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教育方法としてのアクティブラーニング

Active Learning as Pedagogic Activity

池田光穂

アクティブラーニングへの期待が高まっている。中央 教育 審議会(2012年8月28日)の報告書は次のようにいう。

生涯にわたって学び続ける力主体的に考える力を持った人材は、学生からみて受動的な教育の場では育成するこ とができない。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知 的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動 的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である。すなわち個々の学 生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛えるディスカッションやディベー トといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等を中心とした授業への転換によって、学生の主体的な学修を促す質の高い学士課程教育を進 めることが求められる。学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続ける力を修得できるのである」(『新たな未来を築くための大学教育の質的転換に 向けて〜生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ〜(答申)』p.10 URLは後述)

そこで、文部科学省が定義するアクティブ・ラーニン グの定義 (官製)とは次のようなものである。

「教員による一方向的な講義形式の教育とは異な り、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。 学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学 習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」

【出典】『新たな未来を築くための大学教育の質的転 換に向けて〜生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ〜(答申)』平成24年8月28日中央教 育 審議会

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325047.htm  に 繋がるpdf「用語集」より

ほとんど「教員による一方向的な講義形式」以外のも のをなんでもかんでも押し込み、かつそのアウトカムについては恐ろしく楽観的な記述になっている。しかし、ここでの私の狙いは、学部高学年および大学院生 に対しての「高度教養教育」を想定している。そのため、文科省が実践した理想的な教 育を経て入学した理想的な大学卒業生(ないしはその予備軍)に、さらに 加えるべき教育=リベラルアーツの可能性を、以下に論じておきたい。

 アクティブラーニングとは、チャールズ・ボンウェルとジム・エイソン(1991)によると「学生たちが行っている何かに関する思考と行為といっ た、それぞれの活動のなかで学生を巻き込んでいるすべて」のことをさす。この「巻き込み経験」彼らは"anything that involves students in doing things and thinking about the things they are doing" (Bonwell and Eison 1991:2)"と表現している。

    アクティブラーニング(能動学習、能動的学習)をしている状態とは、教室の中でみられる普通の風景、すなわち、学生(生徒・児童を含む)が、前 を眺めている・聞いている・ノートを取っている、という従来型の学習「以外」の活動をすべて包摂するような活動のことである。アクティブラーニングしてい る状態の例としては以下のようなものをあげることができる。Wikipedia in English を参照。


クラスの中で、学生たちが討論している(class discussion)

学 んだことを1組ないしはそれ以上の学生同士で共有(シェア)している(think-pair-share)

学 習する主体を個人ではなく2人なしはそれ以上の極小ユニットにする(learnig cell)

ア ウトカム・レポートや「1分間ペーパー」などと呼ばれるような短いレポートを筆記させる(short written exercise)

3 人から6人程度の互いに協働するグループをつくる(collaborative learning group)

学 生の間で形式的な論争=ディベートをやる(student debate)

ビ デオ映像を観た後で感想を披瀝させる(reaction to a video)

遊戯性を伴ったゲームをおこなう(class game)

マニュアル的標題になる誤謬を避けたいが、アクティ ブラーニングの定義づけに関して、(1)グループワーク、(2)ディベート、(3)フィールドワーク、(4)プレゼンテーション、(5)振り返り、の要素 のうちいず れかが受講回数のうち半数以上あるものを、アクティブラーニングが実施されているというみなすという見方がある(中山 2013:21)

アクティブラーニングが登場した背景には、通常の授 業の方法(=受動的学習、古典的学 習)つまり「前を眺めている・聞いている・ノートを取っている」という方法よりも、学習者がより楽しめ、持続的な学習が可能になり、かつ教員じしんが学生 と「学ぶことの楽しさ」を共有できるような方法を模索し、通常の授業の方法がもつ潜在力をより強化したり、授業のレパートリーに多様性を創造しようとする 試みがあったように思える。それは、古典的教育がもつ「疎外(alienation)」や、学生本来がもつ潜在力を引き出すはずのデューイ的な学習が、教 育の大衆化やマスプロ(=大量規格)化によって、十分に機能しないという反省期にうまれた可能性がある。
 アクティブラーニング(能動的学習)という発想法が生まれてきた背景には、従来の学習の現場における受動的学習(→古典的学習)への批判や、それに対する実践共同体実践コミュニティ)におけ る能動的学習の概念、ヴィゴツキーの最近接発達領域ZPD)、問題にもとづく学習PBL)やそれがもたらした保 健教育の現場における論争コミュニティにもとづく参加型研究CBPR)、ヘルスコミュニケーション領 域における当事者性[→当事者の英訳について]の扱い、サイエンスショップの誕生など、人を対象にする教育や研究が、どのように他者 を取り扱い、どのような介入研究をおこなうべきなのか、そしてそれに伴う倫理とは何かという、広範囲の問題系が、1960年代後半から北米を中心にして世 界の先進国において生まれてきたという事情があるように思われる。

ここでの大学院生や社会人は「将来の我が国が目指すべき社会像を描く知的な構想力」をある程度持っておりかつ 認識した人たちである(「」内は上掲の答申報告書 p.2)。

いずれにせよ、この報告書には「期待される学士像」 が描かれているので(上掲書、Pp.6-)、そのようなアウトカムを得た学士=社会人を想定して、その人たちがもっている能力をここに列挙してみよう。

1)我が国の目指すべき社会像、について具体的なイメージとそのための方策について考えるこ とができるひと

2)成熟社会において求められる能力、について具体的なイメージと そのための方策について考えることができるひと

である。

このようなことが、「教員による一方向的な講義形 式」ではない「学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法」つまりアクティブラーニングで、習得出来るか否かはまったく未知数である。この文 科省の反面教師としての教訓は、「ある学習法によるアウトカムの歴史的に否定的な評価をしても、それをその教育法の失敗と判断するには慎重でなければなら ない」ということと「学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法」は現実の大学教育の現場で幅広く取り入れられるようになっているために、こ の方法の万能視をすることは禁物ということ、ぐらいであろうか。

結論として、アクティブラーニングは大学における従 来の講義方法から脱却するための「よい教育理念」であることは確かである。また、アクティブラーニングの方法は「生涯にわたって学び続ける力、主体的に考 える力」ための陶冶には必要な能力とされていることも確かである。したがって、高度教養教育 のデザインにアクティブラーニングの手法を取り入れてゆくべきことは、ある意味で必須である。

リンク

文献

《日本語文献》

中山留美子(2013)「アクティブ・ラーナーを育 てる能動的学修の推進におけるPBL教育の意義と導入の工夫」『21世紀教育フォーラム』第8号, Pp.13-21.

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私の教 育についてより

高 度教養教育のデザインは可能か

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For all undergraduate students!!!, you do not paste but [re]think my message. Remind Wittgenstein's phrase, "I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein

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