はじめに よんでください

アイヌ遺骨等返還の研究倫理

Research Ethics and the repatriation of the Ainu human remains

左のブロニスワフ・ピウスツキ (1866-1918年)[Bronisław Piłsudski]は来日して調査する過程のなかで右の木村愛吉(サハリンアイヌのバフンケ;1856-1920)

池田光穂

以下の、3つの文献(またはそのエッセンス)を読ん で、日本の先住民アイヌの人骨の「返還」の問題がどのように訴えられているのか、読解の上で、みんなで考察してみよう。

そのための解説を試みます。

現在、アイヌ民族の有志——北大開示文書研究会等 ——が、北海道大学ならびに全国の大学・研究機関に、日本の先住民アイヌの人骨の「返還」を求めている。その訴えの根拠はさまざまな理由から示されてい る。具体的には、......

1)さまざまな歴史的経緯から、アイヌは研究対象と して扱われることがあっても、人格・人権をもった対象として扱われてこなかった。その例は、戦前から続く人骨の「収集」であり、自然人類学者や考古学者に よる、伝統的埋葬地からの「盗掘」であり、「人種標本」としての写真の撮影、さらには「民族の起源」研究のための血液やDNAサンプルの採集である。それ らの多くは、アイヌ民族の研究がもたらす情報としてもまた研究資料を「提供してきた」貢献としての福利の還元ですらない——アイヌ民族に対する研究という 名の搾取。

2)上記の研究にかかわる自然科学的な研究のほか に、社会調査や民族学調査においても、その実態の調査に関する報告書が書かれたとしても、アイヌ民族が直面するさまざまな文化的あるいは政治経済的「窮 状」に、人間的な共感をもつ和人研究者はいても、その成果をもとに、アイヌと共に、国や地方自治体あるいは、研究を実施する大学・研究機関に対して、適切 な措置を講じるように、調査結果とともに訴えることは少数の例をとおしてなく、理念的なものに留まっていた。

3)アイヌの祖先に対する崇敬に関する伝統的な観念 と、和人や外国人によるさまざまな宗教の受容により、祖先の遺骨や遺体に対しては、多様な思いがある。また、日本政府はアイヌ民族を先住民として認めてい る事実がある。それらのことに鑑みて、個人が特定化された遺骨に関しては、遺族や祭祀継承者のもとに返還請求があれば速やかに返却すべきである。また、地 域のアイヌ民族集団として、その祭祀あるいは葬礼に関して集合的な崇敬の念をもって、研究材料から「解放」され、同胞として敬意をもって遺骨が処遇される ことは、アイヌ民族としての集団的な先住民権が国連宣言等(UNDRIP, 2007)でも認めるところである。

以下の、3つの文献(またはそのエッセンス)を読ん で、上記の問題がどのように訴えられているのか、読解の上で、みんなで考察してみよう。

(1)アイヌ民族からの請求により北海道大学がまと めた遺骨の収集や保存状況について書かれた文献:北海道大学『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書』北海道大学、183pp., 2013年(→ hokudai_jinkotsu_report2013.pdf 9.8MB pdf)パスワードなし

(2)北大開示文書研究会に与る、市川守弘ら弁護士 らによる、内閣総理大臣安倍晋三らに宛てた「人権救済申立書」:出典は北大開示文書研究会編『アイヌの遺骨はコタンの土へ』緑風出版、2016年, Pp.276-295. pdf パスワード付: Ainu_jinken_kyusai_2015.pdf

(3)葛野辰次郎エカシ(2010-2001)が遺 した、大自然の尊さと人間の悪との仲裁の口頭伝承(あるいは唱え歌)「シオイナ・ネワ・ハヲツルン・オルスペ(抜粋)」:出典は北大開示文書研究会編『ア イヌの遺骨はコタンの土へ』緑風出版、2016年, Pp.59-88. pdf パスワード付:Kuzuno_Ekashi_Sioina.pdf:: →関連ページ:「遺骨は自らの帰還を訴えることができるのか?

コラム(毎日新聞、2018年7月22日 配信)

【リード】北大、アイヌ首長遺骨を返還へ 写真残存者で初

樺太(サハリン)のアイヌ墓地から持ち出された地元集落の首長、バフンケ(1855-1919年ごろ、日本名・木村愛吉)の遺骨が、北海道大から遺族へ返 還されることが決まった。アイヌ民族の遺骨は全国の大学などに1,600体以上保管されているが、身元が分かる遺骨は38体のみで、生前の写真や逸話の残 る 人の遺骨返還は初めて。【三股智子】

バフンケは樺太の東海岸にあった集落「アイ」の首長を務めた。ロシア語や日本語に堪能で漁業で財を成し、樺太に滞在した言語学者の金田一京助 (1882-1971年)の著書「北の人」にも触れられている。ポーランド貴族出身でロシアの政治犯として樺太に流刑されたブロニスワフ・ピウスツキ (1866-1918年)[Bronisław Piłsudski]が寄宿し、バフンケのめいのチュフサンマと結婚した。

バフンケの遺骨を持ち出したのは、北海道帝国大(現・北海道大)医学部の研究グループとみられる。同大の資料に1936年8月にバフンケの遺骨を発掘した 記録が残っている。

遺骨の返還は、ピウスツキとチュフサンマの孫で、横浜市に住む木村和保(かずやす)さん(63)の請求で決まった。木村さんは北海道で生まれ、三十数年前 にピウスツキの研究者からルーツについて教えられ、昨年になって、この研究者から同大に遺骨が保存されていることも知らされた。

学側は、持ち去った経緯を明らかにしていない。木村さんは「なぜ遺骨を持ち去ったのか。説明と謝罪を求めたい」と話す。

【ことば】アイヌの遺骨

19世紀から人類学が盛んになるにつれアイヌ民族への関心が高まり、北海道や樺太、千島列島のアイヌ墓地などから大量に収集された。国内の12大学と博物 館など12施設に1600体以上が保管され、国外にも流出している。昨年7月にはドイツから1体返還されたほか、オーストラリアの3体も返還に向けた交渉 が進められている。遺骨は2020年までに北海道白老町に国が建設する慰霊施設に集約される予定で、遺族や地域への返還を求めるアイヌ団体が大学などを訴 えている。

出典:https://mainichi.jp/articles/20180721/k00/00e/040/318000c
※金田一「北の人」は『金田一京助全集』三省堂、第14巻にある。
++++

[右]樺太東海岸のアイ集落の長・バフンケ(日本語名・木村愛吉 1855〜1919?)。ブロニスワフ・ピウスツキ[左]は彼の姪、チュフサンマと結婚した

■北海道文化協会「POLE 93 2018年1月」文中の「酋長」が現在では首長と記載すべきですが原文のままとします

「樺太酋長バフンケ」の髑髏(ルビ:されこうべ)、遺族への返還なるか 井上 紘一

「北大への遺骨返還請求

 往時には邦領南樺太東海岸のバフンケ酋長とし て知られた木村愛吉氏の髑髏が、北大医学部収 蔵の人骨資料中に見出されるとの情報は、『北海 道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査 報告書』(2013.3) *で初めて公開されました。但し同 書はそれを人骨 943 号(相浜 1)と記すのみで、木 村愛吉氏の遺骨とは明記していません。とはいえ、 エンチウ(樺太アイヌ)人骨 71 体中で「個人特定可 能」と特記されるのは「相浜 1」だけで、児玉作左衛 門北大教授が 1936 年 8 月に東海岸の相浜で発掘 した「頭骨」と記載されています。しかも北大収蔵ア イヌ人骨としては、二人のアイヌ著名人(「日高酋長 ペンリュウ[平村ペンリ/ペンリウク]」と「樺太酋長バフンケ」) が言及されています。そこで私は 2016 年 4 月、同 大学の「アイヌ遺骨等返還室」に対し「相浜 1」と「バ フンケの髑髏」の同一確認を求めましたが、私の申 し入れは個人情報保護を口実に峻拒されました。 その後、横浜の木村和保氏は 2017 年 4 月、祖 母チュフサンマの叔父に当たる木村愛吉氏の遺骨 返還請求書を北大に提出しました。和保氏はブロ ニスワフ・ピウスツキの一人息子助造氏の唯一のご 子息ですから、それは日本におけるピウスツキ家の 問題でもあります。

 アイヌ遺骨等返還室は7月6日付で木村和保氏 を遺族の一人と認め、7 月 14 日から 1 年の公示期 間中に他の遺族からの請求がなければ返還交渉 に着手するとの段取りを通達しました。つまり、正式 の返還は 2018 年 7 月 14 日以降に決定されるわ けです。とはいえ、平取の平村ペンリウク氏の事例 では、返還交渉が軌道に乗り出したところで平村 氏の遺骨ではないとしてキャンセルされただけに、 本件の成否は今なお予断を許しません。

 木村愛吉(バフンケ)氏の生涯

 木村愛吉氏(1856-­1920)は樺太東海岸小田寒 の出身。明治初年にアイ・コタン(相濱)に居を構え て以来半世紀にわたりエンチウ有力者として活躍 し、1920 年に相濱で没しました。ロシア時代末期 にはロシア人や日本人の漁業者に伍して 2 漁場を 賃借、資本主義的経営の漁業を起業して蓄財に 努め、ペチカの備わるロシア式丸太小屋まで建て ています。「樺太でも有名な暖かい家」とされる同 宅にはピウスツキが寄寓し(1902­1905)、姪のチュ フサンマと恋仲になって結婚に至りました。当時の チュフサンマは父シレクア(愛吉氏の兄)とともに、隣 接するアイヌ式住宅(チセ)で暮らしていたようです。

50 代の愛吉氏と直に接した松川木公は彼を「容 貌頗る魁偉、身の丈は六尺五寸に餘」る大男、風 貌は「動物園の獅子」さながら(松川『樺太探検記』 1909)と、石田収蔵は「巧みに邦語を談じ、露語に 通じ、外交に敏」(青山『極北の別天地』1918)と評し、 青山東園はロシアの文豪トルストイやゴーリキー、 千徳太郎治は西郷南洲になぞらえていました。因 みに、ピウスツキの撮影した写真に収まる痩身の愛 吉氏(写真 1)から 197 センチ超の巨漢を想像でき る人は稀でしょう。日露戦争最末期の 1905 年 9 月 3 日、南部樺太占領軍の太秦供康支隊長はボリシ ョエ・タコエ(大谷)で「バフンケ酋長」と別れの杯を 交わした際のスケッチを「樺太出征日誌」に残して います(写真 2)。写真 1 とほぼ同年齢の愛吉氏の 風貌は、やや端麗に過ぎるとはいえ、松川らの記 述とも矛盾せぬように思われます。

 樺太庁は 1921 年、東海岸中部の 10 コタン(北 から南へ、オハコタン/箱田、マヌエ/眞縫、シララカ/白浦、 オタサン/小田寒、アイ/相濱、ナイブチ/内淵、サカヤマ/ 榮濱、ルレ/魯禮、シヤンチャ/落合、タコエ/大谷)の住 民を集住させるべく白濱村を建設しました。総移住 が開始された 8 月 1 日には村長以下 9 名の村議 (あるいは評議員)からなる村の統治機構が整備され、 村長には魯禮部落総代だった内藤勘太郎、そして 残る 9 コタンの部落総代が村議に就任します。例 えば大谷熊吉(チュフサンマの娘キヨの夫)は、大谷 の前部落総代として村議を務めました。こうして 10 コタンは廃村となりますが、旧村にあった墓地は恐 らくその後も踏襲されたものと推定されます。

 愛吉氏は 2 度の妻帯歴にもかかわらず、いずれ の配偶者も子宝には恵まれず、養子の男子親族レ ーヘコロ(1890­1930 年代後半、日本名木村愛助)に 資産を相続させました。千徳太郎治によると邦領時 代の愛吉氏は、その「露西亜式の大建物」(丸太小 屋)が樺太庁から驛逓に指定され「相川渡船を兼ね て營業し」「部落總代等の公務にも就かれ、公衆の 爲め盡くされ」そしてこの「大建物」では旅籠屋を営 んだとも伝えられますが、愛吉氏の没後に「二代目 の愛助が此の家を他人に賣却して仕舞つた」(千徳 『樺太アイヌ叢話』1929)そうです。木村愛吉一族は 日本統治下で次第に没落してゆき断絶したらしく、 愛助氏の子孫に関する情報は不詳です。愛吉氏が 1921年の白濱集住を待つことなく、その前年に亡く なったのは却って仕合せだったかも知れません。

2018 年 1 月 10 日には拙訳編書『ブロニスワフ・ ピウスツキのサハリン民族誌』が東北アジア研究セ ンター叢書第 63 号として上梓されます。同書はピ ウスツキの樺太島にかかわる人類学的労作 11 篇 の邦訳と、参考論文として拙稿「樺太島におけるチ ュフサンマとその家族」も収録しています。本稿で 紹介する木村愛吉関連情報は同論文から抜粋し ました。詳しくは同書をご覧ください(非売品ですが、 国内外の主要な大学図書館に寄贈されます)。

 上記拙稿で本件に直接かかわる「エピローグ」か ら、最末尾の一節を以下に転載します。

 (北海道)大学の「アイヌ遺骨等返還室」は木村氏 の請求を審査し、近い将来には、「バフンケ頭骨」を 正統な遺族に返還するか否かを決定するであろう。 その回答がいずれであれ、北海道大学は以下の設 問に対し、誠実に答える責務を負っている。

 (1)一九二〇年の埋葬後十六年しか経っていない木 村愛吉の墓は一九三六年八月一日、相濱のエン チウ墓地で、果たしてどのように、何故、また誰に よって、暴かれることになったのか。

 (2)「相浜1」が木村愛吉に帰属することを立証する議 論の余地のない根拠は何か。「樺太酋長バフンケ」 なる名称が、他の七十体のエンチウ遺骨とは違っ て、例外的に記録されえたのは何故か。

 (3)北海道大学は木村愛吉の頭蓋骨取得以降八十 年の長きにわたって、その存在を学外、なかんず く彼の子孫へ向けて発信することを怠ってきたの は何故か。 (いのうえ・こういち、北大名誉教授、2017.10.25)」

写真 1(左)ピウスツキ撮影の木村愛吉氏(1902-1905)この人物を初めてバフンケと断じたのはサハリン州郷土博物館の M・M・プロコフィエフ氏。その経緯と論証に関しては上記拙稿(注五、三〇)を参照。
写真 2(右)南部東海岸アイヌ酋長 / バフンケノ像(北海道博物館所蔵手稿、太秦供康「明治三十八年 樺太出征日誌」より)

http://hokkaido-poland.com/POLE/POLE93BafunkeInoue.pdf

◎アイヌ人骨「調査する側」の論理

百々幸雄(b.1944)『アイヌと縄文人の骨学的 研究 : 骨と語り合った40年』東北大学出版会, 2015年

▶第1章 縄文人とは▶第2章 アイヌとは ▶第3章 形態小変異とは ▶第4章 分析の開始 ▶第5章 弥生人と続縄文人 ▶第6章 アイヌと琉球人 ▶第7章 人種の孤島 ▶第8章 東北地方にアイヌの足跡を辿る ▶第9章 アイヌとその隣人たち ▶終章 アイヌと縄文人骨研究の今後

「歯冠形態21項目にもとづいて描いた縄文人5地域 と北海道アイヌ、弥生人、古墳人、現代人の近隣結合法による類縁図」(百々 2015:17)

(港川人と縄文人の類縁について)「四肢骨について は縄文人とかなり異なっているが、港川人と縄文人の頭骨の形態的特徴に多くの共通点があることについては異論をはさむ余地はほとんどない」(百々 2015:29)

【図26.】「小金井資料のアイヌ頭骨のうち判別関 数において平均よりアイヌらしさの強い個体(●)と弱い個体(○)の分布」(百々 2015:68)

「掘りだした頭骨を研究室に持ち帰って山口(敏, b.1931)先生にみせたところ『絵に描いたようなアイヌだね』と言われたが、まさに見ていてほれぼれするような頭骨であった。眉間は膨らんで鼻の付け 根は落ちくぼみ、そこから幅の広い鼻骨がまっすぐに前方に突き出ている。顔は立体的で左右の眼窩も大きく長方形をなし、いかにも俺はアイヌだと言わんばか りの誇り高い面構えをしていた。これが筆者がはじめてアイヌを意識した頭骨で、一生の研究の方向はこれで決まったようなものである。この頭骨をみて縄文人 だといって帰った人類学者は何人いただろうか。その中には後に学会の重鎮になられた碩学もいる」(百々 2015:77)

1972年の人類学会・民族学会連合大会のエピソード(百々 2015:101-104)

◎アイヌ人骨「調査される側」の論理

北大開示文書研究会編『アイヌの遺骨はコタンの土へ : 北大に対する遺骨返還請求と先住権』緑風出版、2016年

■クレジット:池田光穂「アイヌ遺骨等返還の研究倫 理」(人文社会系のための研究倫理入門(リテラシーG) 2018、第7回授業)※下線部で授業に戻れます。(→類似ページ「先住民遺骨副葬品返還の研究倫理」)

用語集

リンク(研究倫理としての先住民主権の研究)

リンク(先住民学関係)

リンク(文化遺産)

リンク(アイヌ研究・アイヌ遺骨返還のテーマ)

文献

その他の情報

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099