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中米先住民運動と政治的アイデンティティ

Central American Indigenous Movements and Political Identity

メ キシコとグアテマラの 比較

独立記念日にグアテマラ国旗をもち行進する

池田光穂

私たちの研究は、メキシコとグアテマラ両国における 先住民(先住民族)について、先住民運動の中にみられる政治的アイデンティティについて現地に赴く民族誌調査を通して明らかにしてきた。具体的には、世界 の他の地域での民主化要求運動、すなわち自治権獲得運動、言語使用の権利主張や言語復興、土地問題、国政への参加、地方自治などの研究を通して、(a)外 部から見える社会的な政治文化としての「抵抗」の実践と(b)内部の構成員から現れてくる文化政治を実践する際の「アイデンティティ構築」という二つの モーメントと、その組み合わせのダイナミズムからなる資料を数多く得ることができた。
Our ethnographic research project clarified the political identities of indigenous movements in both Mexico and Guatemala. Specifically this study examines their own concept of "indigenity" relating with various their "democratic demand movements" e.g. the right of autonomy, right of use of native language, language revitalization program, anti-discrimination movement, land-tenure conflict, anti-mining movement, political participation in both national and local government, and so on. We can identify roughly two major moments entangled with various historical, sociological, and political elements in these democratic demand movements; (a) contested situation of indigenous "resistance" as their creative political culture that we can observe from outside of their communities, and (b) their "identity construction and formation of indigenity" as a part of cultural politics that can be emerged by their community membership.

中米先住民運動の民族誌学的研究を通した「先住民概念」の再検討 この研究は、メキシコとグアテマラの両国に おける先住民というアイデンティティを土台にした 社会運動の隆盛とそれに対応する両国家による先住民への具体的な民主化政策を考量しつつ学際 的に検討することを通して「先住民・先住民族」の現状を明らかにする
中米先住民運動と政治的アイデンティティ:メキシコとグアテマラの比較(2010年 の学会発表) 過去20年間における中米先住民運動にとってエポックメイキングなことを挙げるとすれば、それは1994年元旦のサパティスタ国民解放軍のチア パス州における蜂起と、1996年12月29日のグアテマラ国民革命連合と政府の和平合意である
政治的アイデンティティと先住民運動 政治的アイデンティティとは、自己の存在 を政治的存在 (political being)として意識するとき、その主体(=個人)が同一化(=アイデンティファイ)する政治的思想、党派、イデオロギー、政治家などの個人やその生き 方などのことをさす(私たちは「人種」や「先住民」 の概念もまた政治的アイデンティティのひとつだとも考えています)。
先住民の帰属アイデンティティと社会実践 この研究は、メキシコとグアテマラの両国 における先住民という帰属アイデンティティを土台にした社会運動の隆盛とそれに対応する両国家による先住 民への具体的な民主化政策を考量しつつ学際的に検討することを通して、彼/彼女らの「文化」と「政治」の強い結びつきの現象の実態を解明し、冷戦後の世界 における社会統治における重要な2つの概念の再考を試みるものである。
普天間問題とわれわれ 沖縄県の米軍の普 天間(ふてんま)基地の辺野古沖海上ヘリポート場への移転 問題を、地元民(=紛争当事者)という観点から考察することを通して、いかにして、非地元民(=紛争当事者でない人)が、この問題に関わり、自分たちの主 張を地元民たちと〈共有された議論〉に展開することができるのか、ということに関する基礎的な認識論上の作業を試みます。
先住民がもたらす「文化と政治」概念の再考という提案から学ぶ 1970年代まで農民運動は左翼を中心に して土地回復要求の階級闘争であった。他方、冷戦後90年代に隆盛する先住民運動は文化的アイデン ティティの承認を求める差異化の政治現象とみなされ共に「政治」と「文化」の断絶が存在するといわれている。本研究は、先住民人口が1千万人に及ぶメキシ コと、先住民が総人口の過半数というグアテマラという社会の比較を通して、「政治」と「文化」概念の断絶を、次の2点に着目し検証する。(1)階級闘争と 差異の政治学が同一の目標を目指した解放運動であることの可能性、(2)先住民運動は文化を守る必要よりも、農民運動組織が発達していた地域で起こった政 治運動であることの可能性とその原因、および諸現実の解明である
ゲイ・レズビアンからクイア・アイデンティティへ アイデンティティ・ポリティクスあるいは アイデンティティの政治(またはアイデンティティの政治学)とは、アイデンティティに基づく集団の 利益を代弁して行う政治活動のことである。ここで焦点化されるアイデンティティとは、ジェンダー、人種、民族、先住民、性的指向、障害などの、いわゆる社 会的不公正の犠牲になっている人々のカテゴリーのものであるが、必ずしも少数派である必要はなく、その集団が他の集団から特異な差異をもちうる時には、ア イデンティティに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動が可能になる。社会的に抑圧されているアイデンティティ集団に属する人びとは、彼/彼女らに共通 の社会課題に取り組むため、それらのアイデンティティのもとに団結してすることがみられ、それが多数派にとっても、是正しなければならない課題になるとき に、その権力性を有効に発揮することができる。アファーマティブ・アクションはアイデンティティ政治が社会的不公正を是正し改善し時に立法化するために推 進する政治的威信行為である(→「アイデンティティ・ポリティクス」)。
先住民のアイデンティティについて考える:グアテマラ西部のマヤ系 先住民の事例 マムはマム語を話すグアテマラでは第三番 目に人 口の多い——さまざまな統計があるが数十万以上——言語集団である。1996年末の和平合意後に形成された政府系のグアテマラ言語学アカデミー公認のマヤ 系の「言語コミュニティ」であると同時に文化集団である。このことは、社会経済変化のニーズに伴う新語辞典や、同言語使用地域の地名辞典の編纂においてマ ム語の使用が、その地域の「文化」を規定するという制度化と軌を一にしていることからもわかる。しかしながら政治的に脱色化されたこれらの「教材」が現実 には十分に社会に膾炙したり公教育に有効にフィードバックしているとは言い難く、先住民アイデンティティをこれらに帰属させることは困難である。
グアテマラ先住民運動・ノート Fisher, Edward F.,1996. Induced Culture Change as a Strategy for Socioeconomic Development: The Pan-Maya movement in Guatemala. In "Maya Cultural Activism in Gualtemala," Edward F. Fisher and R. McKenna Brown eds., Austin: University of Texas Press.
民族的アイデンティティ アメリカでは、政治経済的難民化がマヤと いう共同性を構築した。しかし、それらは容易にグアテマラ人(Guatemalteco/-a)に節 合する。それを推し進めるのは、民族集団の凝集性が、コミュニティ出身の集団を形成するにはサイズが小さく、また小さな分節部分を統合するには、より大き く、歴史的に凝集度の高い集合的カテゴリーである「国家」が動員される。
太田好信編『政治的アイデンティティの人類学:21世紀の 権力変容と民主化にむけて』昭和堂書評 編者は、政治的アイデンティティを含め て、権力(パワー)により 構築される範疇とみなす発想が、人びとが直面している歴史認識、国家とそれに帰属する少数民との権力関係、多様性を認めつつもそれが国民国家の統合を揺る がすのではないかという多数派への危惧などの難問に回答を与えるのではないかと示唆する(p.26)。そして範疇による本質化が否定され、政治権力が担保 され、社会から排除がなくなれば、財産・人種・宗教・ジェンダー・文化的実践などの「構造化の土台となった特徴は……集団化の原則として無意味になるだろ う」(ibid.)と述べる。だが、寄稿された諸論文には、権力により構築される範疇が、様々な政治過程の中で解体されると同時に、別の権力過程により再 構築、再々構築されてゆく様を、読者は見る(=読む)ことになる。範疇による本質化が否定されることが(ヘーゲル的な意味で)止揚され社会から排除がなく なるのは、それだけでは自明な過程ではありえない。
ウィル・キムリッカの「多文化主義」講義 W・キムリッカ『新版 現代政治理論』千 葉真ほか 訳、日本経済評論社、2005年(Will Kymlicka, Contemporary Political Philosophy: An Introduction. Second Edition. Oxford University Press, 2002. 497 pp., Chap.8, Pp.327-376)および、Multicultural odysseys : navigating the new international politics of diversity / Will Kymlicka, Oxford : Oxford University Press, 2007.
少数民族の未来は? 私は大学で文化人類学を学びたい高校3年 生です。両親の仕事の関係で、以前シンガポールやマレー シアに3年暮らしたことがあります。そこで質問です。もし、これらの新興国の政府が少数民族に対して、彼らが住んでいる土地の物質的資源の利用に関する権 利を、ほかの自国民と対等なものに与えたら、彼らのもっている民族的アイデンティティはいったいどのようになるのでしょうか?
ブルーノ・バウアー(Bruno Bauer 1809〜1882) 1843年「ユダヤ人問題に寄せて」のな かでマルクスは、ユダヤ人がキリスト教国家と調停するために[国家制度によるユダヤ人の保証と見返り に]ユダヤ教の棄教を考慮すべきであるという考えを展開するヘーゲル左派であったB・バウアー(Bruno Bauer, 1809-1882)を批判して、国家が人間の解放を保証するあり方を〈政治的〉 とするならば、ユダヤ人性を保証しつつ国家と交渉するユダヤ人は政治のカテゴリーで自らを考えているとした。ロバート・マイスター[1990] (Robert Meister, 1947- )によると、ヨーロッパにおける政治的アイ デンティティの議論はここにまで遡れるとした[太田 2009:251-252]。
先住民・エスニックマイノリティのディアスポラとグローバリゼーション 「強調すべきは、ここで問題となる関係論 的な位置づけとは、ディアスポラを他と完全に区別するのではなく、むしろ絡みあう緊張関係のプロセスと して見るということだ。そこでディアスポラは、(1)国民国家の規範と、(2)「部族の」人びとによる土着的主張、とくに先住民権などオートクサナス (autochthouonus=原住の)の土地に根ざす主張と絡みあうと同時に、それらとは異なるものとして定義される」(p.284)J・クリフォー ド「ディアスポラ」『ルーツ』毛利ほか訳、月曜社、2002年
グアテマラ:政治暴力のゆくえ 内戦時を想起する人びとの語りを中心に政 治的暴力の社会的効果についてつぎの3つの点に焦点をあてて考察した。すなわち(1)人びとが受 けたトラウマとその語りが生みだすもの、(2)人びとが生きることに与える意味とその変容、(3)政治生活における保守化の動向を説明すること、である。 そこから現在の我々が学んでいることは、苦悩の語りが、徐々に多様性を失い、紋切り型に整理されつつあり、それに関する人びとの感性の馴化がおこりつつあ るという実態である。トラウマの語りをふくめた、人びとの語りの多様さ、個別化を保証しながら、繰り返し想起する基盤づくりの重要性である。そのような想 起行為こそが当事者と局外者との脆弱な連帯をより強固なものへと展開させる可能性をもつことを提案した。
ナショナリズム・民族集団・少数民の研究に関する基礎知識 ラテンアメリカという概念は、ナポレオン3世がアングロアメリカに対抗してフランスの帝国主義を正当化するために考案された地政学 的概念 である。なぜなら、フランスはラテンの国(La Latinite)だったからである。
政治人類学 人類学者と現実の政治について、主に門外 からさまざまな臆測がなされてきた。人類学者が、政治権力に対して距離をとり、相対主義的傾向がつ よい。逆に、人類学者は人間の普遍的平等性に忠誠をもつので、政治的な人が多い。フィールドワークにおいては、現地の政治体制のもとで調査をおこなうの で、政治的には保守的で、無関与の人が多い。いや、人びとと接触する機会が多いので、人類学者の多くは全体主義体制のなかで犠牲になりやすかったし、また 調査許可が下りずに長年の調査が困難な人類学者も数多くいる。
民族境界論 文化人類学ではエスニシティの議論は、 1960年代前半までは、それほど活発には議論されてこなかったテーマのひとつです。ところが1960 年後半より、旧植民地の独立がすすみ、いわゆるポストコロニアル状況が生起するようになると、先進国における少数民族問題など、民族アイデンティティ、社 会紛争、国家建設や国民国家など、民族あるいは民族性が、現代国際政治における重要なテーマになると同時に、それと連動して地域社会に精通している文化人 類学者にとって重要な研究テーマになってきました。[民族・民族集 団]
高地ビルマの政治体系(リーチ) カチンのあり方の広域性や多様性ゆえに 「カチン社会組織の研究は、各文化集団を社会的孤立 体としてあつかう古典的方法で進めることはできない」(p.68)。「北ビルマ的状況のもとでは、民族誌のなかで、一個の文化、一個の部族なる単位を措定 する通例のやり方は、絶望的なまでに不適当である。このことを明らかにするのが、本書を著すひとつの目的である」(p.321)。 ・「私はこの研究において、カチン文化の諸変異のなかに、大小を問わぬなんらかの「部族」的実体を求めようとしなかった、また、文化的変異を、中心にある 正統な規範からはずれた変種とするような、民族誌に一般的な手法もしりぞけてきた。」(p.333)
我々自身のなかに主体的関与(agency)を見つけること 倫理的審問を、構成的当事者としての「我 々」に課してみるとどうだろうか。 私は調査のある時点から半世紀以上も前に終焉した「我々の戦争」とグアテマラの政治的暴力について、「比較して考える」のではなく、「同時に考える」よう になった。膨大な報告書や資料は出来た/出来つつあるかも知れない。しかし責任の所在を明らかにし、適切な処罰をおこない、さらに加害者と被害者の恩赦を 含めた和解をおこない、その成果を次世代に伝える努力を我々は不断におこなっていると言えるだろうか。政治的暴力の横溢という事実以外には、歴史的にも社 会的にもほどんど共通点を見いだし得ない二つの出来事。それらを、結びつける唯一の同時代的繋がりとは、他者性を認めるのみならず、我々自身のなかに主体 的関与を見つけることに他ならない。


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