はじめによんでください

デフォルト宣言時代の医療者-患者関係

The Relationship between medical practitioners - Clients in the age of default declaration


池田光穂

☆ 大阪大学名誉教授。専攻は医療人類学。近年では『感染症と人類の歴史』(文:おおつかのりこ、絵:合田洋介)という三冊本(『移動と広がり』『治療と医療』『公衆衛生』文研出版,2021)の監修に携わる。

★日本医学哲学・倫理学会・第43回大会シンポジウム・「変容する日本社会と医学哲学:多角的な検討」2024年11月3日1440-1610(C会場臨床講義室3)[Mikeda_ShigaMS_241103S.pdf]

1.0 加藤穣教授の科研「非標準的治療等の選好の検討を通した多文化にセンシティブなインタラクションの支援」(21K10325)に参加して「標準的な治療等が様々な理由に基づいて拒否される」事案について、私に考えさせられることになった。
・「非標準的治療を選好する人への権利尊重と制限について
2.0 さて、私が親しんできた批判的な医療問題研究あるいは保健の政治経済学的な枠組みのなかでは、供給される標準的な治療等の「医療資源」(=昨年の研究大会 のテーマ)が不均等に配分される差別あるいは人権侵害の観点から議論されてきた。 ・ 医療資源(Medical Resources)とは、医療に投入する資金(政策費用)、人件費、必要な用具、人的な資源、トレーニング、社会教育、交通費などの諸費用など、医療に 投下されるすべての資源のことをさす、抽象語である。したがって、医療資源の意味は、誰がどのような文脈で発言するのかにより多様である。議会のなかで議 員が、公的医療費や市民の負担について議論をしているときは、主に政策に出動したり投下したりする資金や人的資源などを考えているだろうし、病院のロジス ティクス担当者は、病院内で必要な医療機材、電力、消耗品など、ありとあらゆる、病院医療を実行する物資やエネルギーのことを考えている。
3.0 そこでは平等原則が最重要視され、差別を是正し、なるべく標準的な治療等 の資源を適切に配分しようということが目標とされた。 ・「分配的正義」「平等主義
4.0 しかしながら、インフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上の課題が生じる。非標 準的な治療を選好する人たちの存在であり、医療者ないしは医療機関は、さまざまな倫理上のジレンマを生じることになる。 ・「インフォームドコンセント」「倫理上のジレンマ」「道徳的推論
5.0 COVID-19のワクチン拒否のように、これは臨床倫理だけの問題ではなく社会的な問題——パンデミックが沈静化しても副反応や後遺症への対策に対する不満は現在も続いている——に触れる重要な課題である。
・「ワクチン忌避/反ワクチン
6.0 また非標準的治療選択のなかに「治療拒否」というものもあることを忘れてはならない。
・「治療の拒否について
7.0 自然治癒でも信仰治療でも、西洋近代的な医療を選択しないという意味では、治療拒否も含めて「非標準的な治療選択ないしは選好」であると言えるからである。
・「心霊治療においてモラルを問うこと
8.0 非標準的な治療は、標準的な治療方針が真理であるないしは「正しい(→正義に置き換え可能か?)」と信じる医療者や医療機関にとっては、やっかいな問題を呈する。
・「正義」→ 正義(justice)とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などに基づく道徳的な 正しさが、保障・保証されていないと人が感じる時に、それを是正するために動員される理由(reason)あるいは「正当化された口実」 (legitimized excuse)のことである。
9.0 患者やその家族の選好する非標準的な治療が、明らかに当人に害をもたらすもの、あるいは、標準的な治療のプロトコールを「阻害」するものであれば、医療者ないしは医療機関は、抱えるケースに、より複雑な配慮を必要とすることになる。
・「危害原理・危害原則
10.0 このような選好はより一般的な倫理行為原則として、その患者やその家族の自己決定権を尊重するのか、あるいは何らかの制限をするために「介入」すべきかどうかの判断を求められることになるからである。
・「一般倫理原則

11.0 先にインフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上の課題が生じると私は言った。
・「パターリズム」デフォルトから「IC」デフォルトへ
12.0 デフォルトとはコンピュータでは初期条件のことである。
・「コンピューターやスマートフォンの初期設定や初期値のこと」ただし英語のdefault は、元々は「失敗すること」「怠ること」なので、債権などの利払いや償還が約束通りに行われない「債務不履行」などにつながる。もちろん、2つのカテゴリーが繋がるかそうではないかは問題ない。
13.0 しかし、この言葉には国際経済において債務不履行の意味がある。
・ 「ソブリン・デフォルト(債務不履行; sovereign default)とは、ある主権国家の政府が、期限内に債務を全額返済しなかったり、返済を拒否したりすることである。支払い(または 債権)の停止は、政府が債務を支払わない(または部分的にしか支払わない)という正式な宣言を伴う場合もあれば(否認)、予告なしに行われる場合もある。 信用格付け機関は、資本金、利子、余計な債務不履行、手続き上の債務不履行、債券やその他の債務商品の条項の不履行などを考慮して格付けする。潜在的な貸 し手や債券購入者が、政府が債務を返済できないかもしれないと疑い始めると、債務不履行のリスクに対する補償として高い金利を要求することがあ る。債務不履行への懸念から政府が直面する金利が劇的に上昇することは、ソブリン債務危機と呼ばれることもある。」
14.0 インフォームドコンセントがない時代(=プレICの時代)には、患者が医者に対して医療行為という借款を請求する経済危機に等しい行為(あるいは状態)だったのではなかろうか。
・インフォームドコンセントがない時代:患者は、医療者に治療を懇願するものであり、医療者はパターナリズムという善意にもとづいて医療行為をおこなう。
・医師:治療行為という権能をもつ。治療行為に対する債権者
・患者:治療行為を求める要求者であるが、医師に治療されると「治療された」という心理的債務を負う。保険や自己負担の治療費の負担においても、この債務 が無くなることはない(=これをプレICの時代における「よい患者」と呼ぼう)。よい患者は負債を抱えているので、医師に対しては、常に従順に従う。なぜ なら、未来において、再度、医師に借款を要求する可能性を秘めているからである。
贈与交換論からいえば、贈与に対する返礼は一回ではおわらない。贈与を受け た側は、ハウ(あるいはタオンガ)という霊を受け取ったからであり、返礼の中にそれを込めようとする。この交換は不均等交換であり、不均質な事象も交換財 のなかに含まれる(→交換の連鎖、社会的紐帯の永続性)。
・「自分で自分を治せないという思い込みが、患者さん 自身を、納得、同意(ICのことと思われる——引用者)というところから離してしまっているんじゃないでしょうか。自分では何もできないんだという思い込みがね」(中川米造)[加藤 1986:118]→中川は人間には自然治癒があることを再三にわたり強調する(→私の中ではWHR・リヴァーズの主張に繋がる)。
・私が、デフォルト患者時代の医療者-患者関係とは、パターナリズムにあったあの懐かしい患者が医療者に対して
15.0 それに対して非標準的な治療選択を行う患者は医療者が考えるような債務(=負債)意識などもはやなくなり、医療者にとっては恐るべき事態であるデフォルトを宣言するようなものだと。
・インフォームドコンセントの時代(=IC時代)あるいは、インフォームドコンセント以降の時代(=ポストICの時代)はどうだろうか?
・患者は、医師に借款を要求する潜在力をもつが、かつての、それは「負債という負い目」だが、いまや権利となり、それに対する医療者の側の対応やアウトカムによっては、訴訟により、要求したよりも少ない給付しかないとクレームをつける存在である。
・日本の近代医療が保険制度のもとで、質の保証や病院評価という、市場経済の管理法則(QC)の影響を受けて、貸し付ける側が余計な温情を発揮できず、む しろ司直からの監視対象になったり、無理な貸付に債務者が返済義務を懲罰的に免除可能になる事態が生じた(→高利貸がデフォルトで悪とされる:高金利がリ スク回避として計上することが困難になった)。
16.0 40年近く前、開発途上国の保健省で政府系の保健普及のボランティアに従事した私の現場は、政府の医療資源は限られており、地方の保健所には基本医薬品の供給も滞るサプライサイドが医療行為のデフォルトを実行していたようなものだった。
・中川米造の表現を借りると「(開発途上国の)保健省あるいは公的保健は、自分たちの病気を治療し、健康を何もまもってくれないという思い込み」のなかで人々は生活していた。
・「基本医薬品の供給も滞る」なかで、先進国から来た国際ボランティアは「ここの人たちは死ぬにまかせられ、ネグレクトされている」と、ある局面(=重病人の搬送)では、印象を抱く。
・だが、他方では、そのような悲壮感は当事者たちには、それほどなく、生活習慣病は少なく、重い病気にかかる以外は、最低限のラインで平和に暮らしているようだった。
・病気になってときに、公的な医療制度や西洋医学というものが魔弾のように万能の治療手段になりえなかった。期待が少ないゆえに、効用も少ない。
・医療者と国民の間に、債務-債権関係が希薄であった。
17.0 そう考えると、非標準的な治療の「選択」は、従来の医療者と患者の関係 における、倫理上の債権-債務関係のデフォルト宣言のようなものであり、患者を「標準的な」治療選択へと再改宗させる試み——「文化にセンシティブな治 療」という絵空事——は絶望的でかつ非現実的である。
・back to present Japan; 非標準的な治療の「選択」は、医療者には標準的なプロトコルからはずれる「余計な心配事」になり、標準的なプロトコルを選択する患者に対して、ケアの時間 的・心的コストがかかる(公的な治療手段外になるので、医療者の側には経済的コストにはならない)。
・医療費抑制の時代には、「文化にセンシティブな治 療」は絵空事になりかねない(ただし、それが患者を「標準的な」治療選択へと再改宗させる試みであるならば、政府からの研究開発費は期待できないこともない)
18.0 変わらなくてはならないのは、患者の側でなく医療者の側だからである。
・新しい患者の登場だが、それは、医療情報の入手方法の登場、治療の現場の外で増大をつづけるエンハンスメントを謳ったサプリ市場の増大、ネットのサイトで知った後におこる「行動変容」などの、新しい患者のライフスタイルの反映なのだろう。
・非標準的な治療の「選択」の登場は、医療者の側の対処行動の戦略の修正や大幅な変更が求められている兆候ではないか?(仮説)
19.0 デフォルト宣言は、インフォームドコンセントの代価だと言ってそれを止めるわけにはいかない。患者と医療者は対等な存在になったのだから。
・非標準的な治療の「選択」は、標準的な治療の最中にも起こりうることであり、かつては、コンプライアンスの悪い「問題」のある行動としてとらえてきたが、いまや、偶発的で誰にでもおこるできことだ。
・そこで改めないとならないのは、「患者は神様」「患者ファースト」という、パターナリズム時代の、不均衡な医療者と患者の関係「像」を改める必要性がある。
・そこで気になるのは医療人類学者アネマリー・モルのペイシャンティズム(患い主義)である。これは、ポストIC時代の万能薬になるのか?
20.0 ア ネマリー・モルは、糖尿病治療の民族誌研究を通して、生の管理の現場には、選択のロジック(logic of choice)とケアのロジック(logic of care)があるという。選択の論理は、インフォームド・コンセントにしたがって、患者に医療者と対等、平等の対応をもとめる態度である。ケアの論理と は、患者に寄り添い、患者と一種の運命を共にして、協働する立場である。そこには、価値自由の論理が希薄になり、ともに共通の目的をもってコラボレーショ ンする共感的平等の論理がみられる。ペイシャンティズムは、ケアの論理にたって、治療実践を医療者中心的な制度的戦略から、患者の苦悩経験をシェアしなが ら、患者の生の技法にたつ立場だ。
・ ケアのロジックを優先するモルのペイシャンティズム(患い主義)は、インフォームド・コンセントにしたがって、患者に医療者と対等、平等の対応をもとめる 態度である選択のロジックを批判している。IC以前のパターナリズムにおける医療者と患者の非対称的な関係から脱した、対等的な選択のロジックでは、価値 中立で冷たい科学的な態度があると批判したいのだろう。だが、これは患者の患いを理念化特権化して、それに対して患いから逃れるためには、医療者と患者は 同じ思いと価値観を共有しているはずだ、あるいは、そうなるべきだというジョージ・ムーアの倫理の自然主義的な誤謬の指摘以前に回帰する思想だ。ケアのロ ジックは、ポストモダン時代のパターナリズム2.0にすぎないというが私の見解だ。
・モルは、患者の立場になって考え、判断することが理解できれば、医療者もそのように行為すべきだと言っているように思える。彼女の道徳的判断は、指令的 (prescriptive)であるが、非標準的な治療の選択をする患者と(標準的な治療を良しとする)医療者の両方が、普遍化可能 (universalizable)な方策は最初から分裂しているために、妥当なものと言えまい。
・功利主義と普遍化可能な方策(リチャード・ヘア)では、医療者は患者の自己決定に従うべきなので、選択のロジックは未だ有効である。医療者が考える患者 の「野放図」な選択に対して、唯一ブレーキをかけるのは、原則主義(プリンシプリズム)の四原則のうちのひとつ無危害原則をもち、本人が希望しても医療者 が考える危害行為を抑制するほかはない。
・つまり、デフォルト宣言時代の医療者-患者関係とは、両者が相手の対応に応じて、自らの態度を柔軟に変えてゆくダイナミックな関係に他ならない。そして 相も変わらぬ様相を見せているコミュニケーション学はやはり必須のサバイバルキットである。そこでのエシックスは規範的な道徳的相対主義に落ち着かざるを えないし、現実の医療現場でもそのように運用されているだろう。
・功利主義的に考えると非標準的な治療選択する患者の存在は、医療者-患者関係に新たなレパートリーを追加し、医療的コミュニケーションの場をより対等なものに近づけてくれる存在であり、臨床倫理を考える上でも新しく登場した教師なのかもしれない。

★医療行為と金融取引の類似性

この法律は、企業内容等の開示の制度を整備す るとともに、金融商品取引業を行う者に関し必要な事項を定め、金融商品取引所の適切な運営を確保すること等により、有価証券の発行及び金融商品等の取引等 を公正にし、有価証券の流通を円滑にするほか、資本市場の機能の十全な発揮による金融商品等の公正な価格形成等を図り、もつて国民経済の健全な発展及び投 資者の保護に資することを目的とする。

金融商品取引法(昭和二十三年法律第二十五号)

信託(しんたく、英: trust)とは、様々な手続きや決定を、個々の契約に依らず包括的に信用する他者に委託すること。不遇の失敗に対しては責任を問わないこととされる。政府等の権力の根源や政治的なプロセス[1]のほか、特に財産の取り扱いについて設計された法的枠組みを意味することが多い
ある人「甲」が信頼できる「乙」に託すとともに、当該財産を管理・処分等することで得られる利益を「丙」に与える旨を取り決める際、「甲」を委託者[注釈 1]、「乙」を受託者[注釈 2]、「丙」を受益者[注釈 3]と呼ぶ。信託された財産を信託財産と呼ぶ。受託者は名目上信託財産を管理・処分等するが、その管理・処分等は受益者の利益のために行わなければならな いという義務(忠実義務)を負う。ジョセフ・レートリヒ(Josef Redlich)の説によると、信託という法制度は、イングランド土地法の必要から生じたものであるが、次第に一般的な法制度として形成され、生活に関わ る法の全領域にわたり、実用性を獲得した[2]。
・信頼(trust)
ウィキペディア「信託https://x.gd/35P2l

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