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中川米造『学問の生命』ノート

Vita Academica por Dr. Yonezo NAKAGAWA, 1991.

解説:池田光穂医療人類学における生命倫理学

澤瀉 久敬からはじまる『医学概論』

澤瀉 久敬からはじまる『医学概論』→ 「日本で初めて「医学概論」を学問として真正面から 取り組んだのは,ベルクソン哲学者であった澤瀉久敬 (1904-1995)である.澤瀉は,戦時中の昭和16年から 大阪大学医学部において「医学概論」を講義した.澤瀉 は,医学が自ら反省し外に広く知識を求めることだけ ではなく,内省的に医学とは何かを探る「医学の哲学」 として医学概論を定義し,その重要性を主張した.後 に出版された医学概論の3部作(科学論,生命論,医学 論)は,当時の哲学好きの医学生たちに少なからぬ影響 を与えた./医学概論を欠いた医学は完全ではあり得ず,医学部 講座の一つとして医学教育に深く根付くべきもので あり,医学や医療は国民生活の福祉に直結するという 国民的見地から医学概論は必須であると熱心に説いた [1]./ さらに,ベルクソン哲学者として理論よりも事実を 重視するという根本的態度から,医学論や生命論を考 究していく中で,西洋医学だけではなく,生命の源であ る「気」の思想を土台とする「漢方医学」について高い関 心をもち,その重要性についても説いていた[2].西洋 哲学者である澤瀉が,東洋医学についても深く言及し ていたことは意外と知られていない./ 澤瀉は哲学者の立場から,医学概論は「医学の哲学」 であって医学の倫理学や医道論ではないことを強く 強調し,医学概論の学問的基礎を確立しようと試みた. 澤瀉の医学概論に対する深い思いは次の文章に端的に 示されている./ 「一部のひとたちは医学概論なるものと,私の『医学 概論』とを混同し,拙著を根拠として医学概論そのもの を批判している.しかし,拙著は医学概論という学問 が確立されるための一つの踏み石に過ぎない.立派な 医学概論は今後建設されるのである.大切なことは他 人の著作を単に批判することではなく,自らよりよい 医学概論を考究し,それを自ら論述することでなけれ ばならぬ.学問は,すべて,破壊的ではなく建設的でな ければならぬ.私がやがて二十年になろうとする医学 概論研究の間,終始一貫祈念し続けたことは,拙著を捨 石にすることによって,秀れた医学概論の誕生を待望 することであった.医学概論は一つではない.無数の 医学概論が可能である.既成の医学と,医学教育の現 状と,さらに医療の実情とを曇りない眼で直視し,反省 することによって,よりよい医学を建設しようとする 人類愛的熱意と熱情のあるところ,必ず一つの医学概 論が誕生する[3].」/ 澤瀉にとって医学概論は,医学の哲学的基礎となる 学問体系であり,現実の医療の直視と反省を土台にし て歴史的にダイナミックな変化をしながら,医師自ら がつねに医学の根源を生涯にわたって問い直し続ける 医学の根幹となる敷石のような存在であった.[1] 澤瀉久敬(1964):明日の医学と医学概論.医学の 哲学.誠信書房,東京 pp 3-30. [2] 澤瀉久敬(1978):漢方医学の本質.医学概論 第 三部 医学について.誠信書房,東京 pp 128-165. [3] 澤瀉久敬(1978):新版の序.医学概論 第一部 科 学について.誠信書房,東京 pp 3-6.」(藤野昭宏 2015:274)。

●中川 米造の医道論解釈

「 「中川によれば,明治初期の頃の医学論は西洋医学を 導入した指導者たちによって訓辞をたれる形式の「医 政論」であり,明治中期から末までの日本医学が第一期 黄金時代を迎えた時代の医学論は,成功者たちによる 説教的な道徳を説く「医道論」であったという.大正時 代に入って大学医学部の生理系の教授が,教養として の「生命哲学」を論じるようになり,昭和に入って開戦, 敗戦といった時代に医学論を担ったのは医師や医学生 たちであったとしている.戦後はほとんどの大学で哲 学者が「医学哲学」を教えるようになった.さらに,昭 和25年頃から一般市民が医学を論じるようになり,広 い意味での社会医学として医学論が始まったと述べて いる[5]./ 中川は,この社会医学の内容を医学概論に積極的に 取り入れたのである. 昭和27年に医学概論の専任講 師となって初めて出版された翻訳本(Galdston, Iago, 1895-1989)『社会医学の意味』 のあとがきの中で,次のような社会医学に対する解釈 をしている./ 「現代医学は,まず,肉体から精神を切り離し,生活か ら神秘を捨てる合理的精神によって始められた.医者 が病人において見るのは,肉体的な,生理的な異常や偏 倚でしかない.医師は技術者として,その技術を売る ことによって生計を立てる.かつては医師は,神父や 司法官と共に,聖職(Profession)とされた.また医は仁 術であった.しかしながら,魂を否定した医術は,もは や,合理性のみを基盤とする技術者とならざるを得な い.それでは病む個体の,感性的な救済への要請に応 えることはできなくなる.また,病む個体の苦痛に共 感をいだく社会の声に真に応え得なくなる.ここに,病者の主体性をも考慮に入れた技術が登場せざるを得 なくなる理由がある.仁は,道徳的な要請ではなく,治 療のための技術として合理的に変貌しなければならな い.このような,非合理的な人間の主体性を,科学の名 の下に提出し,実践的に解決しようとするもの,それが 社会的ないし社会学的ということに他ならない[6].」 [5]中川米造(1991):私の医学概論の方法.学問を見 る眼.学問の生命:「医学とは何か」を問い続け行 動する.佼成出版社,東京 pp 18-24 [6] 中川米造(1991):第二の柱・社会医学(医社会学). 学問を見る眼.学問の生命:「医学とは何か」を問 い続け行動する.佼成出版社,東京 pp 68-74」(藤野昭宏 2015:274)」

●中 川からみた澤瀉

「医 学概論の基礎を確立した澤瀉に強い影響を受け た一人が,当時京都大学の医学部生であった中川米造 (1926-1997)である.昭和22年のある日のこと,医学そのものについて学びたいと思っていた中川は,澤瀉 によって著された『医学概論 第一部 科学について』 を読み,久しく求めていたものにやっと出会えたとい う.その年に同窓会雑誌に「医学概論序説」と題した文 章を寄稿し,「医学は少なくとも人生を真に幸福ならし むべく努力しなければならない科学であり,医学者は 医学とは何か,医学は如何にあるべきについて真剣に 考えなければならない.それが医学概論の必要性であ り,医学概論のすべてである」と述べている[4]./ 卒業後に中川は大学病院で耳鼻科の助手を務めてい たが,治療を行っても患者を癒したという実感を得る ことができずにいたところ,昭和29年に澤瀉から推薦 されて大阪大学から誘いを受け,澤瀉の後任として医 師出身で初めて医学概論専任の講師となった.以来, 大阪大学医学部教授として平成元年に退官するまでの 41年間にわたって医学概論の学究に努めた. [4] 中川米造(1991):恩師・澤瀉久敬先生.学問を見る 眼.学問の生命:「医学とは何か」を問い続け行動 する.佼成出版社,東京 pp 44-50.」

●Who is Iago Galdstone, 1895-1989?

”Dr. Iago Galdston, a psychiatrist, an educator and the secretary of the Medical Information Bureau of the New York Academy of Medicine for 34 years, died yesterday at St. Vincent's Hospital in Bridgeport, Conn. He was 94 years old and lived in the Brooklyn Heights section of Brooklyn and in Newtown, Conn. Dr. Galdson, who was born in Kishinev, Russia, received his medical training at Fordham University and his psychiatric training at the Wagner Jauregg Institute in Vienna in the early 1920's. He was a staff physician at the Union Health Center and the education secretary of the New York Tuberculosis Association before joining the New York Medical Academy in 1928. For the next 34 years, he served as spokesman for the academy and sponsored activities to bring information on medical subjects to the public. He retired from the academy in 1962 and was director of resident training for Connecticut's Department of Mental Health. He also was president of the American Association of Directors of Psychiatric Residency Training.In 1973, at the age of 78, he began practicing psychiatry full time and until several weeks ago had offices in Brooklyn Heights and Newtown. He is survived by a son, Dr. Richard, of Newton, Mass.; three daughters, Margaret Frank of Newton, Eleanor Scrimgeour of Newtown and Elizabeth Storey of Bermuda; three brothers, Daniel Goldstein of Manhattan, Dr. Morton Galdston of Lake Success, L.I., and Dr. Harry Galton of Manhattan; six sisters, Anna Levitman of Manhattan, Mary Simmons of South Orange, N.J., Esther Schiller of Manhattan, Vivian Simms of Forest Hills, Queens, Naomi Rosenberg of Brighton, England, and Olive Hennefield of Lansdale, Pa., and 10 grandchildren.” - Iago Galdston, 94, Medical Spokesman And a Psychiatrist, by the New York Times, Dec.20, 1989.

●中川における「医学システム」の進化論図式(『医学をみる眼』NHKブックス)(中川 1991:71)

1)侍医の医学

2)開業医の医学

3)病院の医学

4)社会の医学

1. 学問を見る眼

1. 0)つながり

1. 1)医学概論と私
医学概論とは/私の「医学概論」の方法/単眼と複眼
1. 2)「医学とは何か」を求めて 生い立ちの記/イメージということ/復員船ではたらいたこと/恩師・澤瀉久敬先生/めまいの研究の思い出/大阪大学の講師となる
1. 3)医学概論への道
第一の柱・医哲学/第二の柱・社会医学(医・社会学)/歴史を学ぶ意義/第三の柱・医学史
2. 新しい医学への模索

2.0)気づき

2.1)学問の構築
医療人類学について/環境医学への道/新しい医の倫理の研究/医の倫理の周辺
2.2)医学教育を考える
医学教育の新しい試み/保健医療行動科学会のこと/医師のカリスマ性/援助者としての医師へ/新しい医学教育の芽
2.3)人間科学としての医学
医療の変革/健康科学という学問/自然科学としての医学の限界/人間科学であるために
3. 生命・科学・人間

3.0)癒し

3.1)宗教と癒し
死を遠ざけたもの/死を見据える医療へ/宗教と「つながり」
3.2)生命・科学・人間
生死の操作を考える/近代医学の匿名性/脳死と人間/若者へ



●旧 クレジット:「生命倫理学の医療人類学(Medical Anthropology of Bioethics)」→「医療人類学における生命倫理学」に移転しました。現在 のクレジット「中川米造『学問の生命』ノート」

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