かならず読んでく ださい

ヘーゲルとハイチ

Hegel, Haiti, and universal history by Susan Buck-Morss,

池田光穂

このページの目的は、バック=モース,スーザン (2017)『ヘーゲルとハイチ:普遍史の可能性にむけて』岩崎稔・高橋明史訳、法政大学出版局(S_Buck-Morse_Hegel_Haiti_jap.pdf) の読解にある。ヘーゲルと犬へーゲルと親殺し︎▶︎︎ジェルジ・ルカーチ▶︎歴史は死を前提とする▶︎︎宴の後で…シドニー・ミンツ『甘さと権 力』を精読する▶︎︎G.W.F.ヘーゲル▶︎『精神現象学』▶︎︎奴隷(どれい)▶︎アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーとイラン革命ミッシェル・フーコー▶︎主人と奴隷の関係▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎

ハイチの奴隷,サンキュロット,ボルシェビキ,イラ ンの革命防衛隊,そしてサパティスタ,欺瞞的デモクラシーに匕首を突きつける大衆暴力革命とはエゴ&エスノセントリックな社会運動なのだ.それは啓蒙理性 が飼い慣らそうとする歴史認識にはそぐわない様相を呈す.——垂水源之介.

ヘーゲルと ハイチについての沈黙に終止符を打つこ とが、なぜ重要なのだろうか。ヘーゲルが奴隷制の存続に最終的に譲歩したとしても、さらに言えば、ヘーゲルの歴史哲学が2世紀にもわたってヨ ーロッパ中心主義というかたちの最大の自己満足を正当化してきた事実があるとしても(ヘーゲルは ひょっとするとつねに、生物学的にではないにしても、文化的にはレイシストであったかもしれな い)、この歴史の断片を、私たちのもとから逃れつづけてきたその真実を忘却から回復するというこ とが、なぜ一部の専門家の問題にとどまってはならないのだろうか。/ いくつもの答えが考えられるが、間違いなくそのひとつは、人類の 普遍的な歴史という理念を、白 人支配がそれに与えてきた用法から救い出す可能性である。自由をめぐる歴史的事実が、勝者によっ て語られたナラテイヴから切り離され、私たち自身の時代に救出されるとすれば、普遍的な自由とい うプロジェクトは放棄される必要がなくなり、むしろ取り戻され、異なった基盤にもとづいて再構築 されなければならないことになる。ヘーゲルが思考において明確にした契機は、トゥサン・ルヴエル チュール、ワーズワース、グレゴワール神父、さらにはデサリーヌといった同時代の他の人間の思考 の契機と並べて考えなければならないだろう。白人に対して残忍性と復讐を尽くしたデ サリーヌは、 反対に、ヨーロッパ人のレイシズムの現実をきわめて明瞭に見ていた。さらに、ヘーゲルにとっての 契機は、行動として明確に表われた契機と並べて考えなければならないだろう。ナポレ オンによって 植民地に送られたフランス軍兵士は、かつての奴隷たちが《ラ・マルセイエーズ》を歌うのを聞いて、 闘う相手が間違っているのではないかと声に出して請しんだ。シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール(Charles Victor Emmanuel Leclerc, 1772-1802)の指揮下にあったポーラン ド人連隊は、命令に背いて、捕えられた600人のサン=ドマング人を溺死させることを拒否した。 そのような明確な例はたくさんあるが、彼らはどちらの側にもどの 集団にも完全には属さない。個人 の意識が現在の権力の布置関係を越えて自由の具体的意味をつかもうとするたびに、たとえ束の間で あったにせよ、これこそが絶対精神の実現の瞬間だと評価されていたとしたら、どうだろうか。ほか にどのような沈黙が破られなければならないのだろうか。まだ学問体系のなかに組み込まれて飼い馴 らされていない、どんな物語が語られるのだろうか」(スーザン・バック=モース 2017:68-69)。

「1842年、アシャンティ国王クヮク・ドゥアは 〔イギリス領ゴールド・コースト(1821-1957)の〕イギリス人総督につぎのように語っている。「子どものころの思い出なんだが、イギ リス人が奴隷を積み込むための船でアフリカの海岸にやってくるのは、奴隷たちをイギリスに連れて 行き、食べてしまうためだといわれていた。だが、噂が嘘だってことは随分前から知っていたよ」。 ヘーゲルが、だまされやすいヨーロッパの聴衆に対して残忍なアシャンティ族というわざと誇張した 説明をおこなっていたとすると、対照的にクヮク・ドウアは実に冷静に見える。しかし、ヘーゲルが ヨーロッパ史にハイチ【を】組み込み、アフリカは重要ではないと切り捨てた歴史的瞬間に立ち戻って 考えることにおいて重要なのは、ドイツの哲学者を非難することではなく、むしろ私たち自身の名誉回 復への一歩を踏み出すことなのである」(スーザン・バック=モース 2017:110-111)。

「今日ヘーゲル主義者を自称する者はほとんどいない だろうが、ヘーゲルのさまざまな考え方は今で も広く共有されている。暴力的な政治行動があったかどうかが、人類の集合的歴史において重大な出 来事かどうかの基準とされている。他国に対して軍事的プロジェクトで民主主義を押しつけることは、 進歩思想によって正当化される。文明的で進んだ人びとと未開で遅れた人びとという人間の区別はま だなくなっていない。全世界が従うべきひとつの道として、いわゆる現世的な普遍史という図式を案 出したのは(キリスト教的な)先進国であり、それはいまだに西洋の政治的言説に染み込んでいる。 文化的レイシズムは克服されていないのである」(スーザン・バック=モース 2017:111)。

「生存競争だけの社会ダーウィニズム的基準で人間の 集団を評価することには何の科学的根拠もない。 集合的英知は文明による支配の産物であるというよりも、むしろ文明と英知という二つの変数は反比 例の関係にあるのかもしれない。すなわち、ある文明が世界で権勢をふるえばふるうほど、そのなか にいる思想家は自分たちのもつ信条の単純さを認識できなくなるのかもしれないということである。 人間とはよくしたものである」(スーザン・バック=モース 2017:111)。

★『ヘーゲルとハイチ:普遍史の可能性にむけて』()

「この画期的な作品で、スーザン・バック・モース は、歴史、不平等、社会的対立、人間の解放の間に新たな関連性を描き出している。 『ヘーゲル、ハイチ、そして普遍史』は、ヘーゲルの主従弁証法を根本的に再解釈し、批判的理論的実践を自らの議論の牢獄から解放するための道筋を示してい る。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの思想とハイチ革命における行動を歴史的に考察し、著者は両者の驚くべき関連性を検証し、読者に歴史 的想像力の限界を広げるよう挑発する。著者は、歴史の流れの非連続性、人間の経験の 限界、文化間の予期せぬつながりの中にこそ、限界を超える可能性を見出すことができると主張する。こうした閃きこそが、文化の違いにもかか わらず理解の可能性を切り開くのだ。バック・モースが提案するものは、通常のイデオロギー的な意味合いを超えた「新しいヒューマニズム」である。それは、 対立する側面の間の空間の透過性を主張し、共通のヒューマニティを求める根本的な中立性を包含するものである。」

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1
なし


2
なし


3
第一部への序論

・ヘーゲルとハイチは、ミステリーであ る。
4
偶然のプロジェクト

・19世紀初頭はポリティカル・エコノ ミーの時代
5


・イエーナ期のヘーゲルのスミス『国富 論』への興奮
6
ブルジョア社会


7



8


・欲求の体系
・譲渡と売買
9


・ヴォルク(民族)の解体
・啓蒙の精神は、自然状態を根本的に覆すできごとだ(とヘーゲルは自覚)
10
クルーソーとフライディ


11


・1805-6年のヘーゲル:経済、労 働者の非人間化、相互承認、主人と奴隷、生死を賭けた闘争、暴力と支配→これらは、自由の実現過程に生じる
12



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・ヘーゲル【と】ハイチ——もともと結 びついていたのに、離れてしまった。
14


・ハイチに対する、サミュエル・ハン ティントンと、CLR・ジェームズの眼差しの違い
15
ヘーゲルが知っていたからといって、それ が何だというのか


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・精神現象学から法の哲学へと展開する なかで、ヘーゲルのハイチ革命の理解は格段にすすんでいるはずだ(ニック・ネスビット)
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・ネグリチュード:「普遍に到達するた めには特殊に身を沈めよ」エメ・セゼール
18
ヘーゲルの沈黙


19


・フリーメーソンは、ハイチで起こって いることをヘーゲルに伝える媒介になる
20


・ジャコバン=カニバル(野蛮な民主主 義)
21


・主人と奴隷
・ナポレオンとの関係が、ヘーゲルのハイチ言及に沈黙を強いた?
22


・人倫の体系の最後から破棄された「た だの物語」
23
ヘーゲルとハイチ(本文)——1

・奴隷制=悪のメタファー
・奴隷制の対立概念としての「自由」
・奴隷制が嫌悪されたまさにその時代に、資本主義生産の奴隷システムは最高レベルの段階に到達する
24


・自由を謳う思想家が、世界の片隅の奴 隷制度に目を瞑る
・なぜ現在でも、自由を賞賛しつつ、奴隷の存在に目を瞑るのか?
25
——2

・サイモン・シャーマ
・オランダ共和国の歴史を書いたシャーマの本に奴隷は存在しない。
26


・だが、シャーマの本には、ユダヤ人差 別には言及してる
27


・だが、同時期に描かれたブルジョア家 族の絵画(フランス・ハルス)には奴隷は必須のアイテムとして存在する(27)。
28



29
——3

・リヴァイアサン・テーゼでは、奴隷は 自然状態の極みとして表現されている。
30
——4

・ジョン・ロックの奴隷制度に対する怒 りは、抽象的なもので、イングランドが利用している黒人奴隷への抗議にはむすびつかない。
31


・ルソー『社会契約論』初版1762年
32


・黒人用の首輪の注文をうける広告
33



34


・フランスの植民地での奴隷の扱いを示 す〈黒人法典〉は1685-1848年まで有効だった。
・サラ=モランスは、黒人の身体刑の容認まで認める〈黒人法典〉の非人道性を問題にする
35


・ルソーは(黒人以外の)人類の死につ いては悲しむ
・サラ=モランスは、〈黒人法典〉を容認するルソーを糾弾。
36
——5

・ルソーはレイシスト
37


・新大陸では自然法の自由と、奴隷所有 のあいだの非一貫性
・だが、合衆国憲法のなかに奴隷制があった
38


・ハイチにおける奴隷(解放奴隷)による蜂起
・ルベルチュール
39


・ハイチの独立
40
——6

・ラ・マルセイエーズの奴隷制を糾弾(誰のために この卑劣な足枷は、久しく準備されていたこの鉄枷は?=Pour qui ces ignobles entraves, Ces fers dès longtemps préparés ?)
41


・サン=ドマングの植民地的重要性と奴隷制
42



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・いまや、世界の眼はサン=ドマングに注がれている(当時のヨーロッパ 教養人に常識)
44



45


・ワーズワースのソネットと、黒人法典の復活
46
——7

・精神現象学は1805-06年、出版は1807年=英国が黒人奴隷を 廃止した年
47


・朝一番の新聞に目を通すことは近代人の祈り(ヘーゲル)
48


・なぜ、ヨーロッパ人がハイチ革命に興味をもちつづけたのか?それは、 レイシズムに対する挑戦だった。
49
——8


50


・人倫の体系で、主人は所有物を過剰にもち、奴隷はそれに欠如している
・モノであることは、奴隷意識の本質
51


・精神現象学において、奴隷の自己解放は、与えられるものではなう、奴 隷じしんの命がけの試み
・自由をえるためには、生命が危険にさらされる
52
——9

・現代のマルクス主義者は、奴隷制を過ぎ去った過去のものにした。
・奴隷制は前近代のもので、資本主義以前のものという「偏見」
・だが実際は、資本主義の急成長期に、奴隷労働は不可欠なものだった。
・ヨーロッパでも農奴はまだ消滅していない状況だった。
53


・エリック・ウィリアムズ「資本主義と奴隷制」やジェームズ「ブラッ ク・ジャコバン」のテーゼを、白人のマルクス主義者が否認する。
・ヘーゲルは、1803年に国富論を読んで、市民社会のブルジョア的交換のテーマにたどりつく。
54


・ヘーゲルにおける、政治=フランス革命
55
——10

・ヘーゲルの骨相学批判は、疑似科学としての生物学レイシズム批判につ ながる
・ヘーゲル『哲学入門』におけるロビンソン・クルーソー、における自然状態における人間(クルーソー)と、フライデー(奴隷)を考察し、ホッブス的自然状 態論を批判する。
・法哲学講義における「奴隷の自己解放」
56


・自由とは、所有権をもつことだが、それは、他の人間(=奴隷)を所有 することではないと
・奴隷解放と自由はむすびつく、奴隷制が存在しないことが、人倫の要求である
・のちに、ヘーゲル「主観的精神の哲学」のなかでハイチ革命に言及
・ヘーゲルとフリーメーソン(ジャック・ドント説)『ヘーゲル伝』(ドント 2001:163)
57


フ リーメーソンのなかの人種平等ロッジは、ムラートを受け入れていた。
・ジュリアン・レーモンの存在
58


・アレクサンドル・ペション
59
——11


60



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(さまざまな図像的シンボルがでてくる)
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・ヘーゲルは後年、奴隷制にはますます無口に
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——12

・ヘーゲルとハイチの間の沈黙になぜ終止符をうつことが重要なのか?
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・ポーランド人連隊の良心的虐殺拒否
・「学問的に飼いならされていない」物語を探すこと
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普遍的な歴史への探求
——はじめに


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——3つのイメージ

・現地人奴隷への身体刑
・モロー作画、ヴォルテール『カンディド』
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・手足を切断された奴隷の身体はヨーロッパ人を恐怖に陥れる
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・スピノザは、ホッブスのアトミズム=個人主義を批判し、人間相互の関 係性を主張した
80


・奴隷労働は自由人のそれよりも主人にとって高くつく(80)
81
普遍的な歴史
1. ハイチとヨーロッパの創造
ヨーロッパの奴隷制


82


・奴隷制へのヨーロッパの思想家たちの支持
83


・奴隷がヨーロッパで増えすぎると、ヨーロッパとの境界は多孔的=虚構 的になる
84


・人種差別から奴隷制が生まれたのではない、奴隷制から人種差別が生ま れた
・黒人法典は植民地で適用されて、ヨーロッパ大陸では普遍的な自由がある、というダブルスタンダード
85


・フランシス〈対〉ブリニョン裁判
86



87
——未完の革命

・デンマークの奴隷貿易禁止令
・ルベルチュールの1801年憲法
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・農業軍国主義
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・自由労働というイデオロギーはヨーロッパではレイシズムに支えられる 概念である
・これらは機械労働以前におこっていた
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・多孔性の空間へ溶解してゆく
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・もともとマンチェスターは問屋の町
・綿業都市になるのは、グローバリゼーションという世界分業の後
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105
——多孔性


106


・エスニック・アイデンティティは、政治的に誤った判断に陥る。脚注 63——210-211ページ参照
・エスニシティの本質に我執してはならず、かといって、ハイブリディティを賞賛すると、本質性に対する歴史的暴力の記憶に対して今度は逆にそれを忘却して しまう。回復途上にあるエスニシティは、本質的な牙城に安住するそれとは異なるのだ。
107



108
——限られた地平

・カントの自治概念(1798)と、フランス革命の影響
109



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・ヘーゲルのアフリカのステレオタイプは皮相的で目的論的
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3.新しいヒューマニズム


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・ハイチにおけるフリーメイソンのロッジ
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・ブードゥー結社のリビジョニズム
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・北コンゴのレンバ儀礼
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・普遍的歴史の定義(文化を通してではなく文化に裏切られる過程を通し てだ)
126
——交差点

ポワ・カイマンでの血の盟約儀礼
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129


・もう、ポワ・カイマンでの血の盟約はダホメ人に特有であるという、考 え方はもう、捨てよう。
130


・ハイチはひとつのネーションになる
・ハイチにおいては、ブラックは政治的アイデンティティとして示すものと して成功した。
131
——共通の非人間性


132


・シニシズムに誘惑されず、歴史的真実の時間的決定性から、我々はどれ だけ自由になれるか?
133



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135


・政治的ジハードの問題
136
——復讐する天使たち

・デサリーヌ=アメリカに復讐する
・ハイチ革命の成功は、想像の中だけだ
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・帝国主義への一撃とは、普遍的なアイディアへの忠誠を公言しつつ、政 治的かつ文化的集団が普遍的な人間性をもつということにはその前提を捨てることだ。
・デサリーヌ暗殺後、王国と共和国に国が二分する。
・ハイチの黒人アイデンティティは確立したが、革命がうむ普遍的解放には齟齬をきたす
139



140
——普遍的な歴史というプロジェクト


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・普遍的な歴史は、歴史現象の解放と、自分たちじしん解放という、二重 の解放にかかわる。
・権力以外に、なにものも、歴史を一義的なものとして維持することができない。
143


・敵対する両者のあいだにある空間の多孔性を強調するラディカルな中立 性。人間性を手放さないいるためには十分自由だ。
144




★Susan Buck-Morss

Susan Buck-Morss (1942) is an American philosopher and intellectual historian. She is currently Professor of Political Science at the CUNY Graduate Center,[1] and professor emeritus in the Government Department at Cornell University, where she taught from 1978 to 2012.[2] Her interdisciplinary work involves but is not limited to the fields of Art History, Architecture, Comparative Literature, Cultural Studies, German studies, History, Philosophy, and Visual Studies.[3] She has won a Getty Scholar Grant,[4] a Fulbright Award,[5] and a Guggenheim Fellowship[6] for her work. Awards from the MacArthur Foundation, Rockefeller Foundation, and the Fulbright Program funded the research towards her book Dreamworld and Catastrophe: The Passing of Mass Utopia in East and West (MIT Press, 2000).[1]

Books

◎サンドマング=ハイチ年代記(→「G.W.F.ヘーゲル」の項目にハイチ革命の同時期のヘーゲルについて記 載)

1651 ホッブス『リヴァイアサン』

1685 『黒人法典』(1848年廃止)

18世紀初頭?

トゥーサンの父祖は祖父ゴー=ギヌーまで西アフリカ のダホメ王国(現在のベナン)のアラダ(ダホメ王家の発祥の地)の首長であったが、トゥーサンの父イポリト・ゴーは捕えられて奴隷としてブレダの不在領主 のノエ伯爵に売られた。トゥーサンは彼の長男で5月20日か11月1日(諸聖人の日、フランス語でトゥーサン)に生まれた。ブレダ姓は地名に因む。

1743 

フランソワ=ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュー ル、またはトゥサン・ルヴェチ、トゥーサン・ブレダ(François-Dominique Toussaint Louverture, ハイチ語: Tousen Louvèti, Toussaint Bréda)イスパニョーラ島のフランス王国植民地カプ=フランセ(現在のカパイシャン)近傍にある、ブレダ農園に生まれる。以下、TL

農園の管理者ベヨン・ド・リベルタは“比較的に人間 的で親切な”管理人で、トゥーサンに読み書きを奨めた。トゥーサンは普段ハイチ・クレオールの単語やフォン語を使っていたが、これにより自由黒人である司 祭ピエール・バティストからフランス語の基礎とラテン語を学ぶことができた。トゥーサンの教育の高さ、父から受けた薬草の知識や身体能力などはベヨンを喜 ばせ、家畜の管理・治療や奴隷の教育係を任された。トゥーサンは、御者・獣医学・数学などの技能や知識を習得し[1]、“奴隷としては比較的富裕”であっ た。

1762

ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』

1774 

法的に解放され、植民地政府の記録では13エーカー の土地と15人の奴隷をコーヒー栽培のために借りている。彼は熱心なカトリックであり、また高位のフリーメーソンリーでもあった[2]。禁欲的で質素な生活をし、菜食主義 者であった。

子持ちの女性シュザンヌ・シモーヌ・バティストと結 婚し連れ子のプラシドの他にイサークとサン=ジャンをもうけた。語られるところによれば、トゥーサンは11人の子があり、8人は庶出であるという。独学で 歴史書や啓蒙思想書に親しんだ。

1789 

1789年にフランスで革命が勃発すると、1790 年には「自由・平等・博愛」のメッセージがサン=ドマングにも届けられた。フランス国民議会はすべての人が自由で平等であると宣言し、フランス軍兵士はポ ルトープランスに上陸し黒人やムラートと友愛的に交わった。しかしサン=ドマングのプランテーション経営者は人権宣言の効力を否定した。そのため各地で奴 隷の反乱が起こった。

1790-1791

トゥーサンは(裕福な有色人種の)ヴァンサン・オ ジェ()の指導する有色人種の権利を叫んだ1790年10月の反乱には加わらなかった。それらは容赦なく弾圧された。1791年8月に北県で奴隷の反乱が 起こるとトゥーサンも自分が動揺しているのに気付いた。

初めのうちトゥーサンは反乱による破壊や流血に対し 否定的であった。彼は反乱の指導者たちと関係があったのは確実だと考えられているが、数ヶ月間彼の主人の奴隷たちやその農園を保った。反乱が拡大し白人が 脅されるようになると、トゥーサンは主人とその家族をスペイン植民地サント・ドミンゴ総督領(英語版)の安全な場所へ彼自身の家族の手で逃し、自らは農園 を焼き白人やムラートを殺している奴隷たちの拠点へ向かった。トゥーサンはその後すぐに反乱指導者たちの不適切さと白人の自由主義派と妥協しようとしてい ることを非難し始めた。そして経験を生かして彼らを権威的に指導しゲリラ戦の中で訓練した。

1793

彼はジョルジュ・ビアスーの仲間になっていた。 トゥーサンはその中において階級を上げ、また彼が率いた黒人部隊は熱病にやられて指揮を欠いたヨーロッパの軍隊に対して驚くほど勝利を収めていった。フラ ンス革命戦争が起きると1793年にはスペインとフランスも戦争状態となり、黒人司令官たちはイスパニョーラ島の東3分の2を占めるサント・ドミンゴのス ペイン人を支持した。トゥーサンはナイトに叙され、将軍としても認められ、並外れた軍事的能力を見せつけて、甥のモイズ、将来のハイチの君主となるジャン =ジャック・デサリーヌやアンリ・クリストフなどの有名な戦士たちを魅了した。また彼は敵の守備を開くことが得意であったのでルヴェルチュール(フランス 語で「開く」)との別名が付けられ、これを彼は姓とした。8月29日には黒人指導者として、「兄弟と友よ、私はトゥーサン・ルヴェルチュールである。名前 は恐らく君たちのお陰で知られるようになった。私は復讐を果たした。私はサン=ドマングに自由と平等に拠る統治を望む。私はこれを実現させよう。兄弟た ち、私と共に闘う者たちよ、集まれ。同じ大義のために闘おう——— 我らの非常に謙虚にして非常に従順な僕、公益のための、国王軍将軍[3]」と認めた。 この年の後半にイギリス軍はポルトープランスを含むサン=ドマングの沿岸部の大半を占領した。

北部でトゥーサンが勝利し、南部ではムラートがこれ に続き、沿岸部をイギリス軍が占領したのでフランスも事態を認めざるを得なくなった。1793年パリの革命政府の代表部であったレジェ=フェリシテ・ソン トナとエチエンヌ・ポルヴェレは黒人に反革命軍と外国部隊に勝利すれば自由を与えると約束した。

1794

1794年2月4日ジャコバン派の国民公会はこの命 令を確認しフランス全領土での奴隷廃止を決めた。これを受けて、5月にはトゥーサンは共和主義者となりフランスに寝返った[1][4]。イギリスとスペイ ンが奴隷廃止を認めなかったためだった。トゥーサンの元同盟者への裏切りとスペイン人の虐殺は後に強く非難されることになった。トゥーサンの転向が決定的 となるとサン=ドマングの司令官エティエンヌ・ラヴォーは彼に准将の位を与えた。イギリス軍はこれに慌て、スペイン人は追放された。

トゥーサンの増大する影響力の元でフランスの黒人及 びムラート、白人の連合軍はイギリス軍とスペイン軍を破った。1794年1月にはトゥーサンの軍は1週間に7度イギリス軍を破った。トゥーサンは新しく出 てきたパンシナのムラートの指導者とも争っていた。

1795

1795年にはトゥーサンはよく知られた人物となっ ていた。黒人から尊敬を集め、多くの白人やムラートからもサン=ドマングの経済を建て直す助けになるとみられていた。彼はフランス革命政府の法を無視して プランテーション経営者が戻ることを認め、元奴隷たちを軍令で働くように命じた。彼は人々は自然には怠惰であると信じ、怠惰を防ぐためには強制も必要だと 考えた。ただし、労働者はもはや鞭打たれることはなく、法的には自由で平等であった。そして再建されたプランテーションの利益を分け合った。トゥーサンは 和解を説き、また「多数派であるアフリカ生まれの黒人は白人やヨーロッパ化されたムラートから学ぶべきことが多くある」と信じていたせいもあり、人種間の 緊張は緩和した。

1796

ラヴォーは1796年にサン=ドマングを離れた。フ ランス革命政府の弁務官の後任にソントナが就いた。彼はトゥーサンの統治を認め階級を少将に上げた。しかしトゥーサンはヨーロッパを根絶やしにしようとす る白人の過激派であるソントナに無神論、粗雑さ、倫理なき攻撃性などを観て、彼の提案を拒んだ。

1797 いくつかの策略を費やして1797年に トゥーサンはソントナを追放した。次いでフランスと交戦中であるイギリスは損失が大きかったためトゥーサンとの秘密交渉に及んだ。

1798-1799

1798年及び1799年の条約でイギリス軍は完全 撤退を保証し、サン=ドマングは利益の出る貿易をイギリス及びアメリカ合衆国と始めた。武器や商品と引換えに砂糖を売りトゥーサンは英領であったジャマイ カおよび米国南部を侵さないと約束した。イギリスは彼を独立国ハイチの王として認めると提案したが、彼はイギリスが奴隷制を続けていることを不審に思いそ れを拒んだ。イギリス軍は1798年に撤退した。

フランスによる名目の上官として総裁政府の代表者ガ ブリエル・エドゥヴィルが1798年に赴任した。エドゥヴィルはトゥーサンを南部で半独立状態であったムラートのアンドレ・リゴーと対立するように仕向け た。しかしトゥーサンはそれに気付き、エドゥヴィルを逃亡させた。エドゥヴィルの後任にはフィリップ・ルームがあたった

1799

1799年5月22日トゥーサンはイギリス及び米国 と貿易協定を結んだ。1799年10月の血腥い作戦でトゥーサンはリゴーを排除しフランスへの亡命を余儀なくし、南部のムラートの半独立国も破壊された。 このジャン=ジャック・デサリーヌによる粛清は残忍過ぎてムラートとの和解は不可能になった。

1801 

アレクサンダー・ハミルトンは米国における強力な支 援者であったが、1801年にトーマス・ジェファーソンが米国大統領に就くとハイチとの友好政策は覆された。

サン=ドマング全土を掌握すると、トゥーサンは奴隷 制を維持していた旧スペイン領サントドミンゴ(1795年のバーゼルの和約でフランス領となっていた)に転じた[4]。そしてフランスの第一執政となったナポレオン・ボナパルトの命令も無視し、1801年1月に侵攻して 24日には公式に全島を掌握し奴隷を解放した。そして委員会に諮って植民地独自の憲法を起草、公布し7月7日に施行して全イスパニョーラ島に自らの権限を 打ち立てた

トゥーサンは独裁権力に近いかたちで自らを終身総督に任じる憲法を定めた。またカトリックを国 教に定め、多くの革命的な軍令も形式的に承認された。フランスは公式には何の承認も与えなかったが、トゥーサンはフランスの自治植民地としてナポレオンに 忠誠を示した

Chez Jean rue Jean de Beauvais, No. 10, Paris - ジョン・カーター・ブラウン図書館

1802

ナポレオンはトゥーサンの地位を認めたが、彼を収益 の上がる植民地としてのサン=ドマングの回復の障害と看做した。奴隷制の再建を否定しつつも、1802年にはナポレオンの義弟のシャルル・ルクレール率い る2万人の遠征軍がサン=ドマングの再支配を試みた。遠征軍は1月20日に上陸し、トゥーサンと敵対した。トゥーサンの軍はルクレールと戦ったが、月を追う毎に彼の軍からデサリーヌやクリストフなど主だった将校たちがルクレールの側へ離脱し た。5 月7日ルヴェルチュールはフランスと奴隷廃止を条件にアンネリの農園に引退する協定を結んだ。しかし3週間後ルクレールの部隊は反乱を企てているとの嫌疑 をかけてトゥーサンを襲って家族共々捕え、軍艦でフランスへ送った。彼らは7月2日にフランスへ到着した。8月25日トゥーサンはジュラ山脈のドゥー県の ジュー要塞(英語版)へ送られ、監禁されて繰り返し拷問を受けた。

1803

1803年4月7日トゥーサンは肺炎で亡くなった。

ヘーゲルは、アダム・スミス『諸国民の富(国富論)』 を読みインパクトをうける(→ イェーナ期の著作に影響し「陶冶(Bildung)と しての労働」の概念を見いだす)『ヘーゲルとハイチ』(5, 53)。ワーズワースは「トゥサン・ルヴェルチュールに」と題するソネットを発表、黒人法典を憂うる(45)。

1804

トゥーサンの死後も戦いは続けられ、トゥーサンに鍛 えられた巧みな戦術で打撃を受けたうえに黄熱に悩まされたフランス軍はついにハイチから撤退し、1804年1月にハイチ共和国の独立が宣言された[4][5]。

雑誌「ミネルヴァ」——「世界の眼はサン=ドマング に注がれている」(43)

1805

ゲーテ(55歳)の推挙で、ヘーゲルは、イエーナ大 学の 員外教授(助教授)となる。1805-1806年のあいだに『精神現象学』が書かれる。

1807

イエーナ大学閉鎖。『バンベルク・ツァイ トゥンク』の編集者となる。ヘーゲル『精神現象学(Phänomenologie des Geistes)The Phenomenology of Spirit』あるいは"Phenomenology of Mind"を刊行。イギリスが奴隷貿易を廃止[Slave Trade Act 1807]

1808

ニュルンベルクのギムナジウムの校長兼哲 学教授。

1812-1816

ヘーゲル、大論理学 (Wissenschaft der Logik、1812-16年)Wissenschaft der Logik は英訳では、Hegel’s Science of Logic、と呼ばれている。

1817

ヘーゲル、エンチクロペディー( Enzyklopaedie der philosophischen Wissenschaften、1817年、1827年、1830年)小論理学、自然哲学、精神哲学

1818

ヘーゲル、ベルリン大学教授に就任。マルクス生誕。

1821

ヘーゲル、『法哲学(綱要)Grundlinien der Philosophie des Rechts/Elements of the Philosophy of Right』(『法 の哲学』)の刊行

1848

フランス「黒人法典」の廃止

リンク

文献

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Hegel portrait by Jakob Schlesinger 1831