はじめによんでください

植民地ヌエバエスパーニャと宗主国スペインのトランスアトランティックな音楽交流

Transatlantic musical exchange between Nueva España and the suzerain state of Spain

A group of Renaissance musicians in The Concert (1623) by Gerard van Honthorst./ 28 de noviembre de 1585: Fallece el compositor español del Renacimiento Hernando Franco.

池田光穂

★ 旧クレジットは「植民地グアテマラと宗主国スペイン…」だが、新大陸の植民地概念を拡張して「植民地ヌエバエスパーニャと宗主国スペイン……」に改称する (2025年8月80日)

☆ グアテマラの音楽全般については、「グアテマラの音楽」を参照のこと。征 服前のマヤ時代の音楽や独立後の音楽は「グアテマラの音楽」を、またグア テマラのスペインによる征服(1524年〜1697年)は「グアテマラの 征服」を参照にしてください。ここでは「グアテマラおけ る植民地時代の音楽」を植民地グアテマラと宗主国スペインの間のトランスアトランティックな関係として描く。

グアテマラおける植民地時代の音楽は「(1)ルネンサンス 期」と「(2)バロック期」に分けられる。なお、この時代以降(植民地が独立する以降)の音楽ジャンルは「(3)古典派と(4)ロマン主義」にわけられ る。

★ グアテマラ(ヌエバ・エスパーニャ)とスペイン・イベリア半島(→「スペインの音楽」) のあいだの「トランスアトランティック」な関係

スペインの黄金時代(スペイン語:Siglo de Oro ; 黄金世紀」)は、スペインのカトリック両王とスペイン・ハプスブルク家の治世下でスペイン帝国が政治的に台頭した時代と一致する。

植民地グアテマラと宗主国スペインのトランスアトランティックな音楽交流

植民地対位法:初期マニラにおける音楽(Colonial counterpoint : music in early modern Manila, by D.R.M. Irving)
聖なる音:現代フィリピンのカソリック典礼音楽(ロラン・ アンブローシオ)

イベリア世界の宗教音楽、1450年~1800年:ヴィリャンシーコとその関連ジャンル

★ 研究の構想

1)研究の目的

この研究、すなわち「植民地グアテマラと宗主国スペインのトランスアト ランティックな音楽交流」は、16世紀中頃から19世紀初頭までのルネサンスおよび バロック期における、スペインと新大陸における聖俗音楽が大西洋を挟んでどのように交流したのかということを文献と現地調査をもとに明らかにすることが目 的である。従来の音楽史研究では、それぞれの地域(本研究課題ではスペインと新大陸のグアテマラ)での音楽のありさまを別個におこなわれてきたものを「大 西洋を跨いだ人的ないしは文化的交流」の観点から明らかにする。
この目的を実現するためには、グアテマラ(およびヌエバ・エスパー ニャ)における植民地の音楽事情を明らかにするだけでなく、カトリック典礼音楽や讃美歌 がどのような経緯で現地に導入されたのか、どのようにして定着、受容、あるいは取捨選択されたのか、またそのルーツはどこまで遡れるのかについて、検討さ れる必要がある。新大陸への布教の過程でイベリア半島起源の楽器や楽曲を導入するだけなく、現地での楽器製作や、伝統楽器との融合などが明らかにする。さ らに、宣教師たちは、イベリア半島で流行している世俗音楽のヴィリャンシーコ(現在ではクリスマスキャロルと翻訳されるが)が導入され先住民に親しめる音 楽形式にのせてカソリックの布教をおこなってきたことが示唆されており、またそれに対する実証的証拠をさらに探求する(Lehnhoff 2005)。典礼音楽では、植民初期のルネサンス音楽は、ヌエバエスパーニャの文化的中心地であったメキシコを経由して、グアテマラに導入されたことが指 摘されてきた。しかし植民がさらに進みバロック音楽の時代には、教区教会の作曲も兼ね備えた音楽演奏主任すなわちチャペル・マスター (compositor y maestro de capilla)がグアテマラでも設置されて、独自の作曲普及活動もさかんになった可能性がある。植民地で名声を得たチャペルマスターはイベリア半島の教 会にも招へいされ、大西洋を超えた音楽交流も存在した。植民地のスペインからの独立後の、古典派やロマン主義の時代には、教会音楽から西洋クラシック音楽 教育がはじまり、同じスペイン語言語圏やさらにはフランス、ドイツ、イタリアに留学するグアテマラ出身の音楽家も輩出したようである。ただし、これらは、 予備調査による作業仮説であり、本申請調査研究により、その細部の妥当性を検討する。
2)その研究目的を達成するための研究方法

植民地グアテマラと宗主国スペインのアトランティックな音楽交流という 本研究課題の上記目的を達成する方法は、(1)インターネットアーカイブを含めた資料(文字や音源情報)資料収集とその解析、(2)専門家に対するヴァー チャルおよびリアルによるインタビュー調査、そして(3)現在の音楽家たちの訪問ならびに演奏家の実演に触れる参与観察、の3つの柱からなるものとする。 まず(1)では、スペイン・マドリードのUniversidad Complutense 、スペイン・バルセロナにあるMuseu de la Música de Barcelona 、メキシコのPalacio de Bellas Artes の芸術アーカイブへの訪問調査、(2)ではグアテマラの音楽家で音楽史研究者Dieter Lehnhoff氏への訪問調査をおこなう。(3)では、スペイン・マラガのInteractive Music Museum の訪問調査とマラガの地方音楽のPanda de Verdialesの演奏家たちへのインタビューと参与観察。メキシコ・サンクリストバル・デ・ラス・カサス市ならびにグアテマラのコバン市の伝統音楽演 奏家への訪問調査と、両者の教会音楽活動の参与観察をおこなう。そして、さらに(4)それらの資料を日本で分析し、研究目的で提示した作業仮説の検証を行 い、その結果を国内の専門家や宗教典礼音楽の作曲家に聞いてもらい、アドバイスを得る。確証を得たものにつき(5)国内外のとりわけ民族音楽学会(日本音 楽表現学会; Society for Ethnomusicology)等で発表をおこない、成果発表をおこなうとともに、参加者から助言を収集し、最終的に、上記作業仮設の妥当性を点検す る。

3)応募者の研究遂行能力

池田は『暴力の政治民族誌』(大阪大学出版会, 2020)を上梓し、グアテマラ先住民マヤ系マムの内戦時から和平合意後ならびにネオリベラル政治経済状況のなかでの、移民、文化復興、地方自治などの テーマをとりあげ、先住民の足元からの脱植民地化の社会過程に35年以上調査してきた。近年ではキューバ出身の女性サルサ歌手が東西冷戦に巻き込まれつつ も、歌詞歌謡のなかにマチズムと戦うラテンアメリカの女性の足元からの「抵抗の実践」を日本音楽表現学会で発表(2024)し、従来のプロテストソングと は異なる詩的な政治実践について考察している。池田はグアテマラ先住民言語であるマム語を使うことができ、ケクチ語の基礎文法についても調査し、ホーム ページで公開している。

1)この研究構想に至った背景と経緯

池田は、この研究のプロセスで長崎のかくれキリシタンの祈り「オラ ショ」の資料をまとめた故・皆川達夫教授の業績に触れた。皆川教授は、「オラショ」を楽譜に起こし、ラテン語への復元作業を行い、バチカン図書館や、来日 宣教師の故郷であるスペイン、ポルトガルを訪問するなどして調べ、グレゴリオ聖歌に由来することを発見している。このことが契機になり、我々は「オラ ショ」のほかにも、中世やルネサンス期に、膨大な数の典礼歌を記憶することと、韻律の記憶が「定型」により特徴づけられる現象と似ていることに気がつい た。つまり、ホメーロスの文体が、計量的条件のもとで与えられたアイデアを表現するために適応された固定表現、すなわち「定型」の多用によって特徴づけら れることを実証したミルマン・パーリの研究のことを想起させる。枕詞の係り結び、韻律による手がかりが、膨大な口承定型文のホメーロスのような長い詩句を 朗詠可能にするパーリの「口承定型仮説」のことである。そのことを含めて大西洋の両端の音楽伝統の相互関連性を明らかししようと考えた。これが本研究の着 想に至った経緯である。

2)挑戦的研究としてどのような意義や可能性を有するか

本研究の意義は次の3つにまとめられよう。
1.音楽はそれが育まれた土地や社会において自立的に発展していくという従来の音楽史の観点に対して、時空間を超えた「音楽の移動」という新たな分析視角 を導入したこと。
2.スペインの音楽史、グアテマラの音楽史という、それぞれ別々の独立した音楽史研究ではなく、トランスアトランティックな移動という観点から、植民地時 代を中心に、すでに文化のグローバリゼーションがおこっていたという「新しい音楽史」のあり方を提唱した。
3.2つの異なった地域の音楽を、対比対照することで、エドワード・サイードが提唱した「対位法的読解」の手法が、音楽史研究においても利用可能であるこ とを示し、この手法が、本研究課題以外の地域でも挑戦可能な方法論をしての可能性を見出したこと。




1524以前
1524 キチェ族の敗北
1525 メキシコにはじめてのカテドラルが建設【グアテマラ・メソア メリカ】
【スペイン・イベリア半島】
イサベル1世統治(1474-1504)——カスティリャ
・フェリペ1世統治(1506)
・「ヴィリャンシーコ(villancico [biʎanˈθiko])またはヴィランチェーテ(ポルトガル語 vilancete、発音)は、15世紀後 半から18世紀にかけて流行したイベリア半島とラテンアメリカの一般的な詩と音楽の形式である
1525-1550
1525 ペドロ・デ・アルバラドが現在のグ アテマラ地方に到達
1529 サン・マテオ・イクスタタン、サンタ・エウラリア、ハカルテナンゴが征服(ドミニコ会宣教師が入る)
エルナンド・フランコ(Galizuela, 1532 - Mexico, 28 November 1585)
カ ルロス1世統治(1516-1556)
初期ルネサンスでは、マテオ・フレチャ・エル・ビエホとカスティーリャ の劇作家フアン・デル・エンシーナが、アルス・ノヴァ後の時代における主要な作曲家の一人として挙げられる。ルネサンス期の歌集には、カンシオネロ・デ・ パラシオ、カンシオネロ・デ・メディナセリ、カンシオネロ・デ・ウプサラ(カロリナ・レティビバ図書館所蔵)、カンシオネロ・デ・ラ・コロンビーナ、およ び後世のカンシオネロ・デ・ラ・サブラノラなどがある。オルガニストのアントニオ・デ・カベソンは、鍵盤楽器の作曲と演奏で際立っている。(→出典「スペインの音楽」)
Tomás Luis de Victoria, 1548-1611
Alonso Lobo, 1555-1617
Luis de Milán, c.1500-c.1561
・1541 エル・グレコが生まれる(〜1614)
・1547 ミゲル・デ・セルバンテスが生まれる(〜1616)【スペインルネサン スの時代】(〜1600)
1551-1575
1570頃 ガスパール・フェルナンデスが生まれる。
・「16世紀後半から17世紀後半にかけて、ドミニコ会の宣教師たちはベラパスとペテン南部で平和的な改宗活動を行ったが、ささやかな成功にとどまった」


16世紀初頭にスペインで発展したポリフォニーの歌唱スタイルは、フラ ンドル・フランスの作曲家のスタイルと密接な関係があった。これらのスタイルの融合 は、神聖ローマ帝国とブルゴーニュがスペイン王カルロス1世(在位1516年~1556年)の領土の一部であった時代に起こった。北欧の作曲家たちがスペ インを訪れ、スペインの作曲家たちがオランダ、ドイツ、イタリアにまで広がっていた神聖ローマ帝国の領土内を旅したからである。ルイス・デ・ミラン、アロ ンソ・ムダーラ、ルイス・デ・ナルバエスがビウエラのために作曲した音楽は、この時代の主な成果のひとつである。アラゴン出身のガスパール・サンツは、ギ ターの最初の学習方法を著した。ルネサンス期のスペイン人作曲家には、フランシスコ・ゲレロ、クリストバル・デ・モラレス、トマス・ルイス・デ・ビクトリ ア(後期ルネサンス期)などがおり、彼らは皆、キャリアの大部分をローマで過ごした。後者は、ポリフォニーの完成度と表現力の強さにおいて、パレストリー ナやラッススに匹敵する、あるいはそれ以上のレベルに達していたと言われている。[要出典] スペインの作曲家の多くは、晩年になってから海外での旅から故郷に戻り、自国の音楽界に自らの音楽的知識を広めたり、16世紀後半にはフェリペ2世の宮廷 で仕えたりした。(→出典「スペイン の音楽」)
・1651 ルイス・デ・ゴンゴラが生まれる(〜1627)

1576-1600
1598 ペドロ・ベルムーデスがサンティアゴ・デ・グアテマラに到着
1599-1606 Gaspar Fernández, Maestro de capilla de la Catedral de Guatemala

1601-1625
1611 エルナンド・フランコ合唱曲集を提出
1609頃 ガスパール・フェルナンデスは聖歌集を作曲
マイティネス(maitines)のヴィリャンシーコが好まれるようになる
・「 17世紀、フランシスコ会の宣教師たちは、ペテン・イッツァ湖のイツァ王国が独立したままである限り、マヤの平和化とキリスト教への改宗は不可能であると いう結論に達した」
バロック音楽の時代】(1600〜1750)
1626-1650
1648 ソル・ ファナ・イネス・デ・ラ・クルスが生まれる(〜1695)
1651-1675

・1659年ピレネー条約(西仏戦争の終戦条約)
スペインでは交響曲はあまり重要視されてこなかったが、室内楽、独奏楽 器(主にギターとピアノ)、声楽、オペラ(伝統的なオペラとスペイン版ジングシュピール)は、地元の作曲家によって作曲された。スペイン語のオペラである サルスエラは、セリフを含むオペラの一種で、17世紀半ばに発展した世俗音楽のジャンルであった。(→出典「スペインの音楽」)
1676-1700
・ 「1695年、フランシスコ会の修道士アンドレス・デ・アベンダニョはイツァ族を改宗させようと2度目の試みを行い、1696年か1697年に始まるマヤ 暦 の20年周期であるクアトゥン8アジャウが、イツァ族が最終的にキリスト教を受け入れ、スペイン王を自分たちの支配者として受け入れる適切な時期であると イツァ族の王を説得しようとした。 しかし、イツァ族にはこの改宗に反対する地元マヤの敵がいたため、1696年にアベンダニョは再び命からがら逃げ出さなければならなかった」
・1681年ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカPedro Calderón de la Barca, 1600-1681)が死ぬ。これをもってスペイン黄金時代は終わるといわれる。
17世紀末には、スペインの「古典的」音楽文化は衰退し、19世紀まで その状態が続いた。スペインにクラシック音楽が到来した際には、アントニオ・ソレールの作品に見ら れるように、イタリアのモデルからインスピレーションを受けていた。ドメニコ・スカルラッティルイジ・ボッケリーニといっ た傑出したイタリア人作曲家もマドリードの王宮に迎えられた。短命に終わったフアン・ク リストバル・アリアガは、スペインにおけるロマン派交響主義の主な開拓者として評価されている。[要出典](→出典「スペインの音楽」)
Giuseppe Domenico Scarlatti (26 October 1685 – 23 July 1757)
1701-1725


1726-1750
1738 マヌエル・ホセ・デ・キロスはサンティアゴ・デ・グアテマラ 大聖堂のマエストロ・デ・カピージャに任命される
1740 ラファエル・アントニオ・カステジャーノスが声楽曲を作曲
【古 典派音楽の時代】(1730-1820)
Ridolfo Luigi Boccherini ( 19 February 1743 – 28 May 1805)
Antoni Soler i Ramos (baptized 3 December 1729 – died 20 December 1783)
1751-1775
1773 サンティアゴ・デ・グアテマラは地震で壊滅的被害、グアテマ ラシティへの遷都

1776-1800
1780 ペドロ・ノラスコ・エストラーダ・アリストンドの最初の作曲
Fernando Sor (baptised 14 February 1778 – 10 July 1839)
Dionisio Aguado y García (8 April 1784 – 29 December 1849)
・このころまでヴィリャンシーコが 流行していた。
1801-1825

【ロ マン派音楽の時代】(1800-1910)
Juan Crisóstomo Jacobo Antonio de Arriaga y Balzola (27 January 1806 – 17 January 1826)
1826-1850

Felip Pedrell Sabaté (Spanish: Felipe) (19 February 1841 – 19 August 1922)
Francisco Asenjo Barbieri (3 August 1823 – 19 February 1894)
1851-1875

セリフのあるスペイン独自のオペラであるサルスエラは、 17世紀半ばに発展した世俗的な音楽ジャンルであり、1850年以降に最も盛んになった。フランシスコ・アセンホ・バルビエリはロマン派のサルスエラの発 展に重要な役割を果たした。一方、ルペルト・チャピ、フェデリコ・チュエカ、トマス・ブレットンといった後世の作曲家たちは、19世紀末にサルスエラを絶 頂期へと導いた。20世紀を代表するサルスエラの作曲家には、パブロ・ソロサバルやフェデリコ・モレノ・トロバなどがいる。(→出典「スペインの音楽」)
Francisco de Asís Tárrega y Eixea (21 November 1852 – 15 December 1909)
Isaac Manuel Francisco Albéniz y Pascual (Spanish pronunciation: [iˈsak alˈβeniθ]; 29 May 1860 – 18 May 1909)
1876-1900

Miguel Llobet Solés (18 October 1878 – 22 February 1938)
1901-1925

【モ ダニズム音楽の時代】(1890-)

1926-1950


1951-1975

【コ ンテンポラリー音楽の時代】(1945-)

1976-2000


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18 世紀のヴィリャンシーコの楽譜(グアテマラの典礼音楽)——La Música de Guatemala en el siglo XVIII = Music from eighteenth-century Guatemalaより

Omar Morales Abril氏によるFaceBookの投稿(2025年9月 30日)


Libranza: "Señor Cristóbal Ibáñez, mayordomo de la santa iglesia catedral de esta ciudad de Santiago de Guatemala, de cualesquier maravedís y pesos de oro de su cargo, pertenecientes a la dicha santa iglesia, dará vuestra merced y pagará al padre Gaspar Hernández, presbítero, rector del colegio de la Asunción de esta ciudad, quince pesos de oro de minas que le pertenecen y ha de haber por nueve meses que ha servido de tañer el bajón en la dicha catedral, que comenzaron a correr los seis de ellos desde primero de enero del año próximo pasado de mil y seiscientos y dos hasta fin de junio del mismo año, y los otros tres meses, desde primero de julio hasta fin de diciembre, porque dejó de servir tres meses en este tiempo, como de todo consta y parece por certificación del maestro de capilla Pedro Bermúdez. Déselos vuestra merced y págueselos y tome su carta de pago, con la cual y esta libranza le serán recibidos y pagados en cuenta, por la persona que se la hubiere de tomar, de los bienes de la dicha santa iglesia. Dada en la ciudad de Santiago de Guatemala en catorce de enero de mil y seiscientos y tres años. Fray Ioannes, Episcopus Quatemalensis [Rúbrica]. Esteban López, arcediano de Guatemala [Rúbrica]. El canónigo Lucas Hurtado [Rúbrica]".

リブランサ:「クリストバル・イバニェス様、グアテマラのサンティアゴ市にある聖なる大聖堂の執事よ、その聖なる教会に属する、あなたの職務上のあらゆる マレヴェディスおよび金ペソを、この街のアスンシオン学院の司祭であり学長であるガスパール・エルナンデス神父に、 15ペソの金貨を、同大聖堂でバホンを鳴らす職務を9ヶ月間務めたことに対する報酬として、お支払いください。その9ヶ月間は、昨年1602年1月1日か ら同年6月末までの6ヶ月間、 また、7月1日から12月末までの3か月分は、この期間に3か月間奉職を休んだため、すべては、礼拝堂長ペドロ・ベルムデスによる証明書に記されている通 りである。貴殿は彼にこれを支払い、その支払い証明書を受け取ること。それにより、この支払証明書とともに、当該聖なる教会の資産から、それを受け取った 者が、その口座に受け取り、支払いを行う。1603年1月14日、グアテマラの都市サンティアゴにて。フライ・ヨハネス、グアテマラ司教 [署名]。エステバン・ロペス、グアテマラ大司教 [署名]。ルーカス・ウルタド司教 [署名]。

Carta de pago detrás de la libranza: "Recibí de Cristóbal Ibáñez los quince pesos de minas de la libranza de esta otra parte y por la razón en ella contenida, en cuarenta y nueve tostones y dos reales y medio. Y por ser verdad, lo firmé de mi nombre, en Guatemala, a dieciocho de enero de mil y seiscientos y tres años. Gaspar Fernández [Rúbrica]".

支払いの手紙(リブランサの裏面):「クリストバル・イバニェスから、このリブランサに記載された理由に基づき、鉱山で採れた15ペソを、49トストンと 2レアル半で受け取った。真実であることを証するため、グアテマラにて、1603年1月18日に署名する。ガスパール・フェルナンデス[署名]」

Colegio Seminario de la Asunción, Libro de fundación y constituciones, Acta de fundación, 12 de julio de 1598:

"Nos, Don Fray Gómez de Córdova, por la gracia de Dios y de la santa sede apostólica obispo de Guatemala y del Consejo de su majestad, etcétera, decimos que por cuanto, poniendo en efecto y en ejecución la fundación del colegio y seminario de la Asunción de Nuestra Señora, que en la instrucción y establecimiento de suso por nos hecho se contiene y declara, habiéndose aderezado y acomodado en el orden necesario para ello las casas que para la institución de él dio el padre Hernán Sánchez de Escobar, clérigo presbítero, por nos fueron escogidos y elegidos de presente, por rector y colegiales para el dicho colegio, el padre Esteban López, clérigo presbítero, por rector, y Gaspar Fernández, diácono, Diego de Vargas y Pablo de Vargas, infante, ordenantes de corona y grados, por colegiales mayores..."

アスンシオン神学校、創立書および憲法、創立文書、1598年7月12日:

「我ら、ドン・ゴメス・デ・コルドバは、神の恩寵と聖なる使徒座の恩寵により、グアテマラ司教および陛下の評議会のメンバーなどである。我々は、聖母マリ アの昇天の大学および神学校の設立を実行に移し、その設立および運営に関する指示および規定を我々が作成し、そのために必要な準備を整え、その設立のため に司祭であるエルナン・サンチェス・デ・エスコバル神父が提供した家屋を整備したことから、 我々は、当該カレッジの学長として司祭エステバン・ロペス神父を、また上級生として、助祭ガスパール・フェルナンデス、ディエゴ・デ・バルガス、パブロ・ デ・バルガス(王冠と学位の授与者)を選出した...」

Colegio Seminario de la Asunción, Libro de Fundación y Constituciones, 24 de agosto de 1597, capítulo décimo.
Brevete: "10. De qué tierra han de ser los colegiales".
Capítulo décimo:
"Ítem, que los dichos colegiales hayan de ser y sean naturales de este obispado, de cualquiera ciudad, villa o lugar, como se ordena en el capítulo octavo de estos estatutos. Y si pudiere ser, sean descendientes de conquistadores o antiguos pobladores. Y lo mismo se guarde en los niños de doce a dieciséis años que se instituyeren y criaren en el colegio, con hábito o sin hábito de colegiales; si no, recogidos en él con hábito decente, e hijos de padres meros españoles si pudieren ser, y si no, que a lo menos no sean hijos de india y mero español ni de mestizo y mestiza, ni de judíos ni moros ni negros ni penitenciados por el santo Oficio de la Inquisición, ni descendientes de ellos. Pero bien se permite que, siendo señalados en ingenio y virtud, sean hijos descendientes de meros españoles y de mestiza, hija de india y de español o criollo; que no sea, como dicho es, mestizo en primero ni segundo grado".
Apostilla al margen derecho: "Ojo".

アスンシオン神学校、創立書および憲法、1597年8月24日、第10章。
ブレビテ:「10. 生徒はどの土地の出身者であるべきか」。
第10章:
「また、当該生徒は、この教区内のいずれかの都市、町、または地域の出身者であるべきであり、また実際にそうであるべきである。これは、本規定の第8章で 定められている通りである。可能であれば、征服者や古くからの入植者の子孫であることが望ましい。また、12歳から16歳までの子供たちについても同様で あり、彼らは修道院で教育を受け、修道院の服を着用するか否かを問わず、修道院で育てられる。そうでない場合は、適切な制服を着用して同校に受け入れら れ、両親が純粋なスペイン人であることが望ましい。それが不可能な場合は、少なくとも、インディアスと純粋なスペイン人の子、メスティソとメスティーソの 子、ユダヤ人、ムーア人、黒人、聖職者による異端審問で有罪判決を受けた者、およびそれらの者たちの子孫であってはならない。ただし、才能と徳に優れてい る場合は、純粋なスペイン人とメスティーソ(インディアスとスペイン人またはクリオージョの娘)の子孫であることも許される。前述のように、第一世代また は第二世代のメスティーソであってはならない。
右余白の注記:「注意」。
Otro ministril nombrado “Hernández” en las libranzas del cabildo recibió quince pesos de oro de minas por tocar el bajón durante nueve meses de 1602, “porque dejó de servir tres meses en este tiempo, como de todo consta y parece por certificación del maestro de capilla Pedro Bermúdez”. En la carta de pago firma “Gaspar Fernández”, al igual que en todos los documentos con su rúbrica en Guatemala y en Puebla, así como en su cuaderno de composiciones ahora conservado en el Archivo Histórico de la Arquidiócesis de Antequera-Oaxaca.

El salario de quince pesos de oro de minas —equivalente a 49 tostones y dos reales y medio— por nueve meses, es mayor al de los ministriles indígenas. Haciendo cuentas, el salario anual de bajonero de Gaspar Fernández era de 20 pesos de oro de minas (o sea, 66 tostones exactos), es decir, el triple que el salario anual de 20 tostones de los ministriles indígenas de apellido Hernández… pero apenas la décima parte del de los ministriles Andrés de Pro y Diego de Sosa, que ganaban 600 tostones al año. ¿Por qué tan notables diferencias de salario?

Gaspar Fernández fue uno de los estudiantes que ingresó al colegio de la Asunción al fundarse en 1598, cuyos estatutos indicaban que los colegiales debían ser “naturales de este obispado, de cualquiera ciudad, villa o lugar […] y si pudieran ser, sean descendientes de conquistadores o antiguos pobladores”. El mismo capítulo 10 de los estatutos apela explícitamente a la limpieza de sangre, aunque matiza: “Pero bien se permite que, siendo señalados en ingenio y virtud, sean hijos de descendientes de meros españoles y de mestiza, hija de india y de español o criollo”. ¿La diferencia de salarios podría reflejar alguna condición étnica, como en el caso de los ministriles indígenas Miguel y Domingo Hernández, contemporáneos suyos?

De cualquier manera, su condición de clérigo de corona y grados en 1596, de clérigo presbítero en 1601 y posteriormente la de maestro de capilla de las catedrales de Guatemala (1603-1606) y de Puebla (1606-1629), afianzan la idea de que Gaspar no pertenecía a la misma familia de ministriles indígenas de apellido Hernández, aunque algunas libranzas del cabildo se refieran a él como “Gaspar Hernández”.
市議会の給与台帳に「エルナンデス」と記された別の楽師は、1602年 の9か月間にバホンを演奏したことで15ペソの金貨を受け取った。これは「この期間に3か月間勤務を怠ったためであり、そのことはすべて記録に残ってお り、礼拝堂長ペドロ・ベルムデスによる証明書からも明らかである」とされている。支払いの手紙には「ガスパール・フェルナンデス」と署名されている。グア テマラやプエブラで彼が署名したすべての文書、そしてアンテケラ・オアハカ大司教区歴史資料館に現在保存されている彼の作曲ノートにも同様の署名がある。

9ヶ月間の15ペソの金鉱山ペソ(49トストンと2レアル半に相当)という給料は、先住民の音楽家たちの給料よりも高い。計算すると、ガスパール・フェル ナンデスの年間給与は20ペソの金(つまり、正確に66トストン)であり、これは、ヘルナンデスという姓を持つ先住民の音楽家の年間給与20トストンの3 倍である。しかし、アンドレス・デ・プロとディエゴ・デ・ソーサという音楽家の年間給与600トストンの10分の1にすぎない。なぜこれほど顕著な賃金格 差があったのか?

ガスパール・フェルナンデスは、1598年に設立されたアスンシオン学院に入学した学生の一人だった。同学院の規定では、学生は「この司教区、あるいはあ らゆる都市、町、地域の出身者であり、可能であれば征服者や古くからの入植者の子孫であること」と定められていた。同規定の第10章では、純血を明示的に 要求しているが、「ただし、才知と徳に優れている場合は、純粋なスペイン人の子孫、あるいはインディアスとスペイン人、あるいはクリオールの娘であるメス ティーソの子孫も認められる」と補足している。給与の差は、彼の同時代人である先住民出身の音楽家ミゲル・エルナンデスとドミンゴ・エルナンデスの場合の ように、民族的な条件を反映しているのだろうか?

いずれにせよ、1596年に王室聖職者、1601年に司祭、その後グアテマラ大聖堂 (1603-1606年)およびプエブラ(1606-1629年)の大聖堂の楽長としての地位は、ガスパールがエルナンデスという姓を持つ先住民の音楽家 たちと同じ一族に属していなかったという見方を裏付けている。ただし、市議会によるいくつかの免除令では、彼は「ガスパール・エルナンデス」として言及さ れている。
https://x.gd/fqO97
Omar Morales Abril氏によるFaceBookの投稿(2025年9月30日


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