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ハンセン病と癩(らい)を考えるページ

On Hansen's disease patients and their human rights in Japan

池田光穂・松岡秀明・伊東郁乃

研究実績の概要
本研究は、日本で最初にハンセン病療養 施設がつくられた1889年から1945年の終戦までの期間で、ハンセン病療養施設の患者たちが詠んだ短歌を、療養施設という閉鎖された空間とその外部と の双方向的なコミュニケーションを可能とした表現様式として捉え、以下3点の課題を明らかにしようとしている。(1)ハンセン病療養施設で患者たちはいつ から、なぜ短歌を詠むようになったのか。(2)患者たちの短歌は療養施設の外でどのように受け入れられたか。そしてそれは、当時の状況とどのような関係性 を有するか。(3) 医療は、短歌によってどのように天皇制とハンセン病を媒介し、ハンセン病患者たちを「臣民」としたか。 2019年度においては、(3) 医療が、短歌によってどのように天皇制とハンセン病を媒介し、ハンセン病患者たちを「臣民」としたかについて、以下を明らかにした。大正天皇の后だった貞 明皇后は、1915年頃からハンセン病に関心を持ち、さまざまな療養施設に援助を行なった。これに応えて、全生病院の患者たちが謝意を表した歌を1930 年に発表している。また、貞明皇后は1932年11月10日に「癩患者を慰めて」という兼題で大宮御所で歌会を開き、「つれづれの友となりても慰めよ行く ことかたきわれにかはりて」(行きたくても行くことができない私の代わりに患者の友となって手持ち無沙汰な患者たちを慰めよ、という意味)という歌を詠ん だ。この短歌はハンセン病患者の隔離を推進した「救癩運動」で頻繁に引用され、多くのハンセン病療養施設にこの歌の歌碑がつくられた。こうしたことによっ て、皇后のこの歌はハンセン病にかかわる医療従事者の正当性を担保する役割を果たした。以上のように、短歌は天皇制とハンセン病を架橋したのである。ま た、過酷な差別を受けていた患者たちは短歌を詠むという行為によって臣民、すなわち天皇に従う者という立場を表明したのである。
現在までの達成度
(遅延)以下の5つの方法によって、本 研究を進めてきている。(1)病い(研究の対象とする期間における慢性病として、特に結核)の文芸的な表現とその社会性についての文献の収集と読解による病い の文芸的な表現およびその社会性の検討、(2)研究の対象とする時期のハンセン病患者の短歌とその受容についての文献の収集と分析を前年度から継続して行なっ た。これらの作業と並行して、(3)ハンセン病療養施設におけるフィールドワークによるデータ収集、(4)分析、(5)成果の発表。2019年度は、主として(4)と(5)を 行なった。 (4)分析については、松岡と池田は日常的にメールで意見交換し、また学会等で顔を合わせた際にも論議を重ねている。(5)成果の発表は、以下の二つである。松岡 と池田は2019年5月の第45回日本保健社会医療学会大会において、「『病いの語り』としての短歌と『植民地的想像力』―第二次世界大戦の終戦までのハ ンセン病短歌の政治性をめぐって―」を発表し、松岡は同年9月の第78回日本宗教学会学術大会で、「ハンセン病とキリスト教-コンタクトゾーンとしての日 本MTL-」を発表した。 以上のように研究を進めたが、研究代表者の松岡が2018年8月上旬から膝の障害をきたし平成2019年2月に手術を受け8月までリハビリを受けていたた め、研究を十全に行なうことができなかった。さらに同年11月に松岡が再び膝の障害をきたし、研究の遅れを取り戻すことができなかった。以上の理由で、残 念ながら研究は遅れている。
今後の研究の推進方策
研 究のまとめを行なう年次であるので、平成30年度から行なってきた(4)分析および(5)成果の発表を、令和元年度も継続して行なう。具体的には9月の第 46回日本保健医療社会学会、9月の日本宗教学会第79回学術大会で発表することを予定している。また、論文も積極的に執筆する。 また、初年度の平成29年度から行なってきた(1)病 い(特に慢性病)の文芸的な表現とその社会性についての文献の収集および検討、(2)研究の対象とする時期のハンセン病患者の短歌とその受容についての文 献の収集とその分析、で新たな文献を発見できれば適宜入手する。また、(3)ハンセン病療養所におけるフィールドワークによるデータ収集、については、令 和元年度に調査を行なう予定だったが松岡が手術を受けたことと2020年に入ってからの新型コロナウィルス感染症の流行のために実施できなかった施設のう ち、以下の施設で調査を行なう予定である。ハンセン病短歌の形成に不可欠な役割を担った医師内田守が勤務した九州療養所(現・国立療養所菊池恵楓園)、患 者が盛んに文芸活動を行なっていた全生病院(現・国立療養所多磨全生園)、日本初のハンセン病治療および療養のための施設として1889年に開設された神 山復生病院(静岡県御殿場市)。
金夏日
内田守人(内田守
ハンナ・リデル(リデルと癩救済事業関連)






















松丘保養園
国立療養所松丘保養園(青森県)
東北新生園
国立療養所東北新生園(宮城県)
栗生楽泉園
国立療養所栗生楽泉園(群馬県)
多磨全生園
国立療養所多磨全生園(東京都)
駿河療養所
国立駿河療養所(静岡県)
長島愛生園
国立療養所長島愛生園(岡山県)
邑久光明園
国立療養所邑久光明園(岡山県)
大島青松園
国立療養所大島青松園(香川県)
菊池恵楓園
国立療養所菊池恵楓園(熊本県)
星塚敬愛園
国立療養所星塚敬愛園(鹿児島県)
奄美和光園 国立療養所奄美和光園(鹿児島県)
沖縄愛楽園 国立療養所沖縄愛楽園(沖 縄県)
宮古南静園 国立療養所宮古南静園(沖縄県)
神山復生病院 民 間(静岡県御殿場)
待労院診療所 民 間(熊本)2013年閉鎖
小鹿島慈恵医院(1916-1934)
小鹿島更生園(1934-1946/1960)
国立小鹿島病院(1960-present)
小 鹿島更生園に入所していた皆様へ(厚生労働省 pdf)
台湾総督府・楽生院(1930- 1945?)
樂生療養院(1945-present)
楽 生院に入所していた皆様へ(厚生労働省 pdf)




和解の島~ハンセン病 対話の先に~沖縄愛楽園 2020/04/05沖縄本島北部の島で始まったハンセン病の元患者と島民たちの対話。初めて明かす偏見や差別の実態。見えてきた相互不信や怒り。“負の 歴史”に向き合おうとする人々の物語。物語の舞台は、かつてのハンセン病隔離施設がある沖縄・屋我地島。今、ここでハンセン病の元患者と島民たちの異例の 対話が始まっている。きっかけは、施設 の開園80周年の記念誌に住民側から見た差別の実態を記録に残し、和解の道を探ろうとしたことだ。島民たちが初めて明かす偏見や差別の数々。島民たちもま た島を一歩出れば他の地域住民から差別を受けていたという告白。不信を乗り越え“負の歴史”に向き合う人々を見つめる。

ハンセン病国立療養所「沖縄愛楽園」 展示資料/神奈川新聞(カナロ コ); これは米軍が1945年7月の愛楽園を記録した映像を編集したものである。同じ時期、沖縄島南部ではまだ戦闘が続いている地域もあった。米軍は、愛楽園に たびたび訪れ敗戦から間もない園内の様子を撮影した。米軍が撮影した愛楽園の映像がどのように利用されたかは不明である。【解剖 1945年7月7日撮 影】ハンセン病療養所の医師たちは入所者が死亡すると遺体を解剖していた。それは遅くとも1920年頃には始まり、1980年頃まで続いたと考えられる。 (「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」2005年より)

沖縄愛楽園 前編 「偽りの声はどこから来たのか〜戦時下、米軍統治下の沖縄とハンセン病〜」ハンセン病の国立療養所のひとつである「沖縄愛楽園」。名護市にあり、今も高齢 の方を中心に入所者がいる。園内の交流会館を訪ね、学芸員の方に伺ったお話を収録した前編。9万人以上の住民の命を奪った地上戦。本土と切り離された戦後 の米軍統治。本土復帰後、それでも差別的な構造に苦しめられる現在まで。その沖縄において、ハンセン病の人たちがどのような立場で生きてこられたのか。特 殊な状況下であることが困難や差別を助長する。けれどお話を聞き浮かび上がって来たのは、何度も選択の時がありながら選ばなかった、あるいは選択そのもの から目を背けて来た「私たち」の在りようだった。

沖縄愛楽園 後編 「声なき声を聴く〜命の尊厳とハンセン病〜」

2017.08.26 「ハンセン病に関する『親と子のシンポジウム』那覇会場」①(開会~主催者挨拶~基調講演)【日時】2017(平成29)年8月26日(土) 13:30 ​~17:25​(開場12:30​~) 【会場】沖縄県男女共同参画センターてぃるる・1F・ホール((沖縄県那覇市西3-11-1) ■開会~法務大臣(主催者)挨拶 ○ 名執 雅子(法務省人権擁護局長) ※ 法務大臣代読 ――シンポジウム―― ■基調講演 「沖縄愛楽園の歴史に学ぶ」  ・ 金城 雅春 (国立療養所沖縄愛楽園自治会会長)

【ハンセン病を伝える舞台プロジェクト「風の鳴る丘」沖縄愛楽園編】伊 藤貴臣編01、ハンセン病を伝える舞台プロジェクト「風の鳴る丘」では、ハンセン病の歴史や、当時の療養生活の中にあった、表に出されることのあまりない 真実を、入所者さんの取材をさせていただき、これを講談という伝統芸能の形にして、いわゆる研修会等のスタイルではなく、歌や音楽、映像を用いる舞台仕立 てでお伝えしていくものです。 これらの真実をより多くの方に知っていただき、人の命、そして人権、また、人としての愛というものを今一度考えていただく機会としていただき、未来にむけ ていかなる差別も無くなる社会づくりに、少しでも貢献できればと考えます。

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