はじめによんでね実践知入門

講師:池田光穂

実践知(じっせん・ち)とはなんでしょうか?——実践知とは、人が与えた現場で適切な判断をくだ すことができる認識と能力の総体のことである。繰りかえします、実践知(古代ギリシャではフロネーシス[知慮]practical wisdom)とは、実践の現場(→現場力)で適切な判断をくだすことができる認識と能力(知識に由来するので〈知〉と冠されて いる) の総体ことです。しかし、ここでは、このような言葉を編み出した古代ギリシャの人々のみならず、我々にもまず 考えることができる事実を整理しましょう。

ちゅうい!:

実践知を考えるのに、それは実践的な知恵(practical wisdom)であり、その語のみなものになっているプロネーシス(ないしはフロネーシス)だと考え、プロネーシスについて議論したアリストテレス『ニコ マコス倫理学』をいきなり紐解くという、みなさんの頭の中の回路を、とりあえず中断させてくださいね。実践知は「10センチ」ではないのと同じぐらいに、 日本語の用法としての「実践知」と古代ギリシャの「プロネーシス」は違うかもしれない、という疑りの態度[=無知の知]で臨んでください。ペダンチックな実践知の議論はこちらへ!

にも関わらず、人間の経験にあらわれる知的=活動的性質についてアリストテレスは、エピ ステーメ、テクネー、そしてフロネーシスという3つの分類をおこない、それぞれに対して、テオリーア(観想)、ポイエーシス(制作)、そしてプラクシス (実践)という活動があることを指摘したことは押さえておかねばなりません。(下図参照)

この図の出典:「フロネーシスの救出

実践知は、〈実践〉と〈知〉という2つの部分からなりたっていることです。日本語の造語法的 想像力から導くと次のような議論ができます。

1.実践=知

実践はすなわち知(知恵)なのだ、というふうに、実践と知の間にイコールをつけるような 考え方。実践と知を切り分けて見る見方を否定する立場である。デカルト的二元論を批判したい人たちには、我が意を得たりと思われるキャッチーな用語法であ る。たぶん、現在、もっとも支持者が多いと思われる語法。

2.実践>知、ないしは知→実践

実践は知を包摂する。つまり我々の知は、実践的な活動のひとつに位置づけられるという発 想である。これも、(実践を伴わない)知識に対する実践の優位性を信じたい人には、受け入れられそうな用語法である。それなりの支持者はいるだろう。

3.実践<知、ないし実践→知

知は実践を包摂する。これは実践を幅広い人間の知的活動のヴァリエーション(変種)と見 なす立場である。これは、実践であればなんでも知(知恵)の様式とみなす立場である。しかし、知恵は行動よりも、念慮・思慮のような非活動的なイメージに 我々の多くは呪縛されているので、このような見解をとる人は少数派だろう。

さて、これらの関係のうち共通している考え方はなんでしょうか? それは、実践と知の関係は 別々のものではなく、お互いに関連したものだという基本的合意があるのではないでしょうか。でないと、関係ないものどおしをなかなか結びつけて考えようと する人はいません。

実践知を声高に主張する人たちのなかには、実践と知がむつびついたこの〈奇妙な造語〉の奇妙 さに目をつぶって、やれ、実践知は「知恵」(→ギリシャ語のプロネーシス[知慮]の英訳はpractical wesdom ですので、このような主張はただ単に同義語の言葉を入れ替えただけ)だの、やれ「暗黙知(Tacit Knowledge)のひとつ」だの、わけ知り顔で、我々の無理解を尻目にして、知のあ やしげなイメージ論を展開する人がいます。

なぜある行為にもとづいた実践が、知的なものにつながるのか、実践行為は知恵とみてよいの か? 知恵は〈実践〉なのか? そういふうに問いをたてて、実践知の理解の問題に切り込んでいってもよいかもしれません。

★実践知を考えるのに、なぜ、パウロ・フレイレの意識化が重要になるのか?

意識化は、なにかについて考えるときに、あるいは、なにかを漫然と行為 しているときに、自分はそ のことについて何を考えているのかということに自覚することである。ところが、何かをしているときに、自分がいったい、どういうことを意識に上らせるのか を自覚ことは難しい——いったい何について、どのように考えればいいのか、そして、それはどんな意味をもつのか、そのことの有用性、有意義性をすくなくと も予見したり、過去にそのような意識化をして、役にたった、思慮深くなった、このごとを多角的に考えられるようになったという経験がないかぎり、この意識 化は重要視されることはない。また、そのような意識化をしても、後で「そんなことは無駄だった」と偉い人から評価されたり、また自分で「そんな意識化して も役に立たなかった」という経験が過去にあれば、意識化も継続して使われないだろう。だがしかし、現 実が意識を規定する一方で、そのような意識が行動や実践を通して働きかけ ていくとき、現実はそれによって影響を受けて変化し、それが、さらに新たな意識——以前の意識から進歩/進化した意識の別の状態——を生んでいくことが あるとしたらどうだろうか? これ(先の太字の部分)が意識化の過程の特徴であり、このことを哲学の用語で表現すると、弁証法(dialectic)=べ んしょう ほう、という。弁証法とは、正反対のもの、たとえば、主観と客観、主体と客体、現実と意識、実践と理論の対立を、調停して、別のあり方の可能性をもたらす ことである(→「
意識化」)。

結論:

実践知とは、どうも我々が〈実践〉と呼んでいるものと〈知〉と呼んでいるものの関係 性、あるいはそれらが交錯することにかんする議論だということがわかります。実践知を論じる人たちが前提にしない考え方は次のとおりである。つまり「実践 と知はなんの関係もないものである」という考え方です。

In Japanese, Jissen-chi also means "ten centimeters" !

Marie-Claire Alain - Organist Extraordinaireを見て、学識と技量がどのように語りの 中に表現されるのかみてみよう。


Marie-Claire Alain (10 August 1926 – 26 February 2013) was a French organist and organ teacher best known for her prolific recording career.


応用問題:

実践知というものは、人と人との間で伝達可能なのだろうか。もし、伝達可能で あれば、それは、ある手続きを踏めば「教えることができる」ということになるだろう。教えることを可能にする〈場所=ばしょ〉として、しばしば限定される のが〈実践コミュニティ〉あるいは〈実践共同体〉(ともcommunity of practice)である。実践共同体について調べてみよう。そして実践共同体に関する議論では、実践や知というものが、どのようなものと して意味づけられているか調べてみよう。また、そこから何が分かるのか考えてみよう。

リンク

文献

その他の情報



  • 第壱講 実践共同体 とはなにか?//実践共同体(医療人類学辞典)

  • 第弐講 状況論として の正統的周辺参加

  • 第参講 分散化された 認知

  • 第四講 焦点化した相 互作用

  • 第伍講 構造をつくる 身体

  • 第六講 マイクロス リップ

  • 第七講 身体の個別性と普遍性

  • 第八講 実践共同体/ 十全的参加テーゼ

  • 補 講 実践 共同体としてのゲリラ組織

  • 附 録 基礎用語定義 集

  • 附録1 用語集

  • 附録2 田 辺繁治『生き方の人類学』2003年ノオト

  • Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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