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動物殺しの意味論

Semantics on Killing Animals

池田光穂

0.0 「自己の身を養うために生き物を殺すことは人間に哲学的問題を課し、あらゆる社会がその解 決を試みてきたということは何ら驚くことではない。旧約聖書はこれを堕落の間接的な帰結と した。アダムとイヴはエデンの園で木の実と穀物を食べて暮ちしていた(『創世記』第1章28 節)。人間はノア以降に初めて肉食するようになった(『創世記』第9章3節)。人間という種とそ れ以外の動物との断絶は、バベルの塔の物語つまり人間同士の分離の直前に起とっており、あ たかも後者、が前者の帰結かその特殊事例のようにみえることは意味深長である」(レヴィ=ストロース )

「神は彼ら(→創造された男と女)を祝福して言われ た、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記 1:28)/「すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与 える」(創世記 9:3)

1.0 このページ は、 私が研究協力者として関わっている日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究(A)「動物殺しの比較民族誌」(研究代表 者:奥野克巳・桜美林大学教授)研究期間:2012年4月1日〜2017年3月31日 [課題番号:50311246]における、研究協力活動に おける、私の研究上の備忘録です。ここで表現されているものは、奥野先生をはじめ、この研究グループ全体の意見を代表するものでもありません。あくまで も、この研究全体に資するものとして、私個人の意見を述べるものです。[編集 用:ページのひな形

2.0 さて、殺すという語は、まず〈生 きているも の〉を強制力をもって不可逆的に死に至らしめる行為であると、定義することができます。このような定義に対し て、我々が異論を抱きやすいのは、実は我々は生まれてから死ぬまで、現実的なもの/非現実的なもの/空想なるもの/記憶に残ったものなどのあらゆる想像の 相 において〈殺す〉という具体的なものを、好むと好まざるとに関わらず見たり聞いたり、そして体験しているからです。

3.0 他方、殺すというものが、これだけ人口に膾 炙しているにも関わらず、我々の社会を平和裏に維持するためには、この〈殺す〉という事態はなるべくさけれな ければならず、また殺すという行為は概ね非難されるべきものとなっています。ただし、殺虫剤を撒いて虫を殺したり、殺された結果の事物としての食肉を調理 して食べたり、場合によっては、狂犬病になって人を噛む危険性のある犬を薬殺するなど、やむを得ず殺さなくてはならないこと、あるいは殺されることが容認 されることも多くあります。さらに、植物のように殺しても動物のようには〈死ぬ〉とは言えないものには、我々はそれほど大きな抵抗はありません。さらに は、インフルエンザ・ウィルスをアルコールで消毒して殺すことは推奨されています。 これらのことは、殺すという用語が別の用語に換えられたり、また、典型 的に邪悪で反倫理的なこととされている殺す――例えば善良な人を邪悪な意図をもって殺す――というイメージから遠いものになっているからに他なりません。

4.0 上記の私に与えられた研究課題は「動物殺し の比較民族誌」的考察にありますので、私がここで単純明確で多くの人に異論を持たれることがない〈殺す〉とい う事柄あるいは用語と用語法に拘るのは、それほど重要でないかもしれません。しかし、医療人類学者としての私は、殺すこととには〈死〉が必然的にもたらさ れるわけですから、殺す人間、あるいは殺される動物という組み合わせにおける〈殺し〉と〈死〉のより広範な意味の広がりに関心を持たざるをえません。ある いは、そのような回りくどい遠回りをするほうが、それを所与のものとして、さっさと殺しの現場を仔細に観察する民族誌記述の、後々の考察のためには、なん らかの理論的寄与が可能かもしれません。そのような意味をもたせて、〈動物殺し〉を考えるためには、むしろ人間の文化がもたらした〈殺すことの意味〉につ いて考えるポータルページを作成しました。

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