義、文化記号論、新批評(ニュークリティシズム)などに影響を与える一方、反マルクス主義的 とみなされ、スターリン政権から政治的弾圧を受けた[2]。」(→ロシアフォルマリズム)(→オストラネーニエ
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・この本のめざすところ……
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p.110
I.
美 的機能は個々人の生活と社会の生活の中で、重要な位置を占めている
・美的機能のダイナミックな性質を、その担い手である諸現象と、それが効力を発揮する社会に関連させて実証すること(134)
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・美的領域そのものの内的組織
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わかり切ったことであるが、芸術と芸術外の領域との間に移行があるこ と、それどころか非 美的領域との間の移行さえもはっきりしてはおらず、それの確認はきわめて複雑なので、本当 に厳密な境界を設定することは、実際には妄想である
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何が芸術であり、何が芸術でないかということは、最終的に確定することはできない
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・造形芸術つまり、会がと彫刻
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・芸術の外にあるが、芸術に向かう性質のもの(映画、写真、工芸、園芸)
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・工芸は、芸術に対して写真とは別の関係にある
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・もう2つの特別なケース
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・1)美的機能は……
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・2)社会的共同生活の要因としての美的機能
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・満足感
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II.
・1章を振り返り、・美的機能のダイナミックな性質を、その担い手である諸現象と、それが効力を発揮する社会に関連させて実証することであったので、美的規範において同じ証明をする。
・バウムガルテンの美学定義
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136
・価値と規範の一般的な議論
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・美的機能の目的は美的満足をつくりだすこと
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・美的規範の変化
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・無趣味とはなにか
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・生きた芸術作品のダイナミズム
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・演劇の身振り
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・美的規範体系
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・美的ヒエラルキーと社会的ヒエラルキーの関係
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・社会秩序と美的規範
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・美的規範の社会学
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・レヴィ=ブリュル、デュルケーム
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・これまで美的規範の社会学を論じてきた
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III.
・美的価値を論じる
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・美的価値の変わりやすさ
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・マラルメの挫折(178)
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・美的価値の可変性
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・社会は芸術を取り扱うために諸制度を確立する
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・美的価値の集団的性格と拘束性
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・芸術の社会的性格が重要である
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・文学の叙述作品
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・『罪と罰』
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・建築
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・芸術作品の記号論的分析
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・芸術作品は価値に満たされている
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・美的価値の優位性
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・芸術作品の自律性は、芸術に価値を与える
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・芸術的構成品
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・価値の複合体としての作品
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IV.
・「社会的事実」
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・美的価値は社会現象
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・美的なものの領域は、全領域に広がる
Karel Teige (13 December 1900 – 1 October 1951) was a Czech modernist avant-garde artist, writer, critic and one of the most important figures of the 1920s and 1930s movement. He was a member of the Devětsil (Butterbur) movement in the 1920s and also worked as an editor and graphic designer for Devětsil's monthly magazine ReD (Revue Devětsilu). One of his major works on architecture theory is The Minimum Dwelling (1932).[1]
カ レル・タイゲ(1900年12月13日-1951年10月1日)は、チェコのモダニズム前衛芸術家、作家、批評家であり、1920年代から1930年代の 運動の最も重要な人物の一人である。1920年代のデヴィエツィル(バッテルバー)運動のメンバーであり、デヴィエツィルの月刊誌ReD(Revue Devětsilu)の編集者、グラフィックデザイナーとしても活躍した。建築理論に関する代表作に『最小限の住居』(1932年)がある[1]。
Life and career
Teige was born in Prague. With evidently endless energy, he introduced modern art to Prague. Devětsil-sponsored exhibitions and events brought international avant-garde figures like Le Corbusier, Man Ray, Paul Klee, Vladimir Mayakovsky, and Walter Gropius, among many others, to lecture and perform in Prague. Teige interpreted their work, sometimes literally, for the Czech audience. In his 1935 Prague lecture, André Breton paid tribute to his "perfect intellectual fellowship" with Teige and Nezval: "Constantly interpreted by Teige in the most lively way, made to undergo an all-powerful lyric thrust by Nezval, Surrealism can flatter itself that it has blossomed in Prague as it has in Paris."[2]

Teige contributed to the 1926 book Abeceda 'Alphabet', which included a collection of poems by Nezval, one for each letter of the alphabet. The poems were set against a photomontage that Teige designed; bringing together typography and photographs. The photographs, taken by Karel Paspa, were posed images of the choreographer Milča Mayerová. Mayerová created a choreographed piece that accompanied Nezval's poems, and the photographs were stills from that piece.[3]

Although not an architect, Teige was an articulate and knowledgeable architecture critic, an active participant in CIAM, and friends with Hannes Meyer, the second director of the Bauhaus. From 1929 to 1930 he gave guest lectures at the Bauhaus in Dessau.[4] At the same time, he participated in the establishment of the Left Front.

Teige and Meyer both believed in a scientific, functionalist approach to architecture, grounded in Marxist principles. In 1929 he famously criticized Le Corbusier's Mundaneum project (planned for Geneva but never built) on the grounds that Corbusier had departed from rational functionalism, and was on his way to becoming a mere stylist. Teige believed that 'the only aim and scope of modern architecture is the scientific solution of exact tasks of rational construction.'

After welcoming the Soviet army as liberators, Teige was silenced by the Communist government in 1948. In 1951 he died in Prague of a heart attack, said to be a result of a ferocious Soviet press campaign against him as a 'Trotskyist degenerate,' his papers were destroyed by the secret police, and his published work was suppressed for decades.
生涯とキャリア
タイゲはプラハ生まれ。明らかに無限のエネルギーをもって、プラハにモダンアートを紹介した。デヴィエチルが後援した展覧会やイベントには、ル・コルビュ ジエ、マン・レイ、パウル・クレー、ウラジーミル・マヤコフスキー、ヴァルター・グロピウスなど、国際的な前衛芸術家がプラハで講演やパフォーマンスを 行った。タイゲはチェコの聴衆のために、時には文字通りに彼らの作品を解釈した。1935年のプラハでの講演で、アンドレ・ブルトンはテイジュとネズヴァ ルとの「完璧な知的交わり」に賛辞を贈った。「タイゲによって常に最も生き生きと解釈され、ネズヴァルによって力強い抒情的な推進力を受けさせられたシュ ルレアリスムは、パリで花開いたようにプラハでも花開いたと自画自賛することができる」[2]。

タイゲは1926年に出版された『Abeceda 'Alphabet'』に寄稿し、ネズヴァルの詩をアルファベット1文字につき1篇ずつ掲載した。詩は、テイジュがデザインしたタイポグラフィと写真を組 み合わせたフォトモンタージュに添えられていた。カレル・パスパが撮影した写真は、振付家ミルチャ・マイェロヴァーのポーズ写真である。マイェロヴァーは ネズヴァルの詩に合わせた振付作品を制作し、写真はその作品のスチール写真だった[3]。

建築家ではなかったが、テイジは明晰で知識豊富な建築評論家であり、CIAMに積極的に参加し、バウハウスの2代目ディレクターであったハンネス・マイヤーと親交があった。1929年から1930年にかけて、彼はデッサウのバウハウスでゲスト講義を行った[4]。

タイゲとマイヤーはともに、マルクス主義の原則に基づいた、科学的で機能主義的な建築へのアプローチを信奉していた。1929年、ル・コルビュジエのムン ダヌム計画(ジュネーヴで計画されたが、建設されることはなかった)を、コルビュジエは合理的機能主義から逸脱し、単なるスタイリストになりつつあるとい う理由で批判したことは有名である。タイゲは、「近代建築の唯一の目的と範囲は、合理的建築の正確な課題を科学的に解決することである」と考えていた。

ソ連軍を解放者として歓迎したタイゲは、1948年に共産党政権によって沈黙させられた。1951年、彼はプラハで心臓発作で亡くなったが、これは「トロツキスト退廃主義者」としての彼に対するソ連の猛烈な報道キャンペーンの結果だと言われている。
Writings
Original versions
Studies
Stavba a báseň (1927)
Svět, který se směje (1928)
Svět, který voní (1930)
Surrealismus proti proudu (1938)
Jarmark umění (1964)
Scientific writings
Archipenko (1923)
Jan Zrzavý (1923)
Soudobá mezinárodní architektura (1928)
Sovětská kultura (1928)
Moderní architektura v Československu (1930. Translated to English and published as Modern Architecture in Czechoslovakia and Other Writings in 2000)
Nejmenší byt (1932. Translated to English and published as The Minimum Dwelling in 2002)
Zahradní města nezaměstnaných (1933)
Architektura pravá a levá (1934)
Vývoj sovětské architektury (1936)
Vladimír Majakovskij (1936)
Štyrský a Toyen (1938 with Vítězslav Nezval)
Moderní fotografie v Československu (1947)
Sociologie architektury (date unknown)
Fenomenologie moderního umění (unfinished work, The Phenomenology of Modern Art. Two parts of this work were published posthumously as Vývojové proměny v umění (Developmental Changes in Art) in 1966.)







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