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ポルノグラフィー的想像力


Pastel portrait of Susan Sontag commissioned by the Gay & Lesbian Review for the 2009 May-June cover

池田光穂

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「ポルノグラフィをめぐる議論をはじめる には、まずこの単語がポルノグラフィーズという複数であ ること少なくとも三種類があるを認め、それらをひとっずつ検討してゆくことを誓う必要が ある」49

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49 「ポルノグラフィをめぐる議論をはじめる には、まずこの単語がポルノグラフィーズという複数であ ること少なくとも三種類があるを認め、それらをひとっずつ検討してゆくことを誓う必要が ある」
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SFとのジャンル的接近「もううひとつの どこかいかがわしいサブジャンル、 すなわちサィエンス・フィクジョンのそれよりも低いわけではない。(文学形式として、ポルノグラ フィとサイエンス・フィクションは、いくつかの興味深い点で互いに似ている。)」

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「驚くべき量のエロ本のアウトプットはキ リスト教の性的抑圧の膿を出 す遺産であると同時にまったくの生理学的な無知に由来するものとされ、これらの古い欠陥がいまや より直接的な歴史的諸事件、そして家族の伝統的なあり方や政治的秩序の劇的変化や両性の役割の不 安を誘う変化がもたらす衝撃により、こじれてしまったということになる。(ポルノグラフィの問題 は「移行期にある社会のジレンマだ」とグッドマンは数年前の工ッセーで述べていた。)こうして、 ボルノグラフィそのものについての診断としては、ほぼ完全に合意ができているといえるだろう。不 一致が生じるのは、ボルノグラフィの拡散がもたらす心理的.社会的な結果をどう判断するかという ことについてであり、したがって戦略と方針をどう決めてゆくかということにある」
「道徳方針の、より理解のある設計者ならまちがいなく「ボルノグラフィ的想像力」というものが存 在することを認める用意があるにちがいない」

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文 学のうちに数えていいポルノグラフィ本の素材になっているのは、まさに、人間の意識のもっと も極端なかたちだ。性に執着する意識が、まずは芸術としての文学のうちに入ることができるという 点には、疑いなく多くの人が同意してくれるだろう。肉欲をめぐる文学だって?いいじゃないか。 だがかれらはその同意に、通常、それ自身を無効化するようなひとつの付帯条項をつける。かれらは、 作者が作者自身の強迫観念を描くにあたって、それが文学でありうるためには、適切な「距離」を置 <ことを求めるのだ。そのような某準はまったくの偽善であり、ただポルノグラフィにふつう与えら れる価値が、結局のところは芸術ではなく精神医学と社会問題に属するものだけだということを、ま たもや暴露するにすぎない。(キリスト教が賭け金を上げ、徳の根にあるものとしての性行動を監視 するようになって以来、私たちの文化においてはセックスに関わるすべては「特別な例」とされ、奇 妙なほど首尾一貫しない態度を呼び起こすようになった。)ヴァン・ゴッホの絵画は、たとえ彼の描 き方が表象手段の意識的な選択というよりも彼自身の狂気、そして描いているとおりに現実を見てい たことに負っているように思えたとしても、芸術としての地位がゆらぐことはない」

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「作品の中で実現された独創性・徹底性・正統性、そして狂った意識その も のがもつ力にあるのだ。芸術という観点から見ると、ボルノグラフィ本が体現する意識の排他性は、 それ自体、異常だとも反文学的だとも言えない」

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「ポルノグラフィ的想像力が提案する宇宙は、ひとつの全的な宇宙だ。そ こに投げこまれるすべての 関心を、呑み込み、変容させ、翻訳する力をもっている。すべてを、このエロティックな命令の、ひ とつの交換可能な通貨にしてしまうのだ。すべてのアクションは一セットの性的交換だと考えられる。 こうして、ボルノグラフィがなぜ両性のあいだの決まった区分を拒むのか、なぜどのようなものでも 性的嗜好や性的タブーがつづ<ことを許すのかは、「構造的に」説明がつく。バイセクシャルである こと、インセストのタブーに対する軽視、その他、ポルノグラフィ的物語でおなじみの特徴は、交換 の可能性を増す要素として機能する。理想的には、誰もが他の誰でもと、性的関係をもつことが可能 になるのだ 」

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「しかしポルノグラフィ的想像力は、心的絶対主義の一形式としてのみ理 解されればいいというもの ではないその産物のあるものは、より多くの同情あるいは知的好奇心あるいは審美的洗練をもっ て見ることができる(顧客というよりは通という役目をもって)ようなものかもしれな」

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「ポルノグラフィが汚いからではなく、ポルノグラフィが心理的にいびつ な者たちの支 えとなり道徳的に罪のない者たちへの虐待になりうるということを憂慮するために、ポルノグラフィ に反対し樵悪感を抱く、見逃せない数の少数派が存在する。私もおなじような理由でポルノグラフィ に対する嫌悪感をもち、ポルノグラフィがどんどん手に入りやすくなっていることの結果について不 安に思ってもいる。けれどもその憂慮には、的外れなところがないだろうか。ほんとう に賭けられて いるものは何なのか?それは知識の使用法に関する心配だ。すべての知識は危険だという考え方は ありうる、なぜなら知る人、潜在的に知ることができる人として、誰もがおなじ条件についているわ けではないのだから。おそらく大部分の人々は、「より広い範囲の経験」など必要としていない。繊 細で広範な心の準備を抜きにしては、経験と意識の拡大など、大部分の人にとっては破壊的なことだ ろう。だったら私たちは、他の種類の知識が大量に手に入る現況、また機械による人間の能力の変換 /と拡大に対する楽観的な同意への、私たちの無謀な無限の信頼を、何が正当化してくれるのかと問わ なくてはならない」
ソンタグさんはポルノグラフィーを論じながら情報横溢社会を批判する。 俺たちの身の回りにいる、あの愚かな情報科学者どもに聞かせたい。
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「ポルノグラフィとはこの社会で流通する多くの危険な商品のひとつにす ぎないの であり、さほど魅力的には見えないとしても、人間の苦しみという点にかけて、人間共同体にとって、 たとえ命に関わるほどではなくとも、安上がりに手に入る物のひとつなのだ」
「自分の隣人の能力に対するこの慢性的な相互不信——実際それは人間の意識の能力にはヒエラルキーがある と考えているわけだ——には、全員を満足させる解決策はない。人々の意識の質がそれほどまでに大 きく異なるとき、それが解決されることなどありえるだろうか」
個人間の相手の能力に対する不信感と、意識の多様性という現実があるために人間の知性が「対話相手」としてのAIに阿る時に、そこにはピグマリオン効果しか生じ得ないだろう。
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