はじめによんでください

身体観

Cultural view of body

解説:池田光穂

身体観(body concept)とは、ある特定の文化のなかで、身体ないしは人体につい て、社会的合意が得られている見方(vision)のことである。宇宙観=コスモロジー(cosmology)の一種である(→臨床知・臨床の知)。

身体観(body concept)とは、病気観と同様、対象になった人たちに共 有されている「身体」に関する見方を説明し、かつその社会に含まれる「身体」の隠喩的な連関から構成される論理の体系のことである。身体観もまた「身体に 関する民俗的理論」と言えるが、身体は生身の身体である個人的身体(individual body)の他に、社会的身体(social body)、政体=政治形態(body politique)という広がりをもつ(M・ロックとN・シェイパー=ヒューズの主張)。それゆえ身体観に関する諸民族の議論は古代文明の時代からの長 い歴史と伝統をもっている。このように身体は具体的な境界をもつためにその概念が拡張された議論のジャンルがあり、医療人類学ではこれを身体化=具体化 (embodiment)の議論と呼ぶ。

とりわけ生物医学の病気観と伝統社会の病 気観が対比され、議論される際には、前者の伝統のなかで決定的な影響をもたらしたデカルト(Rene Descartes, 1596-1650)の心身二元論について「西洋近代の身体観」の検討が不可欠である。ただしデカルト自身は当時のカソリック教会からの異端審問を避ける 意図もあり明確にこれを主張せず、彼の死後になってはじめて、認識をする「心」と延長をもつ実体として分析可能な「身体」を明確に分離する「デカルトの思 想」なるものが定着したという見方が妥当である。

自分たちの身体や心をどのように観て、どのように感じ、そしてどのように考えるのかという観点については、その民族が慣れ親しんだ社会や文化によってし ばしば共通点が見られる。

例えば、ラテンアメリカ人は対人関係にお ける自分自身の心の不安を「神経([西]nervio, [葡]nervo)」という実体に帰して周囲の人に病気であることを訴える。ジャワにおけるラター(latah)とは、突如として卑猥あるいは口汚い言葉 を吐く状態であるが、当人以外には好ましいものとは見なされていないが、かといって治療しなければならない病気とも見なされない。ジャワにおける社会対人 関係の慎み深さからみると、病理とされないことが不思議である。不躾なラターの状態は、ジャワの民族文化の中では寛容されている。肩凝りは、日本人や長期 滞在の在日外国人が持つ固有の身体表現である。そのため人および機械によってマッサージされることに、癒される経験を持つ人が多い。このことは、我々日本 人にとっては、何の疑いもなく経験・理解していることなので、発達成長の中でどのようにして私たちの共通の身体の経験や認識を形作るのか当事者の説明だけ では分かりにくい。しかし、日本在住が長ければ民族差を超えて共通の経験をもつことが可能になるために、この身体疲労表現は学習可能な身体経験なのであ る。それゆえこれらは参与観察を含む民族誌的考察が必要になる好例である。

 認知科学や進化心理学は文化的差異を 「変数」として取り扱い病気観や身体観の形成の「メカニズム」を明らかにしつつあるように思われる。しか しながら、 これには実験的事実を積み重ねれば合理的に説明できる「はず」という論理的前提が含まれている。他方、人類学的説明では、偶発的な出来事や無根拠な事実が 歴史記憶として常識化するような「社会的事実」に関する文化の解釈や理解に力点を置くために、前者との間にはどうも深い溝があるようだ。

中央アメリカ・ホンジュラス西部のある農民の内臓観

スペイン語話者と感情経験と、それに対応する臓器に関する模式図

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