日本の教育に物申す!
Quiet Revolution of Education in Japan!
私どものコミュニケーションデザインセンターは大学院が中心なのですが、学部高学年の学生もいます。この15年間、対話型の教育を やってきたのですが、授業を受ける学生は、いわゆるゆとり教育の世代の人たちです。グループディスカッションなどをやらせると、結構熱心に話してくれま す。また、ある程度段取りをつけてやると、発表も出来ます。こういう能力は、明らかに最近の若い人たちの方が高いと思います。対話型教育で能力の高い学生 に聞くと、今まで中学校や高校でこういう授業を受けてきたと言います。
マスメディアなどでは、ゆとり教育が、随分バッシングされて、また再度、厚い教科書に戻りつつありますが、私の現場的な感覚から言うと、こ の学力中心的な世界への回帰は、ひょっとすると中・長期的にあまり良くない影響が出るかもしれません。私は、姫路にある私立大学でも同じ対話型教育をやっ ています。学生の注意力は明らかに低いですが、最初の数回の授業の後では、国立大学と同様に、多くの学生が、人の話を聞いて適切にコメント出来るようにな ります。遠慮せず、物怖じせず、率直に対話の出来る学生が多いのが、ゆとり教育の所為か、それとも優秀な大学の学生だからそうなのかは判然としませんが、 私は大学生の対話能力がそんなに低いとは思っていません。
私たちは、対話型の授業をやっているのですが、それを受ける学生は、先ず、率先して意見を言えねばなりません。それも、言うだけではなく て、周りの人の言っていることをよく理解しないといけない、当意即妙の発言もしなければなりません。それから、自分の考えと相手の考えが、何が共通で何が 違うのかをよく解析・理解する能力も要求されます。このような能力は、対話型授業をやる教師も持っていなければなりません。
しかし、私自身が受けてきた教育は、先に小学校や中学校の先生方が言われたような、受け身型の授業でした。その私が対話型授業をしているわ けです。私自身は、人間というのは、教育の長い効果の中で、徐々に成熟していく部分と、非常に短い期間で変わる部分があると思います。それぞれの部分が具 体的に何であるかは、むしろ、このフォーラムの中で検討すべき問題かとも思います。いずれにせよ、実際に非常に短期間でコミュニケーションの仕方、モード をある程度変えることができるのであれば、そういうことは教育の長い効果でないと出来ないと考えて対話型授業をしないよりは、出来るところからやっていこ うというふうに、現状を楽観的に見て行動する方が、教育現場のためには良いと思います。
大学の現場でも、学生の全てが最初から対話型授業を成り立たせる能力を持っているわけではありません。テレビ番組、NHKの教育テレビの トーク番組などで、若い人たちが意見を戦わせているのを見て、これなら自分もできるのではないかと思っていたところへ、教育の場で実際にそういう機会が与 えられたので、実際にやってみた。一度やってみると、面白いのでどんどんエスカレートしていって、やがて好きになるというふうな学生も多いのです。授業を 受けている短期間に変わったとも言えます。ここで大事なのは、学校教育であれ、社会教育であれ、どのような教育でもやらなければならないこと、すなわち、 学ぶことの楽しさ、あるいは、身につけることの楽しさを対話型授業は提供しているのは間違いないということです。
こういうタイプの学習法をプロブレム・ベースド・ラーニング(PBL: Problem Based Learning 問題にもとづく学習)といいます。(http://www.cscd.osaka- u.ac.jp/user/rosaldo/061127pbl.html)これは、医学、歯学、看護学、環境科学、法律実践、工学など実践の場での問題 解決が職業的スキルとして重要視される教育課程でしばしば採用されるもので、小グループで自発性と自己評価によって特定の問題にもとづいて学習をする方法 です。
最初に始めたのはカナダの小さな医学校です。カナダやアメリカの医学部は大学院大学なので、こんな抜本的で過激ともいえる改革が出来るので す。まさに革命的な方法で何も教えないのです。5人から6人ぐらいのグループを作って、一学期中グループで学習するのです。グループごとに1人のチュー ターが付くのですが、学術的なアドバイスは一切しない。学習は段階的で、いちばん最初に学生に渡される指令書には、たとえば、10歳の小学生の子供がお母 さんに連れられてきて、ずっと頭痛と吐き気がすると訴えている、というようなことだけが書いてある。
学生は、このことについて、グループで討論し、1週間の間に、これから我々は何を勉強しなければならないかを、皆で手分けして、インター ネットや24時間開いている大学の図書館で調べ、データを持ち寄り、話し合い、相談をするのです。この討論の後で、子供の患者の更なるデータが提示されま す。このようなやり方で学習が進められ、最後に、実際の現場で使われている臨床データが示されます。
何故こんなことをやるのかというと、現在の医者に要求される専門家としての知識は、膨大な量であること、人間は基本的には、自分の経験を通 して学び、学習して成長していく存在であるということ、それから、医療の臨床現場というのは、特に大病院では、チーム医療であるというのがその理由です。 チーム医療では、1人では何もできない。だからといって、1人1人がやらないと何も進まない、グループでやるのではない、1人でやるのでもない、1人でや りながらグループでやるという仕方です。こういう職業現場では、コミュニケーション力が非常に大事です。それで、具体的にコミュニケーションして学習する という教育方法が生まれたのです。
実は、この様な学習方法は、1960年代の終わりから70年代の初めにかけて、社会の既存の価値観や慣習に反抗する文化・生活様式いわゆる 反体制文化(カウンターカルチャー)の時代に、小学校の現場でも試みられたのです。しかしながら、こういうフリースクールの流れにつながるような考え方 は、現実の制度的な学校教育の中からは次第に後退し、現在は、一部の私立学校にかろうじて残っているという状態です。
でも、大学院生の様に一定の知識がある人たちにとっては、先ほど畑田先生や栗山先生のお話の中にもありましたように、非常に効果のある学習 法です。知識を身に付ける、知識を自分の中に蓄積するだけでは、その知識が持っている力の10分の1も発揮できないが、それを他人に言うことで、自分がど れだけそのことに熟知しているかということがモニターできるし、自分が勉強したその知識を他人と共有することで、知識がグループ、あるいは、社会の知識と して共有され、それを通して、自分が学んだ知識が社会の発展につながっているということが自覚できるのです。
自分自身の学習と社会の発展との有機的なつながりの可能性が見えてくるのです。勿論、いろいろな障害があって、プロブレム・ベースド・ラー ニングの先が全てバラ色というわけではありませんが、その可能性はかなり高いと私は思います。
04■学ぶとは1人でおこなう実践ではなく「みんなで一緒に」する実践のことである
教育は個人個人に知識を注入するのか、それとも、グループで知識を蓄積・共有・深化していくのかという二元論だけで説明出来るものではあり ません。実践共同体の理論とか、発達の最近接領域の理論とか、旧ソビエトの学習理論では、人間の学習能力に関して、1人で学ぶのでなくて、生徒たちが単に 教え合うというのでもなくて、学校の中で、先生が皆と一緒になって教育の場を設けることで、学ぶ効率が非常に上がるというふうに考えられています。
学校教育の中で個別に生徒の資質を上げるために一番良いのは、単純にマンツーマンで、家庭教師的に、先生1人に生徒1人というのが最上の教 育のように思われることがあるのですが、それだけで生徒の資質が最高になるのではなくて、みんなが集まって、集まるといっても100人では多すぎる、14 人とか15人かもしれない、教えることによっては5人位が良いかもしれないのですが、とにかく皆が集まって教育を受けることによって個人の資質が向上する という面もあるのです。
ただそれだけで問題が整理できるわけではありません。生徒に注入される知識に関しても、頭で理解するだけではなくて、手計算などの様に体を 動かしたり、あるいは皆が教え合ったりするという、個人の知識の習得という観点からは一見無駄なように見える部分が、その人たちの学習能力や知識習得に対 する意欲に影響を与えることがあります。
教員が、直接には、実効があると思ってやっていない影の部分が、実際には、教育に非常にポジティブな貢献をしているということがあるので す。まだまだ分からないところが沢山あって、個人教育か、グループ教育か、あるいは創発的なグループ教育でいろいろなものが生み出されるような授業がいい のかということになると、単純に割り切った答えは出しにくいということはご理解いただきたいと思います。
非常に大事なご指摘なのですが、そういう方法論が未だ確立されていないというところに一つの原因があるのかも知れません。
それから、対話型の授業は50分授業に耐えられないような学生には適用できないというご意見ですが、これは、先ほど畑田先生からもご指摘が ありましたが、そうではないと思います。現在の大学での対話型授業は、教授が学生や大学院生を教える、あるいは知識を伝達するというイメージを徹底的に破 壊するものです。対話においては教員も学生もみんな平等で、お互いに「さん」付けで呼びます。それから、教員にも学生たちにも「教授は何かを教えてくれる に違いない」というような偏見がある。これがあると、変な話かもしれませんが、教授に対して「先生は知っているけれど私たちは何も知らないのだ」みたいな 感情が、反抗と言えるのかもしれませんが、必ず起こるのです。それは、皆が対等でないからです。
それと、対話は一種のゲームみたいなもので、対話型授業はゲームから学ぶ授業ということもできます。偏差値の高い大学の方が段取りよく授業 が出来るのは事実ですが、さまざまな偏見を取り除いて、完全に対話ベースで授業を行うと、どんな大学でも最終的には同じようなところに着地します。入学時 の知識量に大学による違いがあるというのは、畑田先生が言われる、点数によって選別する入試制度を採る以上は、やむを得ないことで、これを卒業時にはどの 大学の学生も同じ水準にするというのは、教育法だけでは不可能に近いことです。
しかし、大学に来て授業を受けて面白いとか、自分のためになったというふうに成長するのは、偏差値には全然関係ないと思います。もう一つ大 事なこと、これは教育する側が完全な意識改革をしないといけないことなのですが、教えるのではなくて、学ばせるというか、学生が学ぶのが大事ということで す。教員や知識の高い学生ほど、学習するということ、勉強するということから、学ぶということに頭を切り替えるのに、逆に時間がかかるのです。
変な話と思われる方もあるかもしれませんが、ヤンチャで集中力がなくてふらふらしている者、あるいはそういうグループの方が、対話型授業の 学習効率、あるいは満足度、授業の最終的な満足度が高いということもあるのです。グループ学習というのは、我々が想定する以上に教育上の潜在力があるとい うことを言っておきたいと思います。
私は、専門が、文化人類学で、文化と社会、あるいは、国家と国民、そういう関係についての比較研究が専門の一つなので、その観点から意見を 言わせて頂きます。
先ず、学校にいる子供が子供の全てではないということです。大人も同じことで、ある職場で仕事をしているけれども、それ以外の部分でも、社 会的な、あるいは、個人的な生活を送っている訳ですね。したがって、学校の中で観察される子供というのは、言い方は穏当ではないですが、学校の中に閉じ込 められている子供なのです。したがって、学校の先生方は、非常に長い時間、子供に一番近いところにいて、子供たちのことを観察されている、ある意味で、子 供たちの優良な観察者ですが、子供についてご存じないことも一杯あるのです。家庭の中で保護者とどのように付き合っているのか、子供たち同士ではどうか、 そういうことは、なかなか発見できないのです。だから、いじめの認識についても、事件が起こったときには、行き違いがあるということになります。
それから、子供というのは、皆さんご自身が、子供の時のことを考えて頂ければ、すぐに分かると思うのですが、子供なりに、理性的、合理的な 判断をしているのです。ところが、大人になると、子供の時の現場的な感覚が無くなって、今、起こっていることを合理化し、正当化して、心理学ではありませ んが、悪いこと、悪いことの経験のようなものは、適当に消去したり、あるいは、都合のいいように解釈したりするようになるのです。これが大人なのです。と いうことは、子供は、教師を含めて大人が考える以上に広い範囲の、知性、能力、潜在的な様々な能力を持っているのです。換言すれば、子供たちは、学校教育 で教師が教える以上のことを学んでいるのです。このことを考慮しないと、判断を誤ることがあります。
人間が持っている知識能力の潜在的可能性に対して、学校教育がどれだけ貢献しているかについて考えてみると、ノーベル賞受賞者のスピーチな どによく出てくるように、学校というのは、知識供給の場というよりは、むしろ触媒なのです。それは、先ほど、元教師の方がお話された内容そのものだと私は 思います。学校は、ある意味で、社会の縮図のようなところがあります。先ほど、社会から切り離されて、閉じ込められていると言いましたが、それ自体が社会 なのです。
学校は、校門や壁によって隔てられているけれども、教師、生徒、それから親がその場を作っていて、お互いに、相互浸透している訳です。だか ら、テレビで見た金八先生や俳優・政治家の森田健作みたいな人が、「これが本当の理想的な付き合い方なのだ」と現れるのです。つまり、好むと好まざるに関 わらず、学校は、日本社会の縮図と考えざるを得ないのです。だからこそ、学校教育を変える時に、日本社会をどう変えるのかが、テーマになる訳で、カリキュ ラムの内容みたいなものだけを変えても意味がないのです。
学校教育、あるいは学校の改善が、社会の人間関係を変えることに繋がらなければ意味が無い。先ほどの、敬語をどう考えるのか、先生と生徒の 間の尊敬語をどう考えるかという話も、社会全般で敬語法がどう変わってきているのか、あるいは、どうあるべきなのかということを考慮して、教師、親、それ と当事者である子供たちを含めて議論しないと、何も変わらないと私は思います。そうでないと、自分が存在する社会に何か問題が起こった時に、その内容につ いて自主的に考え、解決策を模索していくという自律的な存在には、何時まで経ってもならないと思うのです。
07■マスコミと政府を人民が「飼い馴らす」ことの戦略的重要性
マスコミと政府は、殆ど一蓮托生、善きにつけ、悪しきにつけ、行動・運命を共にするものなのです。だから、今の畑田先生が考える戦術が功を 奏することは殆どあり得ないと私は思います。というのは、大学教育や大学研究で、文部科学省から様々な競争的資金の支援を受けた場合の、成果の評価では、 その実施期間の間に、どれだけマスメディアに登場したかというふうなことを示す新聞記事があれば、評価が非常に高くなります。
財政支援を受けた人たちの満足度や文部科学省の担当官のそのプロジェクトの成果に対する評価などは殆ど問題にされないことが多いのです。多 分、財務省に予算を要求する時に、その典拠資料として、過去に資金援助を受けた人達の成果・業績に対する評価を、マスコミ以外の形で自信を持って作成し て、財務省と折衝することが出来ないのではないかと推量するのです。それで、結局、安易なマスコミの評判みたいなものを利用するという構造になっているの ではないかと思います。明日から新聞をとらないようにしよう、とか、あるいは、1日のうち30分テレビを消そう、みたいな運動の方が私は良いと思います。
高知県で研究調査をされた外国の文化人類学者の人のお話なのですが、彼は学校の写真をいくつか見せながら、日本の学校の建物は醜いコンク リート造りで、画一化していて、訳の分らないデコレーションのようなものが付いていて、風景に溶け込んでいない、と言うのです。それを聞いて、私は、 ひょっとすると、日本の学校の建物の様子が非常に均質化していて、外国人には、何となく風景になじまない、あたかも病院であるかのような心象を与えるのか なと思いました。学校というのは、極めて社会的な活動の場ですから、風景になじむ学校を作ることで、学校現場で働く人たちが、もっと社会とのつながりを持 つ可能性があるかもしれません。これは、型から入って、内実を少しずつ変えていくというタイプの変革です。
学校の先生方は、もっとくつろげる学校、生徒と楽しく過ごせる場としての学校の設計に関わって行って欲しいと思います。
私が言っているのは、生徒が学校に行くのが楽しいという気分にさせるような空間作りのことで、単に建物を綺麗にするとか、塀を取ったり、付 けたりすることではないのです。人間関係もある種の心象風景を作りますので、そういう意味での景観のことを言っているのです。
学校に行って楽しいとか、学校に行きたいという動機、これは、社会やその歴史に大きく左右されます。今の日本とは全く違う別世界のことを一 寸ご紹介します。私は、今、中央アメリカのグアテマラで先住民の文化運動について調査をしております。内戦が36年続いて、学校に村人が集められて虐殺さ れ、学校の裏が大量の秘密の墓地になっているというようなことがあります。内戦が終わって、先住民の子供たちが学校に行くようになったのですが、たまた ま、子供たちとしゃべったときに、「君たち学校に行くのが何故楽しいの?」と聞いてみたら、学校で昼飯が出るからだ、と言うのです。簡単なスープとビス ケットみたいなものだけなのですが、給食があるから学校に行くのが楽しいというわけです。
この子たちにとっては、学校に行かなくても、子供たち同士で遊ぶとか、農作業の手伝いをするとか、社会性を身につける機会は一杯あるわけ で、学校は、ただ給食を食べられるから楽しい。だけど、これは、学校教育をやっている先生たちにとっては非常にプラスの魅力になるわけです。とにかく、学 校は楽しいところだと思って、子供が来てくれる。農作業の手伝いをさせなければならないので、学校にやれないと言う先住民の親御さんたちを、一所懸命説得 しなくても子供の方から給食を楽しみに来てくれるのですから、こんな有難いことはない。
今は、だいぶ状況が変わりましたが、少し前まではそういう時代だったのです。この場合は、学校が子供たちにとって楽しい場であるというの は、子供が、学校に居着いて、教育が役に立つからというよりも、子供たちが学校は楽しいところだと思って、それがどんな理由であっても、とにかく来てくれ ればよい、また、学校からドロップアウトして欲しくないという状況なのです。だから、落第の問題にしても、もし落第しても、それが学校に就学し続けること の魅力になるのであれば、落第させた方が良いのです。落第しても、自分は学校に行って頑張ったのだという本人の努力が報われるようなシステムになっていれ ば、落第はあってもいいと思うのです。立派なシステムが出来ていれば、それで良いというのではなくて、そのシステムのユーザーである先生や生徒が、一番ス トレスを受けずに楽しくやれるような、そういう方法を模索していくという考え方のロジックでことを進めないと、駄目だと私は思います。そうしながら、現場 主義というか、現場の意見を中心に、制度設計を少しずつ変えていくしかないと思います。
だから、もっと親、先生、生徒が怒らないと駄目です。「学校が立派でない国は、滅びるぞ」というように、大きな声で言わないと駄目です。そ のためには、教師と生徒の間の対話を促進するような、教師も生徒も腹蔵なく話せるような場所と機会を作っていかないといけないのです。そこには知識の落 差、人生の経験の落差があるからなので、何らかの翻訳のプロセスみたいなものは必要だとは思いますが。
いやいや、強制というのは、いちばん恐ろしい。我々が20世紀に経験したことの中でいちばん恐ろしいのは強制です。良いことを強制されるの が、どれだけ恐ろしい結果を生み出してしまうか、というのを経験している人は多いはずです。全体主義は、余剰の部分だとか、いい加減さを抑圧するのです。 でも、実際は、その遊びとか、いい加減さとか、あるいは、たとえ落ちこぼれても、それもまた良いなぁみたいなことも容認しないと、本当にとんでもないこと になるのです。
だから、私は、今の学校の道徳の授業は駄目だと思うのです。道徳の原理、なぜ道徳が生まれるのかを考えること、哲学が必要だと私は思うので す。そうすると、西洋の哲学でも、東洋の哲学でも、また、宗教思想でも何でもいいのですが、人間の意味を考え続けてきた、あるいは、生きることの意味を考 え続けてきた哲学の知恵を、今の子供たちに伝えていくのが、大人の責務だと思うのです。
11■皆が哲学を「勉強させられる」のではなく、皆が哲学者になればいい
そんなことをして貰わなくても、国民一人一人が哲学者になればそれで良いのではないですか。教育者になる人達は、全て日本国憲法を学ぶよう に、大抵の学生は、大学で哲学の授業を受けるのですから、自分が哲学者になるというか、根本原理を考える力は持っていると思うのです。哲学という名前の眠 たい講義で、哲学を嫌いにしてしまうシステムに問題があるのだと私は思います。
だから、そういう既存のシステムに頼るよりは、子供の時から、人間にとって生きるということを考えるのが非常に大事だよとか、いろいろなこ とを一杯知っているけれどもその知識を活用できないよりは、知識は少なくても物事を深く考えられる方が良いのだよとか、人間は日常生活の中で良いことをす るように生まれているのだ、あるいは、良いことを考えるように生まれているのだ、皆、悪いことはしないようになっているのだ、身の回りの人達を見てごら ん、社会の成り立ちみたいなものを見てごらん、というふうに身近なところから考えていけば、いいのではないかと私は思うのです。
今日、先生方というか、とりわけ教育に携わってこられた方の経験を聞いた時に、私が非常に強く感じたことは、教育関係者の殆どすべてが改善 する姿勢をお持ちだということです。今の教育には問題がある、これを解決するために何かを変えなければならないという姿勢、この姿勢は、イデオロギー、西 洋流の考え方、東洋流の考え方、あるいは、政治体制などを超えて、日本の戦後教育の中に一貫してあって、それが、日本の教育水準と国民の教育に対する高い 関心を維持していたのです。
教育行政から末端の教師にいたるまで、教育に携わる人たちが、今よりももっと良くなりたい、良くしたいと考える伝統みたいなものがあったと 思うのです。他の途上国で、こういうセンスを感じたことは殆どありません。教育を天から与えられた素晴らしい仕事、すなわち、自分の天職 (vocation)と考え、生徒・学生との様々な出会いの記憶を糧にして、今日よりも明日の方が良くなりたいと考えるサブ‐カルチャー、あるいは伝統・ 考え方みたいなものが、教育に携わる人たちの間に残っているのです。私は、これは世界に誇れる文化的伝統で、絶対に変えてはならないものだと思います。
子供語に翻訳しないと駄目ですね。私は、新旧の教育基本法の子供訳を、Webページで公開しております。日本国憲法も同様な試みをしていま す。子供にも分かるように、翻訳をしないと駄目だと思います。
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/061205PBL.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/0-juniorhome.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/061107jpconst.html
出典:「これからの教育—変えねばならないこと、変えてはならないこと」(2011年11月27日公開)」畑田家住宅活用保存会(http://culture-h.jp/hatadake-katsuyo/education.html よりリンクするpdfファイル)
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
14●おまけ:私の教育について