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象牙の塔あるいは愚者の楽園を超えて 大学そのものを社会化せよ

Which purpose is the super-liberal arts curriculum for university graduate students?

これらの 企ては、象牙の塔あるいは愚者の楽園を超えて 大学そのものを社会化(解体→内破)する実践の一環である

池田光穂・松浦博一・宮本友介

◎このページは、ダイキン工業株式会社による「基礎 検討フェーズ報告書・研究テーマ提案」から「2020年度共同研究委受託研究」のフィージビリティ調査研究である。調査研究班は、池田光穂・松浦博一(大 阪大学COデザインセンター教員)と宮本友介(大阪大学大学院人間科学研究科)である。

命題08:大学そのものを社会化する(象牙の塔ある いは愚者の楽園を超えて)

 「高度教養教育のデザインは可能か?」という問いを立てて、高度教養教育という言 葉のうちの「教養」や能動的「教育」について私たちは考えてきた。ここ での問題は、(1)学部高学年や院生に「高度教養教育」が必要なことを大学当局が本当に危機感をもって認識しているのか?、それとも、(2)そのような活 動をすることが、実際には、大学の社会的高感度を上げ、かつ、大学が(その副次的効果として)より実利的で具体的な「学際 (interdisciplinary)」あるいは「横断領域(transdisciplinary)」を期待しており、それ(=高度教養教育のデザイ ン)を前哨戦にしようとしているのか?ということを、正確に把握し「計測」——比喩的な意味で——することである。そして、学生(院生)と教員の頭の中の 研究と教育のボーダーレス化(トランスディシプリナリー化)は、キャンパスとシティの垣根をこえて展開する。

 ここでは「教養教育」のターゲットとされている、 学部高学年および大学院生(修士・博士・あるいは博士前後期課程)への「教養教育」について考えたい。その前にまず「高度」教養教育における「高度」とい う言葉の意味について考えよう。高度なのは、教養には「低度」なものと「高度」なものがあるのか(間に「中度」なものの可能性を含めて)?ところで、高度 高度と、お高く留まっているのはなぜか?

 私(=池田)考えでは、高度を使った意味は、大学 の学部低学年(いわゆる1,2年生)とは違う「レベル」の大学生・院生という意味の違いをもたせた可能性があるように思われる。形容詞がつかない「教養教 育」との差異化を図った可能性がある——翻って「低度」教養教育や「中度」教養教育という名称を、僕たちスタッフがもし使うことになれば、それは対象に なってスタッフやジャンルに対して、失礼で侮蔑的なニュアンスがないとは、弁解できないだろう。だから、「低度や中度」というものを想定せずに、ただ教養 教育をおこなう時に「受講対象学生の学年や学校(院というスクール)が違う」ということを伝えたいのが、私の真意である。
 文科省当局が「学士力」などを言いはじめたのは、大学全入時代にな り、大学卒業生の能力や資質の「低下」を世の中の大人が感じ始めたからであり、それを なんとかしたいと欲望するからである。その大人とは、とりわけ大学教授、学識経験者、評論家、文科省当局の役人など高等教育行政に関わる人たちのことであ る。なぜ、大人が子供たちの資質云々を心配するようになったのか?

 それは大人は将来次世代の人たちに、権力のバトン を渡し、権力を委譲するからである。また、その子供たちに、自分たちと同様に幸せでいてほしいのと同様に、高齢になっても庇護してもらいたいからだ。ある いは、大人には、どこか子供に対して、保護対象たる子供たちに、高邁な自負があり、そのように子供たちにも振る舞ってほしいと思う傾向がある——私たちは それを「パターナリズム症候群」と呼んでみる。

 もうひとつ別の側面がある。それは、すでに行われ てきた大学「低学年」向けの「教養教育(ないはずの低度・中度)」が十分に機能していないのではないかという危惧である。教養教育は、国立大学とりわけ旧 帝大では、スタッフの中の「十分機能していない・必要ない」という長い間偏見があった。この大学人の共通感覚(エートス)は、教養に憧れて教養をつけよう としてきた、日本の知識人の伝統からみれば、きわめて両義的な感情である。一方で、教養をつけて人間的として成長しなければならないのに、他方で、専門分 化した高度な研究領域に従事することを強いられているジレンマだ。この感情は、学生よりも、世間知らずで過ごしてきた、悪しき大学人のほうが酷い。だか ら、大人が感じる「大学卒業生の能力や資質の「低下」」とは、大学の教養教育が順調に進んでいないことの大人自身の不安の顕れだと、私(池田)は思う。

 だから大学では、社会的経験をもつ大学以外で育っ た「知識人」や「専門家」を、特任教授の名で多く雇用しはじめた。大学の空気を入れ替えるためである。それは、とりもなおさず、大学という穴蔵に暮らす大 学人は、そのような世間の知恵には疎く、てっとりばやく、実践知系の知識をほどよくアウトソース(=外部資源利用)化しようとした。だけど、大学には古式 豊かなそれまでの「象牙の塔(tour d'ivoire)」における知識生産の伝統がある。そのようなアウトソース化が、大学の職域の中で上手く機能しているケースは少ない。僕は、このアウト ソース化計画は、すでに破綻していると思うし、おおむね無意味だと思う。それよりも、時間と手間をかけて、若手の常勤大学教員を、高度教養教育に従事させ ることで、現場での知識と技術習得の現場教育訓練(OJT)を積んでいったほうがよいと思う。その時間的スケールは、専従でも数年、兼業なら10年単位で 育むことを、想定したほうがよい。

 以上、したがってここでの問題への解答は、(1) 学部高学年や院生に「高度教養教育」が必要なことを大学当局が本当に危機感をもって認識しているのかは、些か疑問だが、大学が「高度教養教育を通して変わ ろうとしている」ことは事実である、こと。そして(2)そのような活動をすることが、実際には、大学の社会的高感度を上げ、かつ、大学が(その副次的効果 として)より実利的で具体的な「学際(interdisciplinary)」あるいは「横断領域(transdisciplinary)」を期待してお り、それ(=高度教養教育のデザイン)を前哨戦にしようとしているのか、ということについては、もっ と確実に、そうだと言えるような根拠が、大学や大学をめぐる社会の事情のなかにみることができる。

 かくて共同研究者の宮本友介は、エリック・ス ティーブン・レイモンド『伽藍とバザール』(1999)から、知識、人々、そして大学キャンパス内での集いの形態を、伽藍(カテドラル)とバザール(市 場)の2類型に分類できることを指摘した。

 「『伽藍とバザール』(The Cathedral and the Bazaar、カテドラルとバザール)は、エリック・レイモンドによって書かれたオープンソースソフトウェア(OSS)のソフトウェア開発方式に関する エッセイおよび書籍である。当記事では、Cathedralの訳語に伽藍、Bazaarの訳語にバザールを使用する。伽藍方式としてGNU Emacsの開発スタイル、バザール方式としてLinuxカーネルの開発スタイルとFetchmailのマネージメント経験を挙げ、ソースコードを常時公 開して多くの利用者・開発者がソフトウェア開発に携わる開発手法のメリットを主張している(「ソースコードを常時公開して多くの利用者・開発者がソフト ウェア開発に携わっている」、という点はGNU Emacsでも後者と全く同じである。従って主張されているメリットは、「伽藍方式」と「バザール方式」の違いのうち、それとは異なる点に由来する)」 ウィキペディア)


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