かならずよんで ね!

アウシュヴィッツ年表:ペーパクリップ作戦との関連において

Operation Paperclip and KZ Auschwitz chronicle

Interessengebiet des KZ Auschwitz/ IG Farben Werke, Buna

池田光穂

「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。/ 傭兵のように日々をおくらなければならない。/奴隷のように日を暮れるのを待ち焦がれ/傭兵のように報酬を待ち望む」(ヨブ記 7:1-3)

Is there not an appointed time to man upon earth? are not his days also like the days of an hireling?/ As a servant earnestly desireth the shadow, and as an hireling looketh for the reward of his work:. The Book of Job, 7:1-2.


《ナ チ問題サイト》→「軍事的インテリジェンスの人類学序説」「ナチス医学関係者との戦争犯罪と戦後の科学研究の継続性と断続性」★ 「ナチス年表」はこちら

ナチス・ハンティングとインテリジェンス

ペー パークリップ作戦」「ペーパークリップ作戦名簿

ニュールンベルグ医師裁判」「ニュルンベルク継続裁判

反ユダヤ主義」「アー ネンエアベ協会」「ナチスドイツと戦争医学犯罪(関連名簿)」「優生学の現代」「アメリカ合衆国の優生学」「生命倫理学関連年表」「医 療人類学における生命倫理学」「Life is like a chicken coop ladder」「民族的アイデンティティをめぐる覚書」「全体主義・入門」「ランズマン監 督とフィリップ・ミューラー」「虎の跳躍について」「構造的暴力」「痛 みの文化人類学」「レヴィナスのケア論」「ロックフェラー財団と長與又郎」「ニューロエシックス」「歴史生命倫理学」「阿南成一『安楽死』」「ジジェク『幻想の大疫病』ノート」「安楽死の研究」「ヤ クザと臓器移植」「アーレント「イデオロギーとテロルーー新しい統治形式」ノート」 「ハンナ・アーレント「国民国家の没落と人権の終焉」ノート」「研究業績目録(池田光穂)」「あれっ?!おかしいぞ!から出発する研究倫理(pdf - パスワードなし)」「I.G. ファルベン」「731部隊と石井四郎」 「デュアルユース・テクノロジー」「戦争および軍事紛争」「アウシュビッツに医学=医療はあったのか?」「ナチ・モード・コレクション、1940年6月28日」「戦争のパラダイムとイノベーションについて」「生命倫理学と医療人類学
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《Dornberger, V2, 1952》など

1929 年末。ベッカー博士 (Lieutenant Colonel Karl Becker of the GermanArmy Ordnance Office)管理のもとでの陸軍兵器局・弾道弾薬部が、陸軍省よりロケット推進の研究・開発について指令をうける。

1929
《資料》ポラーンド国立アウシュビッツ 博物館編『アウシュビッツ・ビルケナウ:その歴史と今』同博物館、2018年
1930  ドルンベルガー、陸軍兵器局・弾道弾薬部の検査官に任命され、個々の研究団体と契約。
1930

1931 アルベルト・シュペーア、26 歳でナチに入党する(33)/この年はハーバー=ボッシュ法を生み出したカール・ボッシュがノーベル化学賞を受賞した年。
1931

1932 

オイゲン・ハーゲン、ロックフェラー財団(NY)の特別研究員に採用される。(ハーゲンは黄熱病ワクチンの開発に従事、1937年にはノーベル賞候補にな る。戦後はドイツのソ連占領地区に逃れる)

グムメルスドルフ西部研究所設立

10月1日 ドルンベルガーの推薦により、ヴェルナー・フォン・ブラウンが陸軍液体ロケット研究所に入所。

12月21日 最初のロケットエンジンの静的実験がクムメルスドルフで行われるが爆発して失敗する。
1932

1933 

3月全権委任法可決。フランクリン・ルーズベルト大統領就任(1933年3月4日〜1945年4月12日)

ロケットエンジンの成功と、集合体(ロケット)の完成
1933

1934

      アルトゥール・ルドルフ、ヴェルナー・フォン・ブラウンの下で働きはじめる(38)。

      12月 A2の2つの模型が開発され、ボルカムでの実験に成功
1934

1935

9月15日 ニュルンベルグ法の発布

アーネンエアベ(ドイツ先史待代研究のためのドイツ人遺産協会)協会が設置された(リヒャルト・ヴァルター・ダレの農業省)。

A3の開発スタート。
1935

1936

ティール博士の参加、25トンロケットエンジンの開発はじまる。A4計画の最初の計画案が決定。

8月 ベーネミュンデ研究所建設開始。

"In late 1936, while employed by the Argus Motoren company, Fritz Gosslau began work on the further development of remote-controlled aircraft; Argus had already developed a remote-controlled surveillance aircraft, the AS 292 (military designation FZG 43)." - V-1 flying bomb.
1936

1937 

夏 ワルズィッツ大尉、クムメルスドルフで開発されたロケットエンジンを装着したハインケル(Heinkel)-111の飛行に成功。

V-1V-1

V-1カットモデル模式図と運搬風景(1944-1945年頃撮影か)

++

11月日独伊三国防共協定成立

12月4日 最初のA3試験打ち上げ実験がオイエ島で実施。
1937

1938 

3月オーストリア侵攻(ドイツ・オーストリア併合)

夏、A5ロケット実験(オイエ島)

11月水晶の夜
1938

1939 

この年、プラハ進撃

親衛隊業務管理本部(SSBAMO)が、国内的な奴隷労働ネットークを整備(40)。

夏 ロケット推進エンジン搭載のハインケル176(Heinkel He 176)がペーネミュンデで飛行に成功。

9月「T4行動」がはじまる。
1939
9月 1日ドイツのポーランド侵攻、英仏の宣戦布告により、ヨーロッパでの大戦がはじまる。
11 月30日ソ連、フィンランドへの侵攻(国際連盟除名)
●ポーランド系住民のナチによる大量逮捕による、上シレジアとザクエンビェ・ドンブロフスキーの刑務所の充満状況を解消するために、SSと警察のヴロツワ フ指令部により、強制収用所の建設構想が生まれる。
1940 

3月21日 ペーネミュンデで、25 トン(payload)ロケットエンジンの最初の実験。

5月-6月 オランダ降伏。デンマーク、ノルウェー、ベルギー、フランスがドイツ占領下に入る(→ Nazi Mode Collection in 28 June, 1940.)。

7月16日 最初の大陸間ロケットの草案。

9月日独伊三国同盟成立。アインシュタインはアメリカ国籍の証明書を受ける(374)
1940
●4月27日ヒムラー、現地視察後に 「アウシュビッツ」強制収容所の建設を命じる。
6月14日数人のユダヤ人を含むポーランド政治犯728名を収容。これが収容所の活動の開始日とされる。
1945年までに70万人(男性27万人)が登録される。2年後(1941年5月4日以降)には、登録されることなく到着後直接ガス室に送られる収容者が 増大。
6月19日オシフェンチム近隣住民7000名の退去命令。オシフェンチム在住のユダヤ人、7000名は近隣のゲットーに収容。
7月6日タデウシュ・ヴィエヨフスキーが、初めて脱走する。
秋、ポーランド・レジスタンスは、収容所に関する情報をロンドンの亡命政府に報告。
11月22日最初の銃殺者ポーランド人40名。
1941

8月20日 ヒトラー、V2の実戦準備を命令。

10月29日 地対空ロケット計画(ゲーリングが命令するのは約1年後の9月1日)
1941
3月1日ヒムラー視察。収容所の拡大と 工場建設のために囚人1万人をIGファルベンに派遣するように命じる。
4月23日脱走者の懲戒のために所長ルドルフ・ヘス、10名の餓死刑を命じる。
6月6日、チェコからの政治犯の移送。
9月3日チクロンBを使った処刑を、600名のソ連軍捕虜と250名のポーランド人に実行。この秋に1号ガス室を建設。
10月ソ連兵捕虜のために第一収容所の建設がはじまる。ブジェジンカ村を破壊し、第二収容所(アウシュビッツ=ビルケナウ)の建設がはじまる。
11月11日(第一収容所)の死の壁でポラーンド人151名の処刑がおこなわれる。
1942

      1月20日 ヴァンゼー会議開催

      2月 軍需大臣フリッツ・トート飛行機事故で死亡。シュペーアが後任に指名。

      夏 海中潜水艦よりロケットの水中発射の成功

      7月8日 A4を地球の高層研究に利用する計画案を検討。

      9月1日 ゲーリング、地対空ロケット開発計画を命令

      10月3日 A4つまりAggregat 4 (A4)[V-2ロケット]打ち上げ成功。
1942
●ガス室をつかったユダヤ人の大量虐殺 がはじまる。
3月スロバキアから2万7千人、フランスより6万9千人のユダヤ人移送される。この月、アウシュビッツ=ビルケナウ第二収容所が稼働する。
3月27日アウシュビッツ女性収容者17万人のうち最初の二千名の受け入れがはじまる。
3月〜7月第二収容所の仮設ガス室の稼働がはじまる。同時期「特設ホーム」の利用がはじまる。
5月ポーランドから30万人、ドイツオーストリアから2万3千人のユダヤ人移送がはじまる。
5月4日、第二収容所では、SSがユダヤ人の選別が始まる。
6月10日懲罰班ポーランド人50名の脱走と反乱。7名が脱走に成功。
7月オランダからのユダヤ人6万人に受け入れがはじまる。
7月ポーランド・チェシン市ゴレショヴォ(ドイツ名:ゴレシャウ)収容所の建設がはじまり、ここを、アウシュビッツの副収容所ネットワークとして位置付け られる。
7月29日ドイツ人実業家エドヴァルド・シュルテ、強制収容所の情報を連合国側に伝わる。これ以降、アウシュビッツの情報は、収容所内の地下組織、ポーラ ンドのレジスタンスなどから、連合国側に伝わる。
1943

      7月7日 ヒトラー、V-2ロケット計画[Aggregat 4 (A4)]を最優先するように指導。

      8月 ヒムラー、シュペーアとともにヒトラーに謁見。強制収用所の囚人を奴隷労働に使うことを提案。107名がブーヘンヴァルト収容所からミッテルヴェル クに移送(38)。

      8月17-18日 ベーネミュンデへの最初の連合軍空襲

      8月末 Aggregat 4 (A4)[V-2ロケット]のユダヤ人奴隷労働を使った大量生産の開始。

      9月5日 ブリツナの444砲兵隊によりV-2の最初の実戦訓練。
1943
2月26日アウシュビッツ=ビルケナウ 収容所内にロマ(ジプシー)を受け入れる家族収容施設を設けた。
3月ギリシャから5万5千人のユダヤ人移送がはじまる。
3月22日〜6月25日アウシュビッツ=ビルケナウで、4つの死体焼却場(ガス室と焼却炉)の稼働がはじまる。
6月7日収容所は、クルップ社のドイツ人従業員用に収容所内の工作室を貸し与える。IGファルベン(国 策トラスト)やシーメンス社のほかに数百社のドイツ企業が参加し、ユダヤ人奴隷労働者を酷使する。
7月19日アウシュビッツ(第一)で12人のポーランド人公開絞首処刑。容疑は数人の脱走の幇助と外部との接触のため。
9月9日アウシュビッツ=ビルケナウ(第二)、テレジンのゲットーからの移送されたユダヤ人に「家族収容施設」を設ける。
10月イタリアからの7500名のユダヤ人移送がはじまる。
1944 

      2月5日 「ワッサーファル」の打ち上げ成功

      6月6日 ノルマンディー上陸作戦

      6月13日 ロンドンにV-1ミサイルによる最初の攻撃(29)。

He-111 and He 111V-1

He 111H-16 with a V-1 flying bomb, 8 August 1944 とV-1カットモデル模式図

(left: A German Luftwaffe Heinkel He 111 H-22. This version could carry FZG 76 (V1) flying bombs, but only a few aircraft were produced in 1944. Some were used by bomb wing KG 3)

9月 イギリス統治下のパレスチナのユダヤ庁は、イギリス軍の傘下でナチと戦うことを決定し、チャーチルの承認のもとでユダヤ人戦闘部隊(Jewish insurgency in Mandatory Palestine)が編成される。

      9月5-6日 V-2、初めての実戦打ち上げ。

      12月27日 V-2改良版?(A9, A4b)の打ち上げ失敗。

      Aggregat rockets compared

      Aggregat rockets compared (rocket family)

      11月23日 ストラスブール解放。26日ゴーズミットは〈アルソス作戦 Alsos Mission〉の極秘任務を遂行(24)

      12月9日 ファーラール城のパーティでV-2ロケットの披露目(29, 33-34)。それに遡る午後3時20分、アントワープのレックスシネマにV-2が命中、死者567人(35)
1944
5月アウシュビッツの上空を連合軍航空 機が撮影。ガス室と焼却炉の煙が映像に映る。
8月IGファルベンの工場への米英の爆撃がはじまる。
5月16日アウシュビッツ=ビルケナウで、第2第3焼却炉のガス室に誘導する側線設置が完成する。
ハンガリーから43万人のユダヤ人の移送がはじまる。
7月10〜12日テレジン用の家族収容施設の取り壊し。同?7000人のユダヤ人をガス室で殺戮。
8月ポーランド・ウッジ市(ドイツ名:リッツマンシュタット)のゲットーより6万7千人のユダヤ人移送。
8月2日ロマの家族収容施設の取り壊し。同3千人がガス室で殺戮される。
8月12日ワルシャワ蜂起。逮捕された1万3千人がアウシュビッツに移送。
10月7日特別労務班の暴動。SS3名、ユダヤ人特別労務班の450名が落命。
11月ガス室でのユダヤ人の虐殺が中止
1945 

      1月17日 アウシュビッツ=ビルケナウ収容所(Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)では、ドイツの敗北を予想して脱出の準備がはじまる(撤収は1月23日)。

      1月18日 死の行進はじまる(ブナ収容の9000名の収容者の6割=5,400名が死亡)

      1月21日 最後の撤収命令(55)

      1月24日 A9打ち上げ成功

      1月27日 アウシュビッツ解放

      2月14日 A4、ベーネミュンデから最後の発射。

      2月17日 ベーネミュンデから撤退。(3月ソ連軍占領)

      4月12日 ルーズベルト急死、トルーマン大統領就任。

      4月29日 SS指導者ヒムラーが無断で連合国に降伏を通告。

      4月30日 ヒトラー総統地下壕で自殺。

      4月:FIAT (〜1947): "Early in 1945, foreseeing a vastly increased military and civilian interest after hostilities ended in Germany, Secretary of War Stimson had sent his scientific consultant, E. L. Bowles, to Europe to help set up a single high-level scientific and technological intelligence organization. Later, in April, among his other assignments, General Clay had acquired the job of working with Bowles in carrying out the mission from the Secretary of War." - FIAT.

      5月2日 ドルンベルガー、ヴェルナー・フォン・ブラウン、米軍に投降。

      5月8日 ドイツの降伏(ナチスドイツの消滅)。

      6月20日 OSSとArmy CIC [Counterintelligence Corps]は、ペーパークリップ作戦の前身の「オーバーキャスト作戦(Operation Overcast)」発動する("In March 1945, at Bonn University, a Polish laboratory technician found pieces of the Osenberg List stuffed in a toilet; the list subsequently reached MI6, who transmitted it to U.S. Intelligence"- Osenberg List )

      11月 「オーバーキャスト作戦(Operation Overcast)」は、ペーパークリップ作戦に改名。

      11月20日〜1946年10月1日 ニュールンベルク裁判(Nuremberg trials)
1945
1月6日ドイツ軍法会議での死刑判決を 受けたポーランド人70名が銃殺される。特別労務班の暴動(前年10月7日)を幇助容疑の4名のユダヤ人女性が公開絞首刑(最後の処刑)
1月17日「死の行進」にて、アウシュビッツ収容所全体から6万人の移動を強要。
1月20〜26日アウシュビッツ=ビルケナウのガス室と焼却炉を爆破。
1月27日ソ連軍がアウシュビッツ収容所の解放をおこなう。残留者は、当時7500名
1946

4月26日 On April 26, 1946, the Joint Chiefs of Staff issued JCS Directive 1067/14 to General Eisenhower instructing that he "preserve from destruction and take under your control records, plans, books, documents, papers, files and scientific, industrial and other information and data belonging to ... German organizations engaged in military research";[15]:185 and that, excepting war-criminals, German scientists be detained for intelligence purposes as required.[44] - OP.

9月3日 Operation Paperclipは、トルーマン大統領に承認されるのみならず、適応される要員の範囲を拡大。

10月1日 ニュールンベルク裁判(Nuremberg trials)閉廷

12月9日(〜1947年8月20 日)ニュルンベルク医師裁判(Nürnberger Ärzteprozess)医師裁判を含む12の継続裁判は 1949年4月13日[大臣裁判]に結審。
1946

1947

2月1日アメリカ科学者連盟(FAS)はニューヨークでトルーマン大統領に公開書簡を認めOP(ペーパークリップ作戦)の中止をもとめる声明(373- 374)。FIAT ended in 1947, when Operation Paperclip began functioning.

8月22日 クネーマイヤー渡米(371)

この年の冬:陸軍省は、OPに関する情報公開を禁止する(376)。

マハトハウゼン-グーゼン強制収容所(Mauthausen-Gusen concentration camp complex)の生存者サイモン・ウィーゼンタール(Simon Wiesenthal, 1908-2005)はナチ敗戦後から米軍の戦争犯罪セクションと協力しナチ戦争犯罪者の調査と捜索活動に従事していたいた。ウィーゼンタールは、この 年、30名のボランティアとともに、リンツに「ユダヤ人歴史資料センター(Jewish Historical Documentation Centre)」を開設し、ひきつづきナチの捜索(ナチ・ハンティング[Nazi hunter])続ける。この活動は(アイヒマン捜索活動を除いて)1954年にイスラエルのヤド・ヴァシェム・アーカイブ(Yad Vashem)[国立ホロコースト博物館]に寄託されるまで続いた。
1947

1948
1948

1949 

1949年4月13日[大臣裁判]に結審

5月23日連邦共和国臨時政府(西ドイツ)が誕生

ゲーレン機関は、CIAに吸収される。


1952 

西ドイツの方針をめぐりJIOA(統合諜報対象局)とCIAの足並みが崩れ、ペーパークリップ作戦に陰りがでる(519)。

同年冬、トルーマン・リスト 1,000名のみの米国へのリクルートは継続して承認(OPで渡米は600名の科学者、ドイツ領内には400名が残っていた)(520)。JIOAと CIAは、新たな科学者のリクルートをやめることを決定。


1954
 ウィーゼンタール、ナチハンティング情報を、イスラエルのヤド・ヴァシェム・アーカイブ(Yad Vashem)[国立ホロコースト博物館]に寄託する。


1955-1958 フォン・ブラウン が、イタリアで研究していたロケット科学者ヘルマン・オーベルト(Hermann Julius Oberth, 1894-1989)を米国に招聘する。


1956 ゲーレン機関がBND(連邦情 報局」Bundesnachrichtendienst)になる。元ナチの諜報員はドイツ連邦共和国大統領の指揮下に入る。


1957 JIOAに、ヘンリー・ウェー レン中佐が配属される(521)。10月8日ソ連、スプートニク1号(Sputnik 1)の打ち上げ成功。


1958 2月7日高等研究計画局, ARPA(Advanced Research Projects Agency, 1958-1972)が設置。同時に国防総省研究技術局が開かれる(522)。


1959 ウェーレン中佐は、JIOA の副局長に就任。


1962 JIOAの解散(実質的なOP の終了)。残務処理は、国防総省の研究技術局に引き継がれる。


1963 元JIOA副部長ウェーレン中 佐はGRU(ソ連参謀本部情報機関)に機密情報を提供していたことが発覚(FBI)

1963 フランクフルト・アウシュ ヴィッツ裁判(Frankfurt Auschwitz trials)はじまる(-1965)
1972 ARPA(Advanced Research Projects Agency)がDARPA(Defense Advanced Research Projects Agency)に改名される。


1990 10月2日ドイツ統合


1996 シュペーア、回顧録出版、その 中で1944年末での視察によりドイツの敗北を予想(44)


1998 10月8日米議会「ナチ戦争犯 罪情報公開法(Nazi War Crimes Disclosure Act, P.L. 105-246)」を可決


2000 12月27日米議会「日本帝国 政府情報公開法(Japanese Government Disclosure Act, P.L. 106-567)」を可決



2006
国際アウシュヴィッツ委員会発足(委員 には、フランス、イスラエル、ドイツ、ポーランド、ウクライナ、アメリカ、イギリスの代表者が選出)

ニュールンベルク裁判Nuremberg trials) と、ニュールンベルク継続裁判Subsequent Nuremberg trials

■占領軍側の用語

■ナチ用語

■類似の作戦(出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Paperclip#Similar_operations

■さて、同名の広闊な文献と現地調査にもとづく同名 の書籍を公刊したアニー・ジェイコブセンさんの『ナチ科学者を獲得せよ』太田出版(2015)/Jacobsen, Annie, Operation paperclip : the secret intelligence program that brought nazi scientists to America. NY: Little, Brown and Company. 2014.(Google books)(CIA による紹介)(Operation paperclip に関するジェイコブセンさんの講演

■図像

https://encyclopedia.ushmm.org/content/en/map/major-nazi-camps-in-europe-january-1944

田村光彰『ナチス・ドイツの強制労働と戦後処理』社会評論社、 p.42、2006年


Das Interessengebiet des KZ Auschwitz (auch Interessengebiet des KL Auschwitz) war während des Zweiten Weltkrieges ein Sperrgebiet der Schutzstaffel für den Lagerkomplex Auschwitz im deutsch besetzten Polen. Auf diesem von der Außenwelt abgeschirmten Gebiet entstand der größte Konzentrations- und Vernichtungslagerkomplex des NS-Staates. Das Interessengebiet befand sich südlich der Einmündung der Soła in die Weichsel nahe der Stadt Oświęcim (dt. Auschwitz) und war teilweise durch diese Flüsse begrenzt. In dem zuletzt etwa 40 Quadratkilometer großen Interessengebiet lagen das Stammlager des KZ Auschwitz, das Vernichtungslager Auschwitz-Birkenau, Werkstätten, SS-Betriebe sowie die Landwirtschaftsbetriebe des KZ Auschwitz und deren angeschlossene Nebenlager. Das Interessengebiet bestand offiziell von Ende Mai 1941 bis zur Befreiung des Gebietes durch die Rote Armee Ende Januar 1945, ab Juni 1943 als eigenständiger Amtsbezirk.
第二次世界大戦中、アウシュヴィッツ強制収容所の関心区域(KLアウ シュヴィッツの関心区域としても知られる)は、ドイツ占領下のポーランドにあったアウシュヴィッツ収容所複合施設のためのシュッツシュターフェルの制限区 域だった。ナチス国家最大の強制収容所・絶滅収容所群は、外部から遮断されたこの地域に建設された。対象地域は、オシヴィエンチム(アウシュヴィッツ)の 町の近く、ソワ川とヴィスワ川の合流地点の南に位置し、部分的にこれらの川に接していた。アウシュヴィッツ強制収容所の本収容所、アウシュヴィッツ・ビル ケナウ絶滅収容所、作業場、親衛隊の活動、アウシュヴィッツ強制収容所とそれに付随する小収容所の農業活動が、最終的に約40平方キロメートルに及ぶ対象 地域に位置していた。1941年5月末から、1945年1月末の赤軍による解放まで、1943年6月から独立行政区として公式に存在した。
Lage
Wegen der unterschiedlichen Behandlung der Bevölkerung in den annektierten polnischen Gebieten schufen die Nationalsozialisten eine Polizeigrenze, deren Überschreiten 1940 für jedermann genehmigungspflichtig war;[1] der Verlauf entsprach weitgehend der bis zum Kriegsbeginn bestehenden Grenze, wich aber in Oberschlesien davon ab, indem er auch die bisherige Autonome Woiwodschaft Schlesien und ein kleineres angrenzendes Gebiet auf die Seite des vor 1939 deutschen Territoriums zog und nicht in den östlich davon gebildeten Oststreifen, dessen Bevölkerung als minderwertig betrachtet und behandelt wurde.[2] Dabei wurde der neuumgrenzte Landkreis Bielitz, in dem Auschwitz lag, von der im Reichsgesetzblatt widersprüchlich definierten Grenze zerschnitten.

Die Verordnung über die Beschränkung des Reiseverkehrs mit Gebietsteilen des Großdeutschen Reichs und mit dem Generalgouvernement vom 20. Juli 1940, Paragraf 1, Abs. 1 Nr. b.[3] nennt eine Einbeziehung lediglich der mit Bielitz verflochtenen Stadt Biala, sodass von Biala abgesehen, die bisherige Ostgrenze der Autonomen Woiwodschaft Schlesien die Polizeigrenze bildete und das Gebiet von Auschwitz und Birkenau in dem östlichen, nur mit „besonderer Erlaubnis“ zu betretenden Teil des Kreises Bielitz lag. Bereits mit Wirkung vom 1. September 1940 wurde durch einen „Schnellbrief“ Reinhard Heydrichs diese Polizeigrenze in der Weise verändert, dass ihr Verlauf südlich Auschwitz aufgehoben wurde und sie stattdessen, weiterhin die Stadt Auschwitz vom „passierscheinfrei[en]“ Gebiet trennend, östlich davon dieser entlang der Weichsel zur Grenze des Generalgouvernements verlief.[4] Demgegenüber definierte die zur steuerlichen Diskriminierung von Polen dienende Erste Verordnung zur Durchführung der Verordnung über die Erhebung einer Sozialausgleichsabgabe. Vom 10. August 1940, die in ihrem Paragraf 7 den unter eine Sonderregelung gestellten „Oststreifen“ definierte, einen Grenzverlauf entlang der Soła[5][6], der auch der schon 1939 dokumentierten Grenzziehung im Raum Bielitz folgte[7][8], die seit 9. Oktober die Grenze zwischen dem annektierten Teil Polens und dem Generalgouvernement gebildet hatte und ab 20. November 1939, nach der Ostverschiebung der Grenze zum Generalgouvernement, als Polizeigrenze weiterbehalten wurde[9][10].

Ungeachtet der widersprüchlichen Angaben über den Grenzverlauf grenzte das Interessengebiet des KZ Auschwitz demnach sowohl an das Gebiet innerhalb der Polizeigrenze (nördlich der Weichsel begann der Landkreis Pleß) als auch an den Oststreifen jenseits der das Interessengebiet des KZ östlich begrenzenden Soła. Nach Forschungsergebnissen von Klaus von Münchhausen[11] wurde die Polizeigrenze, im Bereich der Stadt Auschwitz verlaufend, bereits im September 1941 nicht mehr kontrolliert[12] und im Mai 1942, nach Anordnung Heydrichs vom 12. Mai, ihre Kontrolle offiziell aufgehoben, auch die dort stehenden Hinweistafeln wurden bald darauf entfernt; dieser Erlass war aber nicht zur Veröffentlichung bestimmt.[13][14]

Mit der wenige Tage später im Reichsgesetzblatt verkündeten Paßstrafverordnung vom 27. Mai 1942 wurde die Strafbarkeit des Überschreitens von Grenzen generell neu geregelt, die 1940 erlassene Verordnung über die Beschränkung des Reiseverkehrs aber nur in ihrem Paragrafen 2 verändert, sodass Paragraf 1, der den Grenzverlauf bei Biala festschrieb, in Kraft blieb.[15] Zwischen dieser westlichen Grenze bei Biala, die offiziell nicht ohne „besondere Erlaubnis“ überschritten werden durfte, und jener östlichen an der Soła, die den „Oststreifen“ tatsächlich begrenzte, ab Mai 1942 aber weder gekennzeichnet noch kontrolliert wurde, befanden sich das Interessengebiet des KZ Auschwitz sowie der Bahnhof Auschwitz. Die erste Deportation von Juden aus dem alten Reichsgebiet, bei der die Polizeigrenze überschritten wurde und nach der alten Rechtslage eine Kontrolle hätte stattfinden müssen, fand am 16. Mai 1942 statt,[16] also vier Tage nach Aufhebung der Kontrollen.


ロケーション

併合されたポーランド領の住民の扱いが異なっていたため、国家社会主義者たちは1940年にすべての人に越境が許可される警察国境を設けた[1]。この境 界線は戦争が始まるまで存在していた境界線とほぼ一致していたが、上シレジアでは、それまでのシレジア自治州と隣接する小さな地域も1939年以前のドイ ツ領の側に引き込み、その東側に形成された東部帯には引き込まないことで、そこから逸脱した。 [2] アウシュヴィッツがあったビーリッツ地区は、新たに画定された地区であったが、ライヒスゲッツブラットで定義された矛盾した境界線によって分断された。

1940年7月20日の「大ドイツ帝国の領土部分および一般政府との旅行の制限に関する条例」第1項第1節b.[3]は、ビエリツと絡み合っていたビアラ の町を含むことに言及しているだけであり、ビアラを除けば、以前のシレジア自治州の東部国境が警察国境を形成しており、アウシュヴィッツとビルケナウの地 域はビエリツ地区の東部にあり、「特別許可」がなければ立ち入ることができなかった。1940年9月1日から、ラインハルト・ハイドリヒの「略式書簡」 は、この警察境界線を変更し、アウシュヴィッツの南側のコースは廃止され、その代わりに、アウシュヴィッツの町と「無許可」地区を分離し続けた。4]これ とは対照的に、1940年8月10日、税制上ポーランド人を差別する役割を果たした「社会的均等割賦課金の賦課に関する条例の実施に関する第一条例」が公 布された。1940年8月10日付の同条例は、その第7項で特別規則の対象となる「東ストリップ」を定義しており、ソワ川[5][6]に沿った国境線を定 めている。この国境線は、1939年にすでに文書化されていたビエリッツ地域の国境画定[7][8]にも従っており、10月9日以降、併合地域とポーラン ド領の境界線となっていた。8]は、10月9日以降、ポーランドの併合地域と総督府の間の国境を形成しており、総督府への国境東遷後も1939年11月 20日から警察国境として維持されていた[9][10]。

国境の経過に関する矛盾した情報にかかわらず、アウシュヴィッツ強制収容所の関心領域は、したがって、警察国境内の領域(ヴィスワ川の北からプレース地区 が始まった)と、ソワ川を越えた東側の帯の両方に接していた。クラウス・フォン・ミュンヒハウゼンの研究[11]によれば、アウシュヴィッツの町の地域を 走る警察境界線は、1941年9月にはもはや管理されておらず[12]、1942年5月には、5月12日のハイドリヒの命令に従って、その管理は公式に解 除され、そこにあった掲示板もその後すぐに撤去された[13][14]。

数日後に『帝国法律公報』(Reichsgesetzblatt)に掲載された1942年5月27日の旅券罰則条例は、国境を越えることの刑事責任全般を 規定したが、1940年の旅行制限条例の第2項を変更しただけであり、ビアラの国境を規定した第1項は有効のままであった。 [15] 公式には「特別な許可」なしには越えることのできないこのビアラの西の国境と、実際には「東の一帯」を画定していたが、1942年5月からは表示も管理も されていなかったソワの東の国境との間に、アウシュヴィッツ強制収容所とアウシュヴィッツ鉄道駅の関心領域があった。旧帝国領からのユダヤ人の最初の強制 送還は、警察国境を越え、旧法的状況に従ってチェックが行われるべきであったところで、1942年5月16日、すなわちチェックが解除された4日後に行わ れた[16]。

Einrichtung des SS-Interessengebietes

Wenige Wochen nach Einrichtung des Stammlagers verfügte der für den Bereich zuständige Höhere SS- und Polizeiführer Erich von dem Bach-Zelewski nach der ersten geglückten Flucht eines polnischen Häftlings im Juli 1940 die Vertreibung der ortsansässigen Bevölkerung. Die polnische Bevölkerung sollte aus dem das Lager umgebenden Gebiet in einem Radius von fünf Kilometern ausgesiedelt werden, um Fluchten unmöglich zu machen und Fluchthilfe zu unterbinden. Zunächst mussten die Einwohner der Ortschaft Zasole ihre Häuser räumen, die danach von Führern der Lager-SS und deren Familien genutzt wurden.[17]

Bereits zum Jahreswechsel 1940/41 „war die Lagerbaustelle in Auschwitz so groß, dass im ersten Gesamtbebauungsplan unterschieden werden musste zwischen Schutzhaftlager, Industriehof, Werkstätten, Kasernenbereich, Truppenwirtschaftslager, SS-Siedlung und Landwirtschaft“.[18] Spätestens nach der Inspektion des Lagers durch Reichsführer-SS Heinrich Himmler am 1. März 1941 ordnete dieser zudem die Einrichtung von Landwirtschafts- und Zuchtbetrieben auf dem das KZ Auschwitz umgebenden Gebiet an. Im März/April 1941 mussten nach dieser Entscheidung die polnischen Bewohner der Dörfer Babice, Budy, Rajsko, Brzezinka (dt. Birkenau), Broszkowice, Pławy und Harmęże unter Zurücklassung ihrer Habe den Wohnort räumen und wurden vertrieben. Lediglich Polen, die als Fachkräfte von den deutschen Besatzern vor Ort benötigt wurden, blieben von dieser Maßnahme verschont. Der Großteil der leerstehenden Gebäude wurde durch KZ-Häftlinge abgerissen, um Flächen für den sich ausweitenden Lagerkomplex zu schaffen.[19]

Ebenfalls im März 1941 entschied Himmler den Bau eines zweiten Lagers im drei Kilometer vom Stammlager entfernten Birkenau, das als größtes Vernichtungslager des nationalsozialistischen Deutschen Reiches zentraler Ort des Holocaust wurde.[20] Für den Ausbau des stetig erweiterten Lagerkomplexes war daher von der SS-Neubauleitung bereits ein Interessengebiet geplant worden.[21] Am 31. Mai 1941 wurde das Sperrgebiet offiziell als Interessengebiet des KL Auschwitz deklariert.[22] Das später errichtete KZ Auschwitz-Monowitz sowie das Buna-Werk der I.G. Farben lagen nicht auf dem SS-Interessengebiet, sondern östlich der Stadt Auschwitz.

Das Lagergebiet war „von Warnschildern, Betonmauern, Wachtürmen und doppelreihigen, stromgeladenen Stacheldrahtzäunen umgeben, die nachts beleuchtet waren“.[18] Angehörige der Wachkompanien bildeten auf Wachtürmen als sogenannte kleine Postenkette einen Bewachungsring jeweils um den stromführenden Lagerzaun des Stammlagers und Birkenaus. Die grosse Postenkette war ein weitläufiger Bewachungsring von bemannten Wachtürmen um beide Lager.[18] Innerhalb des Interessengebietes patrouillierten zudem SS-Männer.[23]
SSの関心領域の確立

本収容所の設立から数週間後、この地域の責任者であった高等SS・警察指導者 エーリッヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレフスキは、1940年7月にポーランド人囚人が初めて脱走に成功した後、地元住民の追放を命じた。脱走を不可能 にし、脱走の手助けを防ぐために、収容所周辺の半径5キロの地域からポーランド系住民を追放することになっていた。当初、ザゾレ村の住民は家を明け渡さな ければならなかったが、その家は収容所SSの指導者とその家族が使用していた[17]。

1940/41年の変わり目には、「アウシュヴィッツの収容所建設用地はすでに非常に広大であったので、最初の全体開発計画では、保護収容所、工業ヤー ド、作業場、兵舎地区、部隊経済収容所、SS居住区、農業の区別がなされなければならなかった」[18]。遅くとも1941年3月1日にハインリヒ・ヒム ラー総統SSが収容所を視察した後、総統はアウシュヴィッツ強制収容所周辺地域に農業と飼育場を設立することも命じた。1941年3月から4月にかけて、 この決定に従って、バビツェ、ブディ、ラジスコ、ブルゼジンカ(ビルケナウ)、ブロシュコヴィツェ、プワヴィ、ハルモージェの各村のポーランド系住民は、 財産を残して家を去らなければならず、追放された。ドイツ占領軍が熟練労働者として地元で必要としていたポーランド人だけが、この措置を免れた。拡大する 収容所群のためのスペースを確保するために、強制収容所の囚人たちによって空き家の大部分が取り壊された[19]。

1941年3月にも、ヒムラーは、本収容所から3キロメートル離れたビルケナウに第二収容所を建設することを決定した。この収容所は、ナチス・ドイツ帝国 最大の絶滅収容所としてホロコーストの中心的な場所となった[20]。 [21] 1941年5月31日、この制限区域はアウシュヴィッツ KLの関心地域と公式に宣言された。

収容所地域は、「警告標識、コンクリート壁、監視塔、二列に並んだ電化有刺鉄線フェンスに囲まれており、夜間は照明されていた」[18]。看守中隊の隊員 は、本収容所とビルケナウの電化収容所フェンスの周囲に、いわゆる小看守連鎖として、監視塔の上に看守リングを形成していた。大番兵連鎖は、両収容所の周 囲にある有人の監視塔からなる広範な番兵リングであった[18]。SS隊員もまた、関心領域内をパトロールした。]
Konflikt um die Gebietsabgrenzung

Der stetige Lagerausbau führte zu Interessenkonflikten der SS mit Zivilbehörden und Parteidienststellen der Stadt Auschwitz, da Auschwitz zu einer deutschen Musterstadt ausgebaut werden sollte. Bei diesen Auseinandersetzungen ging es jedoch ausschließlich um Fragen der Grenzziehung zwischen dem SS-Interessengebiet und der Stadt sowie um strittige Bauvorhaben. Ab Ende September 1942 konferierten auf Weisung Himmlers im sogenannten Haus der Waffen-SS gegenüber dem Bahnhof Auschwitz Vertreter des SS-Wirtschafts- und Verwaltungshauptamtes, Angehörige der Lager-SS, Repräsentanten der I.G. Farben sowie Beamte der Zivilverwaltung fast ein Jahr lang über diese Fragen. Zwischenzeitlich forderten Vertreter der Zivilbehörden im Januar 1943 aus „landschaftsgestalterischen“ Erwägungen heraus, das SS-Interessengebiet samt Lagern zu verlegen.[24]
領土画定をめぐる対立

収容所の絶え間ない拡張は、アウシュヴィッツをドイツの模範的な町に発展させようとしていたSSと、アウシュヴィッツの町の市民当局や党事務所との間の利 害対立を引き起こした。しかし、こうした争いの中心は、SSの関心領域と町の境界線に関する問題と、建築計画に関する争いに限られていた。1942年9月 末から、ヒムラーの指示によって、SS経済管理本部の代表者、収容所SSのメンバー、I.G.ファルベンの代表者、民政局職員が、アウシュヴィッツ駅の向 かいにあるいわゆるヴァッフェンSSの家で、ほぼ1年間にわたって、これらの問題について協議した。その間、1943年1月、市民当局の代表者は、「景観 上の」理由から、収容所を含むSSの関心領域を移転することを要求した[24]。
Amtsbezirk

Im Juni 1943 wurden die Grenzen des SS-Interessengebietes abschließend festgelegt, das eine 40 Quadratkilometer große Fläche umfasste.[25] Ab diesem Zeitpunkt war das Areal eine von den Zivilbehörden unabhängige Verwaltungseinheit und blieb nun als eigenständiger Amtsbezirk nur noch der SS unterstellt.

Als Leiter des Amtsbezirks fungierte der Kommandant des Stammlagers, der auch Standortältester der SS in Auschwitz (siehe Personal im KZ Auschwitz) war und als Amtskommissar nun zusätzlich die Aufgaben der Zivilverwaltung wahrnahm – dies waren nacheinander Rudolf Höß, Arthur Liebehenschel und zuletzt Richard Baer.[26]

Das für das SS-Interessengebiet zuständige Lagerstandesamt (Standesamt Auschwitz II) wurde formal bereits im Januar 1943 selbstständig, nachdem es zuvor bereits zu Auseinandersetzungen bezüglich der Zuständigkeit mit den Standesämtern in Auschwitz und Bielitz gekommen war.[27]
1943年6月、SSの関心区域の境界が確定され、その面積は40平方キロメートルに及んだ[25]。この時点から、この区域は民間当局から独立した行政単位となり、現在はSSのみの管理下にある独立行政区であり続けた。

この地区の責任者は本収容所の所長であり、アウシュヴィッツのSS施設の責任者でもあった(アウシュヴィッツ強制収容所の人事参照)。

SSの関心領域を担当する収容所登録局(アウシュヴィッツⅡ登録局)は、アウシュヴィッツとビエリッツの登録局と責任に関してすでに紛争が生じていた後、1943年1月に正式に独立した[27]。
Literatur
Wolfgang Benz, Barbara Distel (Hrsg.): Der Ort des Terrors. Geschichte der nationalsozialistischen Konzentrationslager. Band 5: Hinzert, Auschwitz, Neuengamme. C.H. Beck, München 2007, ISBN 978-3-406-52965-8.
Sybille Steinbacher: Auschwitz: Geschichte und Nachgeschichte. Verlag C. H. Beck, München 2004, ISBN 3-406-50833-2.
文学

ヴォルフガング・ベンツ、バーバラ・ディステル編:恐怖の場所。国家社会主義強制収容所の歴史。第5巻:ヒンツェルト、アウシュヴィッツ、ノイエンガンメ。C.H. Beck, Munich 2007,ISBN 978-3-406-52965-8.
Sybille Steinbacher:Auschwitz: History and Aftermath. Verlag C. H. Beck, Munich 2004,ISBN 3-406-50833-2.
https://de.wikipedia.org/wiki/Interessengebiet_des_KZ_Auschwitz


アウシュビッツの3つの収容所のうちの、第3収容所IG(イー・ゲー)ファルベン。囚人のいたバラックはモノヴィッツと言うが、彼らは「ブナ(人造 ゴム)」と呼んでいた。

■SSの組織図(Organogram of the SS, )

+Source: Other Military and Auxiliary Organizations, from Tchnical Manual: "Handbook on German Military Forces" (TM-E 30-451) War Department, 15 March 1945.

■V-2ロケットの構造(出典:https://goo.gl/dZUbrU)とHermann Oberth, Wege zur Raumschiffahrt (1929)

+

「1927年に結成されたドイツ宇宙旅行協会は、 宇宙旅行を目指して1929年頃から液体燃料ロケットを研究していた。ヴェルサイユ条約で大型兵器の開発を禁止されていたヴァイマル共和国の陸軍は、 1932年に同協会が開発中の液体燃料ロケットが持つ長距離攻撃兵器としての可能性に注目、ヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉は、資金繰りに悩むアマ チュア研究者だったヴェルナー・フォン・ブラウンらの才能を見抜き、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けるよう勧誘した。/フォン・ブラウン らはこれに応じて同研究所に参加、1934年12月、エタノールと液体酸素を推進剤とする小型のA2ロケット(質量 500 kg)の飛行実験を成功」(出典:https://goo.gl/dZUbrU

■OPが戦後の軍事技術に果たした「貢献」

■Annie Jacobsen の依拠した資料

■学者たちのキャリア・デザインからみた「帝国科学 評議会」と「ペーパークリップ作戦」(→詳しくは「ナチス医学関係者との戦争犯罪 と戦後の科学研究の継続性と断続性」を参照)


■諜報=インテリジェンス概念のおさらい(出典:「インテリジェンス(intelligence)」)

インテリジェンス(intelligence)とは かつて諜報(ちょ うほう)と翻訳されていたことばを外来語として読み直したものである。Google - Dictionary によると二番目の意味に、2. the collection of information of military or political value(=軍事的または政治的価値のある情報収集)とあり、その同義語(synonyms)として「 information gathering(情報の収集), surveillance(監視), observation(観察), reconnaissance(偵察), spying(スパイ行為), espionage(スパイ活動), undercover work(諜報), infiltration(潜入[調査]), ELINT(電子偵察:electronic intelligenceの略号), HUMINT(人間諜報活動:Human intelligence), cyberespionage(サイバースパイ活動), humint(情報分析)」からなる。

それらをまとめると、軍事あるいは現実政治(リアル ポリティーク)の世界で、秘密裏にすすめられる、人または通信や機械(コンピュータ)を使っておこなわれる、(1)情報の収集、(2)蓄積、(3)分析、 (4)報告、そしてそれに基づく(5)作戦遂行、の5要素が諜報=インテリジェンス[intelligence](あるいは軍事的インテリジェンス: military intelligence)である。

デザイン思考の図式を使って表現すると以下のように なる。

ナチス・ハンティングとインテリジェンス

軍事的インテリジェンスの人類学序説

リンク(動画)

文献

その他の情報

Maya_Abeja

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池田蛙  授業蛙 電脳蛙 医人蛙 子供蛙


JN Special Naval Landing Forces troops in gas masks prepare for an advance in the rubble of Shanghai. Chemical weapons were utilized against the Chinese during the battle.
-Imperial Japanese Navy photo from Brent Jones collection

 Jedem das Seine, "Everyone gets what he deserves," - 誰もが自分に足るものを受ける(Annie Jacobsen, "Operation Paperclip" のビデオより)