はじめによんでください


池田光穂

☆ 大阪大学名誉教授。専攻は医療人類学。近年では『感染症と人類の歴史』(文:おおつかのりこ、絵:合田洋介)という三冊本(『移動と広がり』『治療と医 療』『公衆衛生』文研出版,2021)の監修に携わる。

★ 日本医学哲学・倫理学会・第43回大会シンポジウム・ 「変容する日本社会と医学哲学:多角的な検討」2024年11月3日1440-1610(C会場臨床講義室3)[Mikeda_ShigaMS_241103S.pdf][1ページ4 スライドのレジュメ:default_medicine_2024.pdf]

★ クレジット:池田光穂「デフォルト宣言時代の医療者-患者関係」The Relationship between medical practitioners - Clients in the age of default declaration

☆ 構想メモ(以下)

1.0 加藤穣教授の科研「非標準的治療等の選好の検討を通した多文化にセンシティブなインタラクションの支援」(21K10325)に参加して「標準的な治療等 が様々な理由に基づいて拒否される」事案について、私に考えさせられることになった。
・「非標準的治療を選好する人への権利尊重と制限について
2.0 さて、私が親しんできた批判的な医療問題研究あるいは保健の政治経済学的な枠組みのなかでは、供給される標準的な治療等の「医療資源」(=昨年の研究大会 のテーマ)が不均等に配分される差別あるいは人権侵害の観点から議論されてきた。 ・ 医療資源(Medical Resources)とは、医療に投入する資金(政策費用)、人件費、必要な用具、人的な資源、トレーニング、社会教育、交通費などの諸費用など、医療に 投下されるすべての資源のことをさす、抽象語である。したがって、医療資源の意味は、誰がどのような文脈で発言するのかにより多様である。議会のなかで議 員が、公的医療費や市民の負担について議論をしているときは、主に政策に出動したり投下したりする資金や人的資源などを考えているだろうし、病院のロジス ティクス担当者は、病院内で必要な医療機材、電力、消耗品など、ありとあらゆる、病院医療を実行する物資やエネルギーのことを考えている。
3.0 そこでは平等原則が最重要視され、差別を是正し、なるべく標準的な治療等 の資源を適切に配分しようということが目標とされた。 ・「分配的正義」「平等主義
4.0 しかしながら、インフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上 の課題が生じる。非標 準的な治療を選好する人たちの存在であり、医療者ないしは医療機関は、さまざまな倫理上 のジレンマを生じることになる。 ・「イ ンフォームドコンセント」「倫理上のジレンマ」「道徳的推論
5.0 COVID-19のワクチン拒否のように、これは臨床倫理だけの問題ではなく社会的な問題——パン デミックが沈静化しても副反応や後遺症への対策に対する不満は現在も続いている——に触れる重要な課題である。
・「ワクチン忌避/反ワクチン
6.0 また非標準的治療選択のなかに「治療拒否」というものもあることを忘れてはならない。
・「治療の拒否について
7.0 自然治癒でも信仰治療でも、西洋近代的な医療を選択しないという意味では、治療拒否も含めて「非標準的な治療選択ないしは選好」であると言えるからであ る。
・「心霊治療においてモ ラルを問うこと
8.0 非標準的な治療は、標準的な治療方針が真理であるないしは「正しい(→正義に置き換え可能 か?)」と信じる医療者や医療機関にとっては、やっかいな問題を呈する。
・「正義」→ 正義(justice)とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などに基づく道徳的な 正しさが、保障・保証されていないと人が感じる時に、それを是正するために動員される理由(reason)あるいは「正当化された口実」 (legitimized excuse)のことである。
9.0 患者やその家族の選好する非標準的な治療が、明らかに当人に害をもたらすもの、あるいは、標準的な治療のプロトコールを「阻害」するものであれば、医療者 ないしは医療機関は、抱えるケースに、より複雑な配慮を必要とすることになる。
・「危 害原理・危害原則
10.0 このような選好はより一般的な倫理行為原則として、その患者やその家族の自己決定権を尊重するのか、あるいは何らかの制限をするために「介入」すべきかど うかの判断を求められることになるからである。
・「一般倫理原則

11.0 先にインフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上の課題が生じると私は言った。
・「パターリ ズム」デフォルトから「IC」デフォルトへ
12.0 デフォルトとはコンピュータでは初期条件のことである。
・「コンピューターやスマートフォンの初期設定や初期値のこと」ただ し英語のdefault は、元々は「失敗すること」「怠ること」なので、債権などの利払いや償還が約束通りに行われない「債務不履行」などにつながる。もちろん、2つのカテゴリーが繋がる かそうではないかは問題ない。
13.0 しかし、この言葉には国際経済において債務不履行の意味がある。
・ 「ソブリン・デフォルト(債務不履行; sovereign default)とは、ある主権国家の政府が、期限内に債務を全額返済しなかったり、返済を拒否したりすることである。支払い(または 債権)の停止は、政府が債務を支払わない(または部分的にしか支払わない)という正式な宣言を伴う場合もあれば(否認)、予告なしに行われる場合もある。 信用格付け機関は、資本金、利子、余計な債務不履行、手続き上の債務不履行、債券やその他の債務商品の条項の不履行などを考慮して格付けする。潜在的な貸 し手や債券購入者が、政府が債務を返済できないかもしれないと疑い始めると、債務不履行のリスクに対する補償として高い金利を要求することがあ る。債務不履行への懸念から政府が直面する金利が劇的に上昇することは、ソブリン債務危機と呼ばれることもある。」
14.0 インフォームドコンセントがない時代(=プレICの時代)には、患者が医者に対して医療行為という借款を請求する経済危機に等しい行為(あるいは状態) だったのではなかろうか。
・インフォームドコンセントがない時代:患者は、医療者に治療を懇願す るものであり、医療者はパターナリズムという善意にもとづいて医療行為をおこなう。
・医師:治療行為という権能をもつ。治療行為に対する債権者
・患者:治療行為を求める要求者であるが、医師に治療されると「治療された」という心理的債務を負う。保険や自己負担の治療費の負担においても、この債務 が無くなることはない(=これをプレICの時代における「よい患者」と呼ぼう)。よい患者は負債を抱えているので、医師に対しては、常に従順に従う。なぜ なら、未来において、再度、医師に借款を要求する可能性を秘めているからである。
贈与交換論からいえば、贈与に対する返礼は一回ではおわらない。贈与を受け た側は、ハウ(あるいはタオンガ)という霊を受け取ったからであり、返礼の中にそれを込めようとする。この交換は不均等交換であり、不均質な事象も交換財 のなかに含まれる(→交換の連鎖、社会的紐帯の永続性)。
・「自分で自分を治せないという思い込みが、患者さん 自身を、納得、同意(ICのことと思われる——引用者)というところから離してしまっているんじゃないでしょうか。自分では何もできないんだという思い込みがね」(中川米造)[加藤 1986:118]→中川は人間には自然治癒があることを再三にわたり強調する(→私の中ではWHR・リ ヴァーズの主張に繋がる)。
・私が、デフォルト患者時代の医療者-患者関係とは、パターナリズムにあったあの懐かしい患者が医療者に対して
15.0 それに対して非標準的な治療選択を行う患者は医療者が考えるような債務(=負債)意識などもはやなくなり、医療者にとっては恐るべき事態であるデフォルト を宣言するようなものだと。
・インフォームドコンセントの時代(=IC時代)あるいは、インフォー ムドコンセント以降の時代(=ポストICの時代)はどうだろうか?
・患者は、医師に借款を要求する潜在力をもつが、かつての、それは「負債という負い目」だが、いまや権利となり、それに対する医療者の側の対応やアウトカ ムによっては、訴訟により、要求したよりも少ない給付しかないとクレームをつける存在である。
・日本の近代医療が保険制度のもとで、質の保証や病院評価という、市場経済の管理法則(QC)の影響を受けて、貸し付ける側が余計な温情を発揮できず、む しろ司直からの監視対象になったり、無理な貸付に債務者が返済義務を懲罰的に免除可能になる事態が生じた(→高利貸がデフォルトで悪とされる:高金利がリ スク回避として計上することが困難になった)。
16.0 40年近く前、開発途上国の保健省で政府系の保健普及のボランティアに従事した私の現場は、政府の医療資源は限られており、地方の保健所には基本医薬品の 供給も滞るサプライサイドが医療行為のデフォルトを実行していたようなものだった。
・中川米造の表現を借りると「(開発途上国の)保健省あるいは公的保健 は、自分たちの病気を治療し、健康を何もまもってくれないという思い込み」のなかで人々は生活していた。
・「基本医薬品の供給も滞る」なかで、先進国から来た国際ボランティアは「ここの人たちは死ぬにまかせられ、ネグレクトされている」と、ある局面(=重病 人の搬送)では、印象を抱く。
・だが、他方では、そのような悲壮感は当事者たちには、それほどなく、生活習慣病は少なく、重い病気にかかる以外は、最低限のラインで平和に暮らしている ようだった。
・病気になってときに、公的な医療制度や西洋医学というものが魔弾のように万能の治療手段になりえなかった。期待が少ないゆえに、効用も少ない。
・医療者と国民の間に、債務-債権関係が希薄であった。
17.0 そう考えると、非標準的な治療の「選択」は、従来の医療者と患者の関係 における、倫理上の債権-債務関係のデフォルト宣言のようなものであり、患者を「標準的な」治療選択へと再改宗させる試み——「文化にセンシティブな治 療」という絵空事——は絶望的でかつ非現実的である。
・back to present Japan; 非標準的な治療の「選択」は、医療者には標準的なプロトコルからはずれる「余計な心配事」になり、標準的なプロトコルを選択する患者に対して、ケアの時間 的・心的コストがかかる(公的な治療手段外になるので、医療者の側には経済的コストにはならない)。
・医療費抑制の時代には、「文化にセンシティブな治 療」は絵空事になりかねない(ただし、それが患者を「標準的な」治療選択へと再改宗させる試みであるならば、政府からの研究開発費は期待できないこともな い)
18.0 変わらなくてはならないのは、患者の側でなく医療者の側だからである。
・新しい患者の登場だが、それは、医療情報の入手方法の登場、治療の現 場の外で増大をつづけるエンハンスメントを謳ったサプリ市場の増大、ネットのサイトで知った後におこる「行動変容」などの、新しい患者のライフスタイルの 反映なのだろう。
・非標準的な治療の「選択」の登場は、医療者の側の対処行動の戦略の修正や大幅な変更が求められている兆候ではないか?(仮説)
19.0 デフォルト宣言は、インフォームドコンセントの代価だと言ってそれを止めるわけにはいかない。患者と医療者は対等な存在になったのだから。
・非標準的な治療の「選択」は、標準的な治療の最中にも起こりうること であり、かつては、コンプライアンスの悪い「問題」のある行動としてとらえてきたが、いまや、偶発的で誰にでもおこるできことだ。
・そこで改めないとならないのは、「患者は神様」「患者ファースト」という、パターナリズム時代の、不均衡な医療者と患者の関係「像」を改める必要性があ る。
・そこで気になるのは医療人類学者アネマリー・モルのペイシャンティズム(患い主義)である。これは、ポストIC時代の万能薬になるのか?
20.0 ア ネマリー・モルは、糖尿病治療の民族誌研究を通して、生の管理の現場には、選択のロジック(logic of choice)とケアのロジック(logic of care)があるという。選択の論理は、インフォームド・コンセントにしたがって、患者に医療者と対等、平等の対応をもとめる態度である。ケアの論理と は、患者に寄り添い、患者と一種の運命を共にして、協働する立場である。そこには、価値自由の論理が希薄になり、ともに共通の目的をもってコラボレーショ ンする共感的平等の論理がみられる。ペイシャンティズムは、ケアの論理にたって、治療実践を医療者中心的な制度的戦略から、患者の苦悩経験をシェアしなが ら、患者の生の技法にたつ立場だ。
・ ケアのロジックを優先するモルのペイシャンティズム(患い主義)は、インフォームド・コンセントにしたがって、患者に医療者と対等、平等の対応をもとめる 態度である選択のロジックを批判している。IC以前のパターナリズムにおける医療者と患者の非対称的な関係から脱した、対等的な選択のロジックでは、価値 中立で冷たい科学的な態度があると批判したいのだろう。だが、これは患者の患いを理念化特権化して、それに対して患いから逃れるためには、医療者と患者は 同じ思いと価値観を共有しているはずだ、あるいは、そうなるべきだというジョージ・ムーアの倫理の自然主義的な誤謬の指摘以前に回帰する思想だ。ケアのロ ジックは、ポストモダン時代のパターナリズム2.0にすぎないというが私の見解だ。
・モルは、患者の立場になって考え、判断することが理解できれば、医療者もそのように行為すべきだと言っているように思える。彼女の道徳的判断は、指令的 (prescriptive)であるが、非標準的な治療の選択をする患者と(標準的な治療を良しとする)医療者の両方が、普遍化可能 (universalizable)な方策は最初から分裂しているために、妥当なものと言えまい。
・功利主義と普遍化可能な方策(リチャード・ヘア)では、医療者は患者の自己決定に従うべきなので、選択のロジックは未だ有効である。医療者が考える患者 の「野放図」な選択に対して、唯一ブレーキをかけるのは、原則主義(プリンシプリズム)の四原則のうちのひとつ無危害原則をもち、本人が希望しても医療者 が考える危害行為を抑制するほかはない。
・つまり、デフォルト宣言時代の医療者-患者関係とは、両者が相手の対応に応じて、自らの態度を柔軟に変えてゆくダイナミックな関係に他ならない。そして 相も変わらぬ様相を見せているコミュニケーション学はやはり必須のサバイバルキットである。そこでのエシックスは規範的な道徳的相対主義に落ち着かざるを えないし、現実の医療現場でもそのように運用されているだろう。
・功利主義的に考えると非標準的な治療選択する患者の存在は、医療者-患者関係に新たなレパートリーを追加し、医療的コミュニケーションの場をより対等な ものに近づけてくれる存在であり、臨床倫理を考える上でも新しく登場した教師なのかもしれない。

★ 医療行為と金融取引の類似性

この法律は、企業内容等の開示の制度を整備す るとともに、金融商品取引業を行う者に関し必要な事項を定め、金融商品取引所の適切な運営を確保すること等により、有価証券の発行及び金融商品等の取引等 を公正にし、有価証券の流通を円滑にするほか、資本市場の機能の十全な発揮による金融商品等の公正な価格形成等を図り、もつて国民経済の健全な発展及び投 資者の保護に資することを目的とする。

金融商品取引法(昭和二十三年法律第二十五号)

信託(しんたく、英: trust)とは、様々な手続きや決定を、個々の契約に依らず包括的に信用する他者に委託すること。不 遇の失敗に対しては責任を問わないこととされる。政府等の権力の 根源や政治的なプロセス[1]のほか、特に財産の取り扱いについて設計された法的枠組みを意味することが多い
ある人「甲」が信頼できる「乙」に託すとともに、当該財産を管理・処分等することで得られる利益を「丙」に与える旨を取り決める際、「甲」を委託者[注釈 1]、「乙」を受託者[注釈 2]、「丙」を受益者[注釈 3]と呼ぶ。信託された財産を信託財産と呼ぶ。受託者は名目上信託財産を管理・処分等するが、その管理・処分等は受益者の利益のために行わなければならな いという義務(忠実義務)を負う。ジョセフ・レートリヒ(Josef Redlich)の説によると、信託という法制度は、イングランド土地法の必要から生じたものであるが、次第に一般的な法制度として形成され、生活に関わ る法の全領域にわたり、実用性を獲得した[2]。
・信頼(trust)
ウィキペディア「信託https://x.gd/35P2l

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デ フォルト宣言時代の医療者-患者関係(最終版)——YouTube 動画

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クレジット:池田光穂「デフォルト宣言時代の医療者-患者関係」The Relationship between medical practitioners - Clients in the age of default declaration
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スライドの見方
1.0 加藤穣教授の科研「非標準的治療等の選好の検討を通した多文化にセンシティブなインタラクションの支援」(21K10325)に参加して「標準的な治療等 が様々な理由に基づいて拒否される」事案に出会ったことが、私にD-P関係の再考を迫った。
2.0 私が親しんできた批判的な医療問題研究あるいは保健の政治経済学的な枠組みでは、供給される標準的な治療等の「医療資源」(=昨年の研究大会のテーマ)が 不均等に配分される差別あるいは人権侵害の観点から議論されてきた。
3.0 そこでは平等原則が最重要視され、差別を是正し、なるべく標準的な治療等の資源を適切に配分しようということが目標とされた。
4.0 しかしながら、インフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上の課題が生じた。非標準的な治療を選好する人たちの存在であり、それにより 医療者ないしは医療機関は、さまざまな倫理上のジレンマを抱えることになる。

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IC以降の新しい課題
(問題の所在)
1.0 加藤穣教授の科研「非標準的治療等の選好の検討を通した多文化にセンシティブなインタラクションの支援」(21K10325)に参加して「標準的な治療等 が様々な理由に基づいて拒否される」事案に出会ったことが、私にD-P関係の再考を迫った。
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非標準手段の選好と拒否という課題

5.0 COVID-19のワクチン拒否のように、これは臨床倫理だけの問題ではなく社会的な問題——パンデミックが沈静化しても副反応や後遺症への対策に対する 不満は現在も続いている——に触れる重要な課題である。
6.0 非標準的治療選択のなかに「治療拒否」というものもあることも忘れてはならない。
7.0 西洋近代的な医療を標準にするという意味では、自然治癒でも信仰治療でも(治療拒否も含めて)「非標準的な治療選択ないしは選好」であると言えるからであ る。
8.0 非標準的な治療は、標準的な治療方針が「真理」である、ないしは「正しい(=正義?)」と信じる医療者や医療機関にとっては、やっかいなそして「余計な」 問題を治療という課題に持ち込むことになる。
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9-13 患者の債務不履行とはどのようなことか?

9.0 患者やその家族の選好する非標準的な治療が、明らかに当人に害をもたらすこと、あるいは、標準的な治療のプロトコルを「阻害」するものであれば、医療者な いしは医療機関は、抱えるケースに、より複雑な配慮を必要とすることになる(→極論としての安楽死/割れ窓的エスカレーション)。
10.0 このような選好はより一般的な倫理行為原則として、その患者やその家族の自己決定権を尊重するのか、あるいは何らかの制限をするために「介入」すべきかど うかの判断を求められることになるからである。
11.0 先に(→4.0)インフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上の課題が生じると私は言った。
12.0 デフォルトとはコンピュータでは初期条件の意味のことである。
13.0 しかし、この言葉には国際経済において債務不履行の意味がある。
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14.1 D-P関係における《借款》とは?
インフォームドコンセントがない時代:患者は、医療者に治療を懇願(=サービスを要求)するものであり、医療者はパターナリズムという善意にもとづいて医 療=サービス行為をおこなう。
医師:治療行為という権能をもつ。治療行為に対する債権者
患者:治療行為を求める要求者であるが、医師に治療されると「治療された」という心理的債務を負う。保険や自己負担の治療費の負担においても、この債務が 無くなることはない(=これをプレICの時代における「よい患者」と呼ぼう)。
よい患者は負債を抱えているので、医師に対しては、常に従順に従う(=コンプライアンスが良い)。なぜなら、未来において、再度、患者は医師に借款を要求 する可能性を秘めているからである。

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14.2 患者のデフォルト宣言とは?
インフォームドコンセント(ポストICを含む)の時代:患者は、医療者に対する全能感をすでに失っている(考えられる原因:疾病構造の変化、権利意識の普 及、医療情報の氾濫)。
医師:治療行為という義務遂行の責任をもつ。
患者:医師に治療行為を求める権利主体。対等の人格性が求められるが、想定されるようには振る舞わない現実。「よい患者」とは良好なコミュニケーション主 体。
医療者-患者関係:お互いの戦略や思惑が双方にとって十分に知らない同士の「ゲーム論的関係」。お互いに自分にとって都合のよい役割を期待する「利己的な 戦略」プレイヤー。
ここにおける患者のデフォルト宣言とは、治療実践というゲームを放棄したり「降りる」こと。医療者のジレンマは、自らはそのような「宣言」行使をできない こと(→「18.0 変わらなければならないのは医療者」という主張の趣旨)。
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14.3. 互酬性のなかの医療者と患者
M・モースの贈与論からいえば「未開」社会の贈与交換は贈与に対する返礼は一回ではおわらない。贈与を受けた側は、ハウ(あるいはタオンガ)という霊を受 け取ったからであり、返礼の中にそれを込めようとする。この交換は不均等交換であり、不均質な事象も交換財のなかに含まれる。これにより贈与交換の連鎖性 という特徴がある。モースによると贈与が社会的紐帯の永続性を保証するのだ。
WHR リヴァーズは「未開」社会での病気の診断、治療、回復過程のほとんどは家庭内でおこなわれると100年以上前に指摘した
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William Halse Rivers Rivers, 1864-1922 (far left, c 1898)
Marcel Mauss, 1872-1950
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14.4. 良い患者とは医師のいうことをよく聞く者である(『IC以前の時代の古語辞典』)

1980年代の加藤尚武と中川米造の対話
中川米造「自分で自分を治せないという思い込みが、患者さん自身を、納得、同意(ICのことと思われる——引用者)というところから離してしまっているん じゃないでしょうか。自分では何もできないんだという思い込みがね」[加藤 1986:118]
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14.5 患者自身は何もできないという思い込みの状態を想像する

病気の治療とは、患者に対して医療者が債務を押し付ける行為である。患者は負債を返済しようとして、債権者である医療者に対して、誠実に返済すべく、「健 康に復帰するための努力」を行う。なぜなら、中川が指摘したように「自分で自分を治せないという思い込みが、患者さん自身を、インフォームドコンセントと いうところから離してしまっている。患者自身では何もできないんだという思い込み」がある。
IC以前の患者は権利主体ではないがコンプライアンスは良好だ。なぜなら、病気から復帰した元患者も現代社会では再び傷病に陥る危険性があるからである。
近代医療の医師の業務独占が、患者の無力感の醸成に貢献する。
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15.0 ポストIC時代に患者はデフォルト宣言をするリスクを抱えている
患者は、医師に借款を要求する潜在力をもつが、かつての、それは「負債という負い目」だが、いまや権利となり、それに対する医療者の側の対応やアウトカム によっては、訴訟により、要求したよりも少ない給付しかないとクレームをつける存在である。
日本の近代医療が保険制度のもとで、質の保証や病院評価という、市場経済の管理法則(QC)の影響を受けて、貸し付ける側が余計な温情(パターナリズム) を発揮できなくなる。
ただし非標準的治療を選好することがデフォルト宣言に直接結びつくことではない。非標準的治療を選好後のD-P関係の中で、患者がデフォルト宣言をするこ とを「可能」にする。
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16.1 - 開発途上国政府の医療資源は限られており基本医薬品の供給も滞る事態に

(途上国の医療援助協力に参加した私の所感は)中川米造の表現を借りると「(開発途上国の)保健省あるいは公的保健は、自分たちの病気を治療できず、健康 すらまもってくれないという思い込み」のなかで人々は生活していた。
「基本医薬品の供給も滞る」なかで、先進国から来た国際ボランティアは「ここの人たちは死ぬにまかせられ、ネグレクトされている」と、ある局面(=重病人 の搬送)では、印象を抱く。
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16.2 - 医療者と国民の間に債務-債権関係が希薄な再初期状態?
だが、他方では、そのような悲壮感は当事者たちには、それほどなく、生活習慣病は少なく、重い病気にかかる以外は、最低限のラインで平和に暮らしているよ うだった(=非ヘルシズム状態)。
病気になったときに、公的な医療制度や西洋医学というものが魔弾のように万能の治療手段になりえなかった。期待が少ないゆえに、効用も少ない。
医療者と国民の間に《債務-債権関係が希薄》であった。
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17.0  「文化にセンシティブな治療」は虚妄か?
Back to the present Japan; 非標準的な治療の患者による「選択・選好」は、医療者には標準的なプロトコルからはずれる「余計な心配事」になる。そのような患者に対して、ケアの時間 的・心的コストがかかるからである。
医療費抑制の時代には「文化にセンシティブな治療」はオプション外の保険診療外のサービスになる。実際そのような規格外治療を要求する富裕層に応える医療 サービスと市場は存在する
エセEMBが王道のEBM医療を喰う;だが近代医療が本当に王道のEBM医療であったことがあったのか?
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18.0 変わらなくてはならないのは医療者の側
【仮説】非標準的な治療の「選択」の登場は、医療者の側の対処行動の戦略の修正や大幅な変更が今後ますます求められるのではないか?
宣言をする新しい患者の登場だが、それは、それまでとは異なった医療情報の入手方法の登場、治療の現場の外で増大をつづけるエンハンスメントを謳ったサプ リ市場の増大、ネットのサイトで知った後におこる「行動変容」などの、新しい患者のライフスタイルが誕生しつつあるかもしれない。
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19.0 デフォルト宣言下で患者と医療者は対等な存在に
Back to the Past:非標準的な治療の「選択」は、標準的な治療の最中にも起こりうることであり、かつては、コンプライアンスの悪い「問題」のある行動としてとらえ てきたが、いまや、偶発的でいつでもどこでも誰にでもおこる出来事になった。
「患者は神様」「患者ファースト」という、パターナリズム時代の、不均衡な医療者と患者の関係「像」を改める必要性がある。
そこで気になるのは医療人類学者アネマリー・モルのペイシャンティズム(患い主義)である。これは、ポストIC時代の万能薬になるのだろうか?
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20.1 ペイシャンティズム(患い主義)とは?

アネマリー・モルは、糖尿病治療の民族誌研究を通して、生の管理の現場には、選択のロジック(logic of choice)とケアのロジック(logic of care)があるという。選択の論理は、インフォームド・コンセントにしたがって、患者に医療者と対等、平等の対応をもとめる態度である。ケアの論理と は、患者に寄り添い、患者と一種の運命を共にして、協働する立場である。後者には、価値自由の論理が希薄になり、ともに共通の目的をもってコラボレーショ ンする共感的平等の論理がみられる。ペイシャンティズムは、ケアの論理にたって、治療実践を医療者中心的な制度的戦略から、患者の苦悩経験をシェアしなが ら、患者の生の技法にたつ立場だ。
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Annemarie Mol b.1958
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20.2 ポストモダン時代のパターナリズム2.0
ケアのロジックを優先するモルのペイシャンティズム(患い主義)は、インフォームド・コンセントにしたがって、患者に医療者と対等、平等の対応をもとめる 態度である選択のロジックを批判している。IC以前のパターナリズムにおける医療者と患者の非対称的な関係から脱した、対等的な選択のロジックでは、価値 中立で冷たい科学的な態度があると批判したいのだろう。
だが、これは患者の患いを理念化特権化して、それに対して患いから逃れるためには、医療者と患者は同じ思いと価値観を共有しているはずだ、あるいは、そう なるべきだという「自然主義的な誤謬」に陥っていないだろうか?ケアのロジックは、ポストモダン時代のパターナリズム2.0にすぎないというが私の見解 だ。
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善を快や望ましいといった自然的性質で倫理原則を還元的に説明することは誤りである(G.E.ムーア) George Edward Moore, 1873-1958

道徳的言明には「〜すべし」という指令的側面と、普遍化可能な方策を求める特性がある(R.M. ヘア) Richard Mervyn Hare, 1919-2002
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20.3 リチャード・ヘア先生のように考えると01

リチャード・ヘアは、道徳的言明には「〜すべし」という指令的(prescriptive)側面と、普遍化可能(universalizable)な方策 を求める特性があると指摘した。
モルは、患者の立場になって考え、判断することが理解できれば、医療者もそのように行為すべきだと言っているように思える。彼女の主張は、指令的である が、非標準的な治療の選択と(標準的な治療を良しとする)医療者の両方が合意できる普遍化可能な方策は最初から締め出されている。古い価値観で表現すれば それは「オートノミーの専横」状態である。
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20.4 リチャード・ヘア先生のように考えると02

医療者が考える患者の「オートノミー[=自律]の専横」状態に対して、医療者の側が唯一ブレーキをかけることができる論理は、原則主義(プリンシプリズ ム)の四原則[自律・恩恵・無危害・正義]のうちのひとつ無危害原則を持ち出して、本人が希望しても医療者は(説得=レトリックを行使して)危害行為を抑 制するほかはない。
だが我々のコミュニケーション学をフルに動員してもそこに普遍化可能な解決策を見出すことは困難である。心理学をベースにしてきたこれまでの医療コミュニ ケーション学は、今後ますます紛争解決学=応用政治紛争法学と変わらなくなる可能性がある。
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20.5 デフォルト宣言時代の医療者-患者関係を受け入れる

【結論:01】デフォルト宣言時代の医療者-患者関係とは、両者が相手の対応に応じて、自らの態度を柔軟に変えてゆくダイナミックな関係に他ならない。そ して医療コミュニケーション学は(大幅な改訂は必要であるにせよ)やはり必須のサバイバルキットである。そこでのエシックスは(1)規範的な道徳的相対主 義と(2)契約主義に落ち着かざるをえないし、現実の医療現場でもそのように運用されているだろう。
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20.6 非標準的な治療選択の患者は教師
非標準的な治療選択する患者は、医療者-患者関係に新たなレパートリーを追加し、医療的コミュニケーションの場をより対等なものに近づけてくれる存在であ る。それは臨床倫理を考える上でも新しく登場しつつある私たちにとっての教師なのかもしれない。
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ご清聴ありがとうございました
中川米造先生(1926-1997)の思い出に捧ぐ

☆ 予稿集の文章

  加藤穣教授の科研「非標準的治療等の選好の検討を通した多文化にセンシティブなインタラクションの支援」(21K10325)に参加して「標準的な治療等 が様々な理由に基づいて拒否される」事案について、私に考えさせられることになった。さて、私が親しんできた批判的な医療問題研究あるいは保健の政治経済 学的な枠組みのなかでは、供給される標準的な治療等の「医療資源」(=昨年の研究大会のテーマ)が不均等に配分される差別あるいは人権侵害の観点から議論 されてきた。そこでは平等原則が最重要視され、差別を是正し、なるべく標準的な治療等の資源を適切に配分しようということが目標とされた。しかしながら、 インフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上の課題が生じる。非標準的な治療を選好する人たちの存在であり、医療者ないしは医療機関 は、さまざまな倫理上のジレンマを生じることになる。COVID-19のワクチン拒否のように、これは臨床倫理だけの問題ではなく社会的な問題——パンデ ミックが沈静化しても副反応や後遺症への対策に対する不満は現在も続いている——に触れる重要な課題である。また非標準的治療選択のなかに「治療拒否」と いうものもあることを忘れてはならない。自然治癒でも信仰治療でも、西洋近代的な医療を選択しないという意味では、治療拒否も含めて「非標準的な治療選択 ないしは選好」であると言えるからである。非標準的な治療は、標準的な治療方針が真理であるないしは「正しい」と信じる医療者や医療機関にとっては、やっ かいな問題を呈する。患者やその家族の選好する非標準的な治療が、明らかに当人に害をもたらすもの、あるいは、標準的な治療のプロトコールを「阻害」する ものであれば、医療者ないしは医療機関は、抱えるケースに、より複雑な配慮を必要とすることになる。このような選好はより一般的な倫理行為原則として、そ の患者やその家族の自己決定権を尊重するのか、あるいは何らかの制限をするために「介入」すべきかどうかの判断を求められることになるからである。

  先にインフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上の課題が生じると私は言った。デフォルトとはコンピュータでは初期条件のことである。 しかし、この言葉には国際経済において債務不履行の意味がある。インフォームドコンセントがない時代には、患者が医者に対して医療行為という借款を請求す る経済危機に等しい行為(あるいは状態)だったのではなかろうか。それに対して非標準的な治療選択を行う患者は医療者が考えるような債務(=負債)意識な どもはやなくなり、医療者にとっては恐るべき事態であるデフォルトを宣言するようなものだと。


 40 年近く前、開発途上国の保健省で政府系の保健普及のボランティアに従事した私の現場は、政府の医療資源は限られており、地方の保健所には基本医薬品の供給 も滞るサプライサイドが医療行為のデフォルトを実行していたようなものだった。そう考えると、非標準的な治療の「選択」は、従来の医療者と患者の関係にお ける、倫理上の債権-債務関係のデフォルト宣言のようなものであり、患者を「標準的な」治療選択へと再改宗させる試み——「文化にセンシティブな治療」と いう絵空事——は絶望的でかつ非現実的である。変わらなくてはならないのは、患者の側でなく医療者の側だからである。デフォルト宣言は、インフォームドコ ンセントの代価だと言ってそれを止めるわけにはいかない。患者と医療者は対等な存在になったのだから。

★ 「第43回日本医学哲学・倫理学会年次大会」シンポジウムの参加報告

池 田光穂

■「デフォルト宣言時代の医療者-患者関係」というタイトルで大会シンポジウム「変容する日本社会と医学哲学:多角的な検討」にて発表させていただいた。  そのきっかけは、加藤穣教授の科研「非標準的治療等の選好の検討を通した多文化にセンシティブなインタラクションの支援」(21K10325)に参加して「標準的な治療等が様々な理由に基づいて拒否される」事案について、私に考えさせられることになったからである。

■ さて、私が親しんできた批判的な医療問題研究あるいは保健の政治経済学的な枠組みのなかでは、供給される標準的な治療等の「医療資源」(=昨年度の研究大 会のテーマ)が不均等に配分される差別あるいは人権侵害の観点から議論されてきた。そこでは平等原則が最重要視され、差別を是正し、なるべく標準的な治療 等の資源を適切に配分しようということが目標とされた。しかしながら、インフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上の課題が生じる。非 標準的な治療を選好する人たちの存在であり、医療者ないしは医療機関は、さまざまな倫理上のジレンマを生じることになる。COVID-19のワクチン拒否 のように、これは臨床倫理だけの問題ではなく社会的な問題——パンデミックが沈静化しても副反応や後遺症への対策に対する不満は現在も続いている——に触 れる重要な課題である。また非標準的治療選択のなかに「治療拒否」というものもあることを忘れてはならない。自然治癒でも信仰治療でも、西洋近代的な医療 を選択しないという意味では、治療拒否も含めて「非標準的な治療選択ないしは選好」であると言えるからである。

■ 非標準的な治療は、標準的な治療方針が真理であるないしは「正しい」と信じる医療者や医療機関にとっては、やっかいな問題を呈する。患者やその家族の選好 する非標準的な治療が、明らかに当人に害をもたらすもの、あるいは、標準的な治療のプロトコールを「阻害」するものであれば、医療者ないしは医療機関は、 抱えるケースに、より複雑な配慮を必要とすることになる。このような選好はより一般的な倫理行為原則として、その患者やその家族の自己決定権を尊重するの か、あるいは何らかの制限をするために「介入」すべきかどうかの判断を求められることになるからである。

■ 先にインフォームドコンセントがデフォルトになると新たな臨床倫理上の課題が生じると私は言った。デフォルトとはコンピュータでは初期条件のことである。 しかし、この言葉には国際経済において債務不履行の意味がある。インフォームドコンセントがない時代には、患者が医者に対して医療行為という借款を請求す る経済危機に等しい行為(あるいは状態)だったのではなかろうか。それに対して非標準的な治療選択を行う患者は医療者が考えるような債務(=負債)意識な どもはやなくなり、医療者にとっては恐るべき事態であるデフォルトを宣言するようなものだと。

■40 年近く前、開発途上国の保健省で政府系の保健普及のボランティアに従事した私の現場は、政府の医療資源は限られており、地方の保健所には基本医薬品の供給 も滞るサプライサイドが医療行為のデフォルトを実行していたようなものだった。そう考えると、非標準的な治療の「選択」は、従来の医療者と患者の関係にお ける、倫理上の債権-債務関係のデフォルト宣言のようなものであり、患者を「標準的な」治療選択へと再改宗させる試み——「文化にセンシティブな治療」と いう絵空事——は絶望的でかつ非現実的である。変わらなくてはならないのは、患者の側でなく医療者の側だからである。デフォルト宣言は、インフォームドコ ンセントの代価だと言ってそれを止めるわけにはいかない。すなわちそれは患者と医療者は対等な存在になったのだから、というのが私の結論である。

■ 発表では、恩師の故・中川米造先生と加藤尚武先生の対談から議論を始め、途中でアネマリ・モルのケアの論理の可能性と限界について指摘した。会場からは私 の批判に対してモルの所論を擁護する若手研究者の声が聞かれた。その声には私じしん気がつかなった点も含まれ参考になり、あまり得意の分野ではなかったこ のテーマで発表して本当によかったと感じた。ただし私としては、ジョージ・ムーアの倫理的判断の自然主義的誤謬やリチャード・ヘアの道徳的言明の二重性 (指令的側面と普遍化可能への志向性)などの、功利主義やメタ倫理学などの観点を導入して、私たちがかかえるさまざまな医療的ジレンマを、誰もがわかりや すい日常言語をもって明晰に説明していこうと思った次第である。我々の身の回りにある情動主義がもつ自然主義的誤謬や自己決定外の忖度もまた道徳的強制力 をもつ言明(ただし普遍化可能への志向性を喪失したもの)を批判する実証例を積み上げていくことの重要性を会員諸氏に提案したつもりである。

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